モンゴル音楽研究ノート1

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まだモンゴルの音楽について全然分かっていなかったころに書いたものです。 *西洋音楽の受容と全体主義体制化での芸術音楽~モンゴルにおける近代音楽史研究の可能性~  私は日本のクラシック音楽の歴史、つまり日本におけるシンフォニー・オーケストラ、軍楽隊(吹奏楽)、西洋的な音楽語法の歌曲、オペラ等の歴史に興味を持ち、先行研究を中心に調べている。日本でも音楽の伝統を有しているが、そこにどうやって西洋音楽そのもの、または西洋的な音楽の要素が入ってきたのか、それからもう一つ、日中戦争、太平洋戦争に代表されるようなファシズムが国を覆っていた時代、音楽と音楽家がどのような状況にあったのかに特に興味がある。 モンゴルももちろん素晴らしい音楽の伝統を持っているが、主に社会主義革命後、ソ連を通じて西洋的な音楽を受容してきた。現在でもポップミュージックは盛んであるし、オペラも日常的に興行を続けているという。西洋音楽は十分に浸透しているのであろう。受容史を調べることは無駄ではないように思える。 そして私が最も知りたいのは社会主義時代のモンゴルで、国家がどのように音楽を扱い、社会主義時代、作家達は作家同盟の元で非常な活動の制限を受けたが、音楽の面でも作家同盟と似たようなことが、またソ連や日本のファシズムの下での音楽への制限と近いものがあったのではないか、と私は考えている。加えて日本での研究を見ると、日本の全体主義体制下の西洋音楽の状況は、西洋音楽の受容のあり方とも関係がある。モンゴルでも、西洋音楽が近代になって入ってきた国として、類似性がなかったとは言えないだろう。 そこで、日本やロシア、その他アジアの西洋音楽を受容した国の音楽史の先行研究を、また日本、ソ連、ドイツなど国家権力から音楽家への制限があった事例の先行研究を参考にしながら、モンゴルにおける上に掲げた歴史を調べることを目下自分の目標としている。私のこれからの研究姿勢とどのような論文を書きたいかを、本ノートを通じてより具体的に示したい。  現時点での研究姿勢の大枠を以下に示す。 日本ではモンゴルのこの種の研究に関しては先行研究、資料ともに不足しているし、また私の調べも現時点で不十分であるので、まずロシア、日本、中国における西洋音楽受容史の先行研究にまず触れて、モンゴルでの受容史にも当て嵌まる可能性の高い事柄を挙げていき、似たような研究アプローチができないか、その可能性を提示する。これを将来の論文に備えて第1章とする。  次に、ソ連、ドイツ、日本で全体主義体制下での音楽の先行研究を概観し、共通する事柄を挙げ、モンゴルでも類似した事柄があるかどうかの可能性について考える。そこからこれから自分が行う調査の方向性を明らかにする。これを上と同じく将来書く論文に備えて第2章とする。 もちろん、この形は暫定的なものであって、モンゴルで、西洋音楽受容や音楽政策、社会主義体制下での音楽家の活動について、もっと資料が得られれば変更するかもしれない。 第1章 西洋音楽の受容 国家の西洋的近代化が始まると、政治、産業だけではない様々な局面においても西洋的な意味での近代化が始まる。音楽も例外ではない。ヨーロッパで発達した音楽語法、楽器、演奏のあり方、芸術のあり方が輸入される。そしてそれ以前に育ってきた音楽文化と結びつき、新しい発展を見る。現在は西洋的な音楽のあり方は日本でも中国でもモンゴルでもあらゆるところに浸透している。民族音楽と呼ばれるような伝統音楽の分野にさえもその影響は大きい。ではその西洋音楽導入の先駆けとなったものは何であったのか、どのような状況で入ってきたのかをまず確かめたい。できれば将来的に、西洋音楽の受容とそのあり方がその後の歴史にどのような影響を及ぼしたかまで考察を深められたら、と考えている。 第1節 ソヴィエト・ロシアでの受容 ロシアは現在でこそ西洋的な意味での音楽文化の重要な発信国であるが、ロシアもまたアジア諸国とは事情は少々異なるけれども「西洋音楽」を後から受容したのだ。この歴史は伊藤恵子(2002)『革命と音楽』(音楽之友社)によると以下のようである。ロシアは長い間西ヨーロッパとは異なる音楽文化を有していた。ロシアの民族音楽と、ビザンツ帝国からの宗教音楽である。しかしそこにまずカトリック様式の宗教音楽が、そしてロシア皇帝の権威の強大化と西欧化に伴い、貴族のサロン文化の一環として娯楽としての西洋音楽が入ってきたのである。また、移民もこの受容と普及に大きな役割を果たした。そしてロシアにも資本主義が興ってくるにつれ、貴族お抱え以外にも音楽家が活躍の場を広げ、常設の劇場など民衆との接点も増えていった。この時期、文学などその他の芸術と並び、音楽にも、国民楽派と呼ばれる、ロシアの伝統文化、民衆の文化と強く関わりを持つ現在進行形の芸術作品を生み出すようになるまで発展していったのである。その流れは20世紀初頭のロシアン・アヴァンギャルドの下地となる。 第2節 日本、中国などでの受容  日本の国家レベルでの西洋音楽の導入は明治維新(1868年)と共に始まったが、ロシアの貴族サロン文化としての受容とは大きく異なり、国家を統治する為の西洋音楽受容であった。まず塚原康子(2001)「軍楽隊と戦前の大衆音楽」(『ブラスバンドの社会史』青弓社 p.83-124)によると、まず軍隊の近代化に伴い、軍楽隊が創設され、その軍楽隊が西洋式軍制の実用的役割のみならず、公共での演奏活動による西洋音楽の普及媒体としての役割、管楽器奏者を中心とした音楽家の養成機関としての役割も同時に果たした。国家レベルではもう一つ、公教育における学校唱歌が、これも児童への教育の実用的な目的を持っていた(田中耕治他(2005)『新しい時代の教育課程』有斐閣アルマを参照)が結果的に西洋的な意味での音楽普及(つまり伝統音楽以外の外来の音楽という意味で)の一翼を担うことになった。それからもう一つ、キリスト教の音楽が入ってきたこと(ここはロシアと共通である)も、聖歌などに魅了されて音楽家を志す者も多かったことから、重要である。日本以外の国を見てみると、例えば中国でも清朝時代末期に、日本から帰ってきた留学生を通じてというルートもあったものの、主に西洋式軍楽隊、学校唱歌、キリスト教のミッションスクールから西洋音楽が入ってきている(石田一志(2005)『モダニズム変奏曲 東アジアの近現代音楽史』朔北社、p198-206を参照)し、韓国でも同様である(石田一志(2005)『同上』p346-357を参照)。また許常惠(1995)「台湾の音楽」(櫻井哲男編『二〇世紀の音』ドメス出版)によると台湾でも、軍楽隊については述べられていないものの、西洋音楽導入におけるキリスト教と学校教育の役割に言及している。 第3節モンゴルでの受容 ではモンゴルの場合はどうか。上記の日本、中国などの例をみると、宗教(キリスト教)、軍隊、学校教育を中心に西洋音楽が導入されている。モンゴルはというと、1914年にボグド・ハーン宮の側で軍隊の吹奏楽団が結成されており((1999)”Mongoliin soyoliin tu'ukh”,p218)、社会主義革命時の有名な歌《Shvee Hyagt》はモンゴルにおける最初の西洋的な技法を用いた作曲と位置づけられている((1981)”BNMAU-iin soyoliin tuukh”1,p276)。教育においても1928年の教育計画を見ると、唱歌が教科に入っているのが分かる(参照:神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版)。ただキリスト教に関しては未確認である。西洋音楽導入のあり方は日本や中国などと似通っていた可能性が高い。それに加えて、西洋音楽の「普及」には、主に国家政策や社会主義思想を宣伝するための、地方への巡業音楽会が大きな役割を果たしたと思われる。モンゴルにおける西洋音楽導入に関して、未確認の宗教が果たした役割があったのかどうかを含めて、誰が、あるいはどの機関が、どのような過程でモンゴルに西洋音楽を導入したのか、それにはどのような目的があったのか、をさらに詳しく調べていきたい。 第2章 音楽政策―国家、政治が音楽をどう扱ったか 第2章では全体主義の国家が音楽、特に西洋音楽をどのように扱ったかを、音楽家の組織化に注目しながら見ていく。全体主義国家がどのような音楽政策を行い、そのことで音楽界と社会にどのような影響を及ぼしたかを考える。ソ連、そして第二次大戦中のドイツと日本の研究が詳しいのでそれぞれ第1から3節でその先行研究について触れる。それらをふまえた上でモンゴルについて第4節で言及する。 第1節 ロシア(ソヴィエト連邦)の音楽政策 ソヴィエトでの音楽は「音楽は大衆を一つにするための手段」というレーニンの言葉どおり扱われた。国家が芸術家を統制し、社会主義リアリズムの思想にそぐわないものは排斥した。ただレーニンはこうも述べていた。「芸術を自由に理解し、作品の形式や内容は自由であれ」、「検閲からの解放は皇帝からの解放だから、民衆もその恩恵を受けるべき」この言葉は革命初期においては真実味を持っていた。現に20世紀初頭ではほかの芸術界全体にロシアン・アヴァンギャルドと呼ぶべき新しい芸術運動が興り、音楽においても今までにない様々な試みがなされた。神秘主義、原始主義、12音技法、微分音、電子音、機械文明と音楽の融合などである。しかしそれもスターリニズムの下では抑圧の対象となった。「プロレタリア音楽家同盟」のもたらした混乱(進歩的な音楽家を攻撃し、極端なプレタリア音楽観を押し付けようとした。)の後、国家による音楽家の統制、管理が行われた(ローレル・フェイ/安原雅之訳(1997)「ソヴィエト連邦:1918-45年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社,p9-30)。反体制的な音楽、実験的で大衆に分かりにくいとされる音楽は、抹殺されるか無視された(具体的には発禁や演奏禁止)。抑圧された音楽は、国内で作られたものはもちろん、海外から入ってくる音楽にも制限がかけられていた。欧米からのジャズや前衛音楽などは資本主義的、ブルジョア的退廃として退けられた。この状況に異を唱える者は亡命するか、作品を通じて密かな抵抗をするしかなかった。ペレストロイカまでこの閉塞状態は続くことになる。ただ、ここで政治における民族主義が抑圧された一方で、民族音楽、民族的な語法による作品が歓迎されたと言う事実は興味深い。とにかく芸術の新しい展開よりも、分かりやすい音楽、社会主義政策に沿う「健康的な」音楽を国家が求めていたのだ。 第2節 ドイツ(第三帝国)の事例  エリック・リーヴィー著/望田幸男監訳(2000)『第三帝国の音楽』(名古屋大学出版会)に沿って話を進めると、ナチス政権下のドイツでは、ナチスがドイツの純粋性を主張し、文化もそれにふさわしいものになるよう制限を加え、あるいはドイツ文化の優秀性の宣伝広報につとめた。このプロセス、方法は共にソ連と似通っている部分が多い。ただここでいう制限の目的はドイツ音楽界の純粋性を守り、ユダヤ人、共産主義者を追放することが目的であった。そのため、ユダヤ人社会の中のみの音楽家組織を作るなど特徴があった。また黒人が劣等人種であるという理由からジャズが攻撃されたり、ユダヤ人攻撃によってロマン派の大作曲家メンデルスゾーンの楽譜が焼かれたりした。ユダヤ文化批判者であったワーグナーの音楽は逆に盛んに持ち上げられた。 もちろんドイツ人の全芸術家を統括する帝国芸術院の下で音楽家も管理された。加えて、ナチスの実力者はきわめて個人的に、自分の権威を示す道具として、特定の劇場を支援することもあった。この点では組織の国家的一元化は、ソ連と違い失敗しているように思える。こうしてナチスが音楽政策に盛んに乗り出したのは、ソ連と同様の20世紀初頭の新しい芸術運動の勃興に、ナチスの主な支持母体であった保守層が伝統的ドイツ文化崩壊の危機感を抱き、攻撃していたからであった。 第3節 戦前、戦時中の日本の音楽政策  日本はドイツを模範として、特に1940年から1945年の敗戦までは国内での音楽家の組織化、統制が行われた。また、1930年代から満州国、中国の占領地での文化工作も音楽を含めて進められていたが、それについては別に機会を設けて述べたい。国内では1934年の「プロレタリア音楽同盟」への弾圧が初期の国家の圧力であろう。その後、愛国精神を高揚させるような歌のコンテストの開催、日中戦争開始に伴う経済統制により楽器などの輸入が制限を受けたこと、同じ時期、演奏活動を警察に届け出なくてはならなくなったことへと、国家の音楽政策は次第に強まる(戸ノ下達也(1993)「戦時体制化の音楽界」参照)。秋山邦晴(2003)『昭和の作曲家たち』(みすず書房)によると、この時期、音楽家たちの多くは自分達の音楽のレベルアップ(演奏技術、公演の質、作曲技法等)に関心が偏っていて、世情への理解が浅かったといってもよく、目だった抵抗運動はなかった。むしろ、紀元2600年記念行事(注)に参加したり、戦時体制下で文化をなおざりにする風潮から音楽家の立場を守るべく、国家により文学者を統制し国策に協力させる団体である会「文学報国会」に近い性格をもつ「音楽文化連盟」を組織したりと、国策に対して疑問を呈するようなことはしなかった。またソ連と違って作品による密かな抵抗というのもほとんどなかった。結果として安易な民族的作品、愛国的な作品が生まれ、またソ連ドイツと同じように、実験的な音楽の流れは断ち切られ、退廃的な音楽とされたジャズなどが禁止された。 (注:伝説上の天皇・神武天皇の即位年を元年とした暦で1940年がその2600年にあたる。当時の皇国主義の下で盛んに使われた。そのため、1940年には記念すべき年としてオリンピックや万博が企画されたが、日中戦争の泥沼化で開催できず、代わりの様々な行事が行われた。) 第4節 モンゴル人民共和国の音楽政策  モンゴルの音楽政策に関しては、まだ私はあまり研究を進められていない。しかし、上のソ連、ドイツ、日本の例をみると、全体主義の下では音楽家の職能別組織化、退廃的と国家が烙印を押した音楽の排除が行われ、作品の問題としては、分かりやすい、愛国的な、特に民族的な作品が歓迎された。モンゴルはソ連に指導、影響を受けている。1933年にはモスクワの音楽コンテストにモンゴルの音楽家が参加している。ソ連でのものと同じような政治的な力がモンゴルの音楽家にも働いた可能性が高い。また日本と同じように、西洋音楽受容と、国家の近代化が同時にしかも短期間に行われた。党に捧げる音楽以外では、民族オペラや民族バレエ、そして草原や馬頭琴など民族楽器を扱った作品が目立つ(モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社)。また革命初期の有名曲《Shvee hyagt》は民謡を基に作られている(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu'ukh(モンゴル文化史)』)。日本と同じように国家の政策と共に音楽も民族的になっていく傾向があったのではないかと推察される。さらに、モンゴルが中国、ロシア白軍の抑圧から独立して間もなかった事も、音楽においても民族主義を高揚させることになったかもしれない。もう一つには、ソ連の手法、つまりより親しみやすく、民衆に社会主義思想を伝えやすくする音楽には民謡など民族的音楽語法を利用した方が、国民に受け入れられやすい、と言う方法がソ連により指導されたかもしれないし、モンゴルが自発的にその手法を取り入れたかもしれない。  音楽家の組織化の問題としては、1930年代、M.Dugarjavが、論文で音楽家の組織の必要性を説いている(Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu'ukh)』モンゴル国立出版所,p280)。また劇場、歌舞団の設立や、地方を巡業する社会主義思想普及のための音楽会も数多く開かれているという。社会主義時代には国家が積極的に音楽に関与していったのであろう。そこで、1:国家が音楽に対してどのような思想を持っていたか(社会主義リアリズム、ソ連からの影響)、2:その思想をどのような形で実行したか(ソ連の文化面での指導、モンゴルの音楽政策、音楽家養成、音楽家の統制組織、演奏団体の組織、巡回音楽会の活動内容など)、3:そのような状況下で音楽家たちがどのような活動をしたのか(演奏の内容、演奏レパートリー、作曲された作品、反体制音楽家やそれに近い活動をした音楽家がいなかったか、などの問題)、4:その結果どのような影響が社会にあったか(音楽と民族主義、音楽と思想、他の芸術分野との協力、どのような音楽が歓迎されたか、などの問題)を具体的に調べたい。 終わりに 今後の方針と目標  私は近現代モンゴルにおける文化、歴史と音楽の関わりを深く理解したい。具体的には国家が音楽をどのように利用したか、音楽家たちをどのように扱ったか、そしてその社会の中で音楽家たちがどのような活動を行ったのか、である。これらを可能な限り詳しく論じられるよう調べを進める。上に書いたソ連、ドイツ、日本で行われている様な研究をモンゴルで行いたいのである。 論文を書いた先には、最終的にモンゴルの近代音楽の歴史を総括し、それを日本語あるいは英語で発信できるようにしたい。それをできるだけ多く人たちに読んでもらい、民族オペラや歌、オーケストラ、軍楽隊、民族音楽を含む近代モンゴル音楽史の紹介を広くできるようになりたいと願っている。 参考文献: モンゴル ・Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu'ukh)』モンゴル国立出版所 ・Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳(2002)『モンゴル現代史』明石書店 ・生駒雅則(2004)『モンゴル民族の近現代史』(ユーラシア・ブックレットNo.69)東洋書店 ・小貫雅男(1993)『モンゴル現代史』山川出版社 ・神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版 ・上村明(2000)『喉歌フーミーとモンゴル(人民共和)国の芸能政策』国立民族学博物館 ・上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」『日本モンゴル学会紀要』No.30日本モンゴル学会 ・上村明(2001)「モンゴル西部の英雄叙事詩の語りと芸能政策」『口承文芸研究』24, 日本口承文芸学会 ・上村明(1995)「アルタイ・オリアンハイの宴の歌」『日本モンゴル学会紀要』No.26, pp.1-15,日本モンゴル学会 ・芝山豊(1987)『近代化と文学』アルド出版 ・モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社 ・モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu'ukh(モンゴル文化史)』 ソヴィエト・ロシア ・伊藤恵子(2002)『革命と音楽』音楽之友社 ・竹内正実(2000)『テルミン』岳陽社 ・桑野隆(1996)『夢みる権利』東京大学出版会 ・デトレフ・ゴヨヴィ/安原雅之訳(1997)「ロシアと東ヨーロッパ:1945-70年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社 ・ニコライ・カレートニコフ著/杉里直人訳(1996)『モスクワの前衛音楽家』新評論 ・ローレル・フェイ/安原雅之訳(1997)「ソヴィエト連邦:1918-45年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社 ドイツ ・エリック・リーヴィー著/望田幸男監訳(2000)『第三帝国の音楽』名古屋大学出版会 日本 ・秋山邦晴(2003)『昭和の作曲家たち』みすず書房 ・秋山龍英(1966)『日本の洋楽百年史』第一法規出版、1966年 ・井田敏(1999)『まぼろしの五線譜 江文也という《日本人》』白水社 ・岩野裕一(1999)『王道楽土の交響楽』音楽之友社 ・高橋巌夫(2002)『昭和激動の音楽物語』葦書房 ・田中耕治他(2005)『新しい時代の教育課程』有斐閣アルマ ・塚原康子(2001)「軍楽隊と戦前の大衆音楽」『ブラスバンドの社会史』青弓社 ・戸ノ下達也(1993)「戦時体制化の音楽界」赤澤史朗他編『文化とファシズム』日本経済評論社 ・沼野雄司(2004)「現音小史」『日本現代音楽協会会報 NEW COMPOSER』 2004 Vol.5、日本現代音楽協会 ・古川隆久(1990)「《紀元2600年奉祝》と対外文化交流」近代日本研究会編『近代日本と情報』山川出版社 ・堀内敬三(1991)『音楽五十年史』大空社 アジア ・石田一志(2005)『モダニズム変奏曲 東アジアの近現代音楽史』朔北社 CDその他 「これが頽廃音楽だ~ヒトラーによって、禁じられ、失われた音楽」ポリグラム株式会社、1996年 「黒船以来 日本の吹奏楽150年の歩み」キングレコード、2003年 ホームページ 櫻本富雄:空席通信 On The Net 利用日2005年11月5日 http://www.sakuramo.to/index.html 小関康幸のホームページ 利用日2005年11月6日 http://www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/index.html

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