モンゴルの近現代音楽とは


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モンゴルの「近現代音楽」とは何か


 さて、このサイトに掲げてあるモンゴルの「近現代音楽」とは何か、ここで簡単に考察を試みる。要するに音楽の近代化の話である。
 この音楽の近代化とは、考えられるものを挙げていくと、楽器の近代化、作曲技法の近代化、伝達の近代化、演奏・聴取機会の近代化、聴衆意識の近代化などがある。

 まず楽器の近代化について。
モンゴルには伝統的に実に様々な楽器がある。民俗音楽研究家J.バドラーの著書「モンゴルの民俗音楽」には、こんなものまで本当にモンゴルの楽器だったのか、と疑問に思えるものまで非常に多数の楽器が掲載されている。それらの楽器は第一に楽器の使われる「場」によって2つに分けられる。仏教音楽と世俗の音楽である。モンゴルではチベット仏教が生活の中心であった。ここでは多種の管楽器、打楽器が用いられる。そして世俗の音楽がある。英雄叙事詩などの弾き語りを、トプショール、馬頭琴など弦楽器を伴い、また昔は、その合間にホーミー(喉歌)が加わったという。これは時の権力者を称えたり、モンゴルの人々の楽しみでもあった。ただしこれは「アルタイ賛歌」などの自然を称えるマグトー弾き語りにおいて、宗教的な側面もあるため、一概に世俗とは言えない(上村明)。また、これらに加え、楽器の近代化とは離れたところにシャーマンの太鼓などがある。
 以上のような楽器のうち、近代化、改良された楽器の代表格と言えば馬頭琴である。馬頭琴はもともと胴の部分は革張りであったらしいが、1940年、国立楽器工場でロシア人のアイデアにより板張りとなりf字孔が備えられる(ムンフトゥヴシン)。また2弦の調弦もBとFに定められた。その他細々とした改良は現在でも続けられており、弦がナイロンになったりしているが、目的は演奏のしやすさと音量の増加で、その改良の前衛は内モンゴルである。仏教音楽楽器にはブレーという一種の大きなラッパがある。これも金属のキィが付けられ、速いパッセージも容易に演奏できるようにして、改良民族楽器によるオーケストラでホルンのような役割で使われている。
 それまでの楽器を改良するだけでなく、西洋の楽器の導入も20世紀、盛んに行われてきた。20世紀初頭にはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込んだし(オヨンバット)、1911年の独立後、西洋式軍楽隊もロシアから導入された(エネビシ)。またソ連からのの音楽指導員スミルノフはホーチルや馬頭琴などの民族楽器奏者にヴァイオリンやチェロなどを教えることで、手っ取り早く西洋楽器を広めた(オヨンバット)。
 これらに加えて、民族楽器でのそれまでにないアンサンブル形態の創出やオーケストラの結成も楽器の近代化に入るだろう。

 次に作曲の近代化の問題に移る。音楽の近代化において、特に人民革命時代初期には「作曲の技法」よりも内容の革新性が優先された。モンゴルで近代的な意味で作曲された作品の第一号とされているのは1921年の革命義勇軍の戦いの中で生まれた《キャフタの砦》である。これは民謡《青銅の神殿》の旋律を流用したもので、ガワル・ホールチ(生没年不詳、ホールチとは馬頭琴や二胡などの奏者のこと)の作とされている。この歌詞は、兵士たちの間で自然発生的に生まれたものだが、これは同時にモンゴル近代文学の始まりともされている。詩そのものは伝統的な韻文の形式であるものの、内容において、革命への士気を鼓舞するという点で新しいものだった。ちなみに「キャフタの砦を落とすときには、ガラスのカンテラはいらないぞ やってきた中国軍を、鉄の大砲で打ち倒そう」という歌詞であり、フランス革命における《ラ・マルセイエーズ》といえば雰囲気は伝わるだろうか。この《キャフタの砦》に代表されるように、この1920年代から30年代の時期は、形式においては伝統的、内容において「革命的」というもので、作曲ということにおいては、例えば行進曲調のリズムが導入されるということはあったが(モンゴル文化史・旧版)、ほとんど伝統音楽が踏襲されていたようだ。この傾向は、例えばこの時期の演劇が口承文芸の「掛け合い歌」を踏襲した形で発展していたことや(木村理子)、文学において30年代に入るまで、散文よりも韻文が主流だったことを見ても(岡田和行)、当時の文化全体に当てはまる傾向だったと考えられる。1934年に初演された初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジの戯曲による)も1943年にB.ダムディンスレンとB.F.スミルノフによって新たに作曲されるまでは流行歌の旋律を流用したものだった(木村理子)。
 西洋の作曲技法がモンゴルの音楽家たちの間で一般的になったのはM.ドガルジャブが1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を、1930年代にA.エフレーモフから音楽理論を学び(J.エネビシ)、1940年に音楽指導員としてソ連よりB.F.スミルノフが派遣されて(D.バトスレン)以降のことだろう。またこの時期からモスクワ音楽院への留学生も出始める。モンゴル最初のプロフェッショナル作曲家のS.ゴンチグソムラー(1915-1991)もそうだし(ジャンツァンノロブ)、現在のモンゴル音楽界の重鎮たちの中にもチャイコフスキー記念モスクワ音楽院卒業生は多い。なお直接の因果関係があるかどうかは分からないが、B.F.スミルノフが派遣された1940年はソ連でもモンゴルでも大粛清による独裁強化がほぼ完成した時期であり(M.アリウンサイハン)、またソ連が「大ロシア政策」の下、諸共和国に対し文化的影響力を直接行使していった時代でもある(民族問題事典)。その一例はキリル文字の導入である。諸民族の文字政策(無文字文化の民族にも文字を制定し、教育を行った)はそれまでラテン文字を用いていたが、それは結局、以前は封建時代の名残があるとされていたキリル文字が使用されることになり、また新しい専門用語の現地語翻訳が禁じられ、ロシア語をそのまま使用することになった(民族問題事典)。ロシア語優位が決定付けられたのである。モンゴル人民共和国とて例外ではなく、ラテン文字、ウイグル式モンゴル文字、キリル文字の3つが教育現場で用いるために比較検討され、3つとも学習効果に優劣がない、という結論が出されていたにもかかわらず、1941年、「突然」キリル文字の正式採用が決まった(荒井幸康)。ソ連による音楽指導もこうした大ロシア主義の産物だったかもしれない。少なくともスミルノフが教えたのはロシア革命直後に見られたような、前衛的で自由な音楽ではなく、保守的な音楽理論であったようだ。
 しかし何はともあれ、これ以降、モンゴルに西洋の作曲技法が広まり、音楽家たちは楽譜を用いて作曲し(近代化以前にも仏教音楽・ツァムのための楽譜が5種あった(D.ナランツァツラル)が)、西洋の理論とモンゴルの音感を融合させることに腐心するようになったのである。
現在のモンゴル音楽家たちの多くは一様に、ソ連から西洋音楽理論を学んだことを肯定的に見ており、これによって「モンゴル音楽は一地域の民俗音楽から世界音楽になった」と述べている。

 次に伝達方法の近代化について述べる。先に書いた通り、M.ドガルジャブは1923年にロシア人音楽学者コンドラーチェフから記譜法を学んだ(J.エネビシ)。これを用いて1933年、ロシア人演奏家M.ベルリナ=ペチニコワと共にモンゴル伝統のオルティン・ドー、ボギン・ドー及び新時代の歌(自作も含む)を蒐集して楽譜に起こし、出版している(J.エネビシ)。この仕事においてドガルジャブは編集の一切を取り仕切ったようなのだが、これがモンゴルで出版された楽譜の第一号となっており(J.エネビシ)、ウランバートルの政治粛清記念館にドガルジャブの使っていた楽器と共に展示されている。これ以降、モンゴル国でも西洋式の楽譜が浸透していく。例えば1966年には歌というよりも語り物である、英雄叙事詩「ハーン・ツェツェン・ゾルハイチ」などまでも楽譜に起こされている。また有名なオルティン・ドーの歌い手ノロヴバンザド(1931-2002、国家最高功労賞受賞)らも自らの膨大なレパートリーをハンガリーの民族音楽学者・L.ヴァルギャスとの共同作業により楽譜に起こしている。
楽譜の他に、もう一つ近代的な音楽の伝達方法がモンゴルで採用された。それは学校教育現場で使われた「コダーイ・システム」による手を使って音名を表す方法である。「コダーイ・システム」とはハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターン(1882-1967)の確立した理論に基づく音楽教育のメソッドで、民謡、童歌を用い、体を使って子供に音楽教育を行おうというものである。日本でも一部の私立の音楽教育現場で実践されている。この中に、手の掲げた高さと形で音階を表し、それにあわせて歌う、というものがある。これは両手を使ってポリフォニーも表現できるという非常に高度なものだが、モンゴルの地方部で音楽教育に実際に使われている。私の通う大学の留学生も、特に年長の方はこれをまだ覚えていた。モンゴルでは近代化により、口承であった音楽は、楽譜や「コダーイ・システム」によっても伝えられるようになったのである。そして、このように楽譜になるということは、それだけリズムは西洋風に割り切られたものとなり、テクストも音使いも記譜されることで固定化していった、という側面も指摘できるであろう。
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