20世紀モンゴル史概略

仮のものです。

  • ボグド・ハーン政権のモンゴル国の歴史
 1911年から1920年までのモンゴルの全般的な歴史の概略を、田中克彦 、萩原守 、Ts.バトバヤル 、小貫雅男 らの著作を中心に示す。
 1691年以降清朝の支配下に入っていた外モンゴル地域は1911年、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立した。国家元首にはボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト8世というチベット人活仏 が聖俗界の両方のトップとして諸侯により推戴された。首都はフレー(現在のウランバートル)に置かれ、近代化をある程度志向しつつも(ロシアに軍隊、軍楽隊、電信敷設の援助を要請した)実態は清朝の行政システムをかなり踏襲した専制君主国家だった。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感、漢人への同化への恐れなどから、特に漢人の激しい進出に脅かされていた内モンゴルにおいて反漢ナショナリズムが高揚し、内モンゴルのハイシャン、外モンゴルで危機感を持っていたツェレンチミドらのハルハ諸王侯への説得工作が実を結び、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである 。しかし独立に際し帝政ロシアに援助を求めた。ロシアは結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられた。しかし外交権以外の実質的な主権は保った。その後モンゴルはロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国の軍事的圧力による1919年の「外蒙自治取り消し」やロシア白軍残党ウンゲルン らの侵入などで辛酸をなめた。外からの圧力と社会的矛盾は1921年の人民革命へとつながっていく。
「外蒙自治取り消し」の1919年まで、モンゴルでは内閣の組織、第2次遣露使節 を送り、招聘したロシア軍将校に学んだ近代的正規軍の整備、首都の学校の設置、印刷所の設立、新聞、雑誌の発行、議会と基本法の整備などが行われた 。また1860年代以降、漢人商人とともにロシア人もモンゴルに商館を構えるようになっていた 。一方、封建的身分秩序は清朝時代と変わらず維持されており、封建諸侯はバランスを欠いた財政により増える借金を国家の公民の負担に転嫁していった 。
 概してこの時代のモンゴルは、対外的にはロシアを頼って中国からの内モンゴルなども含めた独立、ナショナリズムが叫ばれるようになった激動の時代でもあり、モンゴル内部の問題としては、一部には近代的な政策もとられ、外国人と西洋近代文化の流入も見られ、モンゴルの近代化の胎動は始まっていた。しかし「全体として見れば、ボグド・ハーンのモンゴル国は、清帝国の統治構造の『西北の弦月』を部分的に受け継いだ封建国家だった。そして、そこでの権威の根拠は、ボグド・ハーンの発する宗教的な威光だった 」というような状態だった。

  • 人民革命期、ダムバドルジ政権時代の歴史
 この時代の歴史を生駒雅則 とTs.バトバヤル の著書を中心にまとめてみよう。時期として2つに分けられる。すなわちボグド・ハーンを制限君主とする1924年までの立憲君主制とも言える時代と、ボグド・ハーンが他界し、人民革命党委員長ダムバドルジがソ連一辺倒ではない開明的な政策を進めた1928年までである。ただ一貫してあったことは、モンゴル国内の指導者たちは内モンゴルとの一体化を望んでいたのに対し、モンゴルを指導する立場にあったコミンテルンは内モンゴルを領有し続けたい中国との関係悪化を恐れ、モンゴル国の内モンゴルに対する立場を認めず、この対立は1928年の「極左政策」への転換まで続いた。また、ソ連領内にとどまらざるを得なかったブリヤートのモンゴル人たちもモンゴル人の国家作りに大きく貢献したことは記しておこう。
 1920年、モンゴル人による初の革命組織、モンゴル人民党が誕生した。革命組織とはいえ彼らは自分たちが「宗教と民族」のために戦うと規定し、モンゴルの貧困と外国からの支配に終止符を打つことが目的の、「民族統一戦線」的性格の党であった。1921年、人民党は苦労してソ連、コミンテルンの協力を取り付け、募兵を行い、中国軍、ウンゲルン白軍を破りフレーを解放した。モンゴルは独立を取り戻し、人民党とボグド・ハーンとの誓約により制限君主国となった。しかし、ロシア人革命家の指導下に組織され共産主義思想の普及を目指したモンゴル革命青年同盟と、民族主義者、ラマ僧から社会主義者までが在籍する雑多な組織であり1921年革命の主役であったモンゴル人民党とが激しく対立し、国内は混乱した。この混乱により人民党の設立の中心にあったボドー やダンザン が粛清されるという事態になり、この対立は青年革命同盟が人民党の下部組織になることで収束したが、結果的にコミンテルン の介入が激しくなることとなった。
 1924年、ボグド・ハーンが他界し、党政府は以後この活仏の転生者は出さず、国名をモンゴル人民共和国と定めた。第1回国民大会議が招集され、首都クーロンは「ウランバートル(赤い英雄)」と改称された。ダムバドルジ率いる党政府は、この時期、国内の経済基盤を整備し社会主義建設への準備を整え、海外に広く門戸を開くよう努めた。具体的には、独自通貨トゥグルクの流通開始、中国の高利貸資本による経済独占の解消、初歩的な協同組合運動の育成、学校の整備、外国人の経済活動の自由化、独仏露への留学生派遣である。またラマ教寺院の特権廃止と課税も行われたが、一方で寺院との融和協力も試みられていた。
 ダムバドルジ政権時代は後に「右翼偏向」とされ、28年以降はソ連の介入が強まり「左翼偏向」の政策をとっていくことになる。
 なお1921年革命の際、軍事面で活躍し、人民党設立にかかわったスフバートルは病死したといわれ、粛清を免れたことから、モンゴル人民共和国成立の英雄として称揚されていくこととなる。

  • 1928年から40年代の歴史
 この時期の歴史を生駒雅則 、Ts.バトバヤル 、M.アリウンサイハン の著書からまとめると以下のようである。1928年モンゴルは前年のコミンテルンの対中国政策失敗、ソ連国内でのスターリンによる独裁権確立のための「保守派」「右派」追い落としの影響を強く蒙った。すなわち、スターリン寄りのモンゴル人を使って、スターリンが「穏健派」として攻撃したコミンテルンのブハーリン に影響を受けたダムバドルジら「右派」を排斥したのである。結果、「左派」ゲンデンらが政権を担当し、私有財産制廃止、家畜所有が多い者への攻撃、牧畜業集団化、定住化、寺院経営の家畜の徴発、以上を強制的に実行した。その結果、1932年、各地で不満を抱くラマ僧と民衆の大反乱を招いた。しかし1931年、満州事変が勃発すると、スターリンはモンゴル問題を放置できなくなった。モンゴルではコミンテルンとロシア共産党の合同決議を受けて、ゲンデン以外の左派は追放され、ダムバドルジ時代とさして変わらない「新転換政策」が実施された。残されたゲンデンは自らの誤りに気付き、「新転換政策」推進に努力したが、1934年にスターリンより指示されたラマの一掃に反対し、ソ連の強引なやり方を批判した。またソ連は日本の脅威に対抗しモンゴルへの軍隊駐留を求めたが、ゲンデンらはそれが逆に日本との全面的な戦争を招くと考え、満州国との和解を模索した。結局ゲンデンは1936年からクリミアで家族と過ごした後、「日本のスパイ」として1937年チョイバルサンにより逮捕、処刑された。1936年に内務大臣となったチョイバルサンはソ連の策定した計画に沿いながら、これを自らの独裁確立に利用し、党、政府の指導者たち、軍将校、上級ラマ僧を次々に粛清していき、1940年の「第一〇回党大会までに、彼とともに革命当初から闘ってきた同志はすべて姿を消してしまうのである 」。そして日本との衝突は1939年のハルハ河会戦(=ノモンハン事件)として現実のものとなる。
 政治のみならず文化にもソ連の介入が行われた。代表的なのは政治と関連の深い言語政策である。1940年頃よりソ連邦内ではそれまでの少数民族語のラテン文字化の政策を翻し、キリル文字化の政策に転換する。これは田中克彦によればスターリンのロシア中心主義によるものだという 。モンゴル国内でもこの時期、モンゴル語の公用文字をめぐって旧来のモンゴル文字、ラテン文字、キリル文字の三者が検討され、どれも学習効果に差異はほとんどない、という結論が出されていたが、1941年キリル文字に急遽決定した。これにはソ連の指示があった可能性が高いという 。

  • 第2次大戦の終結からモンゴル版「ペレストロイカ」までの歴史
 この時代の歴史を、Ts.バトバヤルの著書 をもとに、まとめていきたい。この時期にもいくつか転機があった。それは1956年のチョイバルサン批判、1962年の「雪解け」とそれに対する弾圧、中ソ関係の悪化、ツェデンバル指導体制の確立である。
1939年首相となったチョイバルサンは戦時中を通じてソ連に忠実に、またソ連を支援した。対ドイツ戦に支援物資を送り、対日参戦にも足並みを揃えた。その結果スターリンの後押しと、モンゴル国内の国民投票でモンゴル独立にほぼ100パーセントの支持を得たことを受け、中国国民党からモンゴル独立の承認を得た。中華人民共和国からも「中ソ協力同盟関係での重要な緩衝国 」として、モンゴル独立の承認を得た。しかし一方でチョイバルサンはスターリンと同様、個人崇拝を強めていった。
 1956年にフルシチョフがスターリン批判の秘密報告を行った直後、Dダンバにより1951年に没していたチョイバルサンへの批判演説が不徹底ながら行われた。これを機会に粛清された人々の名誉回復が進んでいくことになる。またその演説で行われた個人崇拝批判を機に、知識人に国家の発展のための自由な意見の提出を求めたが、彼らのうち何人かは、「人民を『知的な混乱』に巻き込ん 」だとして党によって地方に追放された。この事件の知識人たちの「黒幕」として告発されたD.ダンバはツェデンバルによって失脚している。またこの50年代は中国との関係が良好であり、中国から経済援助、労働力の派遣などが行われていた。
 1960年にモンゴルは新憲法を採択し、その中で「人民革命党を社会の『唯一の指導勢力』とし、社会主義の資産を国家唯一の経済基盤であると規定した 」。また翌年の人民革命党第14回大会では国家が社会主義への移行を達成し、新しい時代に入ったことを宣言した。60年代に入るとスターリン批判以降悪化していた中ソ関係はさらに険悪になっていった。モンゴルは一貫してソ連を支持することによって、多大なる経済援助をソ連から引き出した。この頃のソ連はフルシチョフ体制による、いわゆる「雪解け」の時代だった。1962年にはモンゴルでもこの空気の中、1962年、チンギス・ハーン生誕800周年記念祝賀を、科学アカデミー歴史研究所を中心に、党中央委員会のD.トゥムルオチルらが音頭をとって行うことになっていた。しかしこの祝賀はソ連の圧力によって危険な民族主義だとして中止された。ソ連と対立を深めていた中国では、逆にチンギス・ハーンを中国史上の英雄として称揚し、内モンゴル人統合の手段としていた 。ツェデンバルはこの機会を利用し、自分に批判的だったトゥムルオチルら、そして自分に対する忠誠心の疑わしい幹部を次々と失脚させ、自らへの権力集中を進めていった。ツェデンバルはソ連から得た多大な経済援助、経済協力をもとにモンゴルの工業化、農業化を推し進めていった。1970年代末には工業農業国に移行するつもりだったという。様々な工場が建てられ、機械化農業の導入が進み、テレビ放送が1967年に開始された。ソ連との科学、文化に関する協力協定も調印され実行された。一方、対中国防衛のため、ソ連のモンゴルの戦略的価値は上がり、モンゴルへの駐留軍を増大させた。無理な農業は土地の風食作用を引き起こした。ソ連、コメコン各国への依存が強まり、ツェデンバル独裁体制や、官僚主義の弊害、ソ連への批判は封じ込められた。

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最終更新:2007年05月30日 18:06