Last update 2007年10月13日
ジュリアへ 著者:甘蔗
現実から浮きあがることが出来なければ、現実から足を滑らせて転落するしかないのです。
どうして私は現実ばかり見てしまうのでしょうか。
私に今あるのは、小さな長屋の住居契約書と、残り僅かなお金と、三年間代わり映えのしない洗濯の追いつかなくて困るほどの衣類、朝食の残り。そして山のような参考書と本と真っ黒なノート、小さな机と筆記用具。
夢は夢で終わってしまうのでしょうか。
殺風景で貧しい部屋の窓辺に、王国の刻印を打った封筒、そして金字と達筆な書で書かれた羊皮紙が、光を受けています。
それは王立図書館の司書登用の通知。
これで三枚目の通知。
ジュリアのようになってしまえば、いっそのこと楽になれるのに。
そんなことを思ってしまいます。ごめんね、ジュリア。
私は、それでも生きていくために明日からは夜の街にへと向かいます。
ジュリア、元気ですか。私は今、貴女に会いたくて仕方ありません。私の友よ、私の良き理解者よ。
―――――ジュリア、私のことが分かりますか。
目を覚ますと夕日が地平線へと沈んでいっているところでした。久しぶりの自分の家から見る太陽は、その夕方の紅さも相俟って大変美しいものに見えました。
沈みきるまで見つめていると、洗濯物を干すのを忘れてしまっていたことを思い出しました。もう3日分溜まっています。
一月程夜の街で働き、生活の安定は安定し、旅費が出来ました。
とりあえずあの小さな長屋から追い出されることもなく、食べ物には毎日ありつけていました。ついでに、服も増えました。きらびやかな、日の昇っているうちには着れない服ですが。
小さな机に投げ出されたもの達は、一体どれくらい相手をしてあげていないのでしょうか。毎日のように向き合っていたのに。
国の奨学金と、肉体労働系の日当支払いの仕事ばかりをしていた暮らしていた私には、この仕事は慣れない仕事でした。
この先ずっと、慣れることなんてないと思います。
日々気持ちはジュリアに会いたいと急くばかりでした。
とうとう故郷へ、ジュリアの元へと向かう汽車のチケットを手に入れることができた私は、荷をまとめて駅へと急ぎました。
荷をまとめるといっても、まとめるほどのものがある訳でなく、少しの衣服と、お金を詰め込んで。
そして家を出る際に、ずっとほったらかしの本の中でも、一際ボロボロなで古めかしい本を鞄に詰めました。ドアを閉める瞬間にどさりと音を立てて机から転げ落ちたそれは、何だか一緒に連れて行って欲しそうだったからです。
雑然とした町を、人混みを掻き分けて進みます。
ふと、甘い匂いが鼻をくすぐりました。バターと卵の香りです。空色の看板に白いロゴの入った、小さな焼き菓子のお店です。可愛いショーウィンドウに並べられた焼き菓子はどれもとても美味しそうです。
ジュリアはハーブクッキーが好きでした。
ちょうどこの地域はハーブ栽培が盛んなため、手土産としても丁度いいと思い、それを買うことにしました。
看板と同じ空色の包みに白いリボンの結ばれた小箱を抱えると、なんだか嬉しくなってきました。
いよいよ、私は四年ぶりにあの地に帰るのだと、そんな気にさせました。
汽車に乗り込むと、そこは街の騒々しさとは違った世界が広がっていました。
小さな声で、人と人がひそひそと話す声が漏れています。
外を流れる風景は一面の緑で、山は高い頂に白い雲を湛えています。少し窓を開けると、街の時に感じられなかった風の冷たさを感じました。
少しづつ少しづつ、ジュリアの元に近づいているのだと思いました。
冷たい風が頬を切ります。ついに私は故郷へと辿り着きました。
小さな街であるのに、駅前のに飾られた巨大な壁画は駅から降りてきた人の見る目を奪います。聖母子像でした。中央に位置する赤子を抱いた女の人に、天使が舞い降りてきて彼女に手を添えています。ジュリアにしつこく講義を受けたはずなのに、作者は思い出せないし、絵の意味も思い出せません。でも、ただ美しかった。
足をジュリアの家に運ばせます。此処で過ごした幼い頃の思い出が頭を過ぎります。幼いと言っても、ほんの四年前のことなのですけれど、遠い記憶に思えました。
ジュリアや友達と遊んだ川辺、寒さに震えながらも笑い合って歩いた街路樹の並ぶ道、見上げた青い空。
そして私が飽きるほど通った、小さな町の、小さな図書館。夢のハジマリの地だ。そして、この図書館のには大きな時計があり、その裏は丁度良いジュリアと私だけの隠れ家になっていました。よくそこで、夢を語った。
『アリエス、私ね、画家になるの。あの、駅前の壁画みたいな絵を描きたい、皆に見てもらいたい。』
『ジュリア、絵上手いもん。きっとなれるよ、なろうよ!!ジュリアナなら出来る!!』
『そっかなぁ。ありがとう。ねぇ、アリエスは?何になりたいの?』
『私はね...本が好き。だから、司書さんになる!!王立図書館の司書さんになりたいの。あそこは、たくさんの本があるから。』
『そうだと思った、でね、そんなアリエスにプレゼントがあります。はい、これ!!』
『シェークスピア...ハムレット!?コレって...本当に良いの?高かったでしょう?それに私はジュリアにあげるものがない...。』
『私は励ましと自身を貰ったわ。いいの、アリエス、シェークスピア好きじゃない、貰って!!』
『...ありがとう。』
思い出に浸っているうちに、あっという間にジュリアの家に着きました。四年前と変わらぬ風貌、青い屋根に白い壁。そこはかとなく、手土産を買った焼き菓子屋を同じ印象を受けました。
玄関の脇には変わらず身長比べの木が立っています。ところどころに一本線が並び、私とジュリアの名前と年。
ドアの前に立つと、呼吸を1つつきました。
「すいませーん。」
コツンコツンと、ドアを叩きます。
ガチャリと音を立てて開いた出て来た顔は、懐かしい顔でした。
「小母様、こんにちは。」
「あらあら、アリエスお久しぶりねぇ、四年ぶりかしら。」
一発で分かった小母様を凄いと思ってしまいましたが、私が思っているほどに四年の歳月は私の外面を余り変えてはいないということでしょうか。
四年ぶりのはずなのに、昨日も会っていたように、違和感のない暖かな微笑みを湛えている小母様に、少しだけ目頭が熱くなりました。私も微笑みを返します。
嗚呼、ジュリアに会わなくては。
鞄の中から、ハーブクッキーの入った小箱を取り出します。
「これ、良かったら食べて下さい。」
垂れた目尻をさらに緩ませて、小母様は嬉しそうに顔がほころびました。
「まぁ、ありがとう。今日はどうしたの?」
心に少しだけヒヤッとしたものが走りました。何故ヒヤっとするのか、分からない。此処に来て、本当に私はジュリアに会いたかったのかとも思ってしまいました。
いや、確かに私はジュリアに会いに来たのです。ずっと会っていなかったジュリアに。とてもとても会いたくて、それで会いに来たのです。
「ジュリアに会いに。」
私の顔は、微笑から決意の顔に変わっていたのだと思います。小母様の顔が、その言葉にきりっと締まりました。それでも小母様の顔は慈愛にみちた顔でした。
「.......あの子は、四年前と変わらずそのままよ?それでも?」
ゆっくりと紡がれた言葉に息を呑みます。
私は、今度は迷いなく、答えました。
「....はい、小母様。」
「いってらして。今あの子は、自分の部屋にいるわ。」
「ありがとうございます。では。」
家の中に入っていく私の後姿を、小母様は見守られていた気がします。
ジュリアの部屋は二階の階段を上がった奥の部屋、南窓の光溢れた暖かい場所で、テラスがついています。
部屋の前に着きました。
ドアは開け放たれていましたが、部屋の中にジュリアの姿は見られません。
風は冷たいのに、日が挿すというのはやはり暖かいのか、ほんわかした空気がながれていました。
テラス。
ジュリアは、テラスの揺り椅子に座り、空を見上げてました。
「ジュリア。」
ジュリアに向かって、彼女の名を呼びます。
「ジュリア、こんにちは。」
「こんにちは。」
久しぶりに聞くジュリアの声。
こちらを見るかのようにして振り向き、少し注意を向けたかと思われたジュリアは、またすぐ空を見上げました。
真っ白な上下の繋がった薄いワンピースに身を包み、寒さを危惧した小母様がかけたと思われるカーディガンを肩にかけています。
腰まで伸ばした髪は風にゆらゆら揺れています。
私は、ジュリアに語りかけます。
「ジュリア、私ね、また王立図書館の司書試験落ちちゃったんだ。」
相変わらず空を見上げたままのジュリアは、何だか楽しそうな微笑を浮かべています。
「もう三回目でさ、奨学金もでなくなっちゃって、もうホント困った困った!!!!」
「家は追い出されそうになるしさ...。凄い、凄い勉強したんだよ、でもまた落ちて...。もう生活出来なくって、体売って!!!!勉強もしなくなってさ!!!!!」
「ジュリア、ねぇ、ジュリア、私、ジュリアが羨ましいの!!!!!!ねぇ、ジュリア、私もそうなりたいの!!!!!お願い、わたしを夢のために失わせてよ!!ジュリア!!!!!!」
慟哭となってジュリアに向かって私は叫ぶ。
ジュリアは、振り返らなかった。
ジュリア、私の友よ、良き理解者よ。ジュリア、私が分からないの?
それは哀しいの、でもそうなりたいの。
生きていたいの、でも、こんなになってまで生きる意味は?
夢に生きてきた、貴女と生きてきた。
私も、あなたになりたい。
「突然来て、突然叫んで。ごめんね、ジュリア...。」
急に力の抜けた私は、この部屋から出て行くことにしました。
私はあまりにもジュリアに悪いことをしている気がしたから。
振り返った瞬間、手から鞄が落ちました。
蓋が開き飛び出た中身の中に、一冊の古びた本。
これは、ジュリアのくれた、私の最初の本。
それまでの私の声など聞こえていなかったような彼女は、急に振り返って、その落ちたものを見つめました。
本を、見つめました。
ジュリアは顔を上げると、落ちたものを鞄に詰めていた私の眼と合いました。
その瞬間、確かにジュリアの目の焦点が、きっかりと私の眼と合いました。
ジュリアの口が、開いた。
「アリエス、きっとなれるよ、なろうよ!!アリエスなら出来る!!」
満面の笑みを浮かべて言い放ったジュリアは、またすぐにもとのように空を見上げました。
やはり何だか、楽しそうです。
しばらく返答のない彼女に近況を語った後、部屋を出ました。
「ジュリア、さようなら、また来るね。」
「さようなら。」
そういって振り返り、振ったジュリアの両腕の先に両手はありません。
四年前から、ずっと。
階段を下りると小母様が出来たてのシフォンケーキを手に持って待っていました。
「アリエス、ジュリアに会いに来てくれて、ありがとう。はい、汽車の中ででも食べて。」
「ありがとうございます。」
「司書にはなれたの、アリエス?」
投げかけられた疑問に、また一瞬たじろいでしまう。しかしすぐジュリアの眼がうかんだ。
「いいえ...まだ。」
「そう...。私も、きっとジュリアも、貴女の夢が叶うこと、楽しみにしてるわ。」
「.....はい。」
きっとジュリアも。
暖かな思いを胸に帰途につきました。
また駅には聖母子像。ジュリアの夢。
ジュリアに会いにいってから、数週間立ちました。
未だどう身を振ったら良いかと私は悩みつつ、あの不毛な生活を続けていました。
一体どうしたら、また夢に向かって走れるのでしょうか。
もうどうしようも無いのではないでしょうか。
しかし、毎晩夢に、ジュリアは出てきます。
曇りの無い瞳を、訪ねた時に向けてきたあの視線で、真っ直ぐ私を見つめる。
そして言うのだ。
『アリエスが夢を叶えること、楽しみだよ。なろうよ、司書に!!』
そんなこと一言も言ってないジュリアだけれども、きっとあの瞳は、私にそう投げかけてくれたに違いないのです。
ジュリアは私を励まし続けます。
叱咤なのかもしれませんね。
そして、ある朝、眼を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのでした。