第1章 音楽の政治利用、音楽への政治的圧力の諸形態


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1章 音楽の政治利用、音楽への政治的圧力の諸形態

 

1.1. どの地域の例を参考にするか

 序論で述べた通り、この論文は、20世紀のモンゴル国で国家権力による音楽の政治的利用と国家権力による音楽への干渉があったかどうか、あったとすればどのような利用、干渉であったのかを示す。この前段階で、筆者はソ連を中心にすることにした。ソ連を中心に見ることについては、序章でも述べているがここでももう一度繰り返し、補足しておこう。

社会主義時代のモンゴルではソ連の影響は非常に大きかった。それは外交面だけではなく内政面でも、そして文化面でも同じであった。

政治面について一つ述べておくと、ロシア・ソ連は19世紀から20世紀にかけてモンゴルに対する野心があった。モンゴルにおける商業活動が活発化していたし、資源もほしかった。また、中国との間に緩衝地帯がほしかったというのもある。1930年代以降は日本の大陸進出に対する防壁の必要性からもモンゴルを重要視した。ただ、もちろん一貫してモンゴルへの進出ばかりが志向されたわけではなく、中国がモンゴルの領有を主張しており、中国との外交関係にロシア・ソ連のモンゴルへの態度は左右された。ソ連のモンゴルへの介入の事例は、第2章でも述べることになるが、少し示すと、モンゴルで1930年代に起こった仏教弾圧、1937年から始まった大粛清は背後にソ連の影が見え隠れするし、また外交関係を持っていい国も決められ、多数のソヴィエト軍がモンゴルに駐留していた [1] 。ソ連とモンゴルは、ソ連を兄とする「兄弟国」である、という表現が社会主義時代多用された。

文化面についても2章でより詳しく述べる機会があろうが、ここで少し触れておく。1920年代から1940年代の演劇のたどった発展にはその思想性も含めてソ連の指導によるところが大きかった [2] 。モンゴル国がキリル文字を採用したのもソ連からの圧力によると言われている [3] 1962年のチンギス・ハーン生誕800周年記念祝賀行事取り止めがソ連の圧力で行われたことは有名である [4]

ソ連とモンゴルは特に社会主義時代、上に挙げたような関係であった。社会主義であること、ソ連の影響力を考え、ソ連での政治による音楽の鑑賞と利用を参考することにしたのである。

1.2. ソ連における政治権力による音楽の利用と音楽への介入

ソ連の音楽の状況をL.フェイ [5] D.ゴヨヴィ [6] F.マース [7] 、伊藤恵子[8] の著作から概観してみよう。「音楽はひろい大衆を結びつける一つの手段 [9] 」というレーニンの言葉がある。これは作曲家ショスタコーヴィチが19311220日付けのニューヨークタイムズのインタビューに応えて引用したもの [10] だが、ソヴィエトでは、音楽はまさにこの通りに扱われた。国家が芸術家を統制し、社会主義リアリズムの思想にそぐわないものは排斥した。20世紀初頭ではほかの芸術界全体にロシアン・アヴァンギャルドと呼ぶべき新しい芸術運動が興り、音楽においても今までにない様々な試みがなされた。しかしそれもスターリニズムの下では抑圧の対象となった。「プロレタリア音楽家同盟」のもたらした混乱(進歩的な音楽家を攻撃し、極端なプレタリア音楽観を押し付けようとした。)の後、国家による音楽家の統制、管理が行われた。そのために作曲家同盟を党が率先して組織した。反体制的な音楽、実験的で大衆に分かりにくいとされる音楽は、抹殺されるか無視され、具体的には新聞などで名指しの批判、発禁や演奏禁止が行われた。抑圧された音楽は、国内で作られたものはもちろん、海外から入ってくる音楽にも制限がかけられていた。欧米からのジャズや前衛音楽などは資本主義的、ブルジョア的退廃として非難を浴びた。この状況に異を唱える者は亡命するか、表向きは社会主義リアリズムにのっとった作品を通じて密かな抵抗をするしかなかった。もちろん抑圧だけでなく、党の求めるタイプの音楽の奨励も欠かさなかった。求められたのは歌謡調あるいは民謡調で平易な、社会主義に対する楽観主義的、あるいは英雄的なテーマを持つ作品であり、そのような作品には賞が贈られ、放送などでも繰り返し流された。フルシチョフ時代には海外の現代音楽が許容されたり、電子音楽のスタジオが開かれたりしたが、ブレジネフ時代に入ってからは、ペレストロイカまでこの閉塞状態は続くことになる。ただ、ここで政治における民族主義が抑圧された一方で、民族音楽、民族的な語法による作品が歓迎されたと言う事実は興味深い。またアマチュア音楽の活動、特に合唱などが奨励されていた。とにかく芸術の新しい展開よりも、分かりやすい音楽、社会主義政策に沿う「健康的な」音楽を国家が求めていたのだ。

 ここで、ソ連で行われたことを一度表にして整理してみよう。

1

A「政治権力による音楽への干渉」

.音楽家を組織化する

.音楽に“分かりやすさ”、体制側に立った政治的メッセージを込めること、あるいは政策に沿った作品にするよう要求し、それに応えていない作品、体制に沿わない作品、音楽を検閲その他によって洗い出し、そういった作品を書いた、あるいは演奏した音楽家へ圧力をかける

.ジャズなどの資本主義陣営の外国音楽への排他主義

 

B「政治権力による音楽の利用」

.クラブ [11] など文化施設における大衆の実践を通しての啓蒙活動

.イデオロギー宣伝を兼ねた巡回芸能興業

.放送、その他メディアの普及と利用

.政治的パフォーマンスの場に音楽を有効活用する

 

 Aの1「音楽家を組織化する」はソヴィエトでの例はソ連作曲家同盟である。これは共産党中央委員会の決議により1932年組織され、「ソ連音楽の委嘱、出版、演奏会企画の権限を担う唯一の団体」であり「作曲家たちは創作の途中で、批判、検討用の会議に自作を出すこと、またその会議に出席することが義務づけられ [12] 」た。創作発表の自由を国家の強力な指導の下に制限し、音楽家同士に相互監視させるということである。

Aの2に関して、ソ連では1934年に「公式のソ連美学が義務的規範として宣言され [13] 」、それは「社会主義リアリズム」であった。以下F.マースの著書[14] にしたがってまとめると、これに関して《ソヴィエト音楽》誌に「形式において民族的、内容において社会主義的」というスターリンの言葉を引用したスローガンが載ったという。ソ連政府は音楽に対し、その内容の理念上の問題よりも、「ソ連の現実を映す適切なイメージとして、とりわけ楽観主義に基づく記念碑的なアプローチと昂揚した雄弁さ [15] 」を求めたという。さらに「内容ではなく外面的な形式のみが、民族的になることを許され [16] 」たこと、音楽の技法的実験は不必要なこととされたことが挙げられる。つまり、間違っても少数民族意識の高揚を図る作品や、ソ連の現実生活が酷いからといってそのことを性格に描写した作品や、自らの音楽的理想を実現させるために新しいが聴衆には耳馴染みのしないモダニズム的表現技法を駆使した作品などを書けば、非難の対象となるということである。社会主義思想の反映よりも、むしろ国家の中央集権、管理社会、思想統制に相容れない活動を否定した、とも言えるだろう。

 Aの3「ジャズなどの資本主義陣営の外国音楽への排他主義」であるが、ソ連ではスターリン時代にジャズは「資本主義の陰謀による破壊活動の武器とみなされ [17] 」弾圧されたし、資本主義国で作られた前衛的な作品も否定された。このうちジャズへの批判に関してはナチス政権時代のドイツ [18] や太平洋戦争期の日本[19] でも明瞭に観察される。Aの2の最後に述べたのと同じ理由で、外国の音楽を排除したことと言える。

Bの1「クラブなど文化施設における大衆の実践を通しての啓蒙活動」はアマチュア芸能活動として推進された。これは「演劇、合唱、合奏などの分野で、国や地方公共団体の育成した指導者が公に給料を得て、子供から大人に至るまでのクラブや軍隊で一般市民に無料で活動の指導をするという制度で、1930年代に整備された[20] 」。そしてこれはアマチュアの自主的活動ではなく「公的機関から啓蒙という名目を持って与えられるもの [21] 」で、「人々が集まる場所を伝統的な文脈から切り離そうとした [22] 」ものだったという。柚木かおりの研究は、この分野で利用された、「改良された」バラライカ音楽について明らかにしている [23] 。この「改良」バラライカ音楽は先に述べた「形式において民族的な社会主義文化」の一つの例でもあろう。ここでの問題点は、一重に自発的な活動よりも国家管理が優先されたことである。

 Bの2「イデオロギー宣伝を兼ねた巡回芸能興業」について、ソ連では1917年の革命から後数年間に音楽演奏会と党集会を合同した演奏会集会が盛んであったという [24] 。また工場などでオーケストラが演奏する写真も多く残されている。

 Bの3「放送、その他メディアの普及と利用」について、ここではラジオ放送と映画音楽が非常に重視されたことを述べておこう。特に、1941年、ナチス・ドイツによるレニングラード包囲の折に作曲されたショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》は初演の模様がソ連全土にラジオ中継され、愛国心を高揚させたという [25] 。放送などのマスメディアの音楽は常に政治的、あるいは商業的目的を持つ一方的な宣伝媒体としての役割を担わされることが多い。

 Bの4「政治的パフォーマンスの場に音楽を有効活用する」も重要視された。19187月のモスクワの共産党集会ではレーニンに続いて、ソプラノ歌手と軍楽隊のブラスバンドが登場している [26] 。また革命から「10周年記念」などといった政治的記念日にあわせて作曲家に記念碑的な作品を委嘱することが多かった。式典に音楽の寄与する効果というのは絶大であり、たとえ明確な政治的意図を持つ式典においてもそれは同じことである。

 以上のような事例が観察される。これをモンゴルで適用できるかは1.4.で簡単に検討してみたい。

1.3. ソ連とモンゴルの相違点

 ここで、ソ連とモンゴルの最も大きな違いは、西洋音楽の発達、蓄積の度合いの違いである。ソ連には1910から20年代、すでに電子音楽[27] や無調音楽[28] が生まれる土壌が出来上がっていた。一方その時期のモンゴルは西洋近代化のまだ最初期段階であった。1.3.で表にまとめたもののうち、音楽作品に対する検討はソ連とは違ったものになるだろう。少なくとも、モダニズム作品とそれに対する抑圧の証拠を見つけ出すことは難しい。

その上、モンゴルは実質1920年代に入るまで封建制度を引きずっていた。そのような中で、西洋的な意味での「自由な音楽活動」、「聴衆と演者の関係」は浸透するまで時間がかかっただろう。そのため、ソ連であったことをそのままモンゴルに置き換えて考えることはできない。

またモンゴルは封建制を引きずっていたところから、資本主義的な過程をほとんど経ずに、社会主義を導入し急激に近代化を推し進めた。北をロシア、南を中国という大国にはさまれ、満州事変の前後には日本の脅威もあった。常に大国に翻弄され、ラマ僧以外はほとんどの民衆が文盲であり近代化に乗り遅れていたモンゴルでは、革命の指導者たちは早急な近代化を欲していた。このあたりの事情は日本の「富国強兵」に似ているかもしれない。早急な近代化への欲求があらゆる場面での国家の介入を引き起こし、音楽の分野にも影響を及ぼしていたであろう。

ソ連からの影響力が強かったことも考えなければならない。ソ連で文化に対し出された、スターリン・テーゼすなわち「内容においてはプロレタリアート的な、形式においては民族的な文化―これが、社会主義の目指す全人類的な文化である [29] 」はモンゴルでも実行された。モンゴル人民共和国の1935年になされたモンゴル人民革命党中央委員会幹部会決議には以下のような一文がある「第2項:民族的形式をもち、また革命的意義を持つ質の良い芸能活動を中央と地方で質を高めて組織し、更に封建主義や満州(清朝)の遺物をすべて取り除くことで、人民革命的文化を早急に発展させることは、今日、党政府直面するすべての重要な課題の中でもとりわけ重要な任務である [30] 」と。これは上のスターリンの発言を受けてのことであろう。ソ連の文化面の影響力の証である。このことは、モンゴルの特殊性であることと同時にソ連の例を参考にすることが有益であることも裏付けている。

またモンゴルの指導的な作曲家ロブサンシャラフ氏は筆者のインタビューに答えて、社会主義時代、モンゴルの音楽には「ソ連という窓」を通じて世界の音楽が入ってきていたことを語った。ソ連が近代化の模範でもあったことはソ連の影響力をより強めることになったであろう。

以上のことを考慮しつつ、第2章では表1に述べたことがモンゴルでも現れたのか、探っていきたい。



[1] Ts.バトバヤル(2002)前掲書参照

[2] :木村理子(2003)前掲書参照

[3] :荒井幸康(2006)前掲書参照

[4] Ts.バトバヤル(2002)前掲書p.76参照

[5] L.フェイ著/安原雅之訳(1997)「ソヴィエト連邦:1918-45年」(R.P.モーガン編/長木誠司訳『世界音楽の時代』、音楽之友社、pp.9-30)参照

[6] D.ゴヨヴィ著/安原雅之訳(1997)「ロシアと東ヨーロッパ:1945-70年」(R.P.モーガン編/長木誠司訳『世界音楽の時代』、音楽之友社、pp.105-125)参照

[7] F.マース著/森田稔、梅津紀雄、中田朱美訳(2006)『ロシア音楽史』(春秋社)参照

[8] :伊藤恵子(2002)『革命と音楽』、音楽之友社、参照

[9] D.ショスタコーヴィチ著/L.グリゴーリエフ他編/ラドガ出版所訳(1983)『ショスタコーヴィチ自伝』、ナウカ、p.30引用

[10] :梅津紀雄他著(1994)『ショスタコーヴィチ大研究』、春秋社、p.112参照

[11] :クラブとは「労働者クラブ」のことで、ソ連における文化施設の一般的な名称である。ロシア革命後のプロレタリアートのための教育文化機関であり、集団主義的な新生活様式を普及促進するための施設でもあった。

[12] F.マース著/森田稔、梅津紀雄、中田朱美訳(2006)『ロシア音楽史』、春秋社、p.409引用

[13] F.マース(2006)前掲書、p.410引用

[14] F.マース(2006)前掲書参照

[15] F.マース(2006)前掲書、p.414引用

[16] F.マース(2006)前掲書、p.416引用

[17] L.フェイ(1997)前掲書、p.18引用

[18] E.リーヴィー著/望田幸男監訳(2000)『第三帝国の音楽』、名古屋大学出版会、参照

[19] :堀内敬三(1942)「大東亜戦争に處する音楽文化の針路」(『音楽之友 第2巻第1号』 pp.10-14)小関康幸のホームページhttp://www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/index.htm 利用日2006114

[20] 柚木(大家)かおり(2005)ソ連文化政策が民俗音楽にもたらしたもの:バラライカ「モスクワ80」と奏者たち」(『総研大 文化科学研究 創刊号』、総合研究大学院大学)、p.23引用

[21] 柚木(大家)かおり(2005)前掲書、p.23引用

[22] 柚木(大家)かおり(2005)前掲書、p.23引用

[23] 柚木(大家)かおり(2005)前掲書参照

[24] :伊藤恵子(2002)、前掲書参照

[25] L.フェイ(1997)前掲書参照

[26] :伊藤恵子(2002)、前掲書参照

[27] :手をかざして電気音の音量と音程を自由に操ることができる楽器「テルミン」が開発されていた。これは「電化文明と音楽の融合」だとしてレーニンに賞賛を受けた。竹内正実(2000)『テルミン―エーテル音楽と20世紀ロシアを生きた男』、岳陽社、及び写真資料2参照。

[28] 12音技法、微分音音楽(ピアノの鍵盤上の半音をさらに細かく音高を分ける)が試された。他にも機械的音響を音楽に応用した作品が生まれた。伊藤恵子、前掲書参照。

[29] :田中克彦(2000)『《スターリン言語学》精読』、岩波書店、p.67

[30] У.Загдсүрэн(1967) “МАХН-аас урлаг утга зохиолын талаар гаргасан тогтоол шийдвэрүүд(1921-1966)”, Улаанбаатар, p.57引用