橋本國彦

橋本國彦(1904-1949)
Qunihico Hashimoto

参考文献
  • 『オーケストラ・ニッポニカ : 芥川也寸志メモリアル第1集』(Mittenwald,2003年)
  • 『Symphony no. 1 in D ; Symphonic suite "Heavenly maiden and fisherman"』(Naxos/アイヴィー,2002年)
  • 『Just for me : Noriko Ogawa plays Japanese piano music』(BIS/King International、1997年)
  • 藍川由美『舞 : 橋本國彦歌曲集』(Camerata, 1998年)
  • Ontomo mook(「音楽芸術」別冊)『日本の作曲20世紀』(音楽之友社、1999年)
  • 川上晃(2007)「橋本国彦の白秋歌曲」(『群馬大学教育学部紀要, 芸術・技術・体育・生活科学編 42』、pp.9-20)
  • 小出浩平(1956)「しやれのうまかつた橋本国彦」(『教育音楽 11(2)』)
  • 三枝まり(2010)「橋本國彦(1904〜1949)とラジオ歌謡[含 楽譜]」(『ラジオ歌謡研究 (4)』、日本ラジオ歌謡研究会、pp.13-32)
  • 芝池昌美(1996)「橋本国彦の生涯と歌曲作品 その1 『お菓子の家』まで」(『大阪音楽大学研究紀要 (35)』、pp.242-262)
  • 芝池昌美(1996)「橋本国彦の生涯と歌曲作品(その2)日本の近代歌曲の始まり」(『大阪音楽大学研究紀要 (38)』、pp.26-42)
  • 富樫康『日本の作曲家』(音楽之友社、1956年)
  • 花岡千春(2007)「洋楽導入期から第2次大戦までの日本のピアノ曲について(II) : 清瀬保二, 橋本國彦の作品とその周辺について」(『音楽研究 : 大学院研究年報 19』、国立音楽大学、pp.1-22)
  • 深井史郎「恐るるものへの風刺」(音楽之友社、1965年)
  • 四家文子編『橋本国彦歌曲集1』(全音楽譜出版社、1970年)
  • 四家文子(1950)「橋本国彦曲「お菓子と娘」」(『音楽の友 (臨) 1950/04』、pp.223-229)
Website
  • 片山杜秀/オーケストラ・ニッポニカ
http://www.nipponica.jp/

以下の文章は片山杜秀氏のほとんど引き写しです。よってそのうち差し替えますのでそれまでご容赦を・・・
生い立ち
 東京本郷に、会社員の子として生まれ、父の転勤に伴い幼くして大阪に移る。小学校で鼓笛隊をやり音楽に目覚め、府立第一中学校時代に辻吉之助(ヴァイオリニスト・辻久子の父。Vnの名教師だった。)からヴァイオリンを習い始める。その後東京音楽学校(現東京藝大)にヴァイオリン専攻で入学したが、彼のやりたいのは作曲だった。しかし当時この学校には作曲科がなく、信時潔(「海ゆかば」の作曲者)に時々個人的に習う他はほぼ独学で作曲を修め、そのまま研究科に進み、1920年代半ばにはもう幅広く創作活動を始めた。ちなみにその後も同校に籍を置き、信時の差配もあって教授まで昇進している。

人となり
 文献資料から人となりを示すのは難しいが一応分かったことだけ記しておくと、彼は頭脳明晰で繊細な感性を持ち、「気取りやで、人に弱みをみせない」(四家文子)音楽界きってののダンディーな人間であったようである。ダンディーぶりに関しては弟子の作曲家・黛敏郎が「戦争末期、橋本先生が東京に出かける際、玄関でゲートルを巻いている姿でさえ、あまりに恰好よく、思わず側で見とれていた」と証言している。反面、深井史郎の記述によるとなんと「駄洒落好き」でもあったらしい。

その天才ぶり
 橋本は全くマルチな音楽家でありその才能には舌を巻かざるを得ない。なにせ彼はポピュラー作家、付随音楽作家、アカデミスト、前衛音楽、ドイツ的、フランス的、日本的な作曲、演奏家、優れた教師、これらを全て一人こなしていたのだ。
 作曲活動を始めた橋本は、まず日本舞踊(藤蔭静枝、花柳寿美ら)のために西洋オーケストラによるオリジナルのバレエ曲「天女と漁夫」などをたてつづけに書き下ろして世間を驚かせた。
 次に都会的なシャンソン、フランス印象派の様式、日本民謡の語法を全て消化し、それまでの山田耕筰の叙情歌とは全く違う、「お菓子と娘」のような非常に洒落た歌、「富士山見たら」のような新民謡を書き、ビクター専属作家として流行歌・軽音楽の作編曲を手掛け、ジャズ歌謡から演歌までを幅広く生み出し(その時のペンネームは足利龍之介)「レコード会社に一対一で買われた唯一の作曲家(深井史郎)」となった。その上「舞」では日本伝統の語り物の要素を参考にしつつ、“語るように歌う”シュプレッヒシュティンメの技法を日本歌曲に用い、新しい世界を開いた。「舞」「黴」など一連の大胆な作品群に、当時は聴衆も演奏者も戸惑い、ほとんど理解されなかった。
 更にアロイス・ハーバの提唱した四分音音階(ピアノの白鍵と黒鍵の半音の間にもう1つ間の音を作る)に興味を持ち、1930年にはさらに細かく音を割った微分音階による「習作」というものまでも書いていた。
 そして東京音楽学校の教授としてドイツロマン派的なカンタータ《皇太子殿下御生誕奉祝歌》を発表した。
 作曲家としてだけではなくヴァイオリニストとして、また指揮者としても活躍し、彼のヴァイオリン、指揮ぶりはSPレコード(一部はCD化済み)にて偲ぶことができる。大正から昭和初期の新しい都会文化の興隆期にあって、彼はまさしく八面六臂の活躍ぶりだったのである。

時代の流れの中で
 1934~37年、彼は文部省派遣留学生としてヨーロッパ、アメリカを遊学する。ウィーンでシェーンベルクの弟子、エゴン・ヴェレスにつき音楽の未来について語り合い、またクルシェネクやハーバに教えを受け、フルトヴェングラーら、大指揮者の演奏をあびるように聴き、ドイツ、イタリアに於いて全体主義体制下の文化状況を見聞し、最後にはアメリカ西海岸によってシェーンベルクに教えを請うた。
 様々な新しい音楽の動向を学び帰国した橋本だったが、彼が母国で真っ先に期待されたのは、国立の東京音楽学校を代表する花形作曲家として、国家の要請に率先して応え戦時体制下の文化の公式的な担い手となることだった。
 そして愛国精神の強かった彼は持ち前の才能でその要請に大いに応えてしまった。まず指揮者として“紀元2600年奉祝楽曲発表演奏会”を振り、東京音楽学校オーケストラを率い、文化工作として“満州国建国十周年慶祝演奏旅行”を敢行するなどして活躍する。本領の作曲でも彼は「大日本の歌」「国民学校の歌」「大東亜戦争海軍の歌」「学徒進軍歌」「勝ち抜くぼくら少国民」などの戦時歌謡を大量生産し、南京陥落をオペラ調のカンタータにし、“皇紀2600年奉祝”に邦楽の追い吹きや絵巻物の絵の端が霞がかったようなスタイルを音楽的に取り入れたり、沖縄音階を使用したり、「紀元節」の主題による変奏をブルックナー的に響かせたりした『日本的ロマンティシズムの極みとも言うべき(片山杜秀)』交響曲を生み出し、山本五十六の戦死にほとんどワーグナーの《神々の黄昏》のようなロマン派調の追悼曲を捧げた。一方で戦時中、橋本邸に書生として住み込んでいた黛敏郎の証言によると、密かに十二音技法の作曲もしていたらしい。愛国者で尚且つモダニストであった橋本らしいエピソードであろう。
 しかし戦争が終わると、戦時中活躍しすぎた作曲家として責任を取って教授を辞した。

:|最期
 東京音楽学校を追われた橋本は、「冬の組曲」「3つの和讃」など、敗戦の衝撃や戦後の虚脱感、あるいは戦争協力者の懺悔の情を反映した幾つかの名曲を作ったが、戦時から戦後にかけての価値の大転換期にかかり続けたストレスは次第に彼の体を蝕んでいた。1948年癌に倒れ、そんな中キリスト教に帰依し、長い、恵まれない闘病生活の末に翌年44歳の若さで逝った。

功績
 橋本國彦は東京音楽学校の主任教授として沢山の逸材を送り出しており、その中には江文也(台湾出身、のち中国大陸で活躍、文革時には辛酸を舐める)、清水脩(男声合唱に優れ、日本の創作オペラの父)、高田信一(作曲家・N響指揮者)、團伊玖磨(童謡「ぞうさん」はあまりにも有名)、芥川也寸志(芥川龍之介の三男、優れた作曲家でN響アワーや音楽の広場などTV出演も多数)、黛敏郎(戦後の前衛音楽を切り開いた。題名のない音楽会での司会も)、矢代秋雄(寡作ながら非常に質の高い作品を書く。東京藝大教授)の名が見える。教育者としての功績は評価されている反面、その作品は、「お菓子と娘」などの一部有名歌曲以外、今まで顧みられることがほとんど無かった。彼の歌曲で試みられたシュプレッヒシュティンメにしても、戦後ほとんど継承されなかった。中には時代の一歩も二歩も先を行く作品があり、忘れ去られるにはあまりに勿体無い。現在NAXOSレーベルの「日本作曲家選輯」シリーズを中心に、戦前の作曲家の作品のCD化や演奏が少しづつ増えてきた。これから再評価が期待される。

作品表


バレエ作品

  • 香の踊 2管 (1924年)
  • ヒドランゲア・オタクサ 2管 (1927年)
  • 幻術師ヤーヤ 1管 (1927年)
  • 吉田御殿 1管 (1931年)
  • 天女と漁夫 2管 (1932年)

管弦楽曲

  • 前奏曲とフーガ 2管、混声合唱 (1927年)
  • 3つの性格的舞曲 弦楽合奏 (1927年)
  • 感傷的諧謔 2管 (1928年)―『3つの性格的舞曲』第2楽章の編曲
  • 交響組曲『天女と漁夫』3管 (1933年)―バレエ『天女と漁夫』の演奏会用組曲版
  • カンタータ『皇太子殿下御誕生奉祝歌』3管-4管、独唱者5、混声合唱 (1934年)
  • 楽しきスケーター (1937年)―行進曲
  • カンタータ『光華門』(1937年)―南京陥落記念
  • 交響曲 第1番 ニ調 3管 (1940年)―皇紀2600年奉祝
  • カンタータ『英霊讃歌』独唱、合唱、管弦楽 (1943年)―山本五十六追悼(詞:乗杉嘉壽)
  • 円舞曲 ホ短調 1管 (1944年)
  • 交響曲 第2番 ヘ長調 (1947年)―日本国憲法に捧ぐ
  • 3つの和賛 独唱 管弦楽

室内楽曲

  • 即興曲 Vn.Pf. Op.2-1(1925年)
  • 鉾を収めて Vn.Pf. (1926年)―中山晋平の歌曲の編曲
  • モーツァルト風なロンディーノ(モザート風ロンディノ)Vn.Pf. Op.2-2 (1927年)
  • モーツァルトの揺籃歌によるパラフレーズ Vn.Pf. Op.2-3 (1927年)
  • 習作 Vn. Vc. (1930年)―4分音、3分音階による
  • 侍女の舞 Vn.Pf. (1931年)―バレエ『吉田御殿』より
  • コンチェルティーノ 男性四部、Pf. (1933年)―歌詞なし、発声のみ
  • 同上 混声合唱、Pf (1933年)―同上
  • 古典舞曲サラバンドの面影 Vn.Pf.

ピアノ曲

  • おばあさん (1925年)
  • 行進曲 ヘ調 (1927年)
  • アラ・マズルカ (1933年)
  • タンスマニズム (1933年)
  • おどり (1934年)―花柳寿美の舞踊を伴って初演
  • 鏑木清方の三枚の絵の印象による三部作(雨の道、踊り子の稽古帰り、夜曲)(1934年)―同上
  • 小円舞曲 (1944年)
  • 日本狂詩曲
  • 子守歌

歌曲

特記以外は独唱とピアノ
  • お菓子と娘 (1928年)―西条八十
  • 舞 独唱とPf./3管管弦楽 (1929年)―深尾須磨子

合唱

  • 山のあなた 混声四部 Pf. (1923年)―上田敏
  • 花と灯と人と 混声四部 (1927年)―西条八十
  • 秋ぐさ 同上 (1927年)―佐藤春夫
  • ずいずいずっころばし 同上 (1927年)―民謡
  • 流れ星 混声四部 Pf. (1927年)―島崎藤村
  • ビール樽 同声三部カノン (1927年)―北原白秋

その他

  • ラジオ体操第3

HP製作者の個人的なこと
 橋本國彦は私の母校の大先輩にあたる。そのため彼には少しばかり縁を感じ、またその作品に惚れ込み、いつかは橋本作品の演奏に携わりたいと願ってきた。2006年その願い叶って、同年8月5日、フェニックスホールで行われた、ウィーンで学んだ香取由夏さんのピアノリサイタルのために橋本の「鏑木清方の三枚絵の印象による三部作」を送らせて頂いた。諸般の事情により、演奏されたのはその中の「雨の道」だけであったが、香取さんの演奏もすばらしく幸福なことであった。

「夜曲」の元になった鏑木清方の「築地明石町」

 「鏑木清方の三枚の絵の印象による三部作」(1934年作曲)とは日本画家・鏑木清方の「三枚絵」という連作絵画からインスピレーションを得て書かれたもので、
  • 「雨の道」
  • 「踊り子の稽古帰り」
  • 「夜曲」
の三曲からなっている。
 「雨の道」は「新富町」という歌舞伎小屋の新富座の前で、芸者が首を傾げつつ日本傘をさし、雨をしのいでいる絵に、「踊り子の稽古帰り」は「浜町河岸」という扇子を握り締め、日本舞踊の振り付けをおさらいしながら道を行く少女の絵に、「夜曲」は「築地明石町」という着物姿だが髪型は西洋風の日本婦人が外国船の停泊する港を散策する絵に、それぞれ基づいている。3曲それぞれ、聴くと絵の情景が眼前に浮かぶようで、また全編、近代フランス風の書法と日本的旋律がよく融和していて、大変美しく、また完成度の高い作品となっている。欧州遊学の際の日本への置き土産として書かれ、初演は花柳寿美の舞踊を伴って行われた。

 いつかは母校で橋本國彦の室内楽(ピアノ曲数曲とヴァイオリン曲)や歌曲、合唱曲による演奏会を企画したいと願っている。

最終更新:2011年06月10日 22:41