モンゴル音楽史簡易年表

「モンゴル音楽史簡易年表」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

モンゴル音楽史簡易年表」(2015/10/25 (日) 10:53:44) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

下の年表は《青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99)》の年表を大幅に改訂したものです。 *モンゴル音楽関連簡易年表 |年代|出来事| |BC400~93年頃|匈奴がモンゴル高原を支配。匈奴軍は鼓吹楽という軍楽隊のようなものを持っていた。またモンゴル国中央県アルタンボラグ郡からは匈奴時代の骨製口琴が出土。| |2~3世紀頃|蔡琰(蔡文姬、177?-239?)が自身の運命を綴った詩『胡笳十八拍』(後世の創作説あり)で南匈奴のツォールと思われる管楽器について歌う。| |554~559年 |この期間に成立した『魏書』「高車伝」によると、紀元前3世紀頃からモンゴル高原に居住していたテュルク系の高車が狼の吠声のように「好んで声を引いて長く歌」っていたとの記述がある。| |6世紀~11世紀|柔然、突厥、ウイグル、契丹、遼の音楽文化については断片的な情報しかない。| |7世紀|ホブド県マンハン郡の突厥時代の洞窟墓より小型のサウン・ガウのような弦楽器が出土。| |12世紀|チンギス・ハーンに仕えた楽士の逸話が『アルタン・トブチ(黄金史)』に出てくるとするモンゴル国の文献があるが、これは楽士ではなく弓使いの誤読である。| |1271~1368年 |『元史』によると、元朝(大元ウルス)においてモンゴル王家の祖先を祀る歌が祭祀で歌われたという。またこの時代にモンゴル王家が宮廷楽団を有した。モンゴル帝国時代オゴタイ・ハーンの頃から金国、宋の宮廷楽士を接収するなどして生まれ、元朝のフビライの時代には唐時代以来の宮廷楽部を受け継ぎ楽器の種類をそれまでの王朝にないほど拡大し、400~500人の伶人を抱えるまでになった。一部がリグデン・ハーンにまで受け継がれたという説もある。| |1644年~20世紀 |清朝時代、有力なモンゴル王侯は「年班」という制度により北京に定期的に赴き駐在し、北京の宮廷文化を持ち込んだ。モンゴル王侯貴族は楽人を有し、式典や宴の際に演奏させた。歌謡の伴奏の他に「アサル」と呼ばれる歌のない楽器のみによる器楽合奏を行っていた。チベット仏教寺院でのツァム(チャム)上演が広まる。| |18世紀 |高僧ロブサンノロブシャラブ(1701-1768)が、サイン・ノヨン・ハン部のガロートと、内モンゴルのオルドスの寺院に合唱の学校を設立、仏教音楽やオルティン・ドーを教授。| |19世紀 |東部モンゴルの王公トグトホトゥル(1797-1868)、歌踊音曲の塾設立。領内から才能ある子供を選出し教育。| |1831年頃 |北ゴビの第5代ノヨン・ホトクト(活仏)・ダンザンラブジャーがチベットの仏教文学の翻訳『月郭公の伝説』 を戯曲化、音楽、曲芸付の劇として上演。| |19世紀末~20世紀初頭 |清朝の辺境への漢人入植政策進む。外国人貿易商らがマンドリン、アコーディオンなど西洋楽器を持ち込み、一部のモンゴル人に伝わり始める。イフ・フレー(現ウランバートル)では伝統音楽の演奏家たちはアムガランバートル(漢人居住区)に多く居住し、漢人劇の伴奏などをしていた。| |1911年 |12月、モンゴル清朝より独立、ボグド・ハーン制モンゴル国独立宣言| |1912年 |クーロンに初の国民学校設立。ボグド・ハーン政府、軍楽隊の導入を決定、帝政ロシア政府からも支援を受ける。| |1914年 |ボグド・ハーン宮殿直属の西洋式軍楽隊が設置され、ロシア人A.S.コリツォフの指導の下、隊員は楽譜を習得しロシア人A.V.カドレツの作曲したモンゴル国歌を演奏。| |1915年 |5月キャフタ会議により外モンゴルは中華民国が宗主権を持つ「自治」に変更。| |1917年 |10月ロシア革命。| |1919年 |11月軍閥が外モンゴル侵入、中華民国に対し「自治返上」を決定させられる。| |1920年 |春、モンゴル人民党結成。10月ウンゲルン軍侵入。| |1921年 |3月のキャフタ解放の際、キャフタを根拠地とする革命軍の間でモンゴル初の近代歌曲とされる《キャフタの砦》が歌われるようになる。7月革命軍・ソヴィエト軍フレー解放、人民主権の立憲君主制政府成立。8月ロシア人革命家の指導下に「青年革命同盟」結成。| |1922年 |A.S.コリツォフに依頼し人民軍の軍楽隊員の教育始まる。| |1923年 |2月D.スフバートル死去。7月人民革命党第2回大会において、各部署協力して、映画、劇、舞踊、音楽を活用して人民に世界情勢、科学などについての教育を行うことを決議。地理学者、音楽学者S.A.コンドラーチェフ(1896-1970)、モンゴルで民謡調査を行う(~1924年)。| |1924年 |5月ボグド・ジェブツンダムバ活仏死去。第3回党大会でS.ダンザンら処刑とダムバドルジ執行部選出、「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定。コミンテルン代表ルイスクロフ着任。11月第1回国民大会議で人民共和国宣言、憲法批准。12月スフバートル名称中央クラブ設立。| |1926年 |移動音楽演劇部隊活動開始。ロシア科学アカデミーの決定によりS.A.コンドラーチェフ、再度モンゴルで、今度は録音機を持込んで調査。| |1927年 |10月人民娯楽場(緑のドーム)建設。この建物では劇などの他、国会も開催された。| |1928年 |人民革命党第7回党大会にて、モンゴル人民革命党第7回党大会にてダムバドルジ執行部「右翼偏向」として失脚、代わってゲンデン執行部組織。同時に全戯曲の検閲、音楽および演劇サークル改組、その活動の政治的文化的な向上、不適切な内容の劇の全面禁止等が決議される。| |1929年 |革命作家グループ結成。11月ソ連より指揮者V.A.リャリンを招聘し人民軍軍楽隊を正式に組織。| |1930年|叙事詩の語り手O'.ロブサン、音楽と口承文芸の記録のためウランウデ文化専門学校に招聘される。| |1931年 |8月演劇スタジオ(演劇サークル)をプロ化し、国立中央劇場として組織(音楽家を含む)。モンゴル・ラジオ設立。9月満州事変勃発。| |1932年 |急激な農牧業集団化に対しラマ、牧民らの大暴動。6月新転換政策発表。12月人民軍歌舞団設立。| |1933年 |政治家、歌手、作曲家のM.ドガルジャブ(1893-1946)、リムベ奏者L.ツェレンドルジ(1908-1990)らモスクワの芸術オリンピアードに出場、スターリンの前で歌い、更にモンゴル人として初のレコード録音も行う。P.M.ベルリンスキー(1900-1976)著『モンゴルの音楽家ロブサン・ホールチ』モスクワで出版。| |1934年 |モンゴル初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジ作)上演(ただし旋律は流行歌を流用)。M.ドガルジャブ、雑誌『モンゴル民族文化の道』に「民族音楽をどう発展させるかについて」という記事執筆。モンゴル初の大規模工業施設である工業コンビナートの建設始まる。9月モンゴルラジオ放送開始。10月芸術監督局設置。12月人民軍歌舞団が軍中央劇場に名称変更。| |1935年 |M.ドガルジャブら楽譜『モンゴルの歌選集』を出版。満州里会議開催。最初のネグデル設立。5月人民教育省管轄下に俳優・監督・歌手・音楽家臨時学校設立。| |1936年 |3月ソ連モンゴル相互援助協定調印。12月ソ連でスターリン憲法制定。1936年~ スターリン大粛清。モンゴル国初の映画『モンゴルの息子』封切。| |1937年 |秋より「ゲンデン=デミド反革命陰謀事件」を契機に、チョイバルサンら親ソ派による大粛清が行われる。人民教育省管轄下に芸能学校設立。ズーン・フレー寺で戦前最後のツァムが執り行われる(フィルムに記録)。| |1938年 |1月モンゴル初の鉄道がウランバートル―ナライハ炭鉱間に開通。同月ハルハ廟事件。当時国立中央劇場長だったL.ツェレンドルジ逮捕(1940年釈放)。2月東京日本橋三越等で読売新聞社主催で行われたモンゴル展に際し、スニットとアバガの王府の楽人を招聘、レコード録音も行う(1942年日本国内で発売)。| |1939年 |5月/7月ハルハ河戦争(ノモンハン事件)。| |1940年 |第二次モンゴル憲法採択。ソ連でラテン文字化推進からキリル文字化への政策転換。ツェデンバル、党第一書記に就任。3月モンゴル人民革命党第10回大会にてチョイバルサンが音楽を含む各種芸能の国立学校を設置する計画を報告。8月サーカス学校設立。作曲家、音楽学者B.F.スミルノフ(1912-1971)、ソ連より着任、西洋音楽理論や、民族楽器奏者に西洋楽器を教えるなど音楽指導を行う(~1946年)。| |1941年 |3月モンゴルでもキリル文字採用を決定。M.ドガルジャブ、トヴァ人民共和国大使から帰任直後に逮捕、投獄。7月国立サーカス設立(そこでモンゴル初のジャズ・バンドが演奏)。| |1942年 |作曲家B.ダムディンスレン(1919-1992)、B.F.スミルノフと共作で民族オペラ《悲しみの三つの丘》を新たに作曲(初の本格創作オペラ、Ts.ダムディンスレンにより結末を変更)。内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブル設立。| |1943年 |F.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行う(~1946年)。| |1944年 |7月アメリカ副大統領ウォーレスがモンゴルを訪問。トゥバ人民共和国、ソ連へ併合。| |1945年 |ヤルタ協定で「モンゴルの現状維持」規定。第二次世界大戦終結。1月雑誌『アマチュア芸能者への手助け』発刊。4月閣議により国立エストラーダ設立。5月人民革命党中央委員会書記協議会にてアマチュア芸能オリンピアードを中央と全国で行うことを決定。11月映画《ツォクト・タイジ》封切(音楽担当B.F.スミルノフ)。| |1946年 |中国国民党、モンゴル人民共和国独立を承認。2月M.ドガルジャブ獄中で死去。7月革命25周年全国アマチュア芸能コンテスト開催。| |1947年 |人民革命党第11回大会において第1次国家経済文化発展5ヶ年計画を承認。国立中央劇場を音楽ドラマ劇場に改組。B.ダムディンスレン、劇《こんな一人のハーンがいた》の音楽によりチョイバルサン国家賞受賞。プラハで開催の第1回世界青年学生祭典にモンゴル国の俳優、音楽家が参加。| |1948年 |国立エストラーダにジャズ・バンド組織。作曲家L.ムルドルジ(1919-1996)、歌曲《パルチザン・チョイバルサン》作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。朝鮮民主主義人民共和国と国交樹立。ドルノド県に国立音楽ドラマ劇場設立。| |1949年|1月国立音楽ドラマ劇場(旧人民娯楽場、緑のドーム)火事で焼失。| |1950年 |国歌制定(Ts.ダムディンスレン作詞、B.ダムディンスレン/L.ムルドルジ共作)。東欧各国と国交樹立。音楽舞踊中学校を劇場音楽中学校に改組。5月人民軍模範軍楽隊がG.ビルワー中心に結成される。12月国立エストラーダ演奏部門を民族歌舞団に改組。この頃よりソ連、東欧圏、中国、北朝鮮などへ留学する音楽家が増え始める。| |1951年 |国立劇場(現オペラ・バレエ劇場の建物)完成(日本人抑留者も建設に携わる)。B.ダムディンスレン、L.ムルドルジ、国歌作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。| |1952年 |1月チョイバルサン死去。5月ツェデンバル首相就任。| |1953年 |辺境・内務省歌舞アンサンブルを人民革命軍アンサンブルに統廃合。| |1954年 |作曲家・合唱指揮者D.ロブサンシャラフ(1926- )、ホブド県芸能旬間でホーミーを使った合唱曲《アルタイ・ハン讃詞》発表。第2次5ヵ年計画承認。| |1955年 |7月初等教育の完全義務化。シェークスピアの『オセロ』、モンゴル初演。| |1956年 |2月ソ連でフルシチョフ、スターリン批判の秘密報告。4月モンゴル人民革命党中央委員会第4回総会でチョイバルサン批判。人民革命党政治局が民族音楽の研究、刷新、振興を決議。12月バヤン・ウルギー県に音楽ドラマ劇場設立。| |1957年 |「知識人の迷妄」事件発生。12月20日モンゴル作曲家同盟(~現在)結成(初代委員長・作曲家S.ゴンチグソムラー(1915-1991))。モンゴル国立放送交響楽団(現国立フィルハーモニック交響楽団)設立。モンゴル初の本格的バレエ上演が行われる(作品はB.V.アサフィエフ作曲《バフチサライの泉》(1933-1934))。劇場音楽中学校を音楽舞踊中学校に改組。科学委員会が科学・高等教育委員会に改組。ソ連でフルシチョフ派勝利。| |1958年 |L.ツェレンドルジ名誉回復。ネグデル組合員制度制定。| |1959年 |9月第1回国際モンゴル学者大会開催。G.リンチェンサムボー著『モンゴル民謡の種類』出版。| |1960年 |科学・高等教育委員会よりB.ソドノム(1908-1979)『モンゴルの歌の歴史より』、G.バドラハ(1894-1938)『モンゴルの音楽の歴史より』出版。バヤンウルギー出身の音楽家J.ヒバトドルダ(1921-1993)にカザフ民族オーケストラ設立時の功績等により人民芸術家の称号授与。S.ゴンチグソムラーが国立ラジオに勤務し、西洋クラシック音楽の紹介番組を始める。第三次モンゴル人民共和国憲法批准、社会主義国家であると明記。農牧業集団化完成、コメコン加盟。この頃よりラジオが全国的に普及、また70年代にかけて都市化進む。| |1961年 |S.ゴンチグソムラー、バレエ《ガンホヤグ》の作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。5月モンゴル科学アカデミー設立。7月民族歌舞団付属民族大オーケストラが革命40周年記念演奏会で演奏を初披露。10月ソ連でスターリン再批判。同月モンゴル人民共和国、国連加盟。| |1962年 |1月人民革命党中央委員会第2回総会でチョイバルサン再批判。5月科学アカデミー主催チンギス・ハーン生誕800周年記念大会開催。9月党中央委がこの記念大会に関わった政治局員D.トゥムルオチルを解任。M.ドガルジャブ名誉回復。| |1963年 |人民革命党が中国を公式に批判。1月第1回全国イデオロギー宣伝員会議開催。国立ドラマ劇場を建設、音楽ドラマ劇場は国立ドラマ劇場(演劇)と国立オペラ・バレエ劇場に分離改組。オペラ・バレエ劇場杮落としの演目はP.I.チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》。D.ロブサンシャラフ、歌《ヘルレン川》、讃歌《母国、揺るがぬ地》作曲により国家賞受賞。B.スミルノフ著『モンゴルの音楽文化』モスクワで出版。| |1964年 |11月25-26日、第1回モンゴル作曲家大会開催。民族歌舞団付属民族楽器工房設立。ソ連でブレジネフが第一書記就任。| |1966年 |馬頭琴奏者G.ジャミヤン(1919-2008)、内外の作品の演奏により国家賞受賞。作曲家・指揮者J.チョローン(1928-1996)、内外の作品を指揮したことにより国家賞受賞。10月第1回指導的文化活動家全国会議開催。12月ポーランドで研修を受けたメンバーにより国立ラジオ委員会付属国立放送電子音楽団(後の国立フィルハーモニー付属バンド「バヤン・モンゴル」)結成。ゴビ・アルタイ県で「アルタイ歌舞団」結成。| |1967年 |首都でテレビ放送開始。ソ連より派遣されたヴァイオリン職人のD.V.ヤローヴォイが馬頭琴の大掛かりな改良を行う。| |1969年 |B.ダムディンスレン、オペラ歌手Ts.プレブドルジ(1929- )、民謡歌手N.ノロブバンザド(1931-2002)に人民芸術家の称号授与。6月詩人R.チョイノム逮捕。| |1970年 |9月第2回国際モンゴル学者会議開催。S.A.コンドラーチェフ著『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』モスクワで出版。| |1971年 |作曲家・指揮者Ts.ナムスライジャブ(1927-1987)、歌《熱き身内のわが故郷》作曲により国家賞受賞。S.ゴンチグソムラー、指揮者・作曲家J.チョローンに人民芸術家の称号授与。国境警備隊歌舞団設立。D.バトスレン、J.エネビシ(1937- )共著『歌謡よりオペラに至りし道』出版。B.F.スミルノフ著『モンゴルの民族音楽』モスクワで出版。| |1972年 |7月20日国立フィルハーモニー設立、ジャズバンド「バヤン・モンゴル」や国立交響楽団が所属。12月7-8日、モンゴル作曲家同盟第2回大会開催。オブス県に音楽ドラマ劇場設立。L.ムルドルジに人民芸術家の称号授与。日本・モンゴル国交樹立。| |1973年 |カザフ共和国で開催の第3回アジア音楽シンポジウム席上でJ.チョローンの作品が入選。| |1975年 |作曲家G.ツェレンドルジ(1927-1974)、舞踊音楽の作曲により国家賞受賞。| |1976年 |第3回国際モンゴル学者会議開催。ダルハン市立音楽ドラマ劇場設立。フブスグル県に音楽ドラマ劇場設立。| |1977年 |12月15-16日、モンゴル作曲家同盟第3回大会開催、同同盟ユネスコ国際作曲家会議に加盟。バヤンホンゴル県に音楽ドラマ劇場設立。ロック・バンド「ソヨル・エルデネ」結成(~現在)。オペラ歌手G.ハイタフ(1926- )に人民芸術家の称号授与。モンゴル労働組合定期大会開催。| |1979年 |馬頭琴奏者G.ジャミヤンに人民芸術家の称号授与。| |1981年 |3月モンゴル初の宇宙飛行士グルラグチャーが人工衛星に乗り、モンゴル・ソ連共同飛行を行う。7月4日国立オペラ・バレエ劇場を国立オペラ・バレエアカデミック劇場と改称。モンゴル全人民大芸術祭開催。Ts.ナムスライジャブに人民芸術家の称号授与。| |1982年 |1月20日セレンゲ県で民族歌舞団「セレンゲの波」設立。「金色の秋」音楽祭開催(以降毎年新作発表の場として機能)。12月第1回「全国伝統芸術祭」開催(以後5年おきに伝統芸能「発掘」の機会として行われる)。教育法改正。第4回国際モンゴル学者会議開催。| |1983年 |12月6日党中央委員会政府決定および閣議決定により「国家一級芸術家」の称号を設定。ウリヤスタイ市に音楽ドラマ劇場設立。ヘンティー県で民族歌舞団「ハン・ヘンティー」設立。科学アカデミーから『モンゴル口承文芸選集』シリーズ刊行開始。| |1984年 |5月モンゴル作曲家同盟第3回大会開催。ダランザドガド市に音楽ドラマ劇場設立。N.ノロブバンザド国家賞受賞。Yu.ツェデンバル書記長解任。馬頭琴四重奏団が初めて結成される。| |1985年 |「民族音楽の祭典」開催。第7回アジア音楽連合をウランバートルで開催。ソ連でゴルバチョフが書記長就任。| |1986年 |人民革命党第19回大会にて初めて社会主義的中央集権経済制度の欠陥を指摘、経済改革、情報公開始まる。作曲家E.チョイドグ(1926-1988)、序曲《友好》、ドキュメンタリー映画《モンゴルの美しき国》等の音楽作曲により国家賞受賞。| |1989年 |作曲家D.バダルチ(1928- )、歌《ヘルレンの美しき地》、《子守唄》などの作曲で国家賞受賞。作曲家N.ジャンツァンノロブ(1948- )、映画《マンドハイ賢妃》の音楽作曲により国家賞受賞。N.ジャンツァンノロブ、R.エンフバザルら編『モンゴル音楽研究』出版。楽器職人D.インドゥレー、エヴェル・ブレー、大太鼓、各種ビシグールの製作により国家賞受賞。オペラ歌手Ts.プレブドルジに労働英雄の称号授与。10月第1回馬頭琴フェスティバル開催。12月10日初の民主化要求の集会が開かれ、そこに参加したロックバンド「ホンホ(鐘)」の《鐘の音》がデモ・集会等で盛んに歌われ始める。| |1990年 |3月民主化を求めるデモ・集会の結果、複数政党制へ移行。モンゴル初の音楽専門大学が開学。作曲家Z.ハンガル(1948-1996)、《弦楽四重奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》等の作曲により国家賞受賞。第1回ダムディンスレン記念 歌劇《悲しみの三つの丘》配役コンクール開催。| |1991年 |文化教育専門学校を文化専科大学に改組。J.エネビシ著『音楽の伝統の革新の諸問題』出版。12月ソ連崩壊。| |1992年 |1月国号を「モンゴル国」とする新憲法制定、第1回総選挙で人民革命党圧勝。7月政府命令によりモンゴル国立馬頭琴交響楽団設立。モンゴル国立文化芸術大学開学。作曲家B.シャラフ(1952- )、《第2交響曲》等作曲により国家賞受賞。| |1993年 |作曲家Ts.ナツァグドルジ(1951- )、歌劇《雲の運命》等作曲により国家賞受賞。| |1994年 |国立オペラ・バレエアカデミック劇場が国立古典芸術劇場と改称。民族歌舞団を全軍歌舞アンサンブルに改組。国立文化芸術大学創設。| |1995年 |音楽舞踊中学校のカリキュラムを刷新し、ゴンチグソムラー記念音楽舞踊カレッジに改組。| |1996年 |N.ノロブバンザドに労働英雄の称号授与。作曲家Ts.チンゾリグ《夢のゴビ》他の歌謡曲やオペラ、オラトリオの作曲で国家賞受賞。第1回ゴンチグソムラー記念全国ピアノ弦楽器コンクール開催。第1回セウジド記念民族舞踊コンクール開催。第1回プレブドルジ記念声楽コンクール開催。| |1998年 |作曲家G.ビルワー(1916-2006)、大衆歌、映画音楽の作曲により国家賞受賞。J.バドラー(1926-1993)著『モンゴル民俗音楽』出版。| |1999年 |J.バドラー作詞、Ts.ナムスライジャブ作曲《熱き身内のわが故郷》が「世紀をリードした歌」に選ばれる。ガンダン寺で形式のみツァムを復元上演。第1回ツォグゾルマー記念ボギン・ドーコンクール開催。| |2000年 |作曲家Kh.ビレグジャルガル(1954-2008)、歌劇《お坊さまの涙》などの作曲により国家賞受賞。D.ロブサンシャラフに労働英雄の称号授与。| |2002年|N.バガバンディ大統領により馬頭琴を尊重し振興する大統領令発令(各公的機関に馬頭琴を置く、など)。9月アマルバヤスガラント寺院でジャハル・ツァム復興上演。| |2003年|ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルの馬頭琴が傑作の宣言を受ける。ホブド県にて第1回モンゴルホーミー歌手フェスティバル開催。9月ダシチョイリン寺にてフレー・ツァム復興上演。| |2005年|ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルと中国のモンゴル民謡の一形式オルティン・ドーが傑作の宣言を受ける。バガバンディ大統領により民族楽器大オーケストラを復元、拡張させる大統領令発令。| |2006年|大モンゴル建国800年を記念し、各種行事開催。作曲家S.ソロンゾンボルド《天の歌声》や交響曲などの作曲により国家賞受賞。3月ホブド県にてアルタイ英雄叙事詩ホーミー祭開催。第1回ロブサンシャラフ記念青少年合唱コンクール開催。| |2007年|モンゴル作曲家同盟設立50周年記念大会開催。| |2008年|ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」のリストに馬頭琴とオルティン・ドーが登録される。第1回ムルドルジ記念全国民族楽器コンクール開催。第1回国際馬頭琴フェスティバル開催。| |2009年|ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にビー・ビエルゲー(西部の伝統舞踊)、ツォール(西部のホーミーと似た発声法の縦笛)と英雄叙事詩が登録される。作曲家B.ムンフボルド《箏協奏曲》などの作曲により国家賞受賞。| |2011年|ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」に横笛のリムベが登録される。第1回「騎馬民族の万馬の先駆け」オルティン・ドーコンクール開催。| |2012年|11月第1回B.シャラフ記念声楽民族楽器演奏コンクール開催。| |2014年|4月2008年にホブド県で出土した7世紀突厥の楽器を元に「アルタイ・ヤトガ」を復元、国立歴史博物館で展示。| [[モンゴル音楽史を知るデータベース]]
下の年表は《青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99)》の年表を大幅に改訂したものです。 *モンゴル音楽関連簡易年表 |年代|出来事| |BC400~93年頃|匈奴がモンゴル高原を支配。匈奴軍は鼓吹楽という軍楽隊のようなものを持っていた。またモンゴル国中央県アルタンボラグ郡からは匈奴時代の骨製口琴が出土。| |2~3世紀頃|蔡琰(蔡文姬、177?-239?)が自身の運命を綴った詩『胡笳十八拍』(後世の創作説あり)で南匈奴のツォールと思われる管楽器について歌う。| |554~559年 |この期間に成立した『魏書』「高車伝」によると、紀元前3世紀頃からモンゴル高原に居住していたテュルク系の高車が狼の吠声のように「好んで声を引いて長く歌」っていたとの記述がある。| |6世紀~11世紀|柔然、突厥、ウイグル、契丹、遼の音楽文化については断片的な情報しかない。| |7世紀|ホブド県マンハン郡の突厥時代の洞窟墓より小型のサウン・ガウのような弦楽器が出土。| |12世紀|チンギス・ハーンに仕えた楽士の逸話が『アルタン・トブチ(黄金史)』に出てくるとするモンゴル国の文献があるが、これは楽士ではなく弓使いの誤読である。| |1271~1368年 |『元史』によると、元朝(大元ウルス)においてモンゴル王家の祖先を祀る歌が祭祀で歌われたという。またこの時代にモンゴル王家が宮廷楽団を有した。モンゴル帝国時代オゴタイ・ハーンの頃から金国、宋の宮廷楽士を接収するなどして生まれ、元朝のフビライの時代には唐時代以来の宮廷楽部を受け継ぎ楽器の種類をそれまでの王朝にないほど拡大し、400~500人の伶人を抱えるまでになった。一部がリグデン・ハーンにまで受け継がれたという説もある。| |1644年~20世紀 |清朝時代、有力なモンゴル王侯は「年班」という制度により北京に定期的に赴き駐在し、北京の宮廷文化を持ち込んだ。モンゴル王侯貴族は楽人を有し、式典や宴の際に演奏させた。歌謡の伴奏の他に「アサル」と呼ばれる歌のない楽器のみによる器楽合奏を行っていた。チベット仏教寺院でのツァム(チャム)上演が広まる。| |18世紀 |高僧ロブサンノロブシャラブ(1701-1768)が、サイン・ノヨン・ハン部のガロートと、内モンゴルのオルドスの寺院に合唱の学校を設立、仏教音楽やオルティン・ドーを教授。| |19世紀 |東部モンゴルの王公トグトホトゥル(1797-1868)、歌踊音曲の塾設立。領内から才能ある子供を選出し教育。| |1831年頃 |北ゴビの第5代ノヨン・ホトクト(活仏)・ダンザンラブジャーがチベットの仏教文学の翻訳『月郭公の伝説』 を戯曲化、音楽、曲芸付の劇として上演。| |19世紀末~20世紀初頭 |清朝の辺境への漢人入植政策進む。外国人貿易商らがマンドリン、アコーディオンなど西洋楽器を持ち込み、一部のモンゴル人に伝わり始める。イフ・フレー(現ウランバートル)では伝統音楽の演奏家たちはアムガランバートル(漢人居住区)に多く居住し、漢人劇の伴奏などをしていた。| |1911年 |12月、モンゴル清朝より独立、ボグド・ハーン制モンゴル国独立宣言| |1912年 |クーロンに初の国民学校設立。ボグド・ハーン政府、軍楽隊の導入を決定、帝政ロシア政府からも支援を受ける。| |1914年 |ボグド・ハーン宮殿直属の西洋式軍楽隊が設置され、ロシア人A.S.コリツォフの指導の下、隊員は楽譜を習得しロシア人A.V.カドレツの作曲したモンゴル国歌を演奏。| |1915年 |5月キャフタ会議により外モンゴルは中華民国が宗主権を持つ「自治」に変更。| |1917年 |10月ロシア革命。| |1919年 |11月軍閥が外モンゴル侵入、中華民国に対し「自治返上」を決定させられる。| |1920年 |春、モンゴル人民党結成。10月ウンゲルン軍侵入。| |1921年 |3月のキャフタ解放の際、キャフタを根拠地とする革命軍の間でモンゴル初の近代歌曲とされる《キャフタの砦》が歌われるようになる。7月革命軍・ソヴィエト軍フレー解放、人民主権の立憲君主制政府成立。8月ロシア人革命家の指導下に「青年革命同盟」結成。| |1922年 |A.S.コリツォフに依頼し人民軍の軍楽隊員の教育始まる。| |1923年 |2月D.スフバートル死去。7月人民革命党第2回大会において、各部署協力して、映画、劇、舞踊、音楽を活用して人民に世界情勢、科学などについての教育を行うことを決議。地理学者、音楽学者S.A.コンドラーチェフ(1896-1970)、モンゴルで民謡調査を行う(~1924年)。| |1924年 |5月ボグド・ジェブツンダムバ活仏死去。第3回党大会でS.ダンザンら処刑とダムバドルジ執行部選出、「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定。コミンテルン代表ルイスクロフ着任。11月第1回国民大会議で人民共和国宣言、憲法批准。12月スフバートル名称中央クラブ設立。| |1926年 |移動音楽演劇部隊活動開始。ロシア科学アカデミーの決定によりS.A.コンドラーチェフ、再度モンゴルで、今度は録音機を持込んで調査。| |1927年 |10月人民娯楽場(緑のドーム)建設。この建物では劇などの他、国会も開催された。| |1928年 |人民革命党第7回党大会にて、モンゴル人民革命党第7回党大会にてダムバドルジ執行部「右翼偏向」として失脚、代わってゲンデン執行部組織。同時に全戯曲の検閲、音楽および演劇サークル改組、その活動の政治的文化的な向上、不適切な内容の劇の全面禁止等が決議される。| |1929年 |革命作家グループ結成。11月ソ連より指揮者V.A.リャリンを招聘し人民軍軍楽隊を正式に組織。| |1930年|叙事詩の語り手O'.ロブサン、音楽と口承文芸の記録のためウランウデ文化専門学校に招聘される。| |1931年 |8月演劇スタジオ(演劇サークル)をプロ化し、国立中央劇場として組織(音楽家を含む)。モンゴル・ラジオ設立。9月満州事変勃発。| |1932年 |急激な農牧業集団化に対しラマ、牧民らの大暴動。6月新転換政策発表。12月人民軍歌舞団設立。| |1933年 |政治家、歌手、作曲家のM.ドガルジャブ(1893-1946)、リムベ奏者L.ツェレンドルジ(1908-1990)らモスクワの芸術オリンピアードに出場、スターリンの前で歌い、更にモンゴル人として初のレコード録音も行う。P.M.ベルリンスキー(1900-1976)著『モンゴルの音楽家ロブサン・ホールチ』モスクワで出版。| |1934年 |モンゴル初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジ作)上演(ただし旋律は流行歌を流用)。M.ドガルジャブ、雑誌『モンゴル民族文化の道』に「民族音楽をどう発展させるかについて」という記事執筆。モンゴル初の大規模工業施設である工業コンビナートの建設始まる。9月モンゴルラジオ放送開始。10月芸術監督局設置。12月人民軍歌舞団が軍中央劇場に名称変更。| |1935年 |M.ドガルジャブら楽譜『モンゴルの歌選集』を出版。満州里会議開催。最初のネグデル設立。5月人民教育省管轄下に俳優・監督・歌手・音楽家臨時学校設立。| |1936年 |3月ソ連モンゴル相互援助協定調印。12月ソ連でスターリン憲法制定。1936年~ スターリン大粛清。モンゴル国初の映画『モンゴルの息子』封切。| |1937年 |秋より「ゲンデン=デミド反革命陰謀事件」を契機に、チョイバルサンら親ソ派による大粛清が行われる。人民教育省管轄下に芸能学校設立。ズーン・フレー寺で戦前最後のツァムが執り行われる(フィルムに記録)。| |1938年 |1月モンゴル初の鉄道がウランバートル―ナライハ炭鉱間に開通。同月ハルハ廟事件。当時国立中央劇場長だったL.ツェレンドルジ逮捕(1940年釈放)。2月東京日本橋三越等で読売新聞社主催で行われたモンゴル展に際し、スニットとアバガの王府の楽人を招聘、レコード録音も行う(1942年日本国内で発売)。| |1939年 |5月/7月ハルハ河戦争(ノモンハン事件)。| |1940年 |第二次モンゴル憲法採択。ソ連でラテン文字化推進からキリル文字化への政策転換。ツェデンバル、党第一書記に就任。3月モンゴル人民革命党第10回大会にてチョイバルサンが音楽を含む各種芸能の国立学校を設置する計画を報告。8月サーカス学校設立。作曲家、音楽学者B.F.スミルノフ(1912-1971)、ソ連より着任、西洋音楽理論や、民族楽器奏者に西洋楽器を教えるなど音楽指導を行う(~1946年)。| |1941年 |3月モンゴルでもキリル文字採用を決定。M.ドガルジャブ、トヴァ人民共和国大使から帰任直後に逮捕、投獄。7月国立サーカス設立(そこでモンゴル初のジャズ・バンドが演奏)。| |1942年 |作曲家B.ダムディンスレン(1919-1992)、B.F.スミルノフと共作で民族オペラ《悲しみの三つの丘》を新たに作曲(初の本格創作オペラ、Ts.ダムディンスレンにより結末を変更)。内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブル設立。| |1943年 |F.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行う(~1946年)。| |1944年 |7月アメリカ副大統領ウォーレスがモンゴルを訪問。トゥバ人民共和国、ソ連へ併合。| |1945年 |ヤルタ協定で「モンゴルの現状維持」規定。第二次世界大戦終結。1月雑誌『アマチュア芸能者への手助け』発刊。4月閣議により国立エストラーダ設立。5月人民革命党中央委員会書記協議会にてアマチュア芸能オリンピアードを中央と全国で行うことを決定。11月映画《ツォクト・タイジ》封切(音楽担当B.F.スミルノフ)。| |1946年 |中国国民党、モンゴル人民共和国独立を承認。2月M.ドガルジャブ獄中で死去。7月革命25周年全国アマチュア芸能コンテスト開催。| |1947年 |人民革命党第11回大会において第1次国家経済文化発展5ヶ年計画を承認。国立中央劇場を音楽ドラマ劇場に改組。B.ダムディンスレン、劇《こんな一人のハーンがいた》の音楽によりチョイバルサン国家賞受賞。プラハで開催の第1回世界青年学生祭典にモンゴル国の俳優、音楽家が参加。| |1948年 |国立エストラーダにジャズ・バンド組織。作曲家L.ムルドルジ(1919-1996)、歌曲《パルチザン・チョイバルサン》作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。朝鮮民主主義人民共和国と国交樹立。ドルノド県に国立音楽ドラマ劇場設立。| |1949年|1月国立音楽ドラマ劇場(旧人民娯楽場、緑のドーム)火事で焼失。| |1950年 |国歌制定(Ts.ダムディンスレン作詞、B.ダムディンスレン/L.ムルドルジ共作)。東欧各国と国交樹立。音楽舞踊中学校を劇場音楽中学校に改組。5月人民軍模範軍楽隊がG.ビルワー中心に結成される。12月国立エストラーダ演奏部門を民族歌舞団に改組。この頃よりソ連、東欧圏、中国、北朝鮮などへ留学する音楽家が増え始める。| |1951年 |国立劇場(現オペラ・バレエ劇場の建物)完成(日本人抑留者も建設に携わる)。B.ダムディンスレン、L.ムルドルジ、国歌作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。| |1952年 |1月チョイバルサン死去。5月ツェデンバル首相就任。| |1953年 |辺境・内務省歌舞アンサンブルを人民革命軍アンサンブルに統廃合。| |1954年 |作曲家・合唱指揮者D.ロブサンシャラフ(1926- )、ホブド県芸能旬間でホーミーを使った合唱曲《アルタイ・ハン讃詞》発表。第2次5ヵ年計画承認。| |1955年 |7月初等教育の完全義務化。シェークスピアの『オセロ』、モンゴル初演。| |1956年 |2月ソ連でフルシチョフ、スターリン批判の秘密報告。4月モンゴル人民革命党中央委員会第4回総会でチョイバルサン批判。人民革命党政治局が民族音楽の研究、刷新、振興を決議。12月バヤン・ウルギー県に音楽ドラマ劇場設立。| |1957年 |「知識人の迷妄」事件発生。12月20日モンゴル作曲家同盟(~現在)結成(初代委員長・作曲家S.ゴンチグソムラー(1915-1991))。モンゴル国立放送交響楽団(現国立フィルハーモニック交響楽団)設立。モンゴル初の本格的バレエ上演が行われる(作品はB.V.アサフィエフ作曲《バフチサライの泉》(1933-1934))。劇場音楽中学校を音楽舞踊中学校に改組。科学委員会が科学・高等教育委員会に改組。ソ連でフルシチョフ派勝利。| |1958年 |L.ツェレンドルジ名誉回復。ネグデル組合員制度制定。| |1959年 |9月第1回国際モンゴル学者大会開催。G.リンチェンサムボー著『モンゴル民謡の種類』出版。| |1960年 |科学・高等教育委員会よりB.ソドノム(1908-1979)『モンゴルの歌の歴史より』、G.バドラハ(1894-1938)『モンゴルの音楽の歴史より』出版。バヤンウルギー出身の音楽家J.ヒバトドルダ(1921-1993)にカザフ民族オーケストラ設立時の功績等により人民芸術家の称号授与。S.ゴンチグソムラーが国立ラジオに勤務し、西洋クラシック音楽の紹介番組を始める。第三次モンゴル人民共和国憲法批准、社会主義国家であると明記。農牧業集団化完成、コメコン加盟。この頃よりラジオが全国的に普及、また70年代にかけて都市化進む。| |1961年 |S.ゴンチグソムラー、バレエ《ガンホヤグ》の作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。5月モンゴル科学アカデミー設立。7月民族歌舞団付属民族大オーケストラが革命40周年記念演奏会で演奏を初披露。10月ソ連でスターリン再批判。同月モンゴル人民共和国、国連加盟。| |1962年 |1月人民革命党中央委員会第2回総会でチョイバルサン再批判。5月科学アカデミー主催チンギス・ハーン生誕800周年記念大会開催。9月党中央委がこの記念大会に関わった政治局員D.トゥムルオチルを解任。M.ドガルジャブ名誉回復。| |1963年 |人民革命党が中国を公式に批判。1月第1回全国イデオロギー宣伝員会議開催。国立ドラマ劇場を建設、音楽ドラマ劇場は国立ドラマ劇場(演劇)と国立オペラ・バレエ劇場に分離改組。オペラ・バレエ劇場杮落としの演目はP.I.チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》。D.ロブサンシャラフ、歌《ヘルレン川》、讃歌《母国、揺るがぬ地》作曲により国家賞受賞。B.スミルノフ著『モンゴルの音楽文化』モスクワで出版。| |1964年 |11月25-26日、第1回モンゴル作曲家大会開催。民族歌舞団付属民族楽器工房設立。ソ連でブレジネフが第一書記就任。| |1966年 |馬頭琴奏者G.ジャミヤン(1919-2008)、内外の作品の演奏により国家賞受賞。作曲家・指揮者J.チョローン(1928-1996)、内外の作品を指揮したことにより国家賞受賞。10月第1回指導的文化活動家全国会議開催。12月ポーランドで研修を受けたメンバーにより国立ラジオ委員会付属国立放送電子音楽団(後の国立フィルハーモニー付属バンド「バヤン・モンゴル」)結成。ゴビ・アルタイ県で「アルタイ歌舞団」結成。| |1967年 |首都でテレビ放送開始。ソ連より派遣されたヴァイオリン職人のD.V.ヤローヴォイが馬頭琴の大掛かりな改良を行う。| |1969年 |B.ダムディンスレン、オペラ歌手Ts.プレブドルジ(1929- )、民謡歌手N.ノロブバンザド(1931-2002)に人民芸術家の称号授与。6月詩人R.チョイノム逮捕。| |1970年 |9月第2回国際モンゴル学者会議開催。S.A.コンドラーチェフ著『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』モスクワで出版。| |1971年 |作曲家・指揮者Ts.ナムスライジャブ(1927-1987)、歌《熱き身内のわが故郷》作曲により国家賞受賞。S.ゴンチグソムラー、指揮者・作曲家J.チョローンに人民芸術家の称号授与。国境警備隊歌舞団設立。D.バトスレン、J.エネビシ(1937- )共著『歌謡よりオペラに至りし道』出版。B.F.スミルノフ著『モンゴルの民族音楽』モスクワで出版。| |1972年 |7月20日国立フィルハーモニー設立、ジャズバンド「バヤン・モンゴル」や国立交響楽団が所属。12月7-8日、モンゴル作曲家同盟第2回大会開催。オブス県に音楽ドラマ劇場設立。L.ムルドルジに人民芸術家の称号授与。日本・モンゴル国交樹立。| |1973年 |カザフ共和国で開催の第3回アジア音楽シンポジウム席上でJ.チョローンの作品が入選。| |1975年 |作曲家G.ツェレンドルジ(1927-1974)、舞踊音楽の作曲により国家賞受賞。| |1976年 |第3回国際モンゴル学者会議開催。ダルハン市立音楽ドラマ劇場設立。フブスグル県に音楽ドラマ劇場設立。| |1977年 |12月15-16日、モンゴル作曲家同盟第3回大会開催、同同盟ユネスコ国際作曲家会議に加盟。バヤンホンゴル県に音楽ドラマ劇場設立。ロック・バンド「ソヨル・エルデネ」結成(~現在)。オペラ歌手G.ハイタフ(1926- )に人民芸術家の称号授与。モンゴル労働組合定期大会開催。| |1979年 |馬頭琴奏者G.ジャミヤンに人民芸術家の称号授与。| |1981年 |3月モンゴル初の宇宙飛行士グルラグチャーが人工衛星に乗り、モンゴル・ソ連共同飛行を行う。7月4日国立オペラ・バレエ劇場を国立オペラ・バレエアカデミック劇場と改称。モンゴル全人民大芸術祭開催。Ts.ナムスライジャブに人民芸術家の称号授与。| |1982年 |1月20日セレンゲ県で民族歌舞団「セレンゲの波」設立。「金色の秋」音楽祭開催(以降毎年新作発表の場として機能)。12月第1回「全国伝統芸術祭」開催(以後5年おきに伝統芸能「発掘」の機会として行われる)。教育法改正。第4回国際モンゴル学者会議開催。| |1983年 |12月6日党中央委員会政府決定および閣議決定により「国家一級芸術家」の称号を設定。ウリヤスタイ市に音楽ドラマ劇場設立。ヘンティー県で民族歌舞団「ハン・ヘンティー」設立。科学アカデミーから『モンゴル口承文芸選集』シリーズ刊行開始。| |1984年 |5月モンゴル作曲家同盟第3回大会開催。ダランザドガド市に音楽ドラマ劇場設立。N.ノロブバンザド国家賞受賞。Yu.ツェデンバル書記長解任。馬頭琴四重奏団が初めて結成される。| |1985年 |「民族音楽の祭典」開催。第7回アジア音楽連合をウランバートルで開催。ソ連でゴルバチョフが書記長就任。| |1986年 |人民革命党第19回大会にて初めて社会主義的中央集権経済制度の欠陥を指摘、経済改革、情報公開始まる。作曲家E.チョイドグ(1926-1988)、序曲《友好》、ドキュメンタリー映画《モンゴルの美しき国》等の音楽作曲により国家賞受賞。| |1989年 |作曲家D.バダルチ(1928- )、歌《ヘルレンの美しき地》、《子守唄》などの作曲で国家賞受賞。作曲家N.ジャンツァンノロブ(1948- )、映画《マンドハイ賢妃》の音楽作曲により国家賞受賞。N.ジャンツァンノロブ、R.エンフバザルら編『モンゴル音楽研究』出版。楽器職人D.インドゥレー、エヴェル・ブレー、大太鼓、各種ビシグールの製作により国家賞受賞。オペラ歌手Ts.プレブドルジに労働英雄の称号授与。10月第1回馬頭琴フェスティバル開催。12月10日初の民主化要求の集会が開かれ、そこに参加したロックバンド「ホンホ(鐘)」の《鐘の音》がデモ・集会等で盛んに歌われ始める。| |1990年 |3月民主化を求めるデモ・集会の結果、複数政党制へ移行。モンゴル初の音楽専門大学が開学。作曲家Z.ハンガル(1948-1996)、《弦楽四重奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》等の作曲により国家賞受賞。第1回ダムディンスレン記念 歌劇《悲しみの三つの丘》配役コンクール開催。| |1991年 |文化教育専門学校を文化専科大学に改組。J.エネビシ著『音楽の伝統の革新の諸問題』出版。12月ソ連崩壊。| |1992年 |1月国号を「モンゴル国」とする新憲法制定、第1回総選挙で人民革命党圧勝。7月政府命令によりモンゴル国立馬頭琴交響楽団設立。モンゴル国立文化芸術大学開学。作曲家B.シャラフ(1952- )、《第2交響曲》等作曲により国家賞受賞。| |1993年 |作曲家Ts.ナツァグドルジ(1951- )、歌劇《雲の運命》等作曲により国家賞受賞。| |1994年 |国立オペラ・バレエアカデミック劇場が国立古典芸術劇場と改称。民族歌舞団を全軍歌舞アンサンブルに改組。国立文化芸術大学創設。| |1995年 |音楽舞踊中学校のカリキュラムを刷新し、ゴンチグソムラー記念音楽舞踊カレッジに改組。| |1996年 |N.ノロブバンザドに労働英雄の称号授与。作曲家Ts.チンゾリグ《夢のゴビ》他の歌謡曲やオペラ、オラトリオの作曲で国家賞受賞。第1回ゴンチグソムラー記念全国ピアノ弦楽器コンクール開催。第1回セウジド記念民族舞踊コンクール開催。第1回プレブドルジ記念声楽コンクール開催。| |1998年 |作曲家G.ビルワー(1916-2006)、大衆歌、映画音楽の作曲により国家賞受賞。J.バドラー(1926-1993)著『モンゴル民俗音楽』出版。| |1999年 |J.バドラー作詞、Ts.ナムスライジャブ作曲《熱き身内のわが故郷》が「世紀をリードした歌」に選ばれる。ガンダン寺で形式のみツァムを復元上演。第1回ツォグゾルマー記念ボギン・ドーコンクール開催。| |2000年 |作曲家Kh.ビレグジャルガル(1954-2008)、歌劇《お坊さまの涙》などの作曲により国家賞受賞。D.ロブサンシャラフに労働英雄の称号授与。| |2002年|N.バガバンディ大統領により馬頭琴を尊重し振興する大統領令発令(各公的機関に馬頭琴を置く、など)。9月アマルバヤスガラント寺院でジャハル・ツァム復興上演。| |2003年|ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルの馬頭琴が傑作の宣言を受ける。ホブド県にて第1回モンゴルホーミー歌手フェスティバル開催。9月ダシチョイリン寺にてフレー・ツァム復興上演。| |2005年|ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルと中国のモンゴル民謡の一形式オルティン・ドーが傑作の宣言を受ける。バガバンディ大統領により民族楽器大オーケストラを復元、拡張させる大統領令発令。作曲家N.ジャンツァンノロブに人民芸術家の称号授与。| |2006年|大モンゴル建国800年を記念し、各種行事開催。作曲家S.ソロンゾンボルド《天の歌声》や交響曲などの作曲により国家賞受賞。3月ホブド県にてアルタイ英雄叙事詩ホーミー祭開催。第1回ロブサンシャラフ記念青少年合唱コンクール開催。| |2007年|モンゴル作曲家同盟設立50周年記念大会開催。| |2008年|ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」のリストに馬頭琴とオルティン・ドーが登録される。第1回ムルドルジ記念全国民族楽器コンクール開催。第1回国際馬頭琴フェスティバル開催。| |2009年|ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にビー・ビエルゲー(西部の伝統舞踊)、ツォール(西部のホーミーと似た発声法の縦笛)と英雄叙事詩が登録される。作曲家B.ムンフボルド《箏協奏曲》などの作曲により国家賞受賞。| |2011年|ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」に横笛のリムベが登録される。第1回「騎馬民族の万馬の先駆け」オルティン・ドーコンクール開催。| |2012年|11月第1回B.シャラフ記念声楽民族楽器演奏コンクール開催。| |2014年|4月2008年にホブド県で出土した7世紀突厥の楽器を元に「アルタイ・ヤトガ」を復元、国立歴史博物館で展示。| [[モンゴル音楽史を知るデータベース]]

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: