2.1. 1921年革命以前ボグド・ハーン政権のモンゴル国


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2章 政治との関連から見た20世紀のモンゴル国音楽史

 

2.1.0 1921年革命以前 ボグド・ハーン政権のモンゴル国

ボグド・ハーン政権のモンゴル国は、実態はほぼ封建制度を踏襲してはいたが、数々の西洋近代化が始まった時代でもあった。その中で音楽は、ボグド・ハーンの、そして政府の威光を高めるため、新しいものが導入された。

 

2.1.1.ボグド・ハーン政権のモンゴル国の歴史

 まず1911年から1920年までのモンゴルの全般的な歴史の概略を、田中克彦[1]、萩原守[2]Ts.バトバヤル[3]、小貫雅男[4]らの著作を中心に示す。

1691年以降清朝の支配下に入っていた外モンゴル地域は1911年、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立した。国家元首にはボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト8世というチベット人活仏[5]が聖俗界の両方のトップとして諸侯により推戴された。首都はフレー[6]におかれた。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感、漢人への同化への恐れなどから、特に漢人の激しい進出に脅かされていた内モンゴルにおいて反漢ナショナリズムが高揚し、内モンゴルのハイシャン、外モンゴルで危機感を持っていたツェレンチミドらのハルハ諸王侯への説得工作が実を結び、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである[7]。しかし独立に際し帝政ロシアに援助を求めた。ロシアは結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられた。しかし外交権以外の実質的な主権は保った。その後モンゴルはロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国の軍事的圧力による1919年の「外蒙自治取り消し」やロシア白軍残党ウンゲルン[8]らの侵入などで辛酸をなめた。外からの圧力と社会的矛盾は1921年の人民革命へとつながっていく。

「外蒙自治取り消し」の1919年まで、モンゴルでは内閣の組織、第2次遣露使節[9]を送り、招聘したロシア軍将校に学んだ近代的正規軍の整備、首都の学校の設置、印刷所の設立、新聞、雑誌の発行、議会と基本法の整備などが行われた[10]。また1860年代以降、漢人商人とともにロシア人もモンゴルに商館を構えるようになっていた[11]。一方、封建的身分秩序は清朝時代と変わらず維持されており、封建諸侯はバランスを欠いた財政により増える借金を国家の公民の負担に転嫁していった[12]

 概してこの時代のモンゴルは、対外的にはロシアを頼って中国からの内モンゴルなども含めた独立、ナショナリズムが叫ばれるようになった激動の時代でもあり、モンゴル内部の問題としては、一部には近代的な政策もとられ、外国人と西洋近代文化の流入も見られ、モンゴルの近代化の胎動は始まっていた。しかし「全体として見れば、ボグド・ハーンのモンゴル国は、清帝国の統治構造の『西北の弦月』を部分的に受け継いだ封建国家だった。そして、そこでの権威の根拠は、ボグド・ハーンの発する宗教的な威光だった[13]」というような状態だった。

 

2.1.2.ボグド・ハーン政権のモンゴル国の音楽における近代化

ボグド・ハーン制国家の行われた西洋式近代化への第一歩、その中で音楽に関係する事象には、まず西洋式軍楽隊[14]の設置が挙げられる。これは同政権下で1913年に第2次遣露使節[15]が、現在はロシア連邦ブリヤート共和国の首都となっているウラン・ウデを訪れた際、ロシア側から軍楽隊による歓迎を受け、それに感銘を受けたことによる[16]。サンクト・ペテルブルグに着いた一行は早速軍楽隊の楽器を買い求めるが、それに対してロシア側が援助を申し出、ロシア人の指導も入った。1914年には、ボグド・ゲゲーンの宮殿脇に西洋式軍楽隊が設置された[17]。ツェデブの論文には、この軍楽隊はコリツォフというロシア人が指導し、式典や集会の折に《十両のだく足ラバ》などの伝統的な歌やモンゴル独立に際し新しくできた国歌を演奏したと、H.ペルレーの1964年に書いた記事[18]を元に書かれている。なおこの軍楽隊の活動の更なる詳細や、1921年以降どうなったかについては、まだ調査が必要である。

軍楽隊の項で少し触れたが、モンゴルにおいて国歌がはじめて作られたのもこの時代であった[19]。これについてはハンガリーのモンゴル学者G.カラ[20]が調査している。それによると、活仏政府から「モンゴル国歌を軍楽隊で演奏する」との布告が出され、ロシアの作曲家でありマリイーンスキー劇場でヴァイオリン奏者も務めていたカドレツ・サンがペテルブルグ大学東洋学部に所蔵されていたモンゴル民謡の旋律を元に作曲した、という。歌詞もあったようだが、今回は調査不足で詳しく調べられなかった。またどういう経緯でこの曲が委嘱されたかも今回の調査では不明であった。とにもかくにも、国歌が作られ、実際に演奏されたことは事実である。

少し横道にそれるが、この時期のモンゴルの音楽における注目すべきその他の事象を述べてみよう。この時期ロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込み、広めたという[21]D.ツェデブがその論文「共戴ハーン制モンゴル国、その国歌について」において、1910年にボグド・ゲゲーンのところを訪れたロシアの商業調査団の一人が、ボグド・ゲゲーン所有のハーモニカを演奏して歓待に応えたエピソードを紹介している[22]。また、そこで彼ら調査団はロシア民謡のレコードを聴かせてもらうことによって歓待を受けたという。この時期のモンゴルの音楽の分野にも西洋的近代化の曙光がさしていたことを示すエピソードであろう。

 一方、こういった近代化の華々しさとは一線を画す事態も、この時代同時に起こっていた。この時代は独立の新時代を目指しながら、モンゴル人一般牧民にとっては納税などでの負担が増えた、社会矛盾の残ったままの時代であった。また既に清朝時代より、封建領主の不正と税の負担の大きさから、牧民の訴訟闘争が起こっていた[23]。更に1915年のキャフタ条約による独立から自治への格下げ、1919年の「自治返上」が中国の軍事的圧力のもとになされた。これら諸々の不満を民衆は歌にも託していた。これらの風刺歌についてはエネビシ[24]、オヨンバット[25]が著書で言及している。しかし、今回は時間の制限もあり、歌がモンゴル民衆の不満を伝える手段となっていたことだけここに言及するにとどまろう。

 

2.1.3.ボグド・ハーン政権のモンゴル国の音楽の政治利用

 ここでこの時代の音楽の政治利用について整理してみよう。なお音楽への政治的干渉と呼べるようなものは、この時代の音楽とその周辺の事象からは発見できなかった。ただ、ボグド・ハーン政権は音楽を、政治的権威を高めるものとして有効と考えていたことがわかる。

 注目すべきは国歌と軍楽隊の導入であろう。軍楽隊も、設置されたのが首都ウルガだけのようで、国歌も広く歌われた記録が今回の調べでは見つからなかった。その上、上村明はこの時代について、「領域的国家を自己を超えて存在する『共同体』として『想像させ』、大衆に忠誠を誓わせて動員する装置もメディアもまだ存在していなかった[26]」と指摘している。よってこれらが国民全体に影響力を及ぼしたとは言い難い。しかし軍楽隊の西洋楽器の大規模な合奏体は音量も大きく、少なくとも首都での、ボグド・ハーンの仏教的、政治的威光を誇示するにあたっては非常に役立ったと思われる。

 また、上村明によれば、英雄叙事詩[27]に仏教的権威づけを行うことでホブド辺境のいまだあまり仏教が浸透していなかった地域にボグド・ハーンの威光を届かせようとしたという[28]

 つまりこの時代は、ボグド・ハーン政権が国内の統合に音楽の有用性を認識していたのであり、その有効利用のためには西洋近代の楽器も取り入れていたのである。

 

2.2.0. 人民革命期から(1921年~1928年)

この時期は歌、音楽を革命宣伝と教育啓蒙の手段として使い始める。それは識字率の低さゆえ文字媒体が使えなかったためである。《キャフタの砦》、《モンゴル・インターナショナル》などが代表例である。それらの歌はモンゴル民謡の装飾のある旋律を集団でも歌いやすくシンプルにしたものであった。また、革命宣伝、啓蒙のための演劇には掛け合い歌が多用された。



[1]:田中克彦(1973)『草原の革命家たちモンゴル独立への道』、中央公論社

[2]:萩原守(1997)「モンゴルの独立から現代まで」(小長谷有紀編『アジア読本モンゴル』、河出書房新社、pp.93-98

[3]Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳(2002)『モンゴル現代史』、明石書店

[4]小貫雅男(1993)『モンゴル現代史』、山川出版社

[5]:ボグド・ジェブツンダンバ・ホトクトは清朝が認定したチベット仏教の転生活仏で、モンゴルで広く信仰を集めていた。ジェブツンダンバ活仏を中心にハルハ・モンゴル王侯が結束することのないよう3世から8世までチベット人から転生者が選ばれた。しかし、8世はモンゴル人以上にモンゴル民族主義者であったという。宮脇淳子(2002)『モンゴルの歴史』(刀水書房)p.233参照

[6]:これは地理的に現在のウランバートルのことである。フレー、またはイフ・フレーは活仏ジェブツダンバ・ホトクトの居住地として17世紀に創設され1911年、ボグド・ハーン制モンゴル国の首都となったさい、ニースレル(首都)・フレーと改称した。ロシア人にはウルガ、中国人にはクーロン(庫倫)と呼ばれた。

[7]:萩原(1997)上掲書参照

[8]:ウンゲルン=シュテルンベルクまたはバロン・ウンゲルン(1887-1921)。バルト海沿岸でドイツ系貴族の家に生まれ、シベリアでアタマン・セミョーノフと共に反革命活動を行う。1920年モンゴルに侵入、1921年にフレーを占領し、ボグド・ハーンを再即位させて自治モンゴルを「再興」した。外モンゴルを反革命の拠点にしようとしたが、モンゴル人民軍とロシア赤軍に敗れ、処刑。モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/田中克彦監修(1988)『モンゴル史1』、恒文社、p.501参照

[9]:内モンゴル・ホロンバイル地域を含めたモンゴル国境の画定、武器・財政支援の獲得、在ペテルブルグ各国大使との接触が目的であったという。橘誠(2006)「ボグド=ハーン政権の第二次遣露使節と帝政ロシア」(『史觀(154)pp.37-59,早稲田大学史学会)参照

[10]Ts.バトバヤル(2002)前掲書、pp.28-29参照

[11]Ts.バトバヤル(2002)前掲書、p.20

[12]:小貫雅男(2002)前掲書、p.156

[13]:上村明(2000)「国民芸能としての英雄叙事詩」(『日本モンゴル学会紀要』No.30日本モンゴル学会、pp.1-26p.7引用

[14]:編成は吹奏楽団、すなわち管楽器と打楽器による合奏体である。ただし、実際どのような楽器があったのかは不明。ロシア式であったとすれば、サクソルン族を含む多種の金管楽器とサクソフォンを含まない木管楽器、打楽器からなっていたことになる。音楽之友社編(1983)『吹奏楽講座7吹奏楽の編成と歴史』、音楽之友社、参照。

[15]:注58のツェデブの論文では首相ナムナンスレンを中心とする使節団と言及があるが、橘誠の上掲書では外務大臣ハンダドルジが正使、となっている。どちらが正しいかを確かめることはできなかったが、橘の論文の方が使節団そのものについて詳細に一次資料を検討してあるため、こちらのほうが正しいと思われる。

[16]Д.Цэдэв(1999)”Олнооөргөгдсөн хаант монгол улс, түүний сүлд дууны тухай.”Монголын соёл урлаг судлал, Mongolian University of Culture and Arts,Улаанбаатар, p.23参照

[17]Н.Жанцанноров(1999)前掲書、pp.217-230参照

[18]Х.Пэрлээ(1964)”Манай хөгжмийн соёлыг судлах юм бишүү?”を筆者は直接見ることができなかった。

[19]Н.Жанцанноров(1999)前掲書、p.218参照

[20]Kara,G(1991)’A Forgotten Anthem’(“Mongolian Studies Vol.14”,The Mongola Society, pp.145-154)

[21]Р.Оюнбат(2005) “Хүрээдуу хөгжмийнүүсэл,хөгжилУлаанбаатар参照

[22]Д.Цэдэв(1999)前掲書、p.20参照。だがこのエピソードの一次資料であるポーランドの研究者の書いたF.オッセンドフスキー(1922)『生き物、人々、仏神たち』を筆者は直接見ることはできなかった。

[23]:小貫雅男、前掲書参照

[24]Д.Бат-сүрэн/Ж.Энэбиш(1971) “Дуунаас дуурь хүрсэн замУлаанбаатар参照

[25]Р.Оюнбат(2005)前掲書参照

[26]:上村明(2000)前掲書、p.7引用

[27]:英雄叙事詩を音楽に含めてよいかどうかには問題もあるだろうが、「ふし」があり、楽器トプシュールの伴奏を必要とするこの語り物の、「音」による効果も無視できないので、詩と音楽が分かれていないものとして、ここでは音楽に含めた。英雄叙事詩についての解説は岡田和行/上村明/海野未来雄編(1999)『アジア理解講座1997年度第1期「モンゴル文学を味わう」報告書』(国際交流基金アジアセンター)参照。

[28]:上村明(2000)前掲書参照

 

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