B.F.スミルノーフ


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B.F.スミルノーフ


モンゴル国に国立劇場の音楽指導者として招聘された。彼の主な仕事は西洋音楽をモンゴルの国立中央劇場劇団員および劇場付属学校の生徒に教えることであった。その傍ら彼は、民俗音楽研究にも従事した。彼はレニングラード音楽院でM.F.グネーシンに学んだのだが、グネーシンはリャードフやグラズノーフに師事し、師のリームスキイ=コールサコフの「ユダヤ音楽が自分自身のグリーンカを早急に必要としている」 という言葉に促され、パレスチナに民俗音楽の調査に出向きユダヤ民族楽派の一員として活躍していた経歴を持った人物だった。ロシアの民衆音楽、異民族のあらゆる音楽を源泉とした芸術音楽の作曲を志向したロシア民族楽派の、彼は孫弟子だった。スミルノーフはまさにそのように振舞ったのだった。
彼は任期中、全国的なフィールドワークを行い、多くのインフォーマントから採譜を行った 。この作業自体には多くのモンゴル人も協力しており、彼らはスミルノーフの著作が1960年代以降に発表される前からその影響をこうむった。そしてこれらの採譜はそれぞれの曲を一つの完成された作品にしてしまうのではなく、ヴァリアントも含めて収録したので現在でもモンゴル国で非常によく引用される。またこの採譜からオルティン・ドー、現代歌謡(革命歌と創作歌曲)、その他民謡、器楽、語り物という3つの大分類を設定した。
また伝統音楽だけはない。彼は『モンゴルの音楽文化』 で、近代化以降の音楽、つまり革命歌から1950年代末までモンゴル国の作曲家によって作曲された代表的な作品の分析を行い、演奏団体、音楽に関わる組織にも触れて現代音楽史も著した。さらに、1975年の『モンゴル民族の音楽』では、これまでの二つの研究成果を統合し、国民国家モンゴルから遡及したモンゴル民族の音楽通史、モンゴルの「国民音楽史」を描いた。彼はモンゴルの音楽において、文学におけるL.K.ゲラシモーヴィチのような役割 をも果たしたのだ。
また作曲家として、民謡を源泉とした作曲をモンゴルでの任期中も積極的に行った。各種の劇音楽を書き、映画《ツォクト・タイジ》(1945)でオルティン・ドーを使用し、民謡《四季》を編曲した独唱とオーケストラのための《めぐる四季》、などを残し、モンゴル人に対し模範を示した。中でもモンゴル国における記念碑的作品が1942年 に初演された。スミルノーフとB.ダムディンスレンの共同作曲、作家Ts.ダムディンスレンの台本の結末の改作により、《悲しみの三つの丘》が完全に西洋の形式を持ったオペラとなったのである。このオペラはその手法において、1930年代後半から、大衆歌謡を思わせる音楽と民謡の語法に基づき、音楽は「健全で」わかりやすく、大衆に感動を与えることができ、「卑俗なもの、恥ずべきもの」をソ連生活のあらゆる側面から根絶するのを助長するよう期待され、「善良なソ連オペラ」として称揚された「歌謡オペラ」 と類似していることを指摘しておく。他にも《チョイバルサンの50歳の誕生記念のためのカンタータ》(1944)などを作曲している。