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Last update 2008年01月13日

如何に世界は破滅を望んだのか? 著者:七夜実


 おわりとはじまりはいつもいっしょにやってくる。

 ある瞬間に出会った僕らの物語は、
 その可笑しくも微笑ましい日常を伴いながら、
 出会ったすべてを惜しみながらも、
 約束された別れの瞬間へと向かっていく。

 でも、僕らの人生は終わらない、いや、止まらない。
 ソコにいたいと思った場所を置き去りにして、
 僕らを前へ前へと誘う者。
 その名を「未来」と呼ぶ。



 ここに、一つの疑問がある。



 人生とは今の持続ではなく、今の完成を望み続ける道だ。
 そのために未来が今を乗り越えさせるための、
 つまり、今のすべてを否定するための道標であるのなら、
 私たちが未来を望めることは、果たして幸福なのか不幸なのか。



 その答を、ある1人の青年に見ることが出来る。



 そして、



 彼はその、絶対なる生の真理に、



 絶望することになる。

              * * * * *

 1999年 7月。
 世界にアンゴル何とかという大王はやってこないまま、
 僕ら大学生は、始まりつつある長い夏休みを前に、
 何とも捉えどころのないテスト勉強を行っていた。

「しかし・・・・・・暑いねぇ」
「全くだよ」

 地方出身の大学生2人で何とか借りられて、
 それでも良心的な価格の宿舎に、
 クーラーなんて現代文明最高の電化製品が在るわけもなく、
 前の住人の置いていった3世代昔の扇風機を、
 動かすたびにガタガタ鳴る羽根とエンジンを我慢しつつ、
 狭いちゃぶ台の上、薬学と力学の異色コンボな書籍群を開きながら、
 上半身裸の短パン一丁な健全男子2人が耐えきれない現状に愚痴っていた。

「やっぱり喫茶店に行こうよ」
「この前行って使って限界に達しました」

 彼ら共通の家計簿は、それはもう、真っ赤なのだ。
 足りないインクは彼らの血で出来ていると言っても過言ではない。
 ちなみに、彼らは奨学金の申請を行ったのだが、
 将来の志望に「大学を箔に遊んで暮らせる職業に就きたい」なんて書いて、
 面接にすら呼ばれなかったのは阿呆の成せる技だろう。

「えっと、それマジですか」
「激しいと判りながらもマジですノーマネーな懐具合」
「あぁなんとも寒い話ですねぇ」
「えぇ全くその通りです」

 が、しかし、心が寒くとも周りは暑いのである。
 なんてったって今日は、雲なんて一つとしてない快晴。
 ここ数週間、雨が降ったかどうかすら憶えがない。
 そんなこと気にとめないほど遊んでいたわけでは、たぶんない。

「それでオマエが後四つ、で」
「君が六つ、なのね」
「英語とフラ語は共通だから」
「共通でも意味ないだろ、テストじゃ」
「あ、そっか、いつも課題を交代でやってたからつい」
「少なくとも、互いが互いを眠らせず遊ばせないようにすればいいんだ」
「結局それしかないかぁ」

 まぁ、この暑さで眠れるというのなら、是非眠ってもらいたい。

「・・・・・・・・・・・・でもさぁ」
「あん?」
「結局何も起きそうにないよねぇ」
「あの予言か。そりゃそうだろう、起こってたまるかってんだ」
「それでも他の予言は的中したんだし」
「あぁいったものは、大抵何かが起きた後に、周りの人がソレと結びつけて解釈するから的中したみたいに思われるんだよ。予言があるから何かが起きる訳じゃない、何かが起きたから予言になるんだ」
「いや、それはそうだけど」
「何か他にも気になってることがあるのか?」
「あぁ、ん~、ん?」
「・・・・・・頼むからハッキリしてくれ」
「えぇと、そのさ、予言が在る訳じゃないか」
「うん」
「世界中の人が、まぁ、ほとんど知っているわけじゃん?」
「だな」
「だったらさ、どうして誰も、何もしなかったんだろう?」
「・・・・・・・・・・・・はい?」
「だからさ、あんなに予言だの滅亡だの言い回っていたのに、それに備えて何かをした人なんて、知ってる限り、ほとんどいなかったよね」
「そりゃあ、あんなの信じるよりは普段の生活の方が大事だろうし」
「じゃあ、あんなにはしゃいでた人たちって、一体どこにいるの?」
「・・・・・・あぁ、そう言われれば、確かにねぇ」

 連日テレビや週刊誌、関連本を出してきた各種メディア、
 そのほとんどが飛ぶように売れた現実、
 ならば、それらに賛同するかの如く群がった人々は、
 一体何を信じていたというのだろうか?

「まぁ、答えられないことも、ないかな」
「そうなの?」
「オマエの疑問は、世間と個人の関係に対する誤解から来てるんだ」
「・・・・・・・・・?」
「まぁ聞けよ」

 そう言ってちゃぶ台に力学の教科書をうつぶせにして、
 台所、水を張った金ダライの中に浸してあった麦酒瓶と、
 朝食の後、洗ったまま乾燥させたコップを二つ、
 水気を拭いもせずに持ってくる。

「・・・・・・・・・飲むのか?」
「飲まないのか?」
「昼だよ」
「飲まずにいられるのか?」
「・・・・・・・・・台ふき洗ってくる」

 本当は焼酎系が好きなのだが、
 この暑さで熱燗をする気力はない。
 いや、それはそれでいいかもしれないが、
 目の前の男に止められる、全力で。

「で、話の続きなんだけど」
「うん」

 とりあえず瓶を拭って、ちゃぶ台も拭く。
 ちゃっかり自分の本だけ退かしてあるのは、どうだろう?
 その当人は気にすることなく麦酒を注いでいる。
 本当に、家賃を半分払ってくれなかったら同居しなかっただろう。

「オマエは世間を、個人の意見の集合体だと思うか?」
「・・・? え、と、うん、思う」
「もっと詳しく言うのならば、個々の意見や主張が他人との会話やアンケート、噂話などを経て纏まっていき、メディアなどで扱われるような一集団の意見の最大形として現れるのが世論だと、そう思ってる?」
「・・・・・・・・・よく分かんないけど、個人の意見が反映されているからこそ世論だと思うんだけど」
「なるほど、そっか、その言い方のほうが判りやすいか、だね」

 そこで一息つくように一杯を空にする。
 釣られるように一杯。
 暑さは引かないが、溜まっていたモヤモヤな物が引いていく感じ。
 いつの間にか、精を入れすぎていたみたい。反省。

「でも、それは間違いだ」
「そう来るわけだ」
「そうさ、来るんだよ」
「じゃあ、君はどう考えるの?」
「そうだな、根拠がある訳じゃない。ある訳じゃないんだけど、この定義なら、オマエの疑問に答えてくれると思う」

 と、そこで日が陰る。
 響く音、どうやら飛行機が真上を飛んでいるらしい。
 あの五月蠅い扇風機ですら、蚊の羽音ぐらいに思える。
 音が止み、再び日が照った所で話を再開する。

「世論は個人の意見が反映されたものじゃない」

 再び麦酒を注ぐ。

「世論が個人の意見に反映させているんだ」

 風が吹き込んでくるが、暑いだけ。

「どういうこと?」
「世論はソレが代表する集団に属する個人に、その内容や姿勢を反映させてしまうような性質を持つ意見だってこと。個人は世論に影響され、その方向性に流されるが如く、行動を規定されているんだ。だから、あるブームが起こっているとして、それは個人がブームとなるものを取り込んでいく過程が大量に起こったからじゃなくて、そのブームがあるとする世論に個人が影響され、ソレに沿った行動をとってしまうから、と説明できるんだ」
「・・・・・・・・・なるほどねぇ」

 確かに、それならば自分の疑問は解消される。
 予言が的中するかもしれない、という世論が、
 その世論ごと新しい世論に上書きされて消滅し、
 ソレに影響された人々も、自ら予言を気にすること無く、
 普段の生活に関心を戻した、ということなのだろう。

「どう? 納得いった?」
「うん、した」
「そうか。ヨシヨシ、オマエは頭が良い子だねぇ」
「は? って、もう瓶一本転がってるし!」

 駄目だ、完全に酔ってしまってる。
 もう、テスト勉強とか言ってる場合じゃない。

「あぁ、もう」
「大丈夫大丈夫、勉強はちゃんとやるから」
「それは僕の本だ! 君のはコッチ!」
「あ、本当だ、ゴメンゴメン」

 この暑さだ、ちょっと寝てしまえば汗で流れてしまうに違いない。
 違いないが、復活したときには夕食の時間で、
 その後はバイトやら何やらで夜中まで暇がないわけで、
 もう今日の勉強は絶望的だ。

「・・・・・・・・・・・・だけど」
「んあ?」
「やっぱり疑問が」
「ありゃ、今度は頭が悪く」
「そうじゃない! 別の疑問だよ。さっきの話を考え直してたら浮かんできたんだ」
「お? 何々?」

 ほとんど眠る体勢だった所から奇跡的に復活。
 瓶とコップを片付け、再びちゃぶ台で向かい合う。

「世論が個人の意見の反映じゃない、ってことは判った」
「判ったんだ、うん」
「逆に世論が個々の意見を左右しているわけだよね」
「そうそう」
「だとしたらさ、」

 その世論は、誰が言い出したんだろう?

 その疑問を口にする前に、激しい轟音と振動が襲いかかった。

「!? な、なんだぁ!!!」

 地震、にしては短すぎる。
 そう思った瞬間に来たのが、窓からの突風。
 思わず下げた体に、衝撃で割れた窓ガラスが降ってくる。
 先程吹いた風ですら生ぬるいほどの、暑くて焦げ付いたニオイが部屋に吹き荒れていった。

「爆発、爆発じゃないか!?」
「そ、それだ、ソレ!」

 本やノートが部屋中に舞い散り、それ以上に飛び散ったガラスに気をつけつつ、
 騒がしくなり始めた外へと頭を出して、
 この異変の原因にすぐ気付かされた。

「あ、あれ・・・・・・・・・」

 指さす先に見えたのは、まだ昼間なのに朱く染まった空。
 その真下で、大きく揺らめいているのは炎の柱。
 バイト先のある都市部が、あの爆発によって、激しく燃え上がっているのだ。
 その間、ざっと数キロ。それでも大きく見える炎の激しさが、爆発の大きさを物語っていた。

「何てこった」
「とりあえず、バイト先に電話してみる!」
「・・・だな、それがいいな。じゃあ、これから管理人の所に行って、テレビ見させてもらってくるから!」
「判った!」

 そう言い合ってすぐ、頭を窓から部屋へと引き戻す。



 その時、



 ふと見上げた先に、



 薄く笑う月が、僕らを見つめていた

               * * * * *

 僕は廃屋の中にいる。



 手元にあるのは一月ほど使い続けている斧と、この家の台所にあった細身の包丁、それと六本の食事用ナイフ。
 警察署を探して見つけた拳銃とかは、使い方がよく分からないのと、あまり効かなかったから持ち出さなかった。
 ・・・彼処にまで潜んでいたなんて、正直酷いと思う。

 外は雨が降っていて、物音がよく聞こえない。
 その中で、窓の下、埃まみれのシーツにくるまって息を殺していた。
 両手で握った斧は、かすかに震えている。
 当たり前だ。アレが起こった夏の日から既に半年、例年以上の冷え込みが容赦なく襲いかかってくる。
 暖房なんてない。アレが起こって一ヶ月ほどで、自分の知っているすべての文明機器が用を為さなくなってしまったのだから。
 唯一、時計だけが今が何時なのかを教えてくれる。
 アレが現実で、しかも過去の出来事で、そして今、斧を握る自分が憎たらしいほどにリアルであることも、何もかも。



 ピキリ



 一気に感覚が目覚めた。
 何処だ、何処から聞こえた?
 音だけが頼りなのに、両目が忙しなく周囲を探り続ける。
 慣れない、慣れるわけがない、こんなこと、慣れるわけがな



 バキリ



 それが、真上から聞こえたと同時に前へと飛び出した。
 その後ろで何かが落ちてくる音と、床がめり込んで割り砕ける音。
 部屋から飛び出す瞬間に振り返った視界にいたのは、



「ぁぁぁぁぁあぁぁぁあああぁあぁぁああぁぁぁあっぁあぁぁ」

 我慢し続けた声が、狙われたことで漏れだした。
 廊下を駆け抜け、玄関へと向かう。
 胸の前に抱きしめた斧を使おうなんて、考える暇もなかった。
 開いたままの扉を押し開けて、すぐ側の壁に隠れる。

「ふぅう、ふうう、ふぅううう、ふっううぅ」

 息を落ち着かせる、そうなるように意識する。
 握る手に力を入れる。
 今までもこうしてきた、そして今もこうして生き残るんだ。
 慣れなくてもいい、『奴ら』から逃げられるんなら、
 絶対に、やり抜いてやる!

「ふぅぅぅぅぅぅ・・・・・・・・・」

 追い込んだ、感情も記憶も怯えも震えも痛みも緊張も何もかも全部、
 頭の片隅の更に奥、誰にも見えない場所に追い込んだ、
 自分以外の音が近づいてくる、廊下から玄関へとやってくる、
 横目で見つめる玄関の先から、ソイツの手が伸びて、

「WAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」

 その叫び声は、自分で聞いても人のソレではなかった。
 顔に突き刺さった斧をそのままに叫び続けるソイツも、
 その斧を握りしめたまま、ソイツの姿に叫び続ける自分も、
 ただ、そうでもしなければ、どちらかが壊れてしまいそうで、
 でも壊れたのは、ソイツだけだった。

 へたれ込んだ僕の視線の先にあるのは、ソイツの死骸。
 今回殺したのは、僕が見た奴の中でも多い犬型で、
 それでも赤くて、牛ほどの大きさで、目が八つもあるのは尋常じゃない。
 そして、斧の突き刺さった場所から流れるのが黄色い血なのも嫌だ。

 それ以上に嫌なのは、

 そいつが、ボロボロになった女生徒の学生服を身に纏っていることだった。



 そう。
 僕は知っている。
 自分が今まで逃げたり、殺したりした奴らも、今殺したソイツも皆、
 半年前まで、人間だったのだと。



 それから何とか立ち上がって、斧は雨で洗って、傘は玄関にあったのを拝借して、服を衣装棚から選んで重ね着して、廃屋を後にした。
 そういえば、
 あの家の二階には、珍しくまともな形の家族の死体が、あったんだったっけ。
 それに釣られてやってきたのだとしたら、自分も阿呆だ。
 今の内に遠くまで逃げないと、さっきの騒ぎで他の奴らが来てしまう。
 それに寝床を探さないと、夜になったら夜の奴らに襲われてしまう。

「あんなにでかい鳥は、無しだよなぁ」

 思わず口にした感想は、頭だけオッサンや子供の、鷲や梟に襲われた時の事を思い起こさせた。
 あの時、左肩に食い込んだ爪に肉を持って行かれて、それに他の鳥が群がる隙をついて、何とか逃げ切れたのだ。
 よく、生きていた、と、思う。
 血のニオイをさせていれば奴らが近寄ってくるし、それを防ぐために水で洗ったときには、あまりの痛みに四回ぐらい気絶した。

「洗う、といえば、川で行水したら、ピラニア野郎に襲われたっけ」

 コレはもっと前、まだ町中が燃えていたとき。
 体を洗おうと川に入ったら、
 頭がピラニアみたいな半漁人に追いかけられたのだ。
 最も、足を掴まれたまま陸まで上がったら、いきなり水気が抜け出して、
 カエルみたいな悲鳴をあげて干物になってしまったが。

「でも、化け物じみた奴もいたよな」

 自分が遭遇した奴らの殆どは、説明できないような、というよりは、一つ一つ説明し続けないと説明にならないような容姿ばかりで、あまりの突拍子の無さに記憶すら定かじゃない。
 肉襞や触手の塊に、数十人分の人体のパーツがくっついて、6足歩行していたときは、無性に泣きたくなった。

「そう考えると、なんだか、安っぽいB級ホラーだよな」

 あはは、と笑う。笑ってしまう。
 全部、独り言なのだ。
 これが会話になることは、絶対にない。
 絶対に、ないのだ。



 そうしているうちに、ビル街へと入った。
 路地裏にはウロウロしているので、出来れば建物の一階に寝床が見つかればいいのだけれども、そう上手くはいかない。
 殆どのビルは火災で中が焼け落ちているし、そうじゃなくても、あの時の混乱や奴らの餌探しでグチャグチャだ。
 雨は強くなる一方だし、商店街とかが在ればそれでもいいかな、と考えた時。



 悲鳴がした。



 立ち止まって、音のした方向を伺う。
 かすかにだが、何かが動き回る音もする。
 奴らは共食いも平気でするから、これもそうかもしれない。
 しかし、今の悲鳴は、

「・・・・・・・・・人」

 そう、人の悲鳴だった。獣のソレとは違う、言葉を伴うものだった。
 なんと言ったのかは判らない。でも、助けを求めるものだった。
 音はどんどん近づいてくる。追いかけられているらしい。
 このままなら遭遇することになる。どうする?決まっている。



 逃げるのだ。



 以前も、同じような場面に遭遇したことがある。
 あのとき、奴らに襲われているところを何とか助け出して、
 必死に逃げて、一息ついた所でそいつと目を合わせたとき、

 その頭がイソギンチャクのように弾けて襲いかかったのだ。



 ソイツに知能があったのかは知らないが、
 その時から、こんな状況になっても逃げることにしたのだ。
 絶対に罠だ。そうに決まってる。
 だから、そこから逃げる、その一手だ。



 なのに、動けなかった。

 やっぱり僕は、慣れてなかったのだ。
 ほら、そんなことしているから、目の前のビル壁が弾け飛んだ。
 広がる砂埃、そこから姿を出したのは、自分と同じようにボロを着た少女と、

 見たこともないほどの数の、奴らの姿だった。

 それにさっきと同じ悲鳴をあげたからといって、文句は言われたくない。



「ぜっぜっぜっぜっぜっぜっ」 

 息が止まらない。
 目の前に横たわっているのが人面ダチョウ、その向こうに包丁が突き刺さったままの八足トカゲ、人肌色の蜘蛛はドラム缶で潰して上から何度も叩いたし、胴体が交差した形でくっついていた2体の青い虎は片方の頭を潰したら左足に噛みついていた側の頭も目を裏返して死んでしまった。
 こんなに一片に殺したのは初めてだ。
 いつもは、こんなに沢山いたら、逃げるだけ。
 それがこうなってしまったのは、あの後逃げ出した僕を、あの少女(の姿をしたやつ)が追いかけてきたからだ。
 お陰で裏路地に飛び込んだが最後、逃げ道を失ってこうなったのだ。

「ぜっぜっぜっぜっぜっぜっ」

 まだだ、まだ息が止まらない。
 他の奴らは何時の間にか居なくなってしまった。
 あの少女(の姿をしたやつ)を追いかけていったのか、それとも見失って引き上げたのか。
 握ったままの斧も、先程着たばかりの服も、様々な色の血で彩られ、独特の異臭を放っている。
 追い込む暇もなかった感覚が、そのニオイに麻痺寸前で、頭がくらくらした。

「ぜっぜっぜっぜっぜっぜ、ぜぇぇぇぇぇ・・・・・・・・・」

 とりあえず、助かった、そう思って良いのだろうか?



 ピタ



「ウワアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 気を抜いたところで響いた足音に、斧を其方へと突きつける。



 その先にいたのは、あの少女(の姿をしたやつ)だった。

 奴らを撒いて、ここまで来たのだろうか?
 ・・・・・・・・・違う。身に纏っている服に、まだ新しい幾つもの色の血が滲んでいる。自分と同じだ、あいつも奴らを殺してきたばかりなのだ。
 そして、見ろ、あいつは何も手にしていない。
 ならば、奴らを素手で殺したと言うことならば、つまりそれは、



 あの少女の形をした奴は、奴らと同じだということだ!



 先に飛びかかったのは僕だった。
 まっすぐ振り下ろした斧は、何もない地面を穿つ。
 左、ソイツが避けた側からすぐさま離れ、再び斧を構える。
 ソイツは避けただけで、立ったままだ、ならば今だ!
 再び振り上げた斧を、今度は左横から殴りつける。
 それにしゃがんで避けたソイツは、そこでつまづいたのか後ろ向きに転げる。
 壁に突き刺さった斧を引き抜いた僕は、すぐさまソイツまで駆け寄って、
 それに気付いたソイツは両手で顔を覆い隠し、
 その両手を見て僕は、ソイツがどのように戦うのかを知り、



 すぐに殺さなくては、と思い、



 三度斧を振り上げ、



 振り下ろせ、なかった。



 何も起こらない。
 その異常。
 僕がソイツを殺していないのに、
 ソイツは僕を殺さなかった。
 ずっと両手で顔を隠したまま、僕の足下に横たわっている。
 おかしい、そんな訳がない。
 考えろ、ソイツがどうしたいのか、考え抜くんだ。

 そして、これこそが罠ではないかと気づき、

 例えば提灯アンコウの、提灯がコイツではないかと思い至り、

 脇目もふらず、その場から逃げ出した。



 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、
 今度は橋桁にたどり着いた。
 雨宿りには丁度良いが、外から目立って仕方ないから、
 しばらく休んだら、急いで行かな
 ・・・・・・・・・・・・無理だ。気付いてしまった。



 足跡が、する。
 立ち止まっている自分以外の、
 そして自分の後ろから、
 足跡がするのだ。



 包丁もナイフもない。
 走りながらも、右手に握りしめていた斧を両手に、
 疲れと怯えからくる足の震えを追い込めて、
 意を決して振り向いた先に、



 あの少女の形をした奴がいた。



 雨の中、立ち続けている。
 かすかに呼吸音がする。走ってきたのだから、疲れているのだろうか。
 さっきは気付かなかったが、髪は銀色で、もしかすると外国人だったのかもしれない。
 そして、やっぱり何も手にせず、こちらを見つめ続けている。

 目の前の奴が罠なのならば、本体がどこかにいるはずで、
 それが全くわからない状況で、僕に勝ち目はない。
 呼吸は落ち着き始めている。あの廃屋から動き続けている僕にとって、これが最後の全力だ。
 だから、この一撃で決める。

 そうして動き出そうとした僕に、



「どうして『その道具を使っている』の?」



「・・・・・・・・・・・・はえ?」

 とっさの事で、僕はそれしか言えなかった。
 目の前の奴が明らかに話しかけてきたことも、
 アレ以来半年ぶりに意味の通じる言葉を聞いたことも、
 そしてそれ故、貪欲に会話を欲していた脳みそが、
 今の言葉の意味を、瞬く間に解釈したとき、



 腰が抜けた。



「私の言葉が判ったんでしょ? 私の言葉の意味も。そうなんでしょ?」

 そう言って一歩、近寄ってくる。
 それに合わせて何とか後ずさる。
 自分が間違いなく理解できた通りならば、
 目の前の奴は、少女は、『僕に斧や包丁を道具として使える知能があることを、理解できる知性を持っている』ことを示したわけで、つまり、

「答えて。あなたは言葉が使えないの? ねぇ、どうなの?」

 どんどん近づいてくる。
 もう、僕の背中には橋桁があって、それ以上は下がれない。
 目の前の少女が怖いのではない。
 自分が見つけたかった現実が、今になって見つかったのが信じられなくて、
 本能も理性も、頭の中でゴチャゴチャになって、

「お願いだから逃げないで、怖がらないで。きっと、もう大丈夫だから」

 何が大丈夫なのか。
 僕が、なのか。少女が、なのか。
 斧は手放してしまったから持っていない。
 だから、僕の顔を触る少女の手を、どうしようもない。



「あなたは、ヒト、なんでしょう?」



 その言葉で限界だった。
 追い込めた何もかもが、切り捨てた何もかもが、
 一気に胸を頭を体を張りつめて、
 僕の口で会話をさせたのだ。



「君は、ヒト、なの?」



 その問いかけに、少女は泣いて答えた。
 ただそれだけで、僕も泣きそうだった。
 いや、もうこの時既に、僕も少女も、泣いていたのだ。
 泣いて、それでも互いに尋ね続ける。



「ヒト、なのね」
「ヒト、なんだ」
「ヒト、なんですね」
「ヒト、なんだよね」
「ヒトだ」
「ヒトなんだ」
「ヒトがいた」
「ヒトだよ」
「ヒトが」
「ヒトが」
「ヒトが」
「ヒトが」



 ・・・・・・・・・言葉にならなかった。
 それだけしか言葉にならなかった。
 気がつけば互いに互いを抱きしめて、
 ヒトヒトと口にしながら、泣き続けて、
 相手がいる、ただそれだけを確かめ続けた。 



 それから十日ほど、


 ずっとそのままだった僕らを、


 いつの間にか晴れた夜空で月が見つめていた。

               * * * * *

 その日の分の『仕事』を終え、
 仲間達は明日の『仕事』に備えて部屋へと戻り、
 見回りを任された数人が外へと出向き、
 一つの部屋に2人の姿があった。

『仕事』に使う部屋は機材やデータで埋め尽くされているから仕方なくとも、
 就寝等に使っているのであろう、その部屋も殺風景なものだった。
 2人のうち、片方は少女で、片方は青年のようなのだが、
 ベッドと衣装棚、壁に鏡と本棚があるだけの部屋では、
 どちらが部屋の主か判別することは出来ない。

 さて2人は何をしているのか。
 少女とは言っても、既に大人への一歩は踏み出しているようだし、
 青年も心なしか疲れているようだが、同年配と比べても発達した姿である。
 そんな2人がベッドの上、何も話さず、互いに寄り添う様を見る限り、
 恋人同士の逢瀬を思い浮かべるのは簡単だが、
 2人の作り出す雰囲気は、求め合う、というよりは、
 補い合う、支え合う、といった感触だった。
 だから2人のソレは、恋人と言うよりは、長年連れ添った伴侶のようだった。
 そして、それが正しいのだろう。



「右手と左手のようになれないかなぁ」

 両の腕を胸元に掻き抱いて少女は、ぽつりと溢した。

「どうして?」

 その少女を胸元に掻き抱いて青年は、ふんわりと問いかけた。

「死んでも私と一緒にいてくれるから」

 後ろから回された腕に手を添えて、そのまま背を預ける。

「触れた貴方に一番近いから」

 少女の重みと暖かさを感じつつ、微かな福音に耳を傾ける。

「爪の先まで私で満たされているから」

 開いた窓から吹き込む風で、少女の長髪が舞い上がり、それが顔に触れた青年は、こそばゆそうな笑みを浮かべつつ、その香りに酔いしれた。

「全部、君なんだ」

 青年の手が少女の腕を包み、すべり、指先にまで達する。

「ここまで全部、君が詰まってる」

 優しく握りかえす感触に再び笑みが浮かぶ。

「貴方も、ここまで全部」

 少女が微笑んだ気配に、青年は堪らなく嬉しそうだった。



 夜が、こんなにも静かで穏やかだったなんて、僕は知らなかった。
 同じ部屋、ベッドの上で、ただ側にいると解り合うだけで、
 こんなにも幸せになれるなんて、はじめての僕に出会った気分だった。
 自分と同じように生きて、暖かい誰かがいる。
 それこそが僕の存在根拠であって、誰かの存在根拠なのだと、
 彼女の額に口づけながら思い至った。



 しばらく、少女は青年に抱きすくめられたままだったが、
 不意に、青年の腕から手を離したかと思うと、
 そのままベッドを跳ね降りて、窓際に駆け寄った。
 それに対して青年は、特に驚いた風もなく、ベッドに腰掛けたまま。
 ただ彼の目は、外を眺める少女の後ろ姿に釘付けで、微動だにせず。

 青年が動いたのは、少女が窓から飛び出した後。
 ゆったりとした動きで窓際へ寄った青年は、
 窓の下、階二つほどの所にある通路の屋根から隣の建物の屋上へと走る少女を視界に収め、
 少女と同じように、窓から体を宙へと躍らせた。



 そして今、2人は夜空の下の屋上で、女優と観客になった。
 少女は音もなく、共演者も居ない舞台を踊り続ける。
 その動きからすると、バレエの経験があるのかもしれない。
 対して青年は、どちらが正面ともつかない舞台を前に、
 屋上の縁、押されてしまえば落ちてしまうような場所に座っている。

 特に寒い夜ではない。初夏が目前に迫っている。
 例年ならば蝉や鳥の声がする時刻になりつつあるが、
 屋上に響くのは、少女の動きに合わせて擦れる靴先の音だけだった。
 そして青年は、何か話しかけることもなく、ただ座り、見続けている。



 そのすべてが幸福に縁取られ、



 そんな2人の営みの行方を、



 地の果てに沈もうとする月が見つめていた。

               * * * * *

 体の自由が戻ったとき、最初に頭に飛び込んできたのは驚愕だった。
 何故、自分は研究室で眠っていたのか。
 何故、自分は血まみれなのか。
 何故、頭と腹部に激痛があるのか。
 何故、視界も意識もハッキリしないのか。
 何故何故何故何故何故何故何故何故!?

 深呼吸。落ち着け、落ち着かなくてはならない。

 とにかく、周囲の確認。
 先程も疑問に感じたが、自分の衣服は血まみれで、よくよく見ると、激しい痛みを感じた腹部に小さな穴が空いている。
 血の跡から考えて何かに腹部を貫かれたのだろうか?
 しかし、腹をさすってみても傷口がない。
 同じく頭部も、やはり血まみれなのだが、なで回しても傷口が見つからない。
 とりあえず服は仕事着のまま。
 ・・・・・・・・・『仕事』をしていた時に襲われた、のか?
 何だか違う気がする。
 記憶を呼び出そうとして、何だかはっきりしない。
 確か、『仕事』は完成した、はずだ。
 ならば自分は一体何をしていたんだ?
 立ち上がった自分の前には散乱した機材と資料の載ったテーブル。
 とりあえず、手近にあった資料を手にして、目を通す。

 思い出せない。

 自分の筆跡なのに、何をしようとしたのか、全く判らない。
 機材を見るに、何かの薬物を作ろうとしたのだろうか?
 ・・・・・・・・・どうして? そういった『仕事』は、とっくの昔に終わっているはずだし、第一、僕の担当じゃない。
 ただ、僕が作ろうとしていた薬物は、ソレらとは違う、それだけは判る。
 この資料に使われている理論は、今の僕が容易に判らないレベルにまで拡張されてはいるが、僕たちが『仕事』に使ってきた体系に属する物だし、そういうことなら以前に作った薬物と同じ系統のものを作った訳がない。効果が違いすぎるのだ。

 思い出せない。

 僕は何をしようとしたのだ?
 視界がぶれる。まだはっきりしない。
 自分だけじゃ駄目だ。みんなにも聞かな



 ズキリ



 激痛。頭が割れた、そう思った。
 何だ?何が起こった?みんなのことを考えただけ



 ズキリ



 再び。どうして?みんながどうしたと



 ズキリ


 耐えきれず、床にへたり込む。
 両手で頭を全力で挟み込み、必死に考え続ける。
 原因はココにある、間違いない。
 考えろ、考えるんだ、この部屋で倒れたとき、何が起こった?



 ・・・・・・・・・・・・倒れ、た?



 そうだ。僕は、この部屋で、寝ていたんじゃない、倒れていた。
 どうして倒れた? 何故倒れたままだったんだ? そうだ、僕は何かに襲われたんじゃないのか? ・・・・・・・・・奴ら、じゃない。奴らだったら、僕を襲って、放置したりしない。第一、奴らはもういないはずだ。ならば、僕は誰に襲われた、なのにどうして傷を負っていない? これが正しいんだ、だから、僕は既にこの推論を事実として考えているんだ。少し混乱している、もしかすると僕はもう分かった上でこんなことを考えているのか、そんな気もする、でも判らない、判らないのだ、何が判らない? どうして判らない? 頭を傷つけられたから? 傷ついたのに傷ついてないのは? 薬の効果? 薬は僕が作った? どうしてそんな薬を作った? 『仕事』は完成したんじゃなかったのか?



『仕事』が完成したから、問題なのか?



 誰もいなくなった建物を、青年が走る。
 その姿は血まみれでおどろおどろしいが、それ以上に致命的な状態であることに、本人は気付いていない。
 青年は廊下を、階段を、中庭を走りながら、何事かを叫んでいる。
 叫んでいるのだが、混乱しているのか不明瞭で、泣き声にしか聞こえない。 何を探しているのか、誰を呼んでいるのか、何処を目指しているのか?
 それすらも判らないほどに、青年は走り回る。

 そして、彼は最後に、建物の中心部、周りを取り囲むコードや機材の群れに囲まれた、大きな部屋へと飛び込んだ。
 唯一のドアを開き、叫びながら走り込んで、

 何かに躓いて、床に転倒した。

 すぐさま立ち上がろうとして、床に突いた手が、何かに滑る。

 その感触に、青年は動きを止める。

 憶えがある、ありすぎる。

 だって、彼が目覚めた最初に、体中で感じたものと、全く一緒で、

 それが示すのは、



 恐る恐る覗き込んだ両手に、自分のとは別の血がまとわりついている。

 先程、自分は何かに躓いた。

 まだ、その何かを、見ていない、見たくない。

 床に広がる血溜まりの、その先は、自分の足下に横たわる、



 胸に穴を開け、

 見慣れた銀髪の躰に、

 こちらを向いた虚ろな顔に、

 なんで見覚えがあるのだろう?

 どうして、判ってしまったのか。

 ソレよりも先に、心が反応して、



 建物を超え、



 空にまで届いた響きに、



 ただ丸く光る月だけが耳を傾けていた。

               * * * * *

 そこで男は目が覚めた。



 周りを見回して、眠りについた時と何も違わないことに安堵する。
 もしも誰かに見つかったりしていたら、非常に面倒だったのだ。
 公園から歩いて見つけた路地裏、出来る限り奥へと身を隠したのだが、
 それが功を奏したらしく、誰かが近づいた形跡すらない。

 ・・・・・・・・・いや、人以外だといるようだ。
 自分が居る場所よりも更に奥、積み重ねられた段ボールの影から、子犬が数匹、自分の立てた物音に顔を覗かせていた。
 それに対し、特に何かをすることもなく見つめていると、不意に一匹が近寄ってきた。
 クンクン鼻を鳴らしているところから見て、餌を欲しがっているのか、それとも餌を持っているかどうかを確認しているのか。
 手の届く距離にまで近づいてきたところで、頭でも撫でようと手を伸ばし、



 激しく痙攣したかと思うと、急に大声で吠え叫び、そのまま反対側へと走り去ってしまった。
 他の犬たちも同様で、こちらを見ようともせず、最初に駆け抜けていった犬を追いかけていった。
 その足音と鳴き声が遠ざかっていき、



 男だけが残された。



 その光景に暫く固まっていたが、不意に溜息をついて、
 そのまま空へと目を移した。
 その横顔は、どこか気を引き締めたようで、泣いているようにも見え、
 そのどれでもなく、何も考えていないようにも思えた。



 夜空を眺めながら眠りについて、起きた後の空もやはり星空。



 その、何処にも、



 男を見つめ続ける月は、見当たらなかった。

               * * * * *

「ホントだね」
「ホントだね」

 二人、いや『1人と1箱』として会話になっていないが、
 夜空の在るべき場所に在るべき物が無ければ仕方がないというものだ。
 両者共に、空を見上げたまま、完全に固まっている。
 近所どころか交通量すら少ないのも、この前代未聞の大事件に言葉通り『注目』しているからだろう。

「無いねぇ」
「無いよね」

 一体何が無いのか?
 果たして夜空は、雲一つ無い快晴なのだが、見えるのは星ばかり。
 が、しかし、今日は新月ではなく、三日月が見える夜。
 ならば、どういうことか?



 今晩、突如、明らかに昇っていた月が、消えたのだ。



「ニュースもそればっかりだけど、仕方ないよねぇ」
「だよね」

 こんなに穏やかな会話をしているのは珍しいことなのだが、
 まぁ、ここまで非常識な光景を突きつけられれば、
 人の中身だって非常識になるのだ。
 そういうことにしたい。

「朝っぱらのニュースじゃ、あの巨大クレーターで持ちきりだったのに」
「あぁ、あんたが教えてくれた奴」
「そ。もっと知りたかったんだけど、全然ニュースしてくれないし」
「そんなに気になるの? そのクレーター」
「ん~~~、いや、理由は分かんないんだけど、なんでか、ねぇ」
「はっきりしないんだ? まぁいいか。明日の新聞には詳しいことが載ってるかもしれないし、何なら友達に貰ってくるし」
「あぁ、それは助かるかも」
「助かるって、それは大げさでしょうよ・・・・・・・・・で、どう思う?」
「思う?」
「これ」

 そういって指し示すのは星だけの夜空。

「月が無い、という訳じゃないでしょ」
「え、そうなの?」
「もし本当に月が消えてしまったんなら、潮力も無くなって、地球は今頃大災害で大惨事だもの。全く地球の環境に変化がないのならば、今も月は普段の場所になくちゃ、おかしい。だから」
「私たちに見えなくなっただけ、ってこと?」
「そういうこと」
「・・・・・・・・・・・・あんた、結構頭良いんだ、箱のくせに」
「色々と胸に突き刺さるんですけどチョット!!!」
「気のせいだから」
「いやそれ絶対嘘でしょう!」

 やっぱり普段通りだった。

「人工衛星も見つけられないんだから、これって錯覚じゃないんだよねぇ」
「そうだよね。やっぱり、不思議は不思議なんだよね、これ」
「そういえば、原因とかには触れてなかったよね、さっき」
「う、バレたか」
「何、その態とらしい反応」
「実のところ、月が見えなくなった理由も方法も分かんないのは、まさにそうなんだよね、ホント」
「そりゃそっか」
「そうよ」
「威張るな」

 夜は更けていく。

 彼らを包む世界が動き始めて、ここで一日。

 最初の波は、それ以上の津波に飲まれて、とりあえずの落着を見た。

 ある組は見えない誰かに警戒し、

 ある組は未知の工程に惹かれ、

 ある組は自分たちに関わりがあるとも考えず、

 ある組は目的を見いだし、

 ある組は既にその関わりから逃れようとしていて、

 ある人間だけが、あくまでも蚊帳の外だった。

「それにしても」
「ん?」

 ロッカーは同居人の視線が、空から自分に向かっていることに気がついた。

「何?」
「いや、別に、なんでもない」

 そういって台所へと立つ。
 その後ろ姿を目にしつつ、ロッカーは何も言わない。
 月のない空に飽きたのだろう、そう思ったのか。
 だから、台所で同居人が呟いた言葉に気付かない。



 その言葉は、溜息混じりで呟かれた。



「不思議の国は、ずうっと、ここにあるんだね」




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