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 頬にあたる風がひんやりとして、ふと気付くと疎水の畔を歩いていた。酷く酒に酔っていて、悲しかったり悔しかったりして、塀を叩いたり露地に叫んだりしていたような気がする。それがなんだか自分のこととも思われず、胸の奥がぽっかりとして、みるみる涙が溢れてきた。なんだかよく分からないけれど泣いてちゃいけない、涙なんか流しちゃいけないと思うと、お腹の辺りがひくひくと動き、それで喉を出たり入ったりする空気を押し止めることができなくなって、頻りに漏れる嗚咽をどうすることもできなくなった。このままじゃ、歩き続けてもどうなってしまうか分からないので、疎水縁の長椅子に座ってうずくまった。
 時折吹く風が束の間だけ蒸した熱気を追いやった。何度も何度もひんやりするうち、もうただぼんやりと川面を見ているだけで、何をしていたのかも頭の中で朧気になっていた。吹くか吹かないかの風に揺られて、蛍がゆらりゆらりと流されてきた。こんなに遅くにと見ていると、少し離れた土手の方ではらりと転がった。しばらくすると草叢の中で薄青緑の光が弱々しく瞬いているのが見えてきた。もう少しそばで見てみたいと椅子から立ち上がり土手の方へ歩いていくと、蛍はふわりと浮き上がり、川面の上をあちら岸へと渡っていこうとする。立ち止まってその行く先を見つめていると、微かな光はふわりふわりと戻ってきて先ほどの草叢へ舞い降りた。腰を浮かすとまた舞い上がる。しゃがむと舞い戻る。立ち上がると浮かび、座っていると戻ってくる。もういいやとそのまま地べたに座り込む。そこから蛍の光を見つめていた。いつまでもいつまでも見つめていようと思った。
 涼しげな風が吹き抜けたので、おやと思う間もなく、小さなつぶてが木の葉や地面を叩く音がし、すぐに大粒の雨が落ちてきた。烈しく叩き付ける雨の中でも蛍は光るのを止めなかった。紫の閃光が木々を書き割りのように浮き立たせ、腰掛けた地面がびりびりと震えた。それでも蛍を見続けた。川の水嵩がどんどん増えて溢れそうになる。蛍のいる草叢の辺りまで水が来そうになったが、草の葉を伝って先に行ったり、また戻ったりをするだけだった。雲の切れ間はみるみる拡がり満天の星が現れた。半円を縁取ったような細い月がしだいに膨らみ、白く煌めく欠けのない円盤となり、疎水の畔が冷たく照らされ、銀色の水底のように夜が輝いても蛍は変わらぬ光りを放っている。
 雲が渦巻き大風が吹いた。梢はざわめき、根が軋むような音が絶え間なく響いた。蛍は風に波打つ葉にしがみついている。風が収まり夜が透き徹っていった。向こうの土手で鈴虫の鳴くような気がした。そこかしこの草叢で虫達がそれに応えた。木々や草々の表に薄く霜が輝いている。半袖の服なのでひどく寒かったが、それでも蛍を見ていた。夜が静かになり、強い風に連れられてきた雲が星を隠したかと思うと雪が降りてくる。いつまでもいつまでも降り続ける雪が疎水縁を白く染め上げ、冷たく淡い光が町明かりに浮かぶ雪景色に溶け込み、また新たに光が生み出されているみたいに明滅し、そうこうするうち、この光の中に世界が溶け込み、また湧き出てくるような気になった。やがて雪解け水が疎水に流れ込み、埃っぽい風が吹き抜け、桜の花びらが舞い散るころになると、もう頭がぼんやりとしてきて、それでも蛍は光り続けるので、そのまま座り続けた。こんなところを知った人に見られたらどうしようかと思ったけれど、もう蛍から目を離すことなど考えられなくなっていた。
 地面が揺れたとき、何軒かの家から人が飛び出してきて、そのままどこかに行ってしまい戻らなかった。川の水が干上がったときにも、何軒かの家の人々が荷物を抱えて行ってしまった。月はぐるぐると回り、幾万もの星が流れた。ほんの少しの間だけうつらうつらして、夢の中でもう何年も見たことのないような青く眩しい空のせいで蛍の光が草の露みたいに小さくなっていくので吃驚して目を覚ました。ずっと見続けた夜の中に、変わらぬ微かさで蛍が光っている。それがゆっくりとゆっくりと草の先から浮かび上がっていく。夜に浮かぶ蛍の方へ手を伸ばすと、蛍は動きを止めた。淡い光りがみるみると強くなっていく。白い掌が闇に輝き、指の間から漏れた光が舗道を照らした。眩しくて目が霞み、涙で視界が揺らいでくる。空を流れる雲まで仄白く浮かび上がり、空の闇が青く抜けていく。やがて強烈な光が眼の奥を焦がし、光しか見えなくなる中で、そこかしこから小鳥のさえずりが聞こえてきた。
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