Last update 2007年10月09日
捨て猫 著者:黒沢柚月
あの子を…抱き締めてあげてね。あの子には、それが必要なんだから。
―――そんなこと言われても。
僕はぽつりと呟く。彼女に聞こえないように、小さく。
彼女の言う「あの子」を拾って、ちょうど2週間が経っていた。
僕はぽつりと呟く。彼女に聞こえないように、小さく。
彼女の言う「あの子」を拾って、ちょうど2週間が経っていた。
この街の景色や匂いは変わらないけど、流れてる時間は果たして繋がってるんだろうか。
僕は、家で待っている風邪っぴきの「元・捨て猫」のために、色とりどりの傘の間を縫って歩く。
秋の終わりの雨は、冷たくて、さみしい。
僕は、家で待っている風邪っぴきの「元・捨て猫」のために、色とりどりの傘の間を縫って歩く。
秋の終わりの雨は、冷たくて、さみしい。
2週間前に、僕の住むアパートの前に捨てられていた猫。
今日と同じような小雨の中、そいつは階段の下でうずくまって眠っていた。
左側の三つ編みが乱れていた。それに、赤いリボンのセーラー服も。
声をかけて起こし、名前を訪ねると、猫はふわふわと欠伸をしてから
「麻衣。アサのコロモで、まい。」
と、鳴いた。
僕の心には何故か、麻の衣をまとったイエス・キリストが思い浮かび、片言の日本語で
「拾イナサーイ。ソシタラ飼エルヨー」
と彼が言ったので、僕はこの猫を拾うことにした。
今日と同じような小雨の中、そいつは階段の下でうずくまって眠っていた。
左側の三つ編みが乱れていた。それに、赤いリボンのセーラー服も。
声をかけて起こし、名前を訪ねると、猫はふわふわと欠伸をしてから
「麻衣。アサのコロモで、まい。」
と、鳴いた。
僕の心には何故か、麻の衣をまとったイエス・キリストが思い浮かび、片言の日本語で
「拾イナサーイ。ソシタラ飼エルヨー」
と彼が言ったので、僕はこの猫を拾うことにした。
そのくらい、僕の生活は鬱屈としていたのだ。…きっと。
麻衣は僕よりも4つ年下だった。
高校を中退して親に勘当されたとか、彼氏にフられて深く傷ついたとか、授業をサボって(彼女は「自主早退だよォ」と笑った)見上げた空が綺麗だったとか、その日によって違う家出の理由を語った。まぁ、僕にとってはそんな事はどうでも良くって、気まぐれな猫を飼い始めた自分がなんだか誇らしかった。
ただ、僕の家で暮らし始めた彼女に、少しだけ衰弱の色が見え隠れしてきたので、僕が学校に行っている昼のあいだだけ、麻衣を姉のところに預けることにした。
高校を中退して親に勘当されたとか、彼氏にフられて深く傷ついたとか、授業をサボって(彼女は「自主早退だよォ」と笑った)見上げた空が綺麗だったとか、その日によって違う家出の理由を語った。まぁ、僕にとってはそんな事はどうでも良くって、気まぐれな猫を飼い始めた自分がなんだか誇らしかった。
ただ、僕の家で暮らし始めた彼女に、少しだけ衰弱の色が見え隠れしてきたので、僕が学校に行っている昼のあいだだけ、麻衣を姉のところに預けることにした。
「姉さん、それでも一応精神科医の端くれなんだろ。少しでいいからさぁ、麻衣と喋ってやってよ。」
一応って何よ、と言いながら僕が連れこんだ新しい住人に驚いていた姉も、日が経つにつれて麻衣と親しくなったようだった。
はたから見たそれは、姉妹のようにも見えた。
はたから見たそれは、姉妹のようにも見えた。
その姉から告げられた、「抱き締めてあげて」の言葉。
風邪をこじらせないよう、姉の家に泊まらせるように、とも勧められた。
麻衣は精神が不安定なんだろうか?それは、僕のせいで?
好奇心は旺盛だが、同時に警戒心も強い猫のことだ。僕が麻衣を抱き締めたところで、嫌がられるだろうことは簡単に察しがつく。
風邪をこじらせないよう、姉の家に泊まらせるように、とも勧められた。
麻衣は精神が不安定なんだろうか?それは、僕のせいで?
好奇心は旺盛だが、同時に警戒心も強い猫のことだ。僕が麻衣を抱き締めたところで、嫌がられるだろうことは簡単に察しがつく。
麻衣にアパートを出ていかれるのが、僕は何だか怖かった。
「おかえり。ごめんね、まだ熱さがんないや;」
―――猫はよくなついている。
「ただいま。」
飼い主であるはずの僕もまた、自由奔放な猫に支配されつつあった。
―――猫はよくなついている。
「ただいま。」
飼い主であるはずの僕もまた、自由奔放な猫に支配されつつあった。
二人きりの夜がまた、時間を紡ぎだす。
「暇だねぇ、マコトちゃん」
「―――何もする事ないからな」
「本の朗読してあげようか?」
「なんの本?」
「フランス書院文庫」
「…やめとく」
「―――何もする事ないからな」
「本の朗読してあげようか?」
「なんの本?」
「フランス書院文庫」
「…やめとく」
雨はやまず、ワルツなんだかマーチなんだかよくわからないリズムを刻み続けている。
「マコトちゃん」
心地よい沈黙を断ち切ったのは、麻衣のほうだった。
ついこの前まで見知らぬ赤の他人だった彼女が、親しげに僕の名前を呼ぶ。
それはまるで、日常の世界から鏡の間に迷い込んだかのような錯覚を思わせた。
「おしゃべりしよう。雨の音ばっか聞いてると、どっか遠くに行っちゃいそうだから」
僕の返事も待たずに、麻衣は窓の外を見ながらしゃべりだす。
「おしゃべりって言うより、あたしがこれから話すこと、聞いててくれる?」
なんとなく生真面目な気分になって、僕はうなずいた。
ついこの前まで見知らぬ赤の他人だった彼女が、親しげに僕の名前を呼ぶ。
それはまるで、日常の世界から鏡の間に迷い込んだかのような錯覚を思わせた。
「おしゃべりしよう。雨の音ばっか聞いてると、どっか遠くに行っちゃいそうだから」
僕の返事も待たずに、麻衣は窓の外を見ながらしゃべりだす。
「おしゃべりって言うより、あたしがこれから話すこと、聞いててくれる?」
なんとなく生真面目な気分になって、僕はうなずいた。
「私の名前は麻衣。これは本当。
私は、私を拾ってくれた優しいマコトちゃんに、いくつか嘘をつきました。」
私は、私を拾ってくれた優しいマコトちゃんに、いくつか嘘をつきました。」
僕は少しだけ笑った。
知ってるよ。
高校を中退したなら、何で制服で街を歩いてたのかな。
知ってるよ。
高校を中退したなら、何で制服で街を歩いてたのかな。
「学校の授業を抜け出したのは本当です。彼氏がいたのも本当です。
でも、私は学校にくるためにまず、病院を抜け出しました。」
でも、私は学校にくるためにまず、病院を抜け出しました。」
―――病院?
麻衣は僕のほうを見ない。
トーンは明るいままの声に、僕の体温が奪われていくのがわかった。
病院って?
麻衣は僕のほうを見ない。
トーンは明るいままの声に、僕の体温が奪われていくのがわかった。
病院って?
「私は心臓に爆弾を抱えています。それはそれは小さかったころから、ずーっとね。」
「・・・どういうこと?」
「あたしの親、普通の学校には行かせてくれたけど、いざ発作を起こしたときに見舞いにもこない。あたしより12歳も年が離れてて、健康な妹をかわいがる。
死んじゃだめだ、っていう言葉も、励ましのようには聞こえない。入退院とか、薬代とかにかかるお金の話ばっかりする。
あんたが帰ってきても、もう部屋空いてないわよって言われたんだよ。もうすぐ退院できるって言う喜びを、誰にも受け取ってもらえない。あたし、くやしくってさぁ。見返したくて、困らせたくて、病院から直接制服に着替えて、空っぽのカバン持って学校にいって、」
死んじゃだめだ、っていう言葉も、励ましのようには聞こえない。入退院とか、薬代とかにかかるお金の話ばっかりする。
あんたが帰ってきても、もう部屋空いてないわよって言われたんだよ。もうすぐ退院できるって言う喜びを、誰にも受け取ってもらえない。あたし、くやしくってさぁ。見返したくて、困らせたくて、病院から直接制服に着替えて、空っぽのカバン持って学校にいって、」
麻衣は泣いていた。
僕を見ようとはせず、多分僕自身の声も届いてはいない。
僕を見ようとはせず、多分僕自身の声も届いてはいない。
「高校に入った時にできた彼氏の隣には、いつのまにか違う女の子がいて」
麻衣は泣いていた。
でも、声はいつもと変わらない。
悔しさや悲しみを押し殺した、精一杯の明るさだった。
でも、声はいつもと変わらない。
悔しさや悲しみを押し殺した、精一杯の明るさだった。
「全部失った状態で、自分の足でどこまで生きていけるか、あたしはあたしを試したの。でも、結局マコトちゃんに拾われて、何にも考えずに頼ってばっか。」
うれしかったんだよ、と小さな声がもれた。
何をいってあげられるだろう。
「かまってくれるって分かって、すごく幸せだった。どんなことでもしてあげようと思った。・・・でも、あたしは弱い。病気持ちだし、いつ死んじゃうかもわかんないし、無鉄砲だし、わがままだし、マコトちゃんに、何もしてあげられないまま負担になってる。」
うれしかったんだよ、と小さな声がもれた。
何をいってあげられるだろう。
「かまってくれるって分かって、すごく幸せだった。どんなことでもしてあげようと思った。・・・でも、あたしは弱い。病気持ちだし、いつ死んじゃうかもわかんないし、無鉄砲だし、わがままだし、マコトちゃんに、何もしてあげられないまま負担になってる。」
あたし、死んじゃったほうがいいかもしれない。
麻衣に最後の言葉を言い切らせるわけにはいかなかった。
後ろから抱きしめた彼女の背中は、細くて、小さくて、悲しいほど小刻みに震えていた。
自分に対するみじめさか、それとも、みじめさよりももっとつらい、恐ろしい空虚のためか。
何も言えない僕の腕の中で、麻衣は声をあげて泣いた。
自分に対するみじめさか、それとも、みじめさよりももっとつらい、恐ろしい空虚のためか。
何も言えない僕の腕の中で、麻衣は声をあげて泣いた。
「麻衣、姉さんとこ行って、まずは元気になってから帰っといで。麻衣を突き放すわけじゃない。それとも、僕に突き放させるつもり?」
あのときの、僕の判断は、正しかったのか、
間違って、いたのか。
間違って、いたのか。
―――不安定な状態で、僕の家に一人でおいておくわけには行かないと、
預けた姉の家で、麻衣は一人ぼっちで死んだ。
鳴り響く電話。彼女が感じたのと同じ、果てしなき空虚。
姉さんの声が、僕の耳へと入って、抜けていく。
預けた姉の家で、麻衣は一人ぼっちで死んだ。
鳴り響く電話。彼女が感じたのと同じ、果てしなき空虚。
姉さんの声が、僕の耳へと入って、抜けていく。
「朝、声をかけてみたら返事がなくって、お布団の中で眠ってるうちに、だったみたい――――・・・・」