アナーキズムと生命主義(とポスト構造主義)


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フランスのポスト構造主義アナーキズム、

生命とアナーキズム、

 

Daniel Colson,Petit lexique philosophique de l'anarchisme: de Prouhdon  à DeleuzeLibrairie Générale Française, 2001.

ダニエル・コールソン

http://fr.wikipedia.org/wiki/Daniel_Colson

 

 

Vital(ヴァイタリズム、エラン・ヴィタル、政治的ヴィタリスム)

アナーキズムが―とりわけバクーニンのもとで―しょっちゅう(ヴィ)を援用しているがゆえに、かつその労働者による表現がベルクソンとニーチェによって非難されているがゆえに、あまりにも拙速にひとはアナーキズムを、政治的ヴィタリスムの際立って明白な形態としてみなす傾向がある。しかしながら、アナーキズムは、ヴィタリスムないしこの語でひとが一般的に理解するものとはなんら関係がない。アナーキズムが表現することを望んでいる生は、現実の生物学的、有機体的なビジョンにはなんら還元されない。その生はまず第一に、固有にいうところの生物はその特殊な表現でしかないところの存在の力能、を指示する。(charge de nature、及びプルードンが、非有機体・生物・人間の関係の問題を思考した流儀を参照)。力、そして諸力の諸差異と同義語なのであって、この観点からアナーキズムの生は、ジルベール・シモンドンが言わんとするところのような「潜在エネルギー」の観念に、もしくはさらには、リベルテール的な語彙により近いものでいうなら、ガブリエル・タルドが概念化したような「エネルギー」の観念に、結びつけうる。タルドにおいて生は、「抗しがたく」「アナーキックで、造化の神であり、変幻自在の」「エラン」の形式をとり、秩序から-たとえそれが生物の秩序であろうと-、あらゆる秩序づけられ安定した類型から、絶えず溢れだす。「類型はブレーキでしかなく、法は、社会内の革命的差異の氾濫をむなしくせき止めている防波堤でしかない。そこにおいて明日の諸類型がひそかに(intimeの項参照)練り上げられるのであり、またそれらをさまざまに拘束するものの重畳があろうと、化学的・生命的vitaleな規律があろうと、理性があろうと、天体力学があろうと、国民に属する人間たちと同様、そうしたものはいつか終わりをつげる。それらのあらゆる障壁を取り去り、それらの破片をより高度な多様性の道具とすることによって」。

 

Volontarisme(volontéを参照。それとvolontalismeは混同されるべきではない)

諸存在がみずからの欲望を、他者(によって宣告される外的な命令神、国家、ないしそれらの無数の司祭と下僕たち)に従わせると想定される抑圧的秩序の、観念論的な(したがって)権威主義的な構想。ひとはなすべきものをなしうる、という原理にしたがう。反対に、哲学者ジャン=マリ・ギュイヨーとともに、アナーキズムは義務も制裁もなき社会的論理を奨励する。この社会的論理において、ひとはなしうるものしかなすべきでない。各存在に固有の力能は、あらゆる法もしくはあらゆる他の道徳的規範的戒律よりも、善であれ悪であれ、可能なものどもとして(possibles, bon ou mouvaisの項参照)無限により豊かであるという限りにおいて、この命題は見かけ上しか制約的でない。

 

 

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