2.3. 音楽家と粛清の時代、ドガルジャブの活動と最期(1928年~1940年代)

2.3.0. 音楽家と粛清の時代、ドガルジャブの活動と最期(1928年~40年代)

 1928年はモンゴルの一大転機であった。ロシア以外への海外の門戸は閉ざされ、スターリンが掌握したコミンテルンからの、そしてのちにはソ連からの直接の介入が増大した。農牧業集団化や仏教排斥が急激に行われ、30年代からは日本の大陸侵略の脅威が加わった。その脅威を更に煽り立てたソ連と、その影響下にあったモンゴル内務省により大規模な粛清が行われた。この時代、音楽の政治的利用は20年代以上に活発になり、「革命的」「社会主義的」主題の歌が多く作られ、これらは当時も第二次世界大戦後も非常に称揚された。また、ソ連の音楽家の指導が入り、西洋音楽の教育が始まった。この頃音楽家ドガルジャブが非常に活躍し、モンゴル音楽の発展に貢献した。自身歌手として人気があったにもかかわらず、ドガルジャブは政治的粛清という悲惨な最後を迎えた。

 

2.3.1. 1928年から40年代の歴史

 この時期の歴史を生駒雅則[1]Ts.バトバヤル[2]M.アリウンサイハン[3]の著書からまとめると以下のようである。1928年モンゴルは前年のコミンテルンの対中国政策失敗、ソ連国内でのスターリンによる独裁権確立のための「保守派」「右派」追い落としの影響を強く蒙った。すなわち、スターリン寄りのモンゴル人を使って、スターリンが「穏健派」として攻撃したコミンテルンのブハーリン[4]に影響を受けたダムバドルジら「右派」を排斥したのである。結果、「左派」ゲンデンらが政権を担当し、私有財産制廃止、家畜所有が多い者への攻撃、牧畜業集団化、定住化、寺院経営の家畜の徴発、以上を強制的に実行した。その結果、1932年、各地で不満を抱くラマ僧と民衆の大反乱を招いた。しかし1931年、満州事変が勃発すると、スターリンはモンゴル問題を放置できなくなった。モンゴルではコミンテルンとロシア共産党の合同決議を受けて、ゲンデン以外の左派は追放され、ダムバドルジ時代とさして変わらない「新転換政策」が実施された。残されたゲンデンは自らの誤りに気付き、「新転換政策」推進に努力したが、1934年にスターリンより指示されたラマの一掃に反対し、ソ連の強引なやり方を批判した。またソ連は日本の脅威に対抗しモンゴルへの軍隊駐留を求めたが、ゲンデンらはそれが逆に日本との全面的な戦争を招くと考え、満州国との和解を模索した。結局ゲンデンは1936年からクリミアで家族と過ごした後、「日本のスパイ」として1937年チョイバルサンにより逮捕、処刑された。1936年に内務大臣となったチョイバルサンはソ連の策定した計画に沿いながら、これを自らの独裁確立に利用し、党、政府の指導者たち、軍将校、上級ラマ僧を次々に粛清していき、1940年の「第一〇回党大会までに、彼とともに革命当初から闘ってきた同志はすべて姿を消してしまうのである[5]」。そして日本との衝突は1939年のハルハ河会戦(=ノモンハン事件)として現実のものとなる。

 政治のみならず文化にもソ連の介入が行われた。代表的なのは政治と関連の深い言語政策である。1940年頃よりソ連邦内ではそれまでの少数民族語のラテン文字化の政策を翻し、キリル文字化の政策に転換する。これは田中克彦によればスターリンのロシア中心主義によるものだという[6]。モンゴル国内でもこの時期、モンゴル語の公用文字をめぐって旧来のモンゴル文字、ラテン文字、キリル文字の三者が検討され、どれも学習効果に差異はほとんどない、という結論が出されていたが、1941年キリル文字に急遽決定した。これにはソ連の指示があった可能性が高いという[7]

 

2.3.2. 西洋音楽の指導、歌劇

 この時代のモンゴル音楽の発展について、まずは歌と器楽についてジャンツァンノロブの著書[8]に従って述べてみよう。この時代のモンゴル音楽は歌曲、歌劇が非常に西洋近代化という意味で発展した時代であると共に、西洋音楽と、東洋の音楽たるモンゴル音楽の間の「葛藤」が明確になった時代でもあるという。モンゴルの音楽の伝統は音律も旋律もリズムも一定の決まりがあるとはいえ西洋音楽に比べれば自由なもので、曲を口頭で伝承していくスタイルであった。それに比べ、西洋音楽は平均律の12音階のシステムにより音高が細かく決まっており、リズムも拍子もはっきり決まったシステムを持っている。そして西洋音楽の楽曲構成はソナタ形式のような二項対立からその解決、対位法の駆使といった、モンゴルの音楽にはない要素を持っている。そのような西洋音楽の、「有機的構成」を持つ音楽の習得、また西洋のシステムを守っての合奏、合唱の習得はモンゴル人にとって大変難しいものであったという。これに対し、モンゴル人音楽家たちはモンゴル国内の様々な音楽の要素、例えばテンポの速い歌とゆっくりの歌を組み合わせたり、家畜の掛け声を取り入れたり[9]と、さまざまな試みを行った。

 器楽の分野では、この時期、ロシア人教師の指導により、民族楽器演奏者に西洋の楽器を持たせることで、西洋楽器の習得者を増やしていった。例えば馬頭琴奏者にチェロを、ホーチル奏者にヴァイオリンを、リンベ奏者にフルートを兼任させた。民族楽器についてはもう一つ、国立文化芸術大学の馬頭琴教師ムンフトゥブシンによれば、1940年に国立楽器工場にて馬頭琴の共鳴胴を板張りにする改良が行われたという。

 歌劇の分野でも、20年代の掛け合い歌による劇が否定され、台詞の合間に歌を挿入する歌劇、そして西洋式のオペラへと発展させられていった。これも木村理子の論文に従って述べてみよう。このわかりやすい例は、D.ナツァグドルジの戯曲《悲しみの三つの丘》である。これは1934年にまずロシア人演出指導者A.A.エフレーモフ[10]の指導により、この戯曲自体が内モンゴル経由で伝播した掛け合い歌《ユンデン・グーグー(ユンデン兄さん)》題材にしたものだったが、この歌や、その他の内モンゴルの歌や流行歌を劇中に挿入する形で作られた。これは舞台上手に民族楽器演奏者がいて伴奏するものであった。さらに1942年にはB.F.スミルノフとB.ダムディンスレン[11]の共同作曲、作家Ts.ダムディンスレンの台本の結末の改作により、《悲しみの三つの丘》は完全に西洋の形式を持ったオペラとなった[12]。これはモンゴルの民族オペラを代表する作品として今日まで再演を重ねている。

 そして、以上の活動を行う音楽家の養成として、上に挙げた民族楽器奏者に西洋楽器を習わせたこと以外にも行われていった。まずは、民謡歌手に西洋の歌唱法を学ばせ始めた[13]。次に才能の発掘のためのコンテストが開催された。このコンテストについては人民共和国文化史に述べられている[14]。それをここに示すと、まず1934年の党中央委員会決定により翌年、人民教育省、芸術国家評議会主催の歌唱コンテストを開催し、現代の革命的変革、新しい生活や労働をテーマとし、新作の旋律を持つ歌を競った。この決議では同時にソ連から音楽指導者を招聘し、西洋楽器を購入することも決定された。1937年にはモンゴル人民軍創設16周年記念「第1回芸術コンテスト」が開催され、結果的に数十名の才能ある音楽家が見いだされたという。

以上、この時代は音楽へのモンゴルにやってきたロシア人による指導もあって、西洋音楽の教育が目立つようになった一方、西洋音楽を学ぶにあたり、そのモンゴル伝統音楽との原理上の違いを強く意識しはじめた時代であった。

 

2.3.3. 1930年代から1940年代の音楽の政治利用とドガルジャブの粛清

 1925年、スターリンはこう述べた[15]。「内容においてはプロレタリアート的な、形式においては民族的な文化―これが、社会主義の目指す全人類的な文化である[16]」と。しかしこれは明確の定義ではなく、その内実はスターリン自身によって振り回される。音楽とてその例外ではなかった。

ソヴィエトではスターリンによる粛清の本格化した1936年、自然主義的な内容で不協和音を含むD.ショスタコーヴィチのオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》[17]が、低俗で、形式主義的で、ソ連人民には無益であり「音楽の代わりに荒唐無稽」として共産党機関紙『プラウダ』紙上で批判された一方、I.ジェルジーンスキイ作曲の大衆歌謡を思わせる音楽と民謡の語法に基づいた「歌謡オペラ」《静かなドン》[18]があらゆる善良なソ連オペラの模範であるとされ、音楽は「健全で」わかりやすく、大衆に感動を与えることができ、「卑俗なもの、恥ずべきもの」をソ連生活のあらゆる側面から根絶するのを助長するよう期待され、キャンペーンが張られた年であった[19]1930年代から、この「歌謡オペラ」の路線がソ連では称揚された。

一方モンゴルでは30年代に、20年代の掛け合い歌の劇が否定された。192810月から12月に行われたモンゴル人民革命党第7回大会決議要旨のイデオロギー宣伝の項目では「中国、満州の嫌悪され遅れた様式に不誠実な嘘の物語で、歴史を秩序立てずに演じて、人心を惑わせる害悪を阻止して、常に貧困層、中間層の大衆の階層を保守的な方向に向かわせ、以前に出した政策にそぐわない幾つかの劇の台本の力を失わせたい[20]」とある。これを受けて、20年代に作られた清朝時代の名残を残す掛け合い歌の演劇は、30年代にはアジテーション的な台詞を持ち、劇中に歌が挿入される形の劇に変わったという[21]。この結びつきを示す歌として、1936年頃、中央劇場設立5周年に際して作られた《わがテアトル》歌がある[22]

 「わがテアトルの目的は

  われら牧民を守ること

  マルクス・レーニン主義を

  まっすぐ正しく実現するぞ

  コミンテルンの支持を

  混迷なく実現し

  今後施行する事業の全て

  国家はソ連をモデルにしよう[23]

 というものである。劇場と政策の結びつきがよく分かる歌であろう。

また1935年になされたモンゴル人民革命党中央委員会幹部会決議には以下のような一文がある。「第2項:民族的形式をもち、また革命的意義を持つ質の良い芸能活動を中央と地方で質を高めて組織し、更に封建主義や満州(清朝)の遺物をすべて取り除くことで、人民革命的文化を早急に発展させることは、今日、党政府直面するすべての重要な課題の中でもとりわけ重要な任務である[24]」。これは先のスターリン・テーゼの影響がはっきりと見て取れる。

ソ連邦内ではこれが、音楽院、オペラハウス、管弦楽団といった「西洋的な音楽機関を遠く離れた共和国にも持ち込み、紛れもない芸術の植民地化[25]」として行われた。具体的には「これらの共和国は独自の民族的なオペラを準備するよう迫られ、地方の作曲家がまだ活躍していない場合には、モスクワやレニングラードの作曲家たちがその穴埋めに呼ばれた[26]」という。

モンゴルでも1930年代に来たA.コリツォフ、B.リャーリン、S.コンドラーチェフら、1940年代に招聘されたB.F.スミルノフ、F.I.クレシコらソ連の音楽家達がモンゴル政府の要請により、音楽文化の調査、モンゴル人音楽家への西洋音楽の指導を行った[27]。このことは確かにモンゴル音楽の近代化に貢献した。しかしその派遣の目的は、社会主義リアリズムに沿った作品を作らせ、普及させるためであったのであろう。木村理子も特に1942年に完成したオペラ《悲しみの三つの丘》を取り上げ「1940年代からの政策転換期に粛清以前の作品を新しいソビエト文化と差し換え、表向き作品自体は残す形で、旧時代を処分し、新しい民族文化を再生することであった」と指摘している。歌劇が政治利用されただけでなく、創作自体が政治的規定を受けた例であるといえる。

以上から、この時代のモンゴル芸能の政策的な面でも、実践的な面でも、ソ連の直接、間接の影響力が非常に大きかったことが分かる。またモンゴル国自身が、国民統合、ソヴィエト型社会主義文化建設のために、「社会主義的な内容」と民族的な形式を持つ芸術作品の発展を推進し、利用していったのである。

さて19301940年代、特に1937年から38年は粛清の嵐が吹き荒れた年であったことはすでに述べた。ここではモンゴル近現代音楽の租という評価を得ながら粛清されたドガルジャブ[28]について述べておこう。ドガルジャブについてはモンゴル人民共和国文化史[29]J.エネビシの著作[30]を主に参照した。

彼は1893スフバートル県ムンフハーン郡の生まれ。父親は清朝時代からの官吏で、ボグド・ハーン政権時代も裁判所長官などを務めた役人だった。ドガルジャブと同じく自治モンゴルを実務家として支えた。ドガルジャブはまた長身で、180㎝近くもあったという。彼は1935年閣議決定により名誉歌手の称号を受け[31]、この時代の音楽をリードした人であったという。

 「ロブサン・ホールチ[32]」と呼ばれたU.ロブサン(1885-1943)M.ムルリンチン(1881-1926)に伝統的な歌を習い、まずは歌手として活動した。歌手としてのドガルジャブは、上記のコンドラーチェフの伝えるところによると「ドガルジャブは力強く、朗々としたバリトン風のテノールの持ち主で、それを絶妙に駆使した。彼の声域は大オクターブのGからF2にまで及んだ。高音部に差し掛かると、澄んだフルートのようなファルセットを用い、母音を長々と伸ばして歌う箇所は、コロラトゥーラのような軽快さでもってテンポの速い華麗な一節に仕上げた[33]」。1933年に大規模な使節団と共に音楽家を率いてソ連に行った彼は、レコード録音を行い、スターリンの前でも歌って大いに感心させたという[34]。この後1936年にはモンゴル国立ドラマ劇場の専属歌手になっている[35]その他、歌手J.ドルジダグワら優秀な後進の育成にも当たった。

また作曲、音楽研究の面でも活躍した。元々民謡を伝承した人だったので、オルティン・ドー[36]とボギン・ドー[37]といった伝統的歌唱の研究成果を作曲に反映させた。すなわち、それら伝統的な歌の中での言葉の抑揚と旋律の抑揚の関係を分析し、その関係をモデルにして、どんな歌詞にどんな旋律をつければよいかを判断し創作を行ったのである。J.エネビシによるとドガルジャブは「革命の実情を題材に歌を作り、新しい生活を賛美する心をもち、モンゴルの歌唱芸術のハーモニー及び節回し、楽曲形式の革新を行った[38]」という。ただ曲を作るだけでなく、1923年頃から、ロシア人の音楽研究家コンドラーチェフに西洋記譜法を学び、1930年代にA.エフレーモフから西洋音楽学を学び、1934から36年にはそれを用いてロシア人演奏家M.ベルリナ=ペチニコワ、B.A.リャーリンと共にモンゴル伝統のオルティン・ドー、ボギン・ドー及び自作も含む新時代の歌を蒐集して楽譜に起こし、出版している[39]。これはモンゴルでは初の試みだった[40]

 実際の音楽家としての仕事以外にも、音楽教育のための研究をし、雑誌に《音楽をいかにして興隆させるか》という論文を書きその中で「民謡、民族音楽の遺産を研究し、精選された伝統を創造的に発展させること、音楽作品の創造を保証し、それを記録しておくこと、歌手の音楽的教養、専門性を高め、彼らの才能を伸ばすこと、音楽の組織を設立すること、特に才能ある歌手、音楽家を表彰すること、新時代の音楽の専門家を学校で要請すること、現代の音楽作品を作っていくこと、等の基本方針[41]」を主張した。ここで音楽家の組織化について述べていることは、この論文で注目すべき点であろう。J.エネビシによると「新しいモンゴルの音楽文化にM.ドガルジャブの果たした寄与は、作曲家、優れた歌手、教育者、音楽研究家として、基本的な方向性を固めたことであっただろう[42]」という。とにかくモンゴル音楽近代化のありとあらゆる局面で第一歩を踏み出した人であるとされる。

 しかし、ドガルジャブは音楽家であっただけではない。父と同じく自治モンゴルの役人を経験し、また1921年革命に参加した革命家、政治家であった。以下政治実務家としての経歴を述べてみよう。ボグド・ハーン自治時代の191718年には国防省および外務省の官吏、ウンゲルン時代には軍指揮官をしながら、モンゴル人民党結成に参加した。人民革命軍のフレー占領後は、人民政府に加わり、東部国境方面の白軍掃討に貢献。192225年ダリガンガの東南部国境防衛大臣、192325年ウランバートル民警所長官、192628年ウランバートル市党委員会著作局主任、192829年ウランバートル市長、192932年在トゥバ共和国大使[43]193236年外務大臣、1936年~政府機密局主任、1937年~1941年頃まで二度目の在トゥバ共和国大使を務めた[44]

 ドガルジャブは以上のように音楽と政治に全く八面六臂の活躍をした人物だったのである。しかし不思議なことに、彼の最後については全く不明瞭なのである。社会主義時代の出版物には1937年から41年まで二度目の在トゥバ全権大使を務めた後の経歴は「国立中央劇場の歌手などをして党、政府、大衆と社会主義建設に関する責任ある職務をしていった[45]」といったものが多く見受けられる。ところが、ウランバートルの政治粛清記念館の資料では「逮捕され獄中で1944年に死亡」とある。また田中克彦はトゥバ大使から帰任したその場で逮捕、投獄、1946222日に「痴呆性精神病により」獄中で死去したとしている[46]。これはトゥデブの1988に出版されたドキュメンタリー小説『革命よあなたに申し上げよう』[47]の中でも同じことが言われている。ジャンツァンノロブは「1941年にいわれのない罪で中傷を受け1944年春に死亡」という記述と198846日付け《ウネン》紙のTs.バルドルジの記事を引用し、ドガルジャブの息子ユラが語ったところによると1945年に母ノルジマーが死んだ翌年父ドガルジャブが死んだ、という記述を併記している。

 ドガルジャブの最期の謎に関する答えとなるかもしれない証言が出版された。2005年に出版された『大歌手の話』[48]である。これはドガルジャブの弟子で国家顕彰歌手J.ドルジダグワの80歳を記念して、民俗音楽研究者J.バドラーが1984年に行ったインタビューテープをN.ジャンツァンノロブが文字に起こしたものである。この中でドルジダグワは1940年ごろにタンヌ・トゥバ公使の仕事から戻ってきて、しばらく中央劇場で教えていたが、1944年から1945年にルフンベ事件[49]関与の罪を疑われ逮捕投獄され、最後は発疹チフスで死亡した、と証言している。この本では他にも大使から帰ってきた後の疲れきった様子や、当時の監獄での苦しい生活や、師ドガルジャブの思い出なども語られている。

 おそらく逮捕、投獄は真実であろう。では、なぜ逮捕されたのだろうかという疑問が残る。しかも粛清の最盛期1937年頃ではなく、1944年という粛清もほぼ完成していた遅い時期に、である。ルフンベ事件がでっち上げられた1933年、ドガルジャブは外務大臣という重要なポストにあった。詳細は分からないが、ソ連と直接交渉にあたることのできたポストにあったことは後に罪を問われる口実に十分なりえる。さらに悪いことに彼は在トゥバ全権大使を二度も務めていた。トゥバ[50]、またはタンヌ・ウリアンハイはモンゴルの西北にあり、1920年代モンゴルが領有権を主張しトゥバ側もそれを望んでいた。しかしトゥバは「1913年から帝政ロシアの保護下にあり、ロシア人の入植が進[51]」んだ土地であり、1924年に革命、独立がおこったものの、「革命後に革命主体のトゥバ人民革命党が結成されるなど不明瞭な点が多く、当初からソ連の傀儡とする見方が強かった[52]」という。モンゴルが粛清の渦中にあった1938年、トゥバもまた粛清の嵐が吹き荒れていた。ドガルジャブはこの時大使だったのである。1944年にトゥバは「念願かなって」ロシア連邦共和国に併合された[53]。ドガルジャブはこのような状況の下で音楽だけでなく政務を行っていたのである。

 これ以上のことをこの論文で明らかにすることは不可能であった。ただドガルジャブが不当な逮捕の末、獄中で死んだことは間違いないだろう。党政府は人気も技術も先見性もあった音楽家を民衆から奪い、何よりドガルジャブ自身の未来を奪ってしまったのである。なおウランバートルの政治粛清記念館には、ドガルジャブの出版した楽譜と、ドガルジャブの使っていたと思われるホーチル[54]が展示されている。

最後に筆者が疑問に思ったことを述べておこう。30年代のドガルジャブの音楽的業績は確かに素晴らしい。しかし、社会主義時代の出版物には、1930年代の音楽の進歩に貢献した人物として、彼ドガルジャブを除けばU.ロブサンなど、こと作曲に関してはごく限られた音楽家の名前しか挙がらない。1980年代に出版された文化史の本[55]は彼の業績を大きく紙面を割き、賞賛している。しかし1960年のB.ソドノムの『モンゴルの歌の歴史より』にはU.ロブサンの名は出てきてもドガルジャブの名は見えない。ドルジダグワによれば、ドガルジャブもまた名誉回復が後になってなされた人であった。ドガルジャブと共に1933年のソヴィエトで公演に参加したリンベ[56]奏者L.ツェレンドルジもまた中央劇場長をしていた1938年から2年間逮捕投獄されている[57]。彼の場合は生き延び、1958年に名誉回復された。1920年代に英雄叙事詩を歌劇として作り直す仕事を行い、リンベ、ヨーチン[58]などをよくしたN.ナサンバトは、1931年コミンテルンより反ソ主義者とみなされ、党より追放、1937年粛清、1969年に名誉回復された。彼もまたドガルジャブと同じく大臣まで務めた官僚であったが、1928年に失脚したダムバドルジと近いところにいたという[59]。ドルジダグワによると他にも名誉回復すべき音楽家がいるという。以下はあくまで推論でしかなく、ドガルジャブの業績を否定しようとするものではない。しかし、社会主義時代の革命史では、処刑されたダンザン、ボドーの功績は全て政治的汚名を着せられなかったスフバートルのものとされた。モンゴル社会主義時代の音楽史は、獄中で死んだが名誉回復されたドガルジャブ一人に「栄光」を背負わせ、20年代30年代のモンゴル音楽の全体像を見えにくくしているのかもしれない。

 ドガルジャブの項が長くなってしまったのでもう一度繰り返そう。この時代の音楽の政治利用は、民謡を挿入した革命歌劇、革命歌による政治宣伝活動があった。政治による音楽への干渉に関していうと、歌劇、音楽の創作に対し、スターリンの主張する社会主義的文化をモンゴルに敷衍した「民族的形式をもち、また革命的意義を持つ質の良い」ものを国家が求めていった。この背景にはソ連による文化植民地化の影もちらつく。

 



[1]:生駒雅則(1995)「ダムバドルジ政権下のモンゴル第一次国共合作とモンゴル民族解放運動」(狭間直樹編『一九二〇年代の中国 京都大学人文科学研究所共同研究報告』pp.259-301,汲古書店)参照

[2]Ts.バトバヤル(2002)前掲書参照

[3]M.アリウンサイハン(2001)「モンゴルにおける大粛清の真相とその背景 ソ連の対モンゴル政策の変化とチョイバルサン元帥の役割に着目して」(『一橋論叢』第126巻第2号、一橋大学、pp.190-204

[4]:ニコライ・ブハーリン(1888-1938)。ソヴィエト・ロシアの革命家、政治家。理論家としてレーニンに激賞されたが、工業化と農業集団化をめぐりスターリンと対立し、最後は粛清された。農民との協力体制の下での漸進的な社会主義国家建設を主張していた。

[5]:生駒雅則(1995)前掲書、p.292引用

[6]:梅棹忠夫監修(2002)『世界民族問題事典』、平凡社、p.611参照

[7]荒井幸康(2006)前掲書参照

[8]Н.Жанцанноров(1999)前掲書参照

[9]M.ドガルジャブの《豊かなモンゴル》がそれ。曲中「グールギー」という家畜への掛け声が挿入され、独特の効果を持つ。CDトラック

[10]:木村理子(2003)前掲書、p.75参照

[11]:写真資料8参照

[12]:写真資料19参照

[13]Н.Жанцанноров(1999)前掲書、p.221参照

[14]БНМАУ-ын Шинжилэх ухааны академи түүхийн хүрээлэн(1981)前掲書

[15]:梅棹忠夫監修(2002)前掲書、pp.616-618参照

[16]:田中克彦(2000)『《スターリン言語学》精読』、岩波書店

[17]:ニコライ・レスコフの同名の短編による。地方都市の商家が舞台となっており、商人ボリスとその息子ジノーヴィイ、その妻カテリーナ、カテリーナの恋人セルゲイが繰り広げる悲劇。梅津紀雄他著(1994)前掲書、p.141参照

[18]:ミハイル・ショーロホフの同名の小説による。内戦期におけるドン・コサックの苦悩と英雄的行為を物語る。L.フェイ(1997)前掲書、p.21参照

[19]F.マース(2006)前掲書、pp.483-492参照

[20]У.Загдсүрэн (1967)前掲書、p.18引用

[21]:木村理子(2003)前掲書、参照

[22]:木村理子(2003)前掲書、p.74、参照

[23]Ш.Аюуш(1973)”Түүвэл зохиол”,Улаанбаатар, p.13、木村理子訳(木村理子(2003)前掲書、p.74

[24]У.Загдсүрэн(1967)前掲書、p.57引用

[25]F.マース(2006)前掲書、p.416

[26]F.マース(2006)前掲書、p.416

[27]:写真資料3参照

[28]:写真資料4参照

[29]БНМАУ-ын Шинжилэх ухааны академи түүхийн хүрээлэн(1981)前掲書参照

[30]Ж.Энэбиш(1991) “Хөгжмийн урамжилал шинэчилэлийн асуудалдУлаанбаатар参照

[31]У.Загдсүрэн(1967)前掲書、p.208参照

[32]:ホールチとはモンゴル語で弦楽器奏者のこと。写真資料5参照

[33]S.A.コンドラーチェフ(1970)『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』(モスクワ)を見ることができなかったので、田中克彦(1973)前掲書、p.213より引用

[34]:田中克彦(1973)前掲書、p.213参照

[35]:田中克彦(1973)前掲書、p.213参照

[36]:民謡の一形式。音を非常に長く引き伸ばして歌う。

[37]:民謡の一形式。リズムのはっきりした、「普通」の歌い方。

[38]БНМАУ-ын Шинжилэх ухааны академи түүхийн хүрээлэн(1981)前掲書p.278引用

[39]Ж.Энэбиш(1991)前掲書参照

[40]:モンゴルではヤン・イグというチベット仏教の声明の記譜法を声楽や器楽に応用したものも使われていたが、西洋式記譜法をモンゴル人が用いて出版まで行ったのはこれが初めてである。柴田南雄/遠山一行監修(1995)『ニューグローヴ世界音楽大辞典』、講談社、第18p.466及び写真資料6参照

[41]БНМАУ-ын Шинжилэх ухааны академи түүхийн хүрээлэн(1981)前掲書、p.280引用

[42]Д.Бат-сүрэн/Ж.Энэбиш(1971)前掲書,p.34引用

[43]田中克彦(1973)前掲書によるとこの時期、駐ソ大使を務めたとあるが、定かでない

[44]:モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)、前掲書とЖ.Энэбиш(1989)”М.Дугаржавын амьдрал, уран бүтээл,”Монголын хөгжим судлал,Н.Жанцанноров(ed.),Улаанбаатар,参照

[45]J.Enebish(1989)前掲書、p.70引用

[46]:田中克彦(1973)前掲書、p.214参照

[47]Л.Түдэв(1988) “Хувьсгал танааөчьеУлаанбаатар

[48]Ж.Бадраа/Н.Жанцанноров(2005) “Ихдуучны яриа”Улаанбаатар及び写真資料7参照

[49]:ドルノドアイマクの人民革命党書記ルフンベが近辺のアイマクで日本のスパイ網を指導しているとして秘密警察に告発され、1933年から34年に総勢317人が逮捕、拷問された事件。逮捕された彼らの大部分がロシア革命から逃れてきたブリヤート人で、彼らの親戚が満州に住んでいたため、ソ連に粛清の標的にされたという。Ts.バトバヤル(2002)前掲書、p.56参照

[50]1920年代のトゥバがどういう状況であったかはメンヒェン=ヘルフェン著/田中克彦訳(1996)『トゥバ紀行』、岩波書店に詳しい。

[51]:生駒雅則(2004)前掲書、p.47引用

[52]:生駒雅則(2004)前掲書、p.47引用

[53]:田中克彦(1973)前掲書、pp.219-221参照

[54]4弦で二胡のような楽器。

[55]БНМАУ-ын Шинжилэх ухааны академи түүхийн хүрээлэн(1981)前掲書

[56]:木製無鍵の横笛。

[57]Ж.Энэбиш(不詳)”Орчинүеийнхөгжмийнурлаг1921-1941,”論文手稿、pp.150-151参照

[58]:先端の太くなっている細いバチで弦を叩いて音を出す。外箱は台形。

[59]:木村理子(2003)前掲書、pp.83-84参照

 

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最終更新:2009年12月10日 08:53