ハイタフ氏インタビューその1


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G.ハイタフ氏 インタビューその1


「今振り返ると、私は奴隷のようだった」2005年3月12日


「日曜インタビュー」のお相手として、今回は人民芸術家G.ハイタフさんをお招きしました。彼は、心に何年もしまわれてきた全ての事柄を、読者の皆さんと共有することを許してくれました。私たちのインタビューはとても慎重に始まったのでした。
(以下 ハイタフ=H、インタビュアー・R.エムジン=E)
H-今振り返ると、私のした努力と同等の見返りを受けることが出来ませんでした。国のために60年間休まず仕事をする中で、50年間舞台の上で歌ってきました。80歳を迎えます。これほどの年になったとはいえ、若い人にも負けないぐらい仕事をしているつもりです。一人の人間として、私は野望も目的も達成しました。しかし、心は満たされていないのです。出版所で植字工をしていた時、ノルマを上回ってかなりの給料を貰ったのを除けば、60年間の働きをきちんと評価してもらっていません。過去のことを思い出していると私は奴隷のようだったといつも思います。
E-出版所で植字工をやっていらしたのはいつのことですか?
H-小学校モデル校を出て、10年制教育を修めて、士官の資格を得ようと決めて、出版所で植字工をして働いていました。姉が私を支え励まして、仕事に就かせてくれたということです。
E-最初8歳のときから歌い始めた、とどこかで読んだように思うのですが。今日までどのくらいの弟子を取られましたか?
H-レーニン・クラブで8歳の子供がロシアの歌を歌って初めて舞台に立ったのを思い出します。私はモスクワで声楽を専攻したモンゴルで初めての学生だったんですよ。沢山の素晴らしい弟子に恵まれ、名誉ある尽力者を生み出したことに満足しています。今日私はこうしてみると、私は2つの人民芸術家の称号、何百人もの先頭に立ち、10人ほどの功労者を生み出しました。
E-あなたはひとつには不満を感じているのでしょうかね?
H-人は年を取るにつれて不満を感じるようになるものです。今かなりストレートに言うと、私は死んだ、と言った時、私に一つの勲章もないその世界の門を引くでしょう。ある秩序の下で粛清を受けた人の数に入ってしまっているのです。一度このテーマについてある人がちょっと触れていました。「今までひとつも勲章がなかったのですか?」と訊かれたとき、返す言葉が見つからなかったものでした。功労、人民芸術家の称号をツェデンバル(1916-1991、1950年代以降のモンゴルの指導者)、サムボー(同じく1960年代からの政府幹部)委員長などから貰いました。70歳を越えて後、労働英雄として3回顕彰されました。さらにこの顕彰には及ばない、道のりから除かれているだろうか、と思っています。もしも私に賞を授ける資格があったなら、今芸術に尽力している若い歌手の前に同志ハイタフに与えるでしょう。生活が疑いのあるもので潔白、真実に満ちていてうそに満ちているのです。しかし薄暗い面は高慢に振舞っているようです。私と同時代の人はその人個人に至っては、とても素晴らしい人々をねたみ、憎しみから粛清させ、社会的に抑圧した国、人々でした。今全てのどの地位も新米の長官になって居候のように転がり込んでいますね。回想録を書くときにその全てを盛り込むつもりです。ゾリッグ(モンゴル90年代民主化のリーダー、1998年暗殺)、ゼネー(人民革命党議員)、ダシバルバル(詩人、民主連盟議員、ちなみに3人とも有力政治家でここ数年の間に亡くなっている)たちを私はこのような状況がだめにしたと思っています。生きていて健康であるのは抑圧され捨てられた多くの素晴らしい人々です。芸術にねたみと言うものは危険なものです。芸術的、文化的に嫉妬すればそれは別問題です。あるひとつの道を放棄していて、成功を抑圧している状態は、粛清のひとつの形です。
E―そうするとあなたはこの全てに確かかどうかを疑問を呈しているんでしょうか?
H-子供たちのいる頃から名誉は中途半端で、歴史の教育を修めさせた不幸です。私たちは教育を一まとめにする形で知識のあるひとつを浪費しているのです。
E-この全てを競争で説明することが出来るんでしょうか?
H-もし競争であるなら、ひそかにかけ技を使って倒すのではなく、隠さず正直に競争するべきです。
E-今しがた、あなたは「私の働いてきたことは奴隷のそれのようだった」とおっしゃいました。それは何と関連付けておっしゃったのですか?
H-もらった賃金、生活水準と関連付けて説明しましょう。1968年ツェデンバル委員長が私に住宅を一つくれました。私は家族と3人の子供と20人以上の孫や甥と暮らしていて、彼らに住居をやってくれ、とは頼んでいませんでした。もらった幾らかで生活をなんとかしてきた、それを知って何になるでしょうか、これは生活のかなりよくない水準になったのです。
E-2人でインタビューのテーマを変えましょう。あなた方の時代の人々は大変おしゃれな人たちだったそうですが?
H-時代のものは時代に、といいます。私の頃の若者はかなり着飾っておしゃれなひとたちでした。あの頃の人々は、今の若者のおしゃれを、おしゃれとは言いませんねぇ。おしゃれや美しさというものはその時々にあるものです。真のモンゴル人はおしゃれを利用し、自分のものに出来たものです。私の母が、今は博物館にあるような女性用デール(モンゴルの民族服)、髪飾り、宝石などで着飾っていたのをはっきりと思い出します。
E-あなたの主なおしゃれはなんでしたか?
H-学生だった頃は中学校の制服でした。制服というのは緑の木綿布で作ったデールと、5つ角の鞄です。デールを着て鞄を背負って外に出ると兵隊の士官のように思えて、誇らしかったです。20歳になった後、国軍の長ガルダンさん、役人のベフオチルさんといった大先輩たちの服で着飾っていました。二人は粛清されて左遷されてしまっていました。彼らの使っていたものでおしゃれをしていました。そのときのものというのが、ドイツや日本から輸入した様々な帽子、コート、靴といった、すごい衣装でした。本物のイギリスの毛織物のコートだとか、まっさらの毛織の衣装だとか・・・・美しいものでしたね。
E-あなたはたくさんの美しい歌と共にいらっしゃいます。しかし、どの歌がより好みですか?
H-母が歌ってくれた《まだら馬(Tsookhor Mori)》というモンゴルの民謡ですね。大好きな役柄は《エフゲニー・オネーギン》(原作:A.プーシキン、作曲:P.I.チャイコフスキー)のレンスキー(オネーギンの友、詩人)と《フフー・ナムジル》(内モンゴル民話)です。
E-どうしてあなたは年齢より若く見えるのか教えてくださいませんか?あなたは総じて年をとっていません。例のよく宣伝している薬の魔法か何かですか?
H-母乳、おしゃぶりの2つの力のおかげだと思っています。今まで羊の尻尾をよく食べましたね。私の父母が私をこうして健康で元気に育ててくれたのが幸運だったのでしょうかね。知識教養を授けようと頑張ってくれた先生たちの助言や援助があったこと。私自身歌手になれたことも影響しています。芸術家というのは他人の模範になっていかなければ、と頑張っています。(お酒も)飲んでも飲んでいないようなものです。
E-あなたはお酒を飲んでいるのですか?
H-前は飲んでいました。でも、いつ、どこで、誰と、どのくらい、どのように、と質問されても答えられるくらいしか飲んでいません。今の若者の飲み食いの仕方は体に毒だし、悪い土壌に育った野菜、長く保管した食品です。身に着けているのも毒や、混ざりものです。
E-ツォグゾルマーさんはあなたを、とてもおしゃれで若かったと回想していますが?
H-私は人よりぬきんでておしゃれではありません。かえって、私の時代のシレンデブさん、ザンドラーさん、ダンガースレンさんといった教養ある、とてもおしゃれな先輩たちがたくさんいました。
E-80歳になって、あなたは変わってきていますか?
H-年齢のせいで臆病になってきています。物事をちょっと確実に考えるようになりました。しかし私は芸術家です。この80歳という年齢に降伏することはしません。わずかな隙間からの光明を心に留めています。
E-臆病だとおっしゃいましたね。何を恐れるものなんですか?
H-あらゆる人が危害を加えてくる、ということを恐れています。七十何歳かになった時、セルベ川で、そこから一人の人が私を家まで追いかけてきました。脚力に自信がありました。まさに天変地異があったかのように走って、追いつかれませんでした。私は、思ったことを誰彼となくしゃべる人です。実際に、何人かの人の色々な悪い行いもよく知っています。
E-そうすると、あなたはおしゃべりをやめてしまわなかったのですか?
H-生まれつき天真爛漫な人なんでしょう、私は。これは大してよくない性格だということを最近になって考えています。
2005年3月12日、聞き手:R.エムジン(「ウヌードゥル」紙)