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Last update 2007年10月27日

In your Life 著者:幸坂かゆり


「少なくともここに一人、あなたがいてくれて良かったって人間がいる。それだけは、絶対何かの証拠だ。」
俯いて泣き顔を隠す彼女に、彼はそう言った。
「何か、って何よ」
「うまく言えないけど・・・」
言葉を切って彼は唇に手を当て、どう話そうか考えているようだった。
彼女は黙って、次の言葉を待った。

彼女は二十年前、彼を教会と共同経営している施設から引き取った。特別、彼のために何かしてあげようようとか、そんな優しい気持ちを持ち合わせていた訳じゃない。
その時男に振られただけだ。もう充分大人の年齢に達している彼女は、その分、プライドも育ち、他人に泣きつけるほど甘ったるい性格でもなかった。
けれど、彼女はもう恋を二度としないと決め、今後子どもを持つ事ができないと考え、突拍子もなく思いついたのが、子どもを引き取る、という事だった。彼は、六歳。
けれど、学校に通えるほどその施設は裕福ではなく、そこに住む彼を含めた多数の親に見捨てられた子ども達の、食事や衣類などの、面倒を見るのがやっとだった。
だから、彼女は当然感謝された。牧師から何度も礼を言われ、涙を流され、戸惑ったがそれでいいと思った。
しかし、最初はうまく行く筈もなく、彼は仲間達から引き離された事を寂しがり、それを見た彼女は苛ついて、部屋に閉じこもって、彼を一人にしていた事も多かった。
彼女は男の事を考えたくなくて、彼の世話をしたがどれも外面の事だけに過ぎない。
正式に養子として迎え、衣食住の心配を失くし、行けなかった学校に行かせた。
彼女の行動は勤めるオフィスにも知られる事となり、良からぬ噂も飛びかった。
幼い男の子を自分好みの男に育てようとしていると。
しかし、彼女の彼への接し方は、ほとんど子どもに対して、ではなかった。

私の事を母親だとは思わないでね。

一番最初にそう言った。
「何て呼べばいいの?」
「名前で呼びなさい。私はジャスミン。あんたは?」
「リバース」
リバース?再生?可哀相に。おかしな名前をつけられて。確か、そう言って彼の名前をからかい、笑ったはずだ。彼、リバースは黒人の血が混じっているらしく、浅く灼けた肌を持ち、手足がすらりと長かった。ふたりの間にルールは決めなかった。
夕食を一緒に摂る、という事以外は。
これは、元々ジャスミンが子どもの頃からそういう育ち方をしてきたからだ。
夕食にはワインがいつも用意され、ジャスミンは少し酔って饒舌になり、その時だけは、陽気に二人で色んな話をした。時々、リバースの提案で、バルコニーにテーブルを出して食べる事もあり、その時の夕やけの美しさを、いつまでも二人で語った日もあったが、夕食の時間以外のジャスミンは、相変わらずクールとも言えるほど素っ気なかった。
人懐こい性格のリバースは、すぐに友達ができた。子どもの成長は早い。体操着の裾がどんどん短くなっていくのを目の当たりにして、驚くしかなかった。
リバースは色んなスポーツを楽しみ、スカウトも来るほど、何でもこなした。けれど、一番興味を持っていたのは「哲学」だった。ジャスミンに話をする時も、理路整然とした話し方なので楽であり、やはり驚いた。
そしてある日、何気なく互いが並んだ時、リバースはジャスミンの背を越えていた。
「あんた、いくつになったんだっけ」
「やだなあ、忘れたの?もう十六だよ」
初めて二人が会った時、リバースはジャスミンが頭から見下ろす丈だったのに。
ふと、昼間のオフィスで鏡に映った自分を見たジャスミンは、老けた、と感じた。
リバースとは三十年程年の差がある。あの子が成長すれば自分はそれだけ老いる。
当然の事だ。もう恋などしないと決めたのだから、それでいい。そう、言い聞かせて鏡を離れた。
オフィスでは、相変わらず彼女に関する良くない噂しか入ってこなかったのだが、そんな中傷を受けるほどジャスミンは年齢を重ねても美しかった。
けれど自分では全くそう思えなかった。一人の男に振られた。それが原因で。

ある夕食の時、リバースはその事に触れてしまった。
「ジャスミンに好きな人はいないの?」
その日も笑いながら話をしていて、何気なく出た質問だった。
けれど、突然ジャスミンはワイングラスを床に落とした。
グラスは軽い音で割れて、ワインの赤い色が床を染めた。
「大丈夫かい!?片付けなきゃ」
そう言って立ち上がったリバースが見たもの、それは青ざめたジャスミンの顔だった。
「どうしたの!?」
「・・・て」
「え?」
「その話は金輪際しないで!」
そう怒鳴るように言うと、ジャスミンは急に嘔吐感に襲われ、両手で口をふさいだ。
リバースは慌ててジャスミンの背中をさすったが、その手もどけようとする。
何かいけない事でも言ったのかい?そこまで言いかけて、リバースはその言葉を押し込めた。
いけない事だったからこそ、ジャスミンはこんなにも取り乱してしまったのだ。
リバースは黙って床を片付け、ジャスミンの口の周りまで拭いた。
そして、ジャスミンの手をとって席を離れ、ソファーに座らせた。
ジャスミンは涙を流していた。声を出さずに泣いていた。その泣き方の痛さを、リバースは嫌というほど知っていた。リバースがまだ施設にいた時、おとなしい子どもであった彼は、泣く事で周りの大人達が悲しい顔をするのを察知し、その日から、どんなに悲しくても一人になって、声を殺して泣いていたのだ。
それほどの思いをジャスミンに感じさせた自分の問いかけに、リバースは後悔した。
リバースはジャスミンの横に腰を下ろし、彼女の髪を大きな手で不器用に撫で、その流れるようなカーブをつけた、大人の女の香りがする髪を指で梳いた。
ジャスミンは涙を流しながらも、その指を心地良く感じていた。

つかず離れずの関係を保ちながら、リバースは二十歳の誕生日を迎えようとしていた。
しかし、そんな成長したリバースとジャスミンを危惧する声が近隣から上がっていた。
二人の不思議な親密感は恋愛に発展してもおかしくないと思わせるのだ。
確かに、リバースはもう立派な男に成長していた。ある日、近所の女性が直接それを言いにジャスミンを訪ねて来た。
もう大人である彼と一緒に暮らしていくべきではない、と。
ジャスミンは「そうね、彼に意志があるのなら止めないわ」と言って女性を帰した。
ドアを閉めると急激に不安が押し寄せた。自分こそ一人でやっていけるのだろうか。
ジャスミンは急に自分の都合だけで彼を引き取った身勝手さを思う。
あの時、自分は淋しかっただけなのだ。自分の事しか考えず他人なんてどうでもいい、そう考えている人間が多大な可能性を秘めた人間を育てるなんてできるはずがない。
ジャスミンは、突然リバースに対して何もしてあげていない事に愕然とした。
それと同時に、えもいわれぬ虚無感がジャスミンの心を支配しているのに気づいた。
こんなのって、ない。私は淋しさから逃れるために、あの子を引き取ったはずなのに。
あの時とは全く違った種類の淋しさが押し寄せるなんて。
そんなリバースの二十歳の誕生日、ジャスミンは言った。
「私は二十年前、あんたをまるで人形のようにここに連れてきたけどあっという間ね。
もうここを出ていくのも自由よ。私を憎んでも忘れてもいいわ」
すらりと、その台詞を言うはずだった。なのにジャスミンの目からは涙が溢れた。
その時、リバースは大人のような男の手で、彼女の髪を撫でながら言ったのだ。

“少なくともここに一人、あなたがいてくれて良かったって人間がいる。それだけは、絶対何かの証拠だ”

俯いて泣き顔を隠すジャスミンに、リバースは、そう言った。
「何か、って何よ」
「うまく言えないけど・・・」
言葉を切って彼は唇に手を当て、どう話そうか考えているようだった。
ジャスミンは黙ってリバースの次の言葉を待った。
「僕はずっとあなたに感謝してる。あなたがいなかったら、僕はこんなに豊かな暮らしができなかったし、それだけならきっと、ただの甘えた野郎になっていたと思う。
だけど、あなたは僕を決して子どもとしては扱わなかった。夕食の時、互角で話をしてくれた時の嬉しさといったら、なかったよ。そうしてくれたからこそ、僕は自分で物事を考えるように育てたんだ。あなたは僕を引き取ってくれたその日から、僕に何でも一人でできるように、心の中に真っ白なキャンバスをプレゼントしてくれたんだ。」

彼はその美しい黒目がちな目を潤むように輝かせて言う。
なんてことだろう。ジャスミンは不意に胸が痛くなる。けれど、何て心地良い甘美な痛みなのだろう。涙は、経る長い時をジャスミンの心の中に淡い花びらが舞うように、降りつもり、空っぽでいたのではないのだ、と少しずつ、本気で、人間として感情が素直に戻る。ジャスミンは涙を拭いて、いいえ、違う。と、首を横に振った。
リバースにはそうやって人生を歩んで行く才能があったのだ。無骨だけれど、誰よりも思いやりを持てるリバース。ジャスミンは思う。私のお陰なんかじゃない、と。
私が救ってもらったのだと。けれどもしも本当に、私があなたの心にキャンバスをプレゼントできたのなら。そう考えて、絞り出すように、けれど、初めてとも言える優しい微笑みと、心からの祝福の言葉を湛えて、ジャスミンは今、言葉を紡ぐ。


「そのキャンバスに、二十年かかって、あんたが絵を描いたの」




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