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Last update 2008年01月13日

最後まで何もなかった  著者:おりえ


 おわりとはじまりはいつもいっしょにやってくる。
 男は未だ泣きやまない女を見下ろしながら、他人事のように思った。
 先日のことだ。結婚したのが間違いだったとわかるのにそう時間はかからなかった。
 わがままで自分のことしか考えない女を妻と呼ぶことに抵抗があって、慣れないままここまできた。
 だが女はようやく男の役に立った。
 婚姻届を提出するのを忘れていたのである。
 男は初めて女を見直した。よくぞ忘れた。これで何もかもなかったことにできると。

「お願いですから、別れないでください。離婚するなんて、あんまりです!」

 すがりつくように懇願する女を見ても、男の中にはわずらわしいと思う以外の感情が芽生えなかった。
 これはもう致命的だろう。女にいくらその気があっても男にないのでは、夫婦は成り立たない。

「離婚するも何も、それ出してなかったんなら法的に俺たち夫婦じゃないんだし」
「だけど結婚式挙げたじゃないですか!」
「俺はイヤだって言ったのに、君がドレス着たいからって無理やり話を進めたんじゃないか」
「だってウェディングドレスは、女の憧れなんですよ!」
「そんな憧れだけであんな馬鹿みたいな金かけて退屈な式を挙げてさぁ…。写真だけでよかったじゃん。遅かれ早かれ別れるつもりだったし、無駄だったよね」
「そんな…!」

 女はますます顔をゆがめて泣きじゃくる。男はここが家でよかったとつくづく思った。
 男と女が口論して女が泣いていれば、世間はどちらが悪くても男に非難の目を向けるものなのだ。これは立派な性差別ではないのかと思う。そういう目が届かない家でなら、大いに泣いてくれて結構だ。こちらは少しも胸など痛まない。
 右手と左手のようになれないかなぁ。  互いに近づこうと思えば近づけるが、決してひとつにはなれないもの。
 俺の恋人は右手だけで充分さ。
 男は両手で顔を覆って泣く女が見てないのをいいことに、自分の右手をあげてにんまりと笑ってみせた。
 独身生活が恋しくて仕方ない。
 何故こんな女と一緒になったのだろう。
 女というものは脳みそは足りない力もない口だけは一人前で何の役にも立たない。

 利用できるときに利用して捨ててやるのが一番だ。よくわかっていたはずなのに、世間の目を気にして結婚などしてみたが、やはり無駄だった。

「来週には出て行けよ。ここは俺の家だから」

 軽く告げると、女の肩がびくりと揺れた。

「まあお互い後で話のネタになると思うよ。バツイチじゃないけど結婚してた。でも女が婚姻届を出してなかったからさぁーって感じで、皆笑ってくれるよ」
「……」

 女はしばらくうつむくと、やがてうなずいた。

「わかりました。…今まで、ありがとうございました」
「いーよ。こっちもいい社会勉強になった」


 翌日から、女は不動産会社に片っ端から出向き、条件に合った物件を探し始めた。

 男はそれを応援するわけでもなく、早く見つからないかと思うばかりで、何も変わらなかった。
 女の方は観念したせいか、男と接する態度が変わり始めた。
 もうわがままも言わなくなったし、自分を出さなくなった。何をするにも男を優先させて、自分は後ろにそっと控えるようになったのだ。

「なんでそういう態度を結婚当時からしなかったのかね。そういう態度でいてくれたら、俺も考え直したのに。もう手遅れだけど」

 慌てて最後の一言を付け足しながら言ってみたが、女は無言だった。口数もめっきり減り、必要最低限のことしか口にしなくなった。
 男は家が静かになったことを素直に喜んだ。

 ある朝男が目覚めると、女の姿はなかった。
 テーブルの上には破られた婚姻届があって、女が使っていたものは全てなくなっていた。
 女は無言で出て行ったらしい。
 男は欠伸をしながら、これですっきりしたと伸びをした。

「さて、と」

 男は着替えようとして、枕元を見やった。
 何もない。

「……あっ、そーか」

 しばらくじっと眺めて、ようやく思い当たる。男の服はいつも女が用意していたのだった。男は苦笑しながらタンスまで歩き、引き出しを開ける。

「…あれ」

 中は空だった。

「おかしいな。確か…」

 他の引き出しも開けてみるが、ダイレクトメールやら衣服と呼べる類が一切入っていない。男は舌打ちしながらタンスから離れ、クローゼットのある部屋まで行くと、両扉の取っ手をつかんで手前に引いた。中には男の背広が礼儀正しく並んでおり、男は安堵のため息をつく。クローゼットの下に位置する引き戸の中を調べたが、シャツだけがない。男の動悸が鳴り始める。何かに追い立てられているような焦り。頭の先からじわじわと冷水をかぶせられたような震えが走った。

 ここは、どこだ?

「俺の家なのに、なんで他人の家みたいなんだよ…」

 八つ当たりしたい女もいない。そうだ。女がいない!

「あんのやろう…黙っていなくなりやがって。俺のシャツはどこだよ!?」

 出勤時間が迫りつつある。なのに食事もとらないでシャツだけを探し回ってパジャマのままでいる自分が滑稽に思えた。
 男はうなり声を上げながら、手当たり次第の引き出しを開け、中のものをかきだした。女は本当に自分の物だけを運び出したようで、ここにふたりで住んでいたという形跡を一切残していなかった。
 荒れ果てた部屋の中、男は半泣きになりながら佇んでいた。今日は会社を休もう。こんな状態で仕事なんかできやしない。

「…それにしてもあいつ、いついなくなったんだ? ゆうべは隣の部屋で寝ていたはずなのに」

 男はふとそう思って、昨日のことを思い出した。女は自分の食器に食事を盛り付け、男と無言のままで夕食をとっていた。そうだ。食器は? あんなかさばるものを最後まで普通に使っておいたのだから、まだあるはずだ。男はそれを確認しようと一歩を踏み出し、散乱した部屋の何かに足を取られて派手に転んだ。

「いってぇ…!」

 男は身体中に走る痛みと共に、全てのやる気を失くした。

「あーあ…もう、なんか、どーでもいーや…」

 ここは俺の家じゃない。きっとどこか別の世界。そう、不思議の国なんだよ。ありえねーもん。何俺自分の家で転んでんの? アホ?
 ここは不思議の国だからな。だから俺は転ぶのさ。そのうちどっかからうさぎが出てきて時計見ながら「遅れちゃう~」とか言って消えるんだ。
 行きたきゃ行けよ。俺は止めない。だから女もどうでもいい。

 自暴自棄になっている男が天井を見つめていると、開けた窓から風が入ってきた。散乱した部屋の中がわずかにざわつき、パラリと乾いた音がして、男の顔の上にひらりと紙が舞った。

「なんだよ…」

 それをうるさげにつまみあげると、文字が目に飛び込んできた。

「婚姻届か…」

 破られた紙の一部分だった。男は無表情にそれを眺め、徐々に目を見開いていった。

「…おいおい…」

 のそのそと立ち上がり、残りの紙片を探し回る。それらをかき集めてテーブルの上に置き、パズルのように組み合わせていく。


 男の少々汚い字が埋まるその横に、「妻になる人」の欄は空白となっていた。

「なんか俺が馬鹿みたいじゃねーか…」

 …女は自分の欄を書き忘れていた。

 男はなんだかがっかりしながら、待てよ、と思いなおした。
 そもそも本当に、あの女は「在た」のだろうか?
 この家で、ふたりで過ごした思い出が何かあったか?

 何もない。


「あーあー…」


 男は虚ろに笑うと、両手で紙を集めて更にビリビリに破り、放り投げた。
 紙の雪だ。
 そうさ、ここは不思議の国だもの。紙の雪だって、炎の雪だって当たり前に降るんだ。
 不思議の国は、ずうっと、ここにあるんだね。




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