大澤壽人

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#ref(http://www5.atwiki.jp/mongolhugjim?cmd=upload&act=open&pageid=28&file=000000000239387-1.jpg) 大澤壽人(1906-1953) Hisato Ohsawa **新資料 『煌きの軌跡 一大澤壽人作品資料目録一』 (関西に在住する音楽評論家でつくる「音楽クリティック・クラブ」特別賞受賞) 内容:この資料が神戸女学院に寄贈された経緯にはじまり、作品が、器楽曲、声楽曲、放送作品、といったジャンルで整理され、創作ジャンル不明作品、未確認作品まで、さらには編曲作品まで収録されている。 出版日:2007年12月4日 編集・発行:神戸女学院 頒価:1,000円 問い合わせ:662-8505 西宮市岡田山 4-1        神戸女学院史料室(0798-51-8503)  注:大澤壽人の生年については、1906年と1907年と二説あり、本人も両方使っていた形跡があるが、1906年が正しい。  名前の読みについても、おおさわ (Osawa) と、おおざわ (Ohzawa) と二説あるが、おおさわ (Osawa) が正しい。  贈賞式当日、「パスポートの記載などから、そのように判断される」と、目録編纂者から説明があった。 以上『関西クラシック音楽情報 ・・・音楽賞のページ・・・(09.1.16 更新)』(http://www.music-kansai.net/award03.html)より引用 <参考文献> ・オーケストラ・ニッポニカ『第9回演奏会「昭和九年の交響曲 その2(大澤寿人交響作品個展)」プログラム』 ・大澤壽人 ピアノ協奏曲第3番変イ長調「神風協奏曲」自筆譜フルスコア (私家版) ・岡田暁生「大澤寿人と戦前関西山の手モダニズム」(宇佐美斉編著『日仏交感の近代 : 文学・美術・音楽』京都大学学術出版会、2006年) ・片山杜秀 Isoda *classic* CD IE3003, 大澤壽人の室内楽 ピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲 マイ・ハート弦楽四重奏団、藤井由美(日本語解説) ・片山杜秀 ナクソスCD 8.570177J, 日本作曲家選輯 Vol.22 大澤壽人:ピアノ協奏曲第2番、交響曲第2番/ドミトリ・ヤブロンスキー、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団 (日本語解説) ・片山杜秀 ナクソスCD 8.557416J, 日本作曲家選輯 Vol.8 大澤壽人:交響曲第3番、ピアノ協奏曲第3番『神風』/ドミトリ・ヤブロンスキー、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団 (日本語解説) ・片山杜秀 ミッテンヴァルトCD MTWD99011, オーケストラ・ニッポニカ 第1集(日本語解説) ・富樫康『日本の作曲家』(音楽之友社、1956年) ・深井史郎『恐るるものへの風刺:ある作曲家の発言』(音楽之友社、1965年) ・大沢寿人「編曲の経験」『音楽芸術 10(7)』pp.70-73,1952/07 (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) ・大沢寿人「映画監督の中を往く」『Demos 7(5)』pp.21-23,1949/04(朝日新聞文化事業団)  神戸生まれ。合唱やオルガンに親しみながら関西学院を経てアメリカはボストン大学とニューイングランド音楽院へ留学。そこで、コンヴァースとセッションズにつきシェーンベルクの教室にも出入りした。当地では奨学金を得たり、ボストン交響楽団を振って自作発表会をやるなど活躍を始める。更にパリに渡り、ナディア・ブーランジェにつきポール・デュカスのレッスンも受ける。ここでもコンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮しての自作品の演奏会を催し、これはオネゲルらの賞賛を受けた。1936年帰国するも、緻密かつ難解な作風は当時の日本では演奏困難な上、聴衆の理解を得られず、もっぱらポピュラーな作品や放送、映画の世界に身を投じる。戦後は神戸女学院で教鞭をとる傍ら、映画や放送にも引き続き携わりながら、クラシック音楽の啓蒙、聴衆の拡大に力を入れる。あまりに多方面での仕事に、無理がたたったのか過労による脳溢血で死去。まだ46歳だった。 :作品表| ***管弦楽 ボストン時代(1930-34)の作品 ・交響曲第1番 ・ピアノ協奏曲第1番 ・コントラバス協奏曲(セルゲイ・クーセヴィツキーに献呈) ・チェロと管弦楽のための「浦島」 ・小交響曲(Fl.1/Hr.1/弦5部)(1932) ・管弦楽組曲「影の断片」(未完)(1934?) ・交響曲第2番(1934) ・ピアノ協奏曲第2番(1935) ・「"さくら"の声」ソプラノとオーケストラのための(UNE VOIX A "SAKURA")(1935) ・ヴァイオリン小協奏曲―To a Chinese Poem(1936) ・交響曲第3番(1937) ・幻想交響詩「西土」(南京陥落記念)(1937) ・ピアノ協奏曲第3番変イ長調「神風協奏曲」(1938) ・サックス協奏曲(1947) ・トランペット協奏曲(1950) ・組曲「路地よりの断章」(1.インヴェンション/2.母の子守歌/3.だるま/4.夜想曲/5.かくれんぼ/6.銅鑼(管弦楽のみで銅鑼の音を再現する発想は黛の先取りか)/7.陽気な小径)(1930年代) ・「鉄と火の協奏曲」(大戦末期) ・ペガサス狂詩曲(テナーサックス、ピアノ、ジャズ・オーケストラ)(作曲年不詳) 編曲 ・シェーンベルク「6つのピアノ小曲」(室内オーケストラ)(1951) ***室内楽 ・ピアノ・ソナチネ ・チェロ・ソナタ ト短調 (1932) ・ピアノ三重奏曲 ニ短調 (1932) ・ピアノ五重奏曲 ハ短調 (1933) ・弦楽四重奏曲 イ短調 (1933) ・五重奏曲(Fl./Vn./Va./Vc./Pf.)(作曲年不詳) ***声楽 ・カンタータ《海の夜明け》(1940) ・カンタータ《万民奉祝譜》(1940) ***映画音楽 ・1943.12.22 海賊旗吹っ飛ぶ  松竹京都 ・1944.07.20 還って来た男  松竹大船 ・1944.10.26 野戦軍楽隊  松竹京都 ・1946.07.11 お夏清十郎  大映京都 ・1946.10.01 瀧の白糸  大映京都 ・1946.12.15 歌麿をめぐる五人の女  松竹京都 ・1947.04.22 天下の御意見番を意見する男  大映京都 ・1947.05.27 モデルと若様  松竹京都 ・1947.07.01 母の灯  松竹京都 ・1947.08.16 女優須磨子の恋  松竹京都 ・1947.09.09 激怒  松竹京都 ・1947.11.23 それでも私は行く  松竹京都 ・1947.11.25 白粉帖  大映京都 ・1948.02.07 かりそめの恋  松竹京都 ・1948.02.10 夜の門  大映京都 ・1948.05.10 好色五人女  大映京都 ・1948.05.26 夜の女たち  松竹京都 ・1948.09.20 千姫御殿  大映京都 ・1948.11.01 幸福の限界  大映京都 ・1949.06.20 三つの真珠  大映東京 ・1949.08.15 幽霊列車  大映京都 ・1949.08.16 母呼ぶ鳥  松竹京都 ・1949.10.31 女殺し油地獄  大映京都 ・1949.12.18 今宵別れて  松竹京都 ・1950.06.04 南海の情花  南海映画 ・1950.07.15 千両肌  新演技座 ・1950.12.09 緋牡丹盗賊  大映京都 ・1951.01.20 絢爛たる殺人  大映京都 ・1951.03.31 赤い鍵  大映京都 ***校歌、社歌、団体歌 ・大阪府立阿倍野高等学校校歌(詞:安西冬衛) ・大阪府豊中市立第二中学校校歌(詞:田中順之助/加筆:竹中郁) ・大阪府豊中市立第四中学校校歌(詞:小川克美) ・岡山県立岡山東商業高等学校校歌(詞:吉田研一) ・長崎県立島原高等学校校歌 (詞:宮崎康平) ・兵庫県加古川中学校 校歌(詞:竹中郁) ・兵庫県神戸市立岩岡小学校 校歌(詞:竹中郁) ・兵庫県赤穂市立赤穂東中学校 校歌(詞:竹中郁) ・報徳学園校歌 (詞:富田砕花) ・神戸製鋼社歌 ***その他 ・幻想交響詩劇「邯鄲」(声、管弦楽、現実音を合成)(1953) ・ラジオ番組「シルバータイム」テーマ曲(大澤によるセミ・クラシック番組) *大澤寿人作品に対する感想文集 ・昭和九年の交響曲シリーズ <その2>より 2006.3.4(土) 大阪・いずみホール 18:00開演 大澤壽人 交響曲第2番(1934) 大澤壽人 「"さくら"の声」ソプラノとオーケストラのための(UNE VOIX A "SAKURA")(1935) 大澤壽人 ピアノ協奏曲第2番(1935) 指揮 本名徹次 本名徹次三輪 郁腰越満美 ピアノ 三輪 郁 ソプラノ 腰越満美 管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ :交響曲第2番(1934)|  この交響曲はあまりにテクスチュアが複雑で、作曲者は一つの気分、一つの楽想に身を任せることを極端に避けているような印象。ころころ曲想が変わり、響きはこれ以上無いまでに磨かれ、技術的にもボストン交響楽団など、当時の実力あるオケの名人技を前提としているため、申し訳ないがアマオケには手に負えない代物だった。プロコフィエフの交響曲3番を技術的にも内容的にももうワンランク難しくして、泥臭さをかなり抜いてしまった、といえばある程度曲の印象の一端でも伝わるだろうか。邦人作品演奏に理解ある、腕の立つプロのオーケストラでの再演を期待したい。 :「"さくら"の声」|  このソプラノのヴォカリーゼが支配的なオーケストラ伴奏歌曲は当夜で最もお客さんもリラックスして聴けたであろう作品。タイトルの通りの音楽が展開、洗練された音遣いは流石。ただ、元の旋律の持つ力が強過ぎるものの、大澤の特徴である潔癖な音遣いは健在。ソプラノの動きもゆったりなテンポの中でせかせかと縦横に動く。 :ピアノ協奏曲第2番(1935)|  ピアノコンチェルトは当夜の白眉といったところか。交響曲2番に見られたような要素は多くあったにしろ、ピアノが中心にすえられたことによって音楽の骨格が捉えやすくなり、さらにこの作品には適度の通俗性が備わっていて、既に演奏されCD化もされているピアノ協奏曲3番「神風」と同じく再演すべき名曲だろう。もしかして大澤はピアノ協奏曲で本領を発揮するのだろうか。独奏者のヴィルトゥオージティが発揮され、しかもピアノとオーケストラが主従の関係ではなく絶妙に寄り添う、聴いていて全く飽きない作品。 :幻想交響詩劇「邯鄲」(1953) (片山杜秀氏が神戸女学院で2005年に行った講演より)  能にもなった「邯鄲夢」の話を基にしたラジオ放送用の音楽劇。元の話は、中国の青年廬生が高僧に教えを請いに行く途上、邯鄲の町で宿をとり、そこの主人に勧められた不思議な枕を使うと、飯が炊けるまでの一睡の夢のうちに数々の挫折と栄華を経験し、目を覚まし、人生その全てはひと時の夢に過ぎないのだという悟りを得て、宿の主人に感謝して帰っていく、というもの。  大澤はこの廬生を最終的に現代に迷い込ませた。音楽は場面に応じて変幻自在で、廬生が現代の街を行くシーンでは、ジャズ風の音楽と共に現実音(車のクラクションや雑踏の音)が一緒に流されており、当時としてはかなり斬新な技法を使っている。その部分は講演会でも流され、誠に華々しく、野心的に感じた。  しかし片山氏によると、廬生の心の動きや、周囲の状況によって音楽の雰囲気だけでなく、様々な作曲技法が交錯する。その様は、まるで大澤自身の作曲家としての生涯、伝統的な作曲技法をしっかりと身に付け、ジャズ、ポピュラー音楽も体験し、当時の創作の最前線にいた芸術家達と交流し、もっと現代的な技法も自分のものにしてゆき、日本では生きていくために分かりやすい音楽に転向した、その波乱の運命を表しているかのようだ。  そして物語の終盤、廬生が全てを体験したのち、「これは夢ではないかしら」という歌詞が高らかに歌われる。 この廬生はもしかして大澤自身のことだったのではないだろうか。神戸での音楽といつも共にあった幸せな学生生活、アメリカ、フランスでの野心的な活動とそこで受けた賛辞の数々、日本での挫折と再出発、戦後の、もう海外での活躍も顧みられることもない、しかも保守的な風土の関西でのクラシック音楽啓蒙活動・・・・これら全てを「これは夢ではないかしら」と大澤自身が歌ったのかもしれない。 :小交響曲(1932) 編成:Fl.1/Hr.1/弦5部 曲の編成が変わっているばかりでなくとても特異な響きを持つ曲。少なくとも日本人でこんな曲書く人筆者は知らない。1932年のアメリカ留学中に書かれたこの曲は大澤本人の指揮ボストン交響楽団によって初演された。こういうヴィルトゥオージティを持ったオーケストラを前提としているだけあって、ソリスティックな動きが多く、リズムも煩雑でせせこましく(これは大澤の個性だが)演奏は困難を伴うよう。そして聴こえてくる響きは、なんとも不思議な浮遊感に満ちていて、でも音楽の見通しはシンプルなすっきりしたもの。ソナタ形式も見られる。主題は日本の民謡のようだが、その展開は調性と無調を行ったり来たり、楽器を重ねた厚い響きにはならず終始薄い響き。とはいえ難解で聴きにくいなんてことはない。そしてとても洗練されていて美しい。 70年前に書かれたとは思えない、筆舌に尽くしがたい音楽。 [[日本の音楽家たち]]に戻る [[参考文献リスト1(書籍など)]] [[参考文献リスト2(論文、雑誌記事など)]] [[日本洋楽史を知るデータベース]]
#ref(http://www5.atwiki.jp/mongolhugjim?cmd=upload&act=open&pageid=28&file=000000000239387-1.jpg) 大澤壽人(1906-1953) Hisato Ohsawa **新資料 『煌きの軌跡 一大澤壽人作品資料目録一』 (関西に在住する音楽評論家でつくる「音楽クリティック・クラブ」特別賞受賞) 内容:この資料が神戸女学院に寄贈された経緯にはじまり、作品が、器楽曲、声楽曲、放送作品、といったジャンルで整理され、創作ジャンル不明作品、未確認作品まで、さらには編曲作品まで収録されている。 出版日:2007年12月4日 編集・発行:神戸女学院 頒価:1,000円 問い合わせ:662-8505 西宮市岡田山 4-1        神戸女学院史料室(0798-51-8503)  注:大澤壽人の生年については、1906年と1907年と二説あり、本人も両方使っていた形跡があるが、1906年が正しい。  名前の読みについても、おおさわ (Osawa) と、おおざわ (Ohzawa) と二説あるが、おおさわ (Osawa) が正しい。  贈賞式当日、「パスポートの記載などから、そのように判断される」と、目録編纂者から説明があった。 以上『関西クラシック音楽情報 ・・・音楽賞のページ・・・(09.1.16 更新)』(http://www.music-kansai.net/award03.html)より引用 <参考文献> ・オーケストラ・ニッポニカ『第9回演奏会「昭和九年の交響曲 その2(大澤寿人交響作品個展)」プログラム』 ・大澤壽人 ピアノ協奏曲第3番変イ長調「神風協奏曲」自筆譜フルスコア (私家版) ・岡田暁生「大澤寿人と戦前関西山の手モダニズム」(宇佐美斉編著『日仏交感の近代 : 文学・美術・音楽』京都大学学術出版会、2006年) ・片山杜秀 Isoda *classic* CD IE3003, 大澤壽人の室内楽 ピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲 マイ・ハート弦楽四重奏団、藤井由美(日本語解説) ・片山杜秀 ナクソスCD 8.570177J, 日本作曲家選輯 Vol.22 大澤壽人:ピアノ協奏曲第2番、交響曲第2番/ドミトリ・ヤブロンスキー、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団 (日本語解説) ・片山杜秀 ナクソスCD 8.557416J, 日本作曲家選輯 Vol.8 大澤壽人:交響曲第3番、ピアノ協奏曲第3番『神風』/ドミトリ・ヤブロンスキー、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団 (日本語解説) ・片山杜秀 ミッテンヴァルトCD MTWD99011, オーケストラ・ニッポニカ 第1集(日本語解説) ・富樫康『日本の作曲家』(音楽之友社、1956年) ・深井史郎『恐るるものへの風刺:ある作曲家の発言』(音楽之友社、1965年) ・松井真之介(2011)「阪神間モダニズムが生み出した二人の音楽家 : 貴志康一と大澤壽人」(『鶴山論叢 (11)』、神戸大学、pp.35-56) ・大沢寿人「編曲の経験」『音楽芸術 10(7)』pp.70-73,1952/07 (音楽之友社 〔編〕/音楽之友社) ・大沢寿人「映画監督の中を往く」『Demos 7(5)』pp.21-23,1949/04(朝日新聞文化事業団)  神戸生まれ。合唱やオルガンに親しみながら関西学院を経てアメリカはボストン大学とニューイングランド音楽院へ留学。そこで、コンヴァースとセッションズにつきシェーンベルクの教室にも出入りした。当地では奨学金を得たり、ボストン交響楽団を振って自作発表会をやるなど活躍を始める。更にパリに渡り、ナディア・ブーランジェにつきポール・デュカスのレッスンも受ける。ここでもコンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮しての自作品の演奏会を催し、これはオネゲルらの賞賛を受けた。1936年帰国するも、緻密かつ難解な作風は当時の日本では演奏困難な上、聴衆の理解を得られず、もっぱらポピュラーな作品や放送、映画の世界に身を投じる。戦後は神戸女学院で教鞭をとる傍ら、映画や放送にも引き続き携わりながら、クラシック音楽の啓蒙、聴衆の拡大に力を入れる。あまりに多方面での仕事に、無理がたたったのか過労による脳溢血で死去。まだ46歳だった。 :作品表| ***管弦楽 ボストン時代(1930-34)の作品 ・交響曲第1番 ・ピアノ協奏曲第1番 ・コントラバス協奏曲(セルゲイ・クーセヴィツキーに献呈) ・チェロと管弦楽のための「浦島」 ・小交響曲(Fl.1/Hr.1/弦5部)(1932) ・管弦楽組曲「影の断片」(未完)(1934?) ・交響曲第2番(1934) ・ピアノ協奏曲第2番(1935) ・「"さくら"の声」ソプラノとオーケストラのための(UNE VOIX A "SAKURA")(1935) ・ヴァイオリン小協奏曲―To a Chinese Poem(1936) ・交響曲第3番(1937) ・幻想交響詩「西土」(南京陥落記念)(1937) ・ピアノ協奏曲第3番変イ長調「神風協奏曲」(1938) ・サックス協奏曲(1947) ・トランペット協奏曲(1950) ・組曲「路地よりの断章」(1.インヴェンション/2.母の子守歌/3.だるま/4.夜想曲/5.かくれんぼ/6.銅鑼(管弦楽のみで銅鑼の音を再現する発想は黛の先取りか)/7.陽気な小径)(1930年代) ・「鉄と火の協奏曲」(大戦末期) ・ペガサス狂詩曲(テナーサックス、ピアノ、ジャズ・オーケストラ)(作曲年不詳) 編曲 ・シェーンベルク「6つのピアノ小曲」(室内オーケストラ)(1951) ***室内楽 ・ピアノ・ソナチネ ・チェロ・ソナタ ト短調 (1932) ・ピアノ三重奏曲 ニ短調 (1932) ・ピアノ五重奏曲 ハ短調 (1933) ・弦楽四重奏曲 イ短調 (1933) ・五重奏曲(Fl./Vn./Va./Vc./Pf.)(作曲年不詳) ***声楽 ・カンタータ《海の夜明け》(1940) ・カンタータ《万民奉祝譜》(1940) ***映画音楽 ・1943.12.22 海賊旗吹っ飛ぶ  松竹京都 ・1944.07.20 還って来た男  松竹大船 ・1944.10.26 野戦軍楽隊  松竹京都 ・1946.07.11 お夏清十郎  大映京都 ・1946.10.01 瀧の白糸  大映京都 ・1946.12.15 歌麿をめぐる五人の女  松竹京都 ・1947.04.22 天下の御意見番を意見する男  大映京都 ・1947.05.27 モデルと若様  松竹京都 ・1947.07.01 母の灯  松竹京都 ・1947.08.16 女優須磨子の恋  松竹京都 ・1947.09.09 激怒  松竹京都 ・1947.11.23 それでも私は行く  松竹京都 ・1947.11.25 白粉帖  大映京都 ・1948.02.07 かりそめの恋  松竹京都 ・1948.02.10 夜の門  大映京都 ・1948.05.10 好色五人女  大映京都 ・1948.05.26 夜の女たち  松竹京都 ・1948.09.20 千姫御殿  大映京都 ・1948.11.01 幸福の限界  大映京都 ・1949.06.20 三つの真珠  大映東京 ・1949.08.15 幽霊列車  大映京都 ・1949.08.16 母呼ぶ鳥  松竹京都 ・1949.10.31 女殺し油地獄  大映京都 ・1949.12.18 今宵別れて  松竹京都 ・1950.06.04 南海の情花  南海映画 ・1950.07.15 千両肌  新演技座 ・1950.12.09 緋牡丹盗賊  大映京都 ・1951.01.20 絢爛たる殺人  大映京都 ・1951.03.31 赤い鍵  大映京都 ***校歌、社歌、団体歌 ・大阪府立阿倍野高等学校校歌(詞:安西冬衛) ・大阪府豊中市立第二中学校校歌(詞:田中順之助/加筆:竹中郁) ・大阪府豊中市立第四中学校校歌(詞:小川克美) ・岡山県立岡山東商業高等学校校歌(詞:吉田研一) ・長崎県立島原高等学校校歌 (詞:宮崎康平) ・兵庫県加古川中学校 校歌(詞:竹中郁) ・兵庫県神戸市立岩岡小学校 校歌(詞:竹中郁) ・兵庫県赤穂市立赤穂東中学校 校歌(詞:竹中郁) ・報徳学園校歌 (詞:富田砕花) ・神戸製鋼社歌 ***その他 ・幻想交響詩劇「邯鄲」(声、管弦楽、現実音を合成)(1953) ・ラジオ番組「シルバータイム」テーマ曲(大澤によるセミ・クラシック番組) *大澤寿人作品に対する感想文集 ・昭和九年の交響曲シリーズ <その2>より 2006.3.4(土) 大阪・いずみホール 18:00開演 大澤壽人 交響曲第2番(1934) 大澤壽人 「"さくら"の声」ソプラノとオーケストラのための(UNE VOIX A "SAKURA")(1935) 大澤壽人 ピアノ協奏曲第2番(1935) 指揮 本名徹次 本名徹次三輪 郁腰越満美 ピアノ 三輪 郁 ソプラノ 腰越満美 管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ :交響曲第2番(1934)|  この交響曲はあまりにテクスチュアが複雑で、作曲者は一つの気分、一つの楽想に身を任せることを極端に避けているような印象。ころころ曲想が変わり、響きはこれ以上無いまでに磨かれ、技術的にもボストン交響楽団など、当時の実力あるオケの名人技を前提としているため、申し訳ないがアマオケには手に負えない代物だった。プロコフィエフの交響曲3番を技術的にも内容的にももうワンランク難しくして、泥臭さをかなり抜いてしまった、といえばある程度曲の印象の一端でも伝わるだろうか。邦人作品演奏に理解ある、腕の立つプロのオーケストラでの再演を期待したい。 :「"さくら"の声」|  このソプラノのヴォカリーゼが支配的なオーケストラ伴奏歌曲は当夜で最もお客さんもリラックスして聴けたであろう作品。タイトルの通りの音楽が展開、洗練された音遣いは流石。ただ、元の旋律の持つ力が強過ぎるものの、大澤の特徴である潔癖な音遣いは健在。ソプラノの動きもゆったりなテンポの中でせかせかと縦横に動く。 :ピアノ協奏曲第2番(1935)|  ピアノコンチェルトは当夜の白眉といったところか。交響曲2番に見られたような要素は多くあったにしろ、ピアノが中心にすえられたことによって音楽の骨格が捉えやすくなり、さらにこの作品には適度の通俗性が備わっていて、既に演奏されCD化もされているピアノ協奏曲3番「神風」と同じく再演すべき名曲だろう。もしかして大澤はピアノ協奏曲で本領を発揮するのだろうか。独奏者のヴィルトゥオージティが発揮され、しかもピアノとオーケストラが主従の関係ではなく絶妙に寄り添う、聴いていて全く飽きない作品。 :幻想交響詩劇「邯鄲」(1953) (片山杜秀氏が神戸女学院で2005年に行った講演より)  能にもなった「邯鄲夢」の話を基にしたラジオ放送用の音楽劇。元の話は、中国の青年廬生が高僧に教えを請いに行く途上、邯鄲の町で宿をとり、そこの主人に勧められた不思議な枕を使うと、飯が炊けるまでの一睡の夢のうちに数々の挫折と栄華を経験し、目を覚まし、人生その全てはひと時の夢に過ぎないのだという悟りを得て、宿の主人に感謝して帰っていく、というもの。  大澤はこの廬生を最終的に現代に迷い込ませた。音楽は場面に応じて変幻自在で、廬生が現代の街を行くシーンでは、ジャズ風の音楽と共に現実音(車のクラクションや雑踏の音)が一緒に流されており、当時としてはかなり斬新な技法を使っている。その部分は講演会でも流され、誠に華々しく、野心的に感じた。  しかし片山氏によると、廬生の心の動きや、周囲の状況によって音楽の雰囲気だけでなく、様々な作曲技法が交錯する。その様は、まるで大澤自身の作曲家としての生涯、伝統的な作曲技法をしっかりと身に付け、ジャズ、ポピュラー音楽も体験し、当時の創作の最前線にいた芸術家達と交流し、もっと現代的な技法も自分のものにしてゆき、日本では生きていくために分かりやすい音楽に転向した、その波乱の運命を表しているかのようだ。  そして物語の終盤、廬生が全てを体験したのち、「これは夢ではないかしら」という歌詞が高らかに歌われる。 この廬生はもしかして大澤自身のことだったのではないだろうか。神戸での音楽といつも共にあった幸せな学生生活、アメリカ、フランスでの野心的な活動とそこで受けた賛辞の数々、日本での挫折と再出発、戦後の、もう海外での活躍も顧みられることもない、しかも保守的な風土の関西でのクラシック音楽啓蒙活動・・・・これら全てを「これは夢ではないかしら」と大澤自身が歌ったのかもしれない。 :小交響曲(1932) 編成:Fl.1/Hr.1/弦5部 曲の編成が変わっているばかりでなくとても特異な響きを持つ曲。少なくとも日本人でこんな曲書く人筆者は知らない。1932年のアメリカ留学中に書かれたこの曲は大澤本人の指揮ボストン交響楽団によって初演された。こういうヴィルトゥオージティを持ったオーケストラを前提としているだけあって、ソリスティックな動きが多く、リズムも煩雑でせせこましく(これは大澤の個性だが)演奏は困難を伴うよう。そして聴こえてくる響きは、なんとも不思議な浮遊感に満ちていて、でも音楽の見通しはシンプルなすっきりしたもの。ソナタ形式も見られる。主題は日本の民謡のようだが、その展開は調性と無調を行ったり来たり、楽器を重ねた厚い響きにはならず終始薄い響き。とはいえ難解で聴きにくいなんてことはない。そしてとても洗練されていて美しい。 70年前に書かれたとは思えない、筆舌に尽くしがたい音楽。 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