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Last update 2008年03月14日

檻  著者:おりえ


「すみません。ビンタしていいですか?」
 会社の昼休み、食堂から出た俺に唐突に声をかけてきたのは、全く知らない女だった。
「は? なんですか?」
 俺には女難の相が出ているに違いない。
 先日女が出て行った。まあ、それはいい。大した女じゃなかった。だがしばらく女はごめんだった。関わりたくない。
 そんな状態の俺に、見知らぬ女がビンタしていいですか、だと?
 これは聞き違いだ。間違いない。
 聞き返しながらも俺は呆けていた。最近、現実と夢の境界があやふやになっているのだ。勘弁してくれ。放っておいてくれ。
 そんな俺を現実に引き戻すような、強烈な痛みが頬に走った。
 がやがやとうるさい食堂が、一瞬だけ、静まり返る。
「……ってぇ」
 鋭く焼けるような痛みに顔をしかめて女を見下ろす。現実に戻った俺に突き刺さるのは、無数の好奇な視線だった。
 俺に断りを入れておきながら俺の返答もまたずに事を済ませた女は、緊張のためか顔を真っ赤にしていた。
「あなたみたいな人を、女の敵って言うんだわ。こうやって痛い目に何度でも遭えばいい!」
「おい、なんだよ、あんた誰だよ!?」
 じわじわと頬から広がってゆく痛みは、俺に感情を思い出させる。いわれのないことで女から暴力を受けた。ふざけんな。これは怒っていい。誰が見たって被害者は俺だ!
「誰だっていいでしょ。あの子は自分が悪いんだからなんて言ってたけど、わたしは我慢できなかった。それだけ!」
 女は吐き捨てるようにそう言うと、肩を怒らせ、そばに居た人たちを強引に押しのけながら去って行く。
「ちょ……おい! なんだよ!?」
 声を荒げる俺は、この場から逃れたい一心で女の背を追った。
 逃げるような早足の女の腕をつかんで引き寄せると、小柄な女はたやすく捕まった。お互い息を荒げていて、まともな状態じゃなかった。
 自販機の並ぶ廊下まで女を連れ込むと、乱暴に女を壁にたたきつけるようにして押し付けて、俺は怒鳴った。
「いきなり来て人引っぱたいておいて、意味わかんないこというんじゃねぇよ! 人違いじゃねぇのか!?」
「……呆れた! あなた、自分が何をしたか、本当にわかってないの?」
「あ?」
「……はぁ」
 女はわざとらしく首を左右に振り、一番聞きたくない女の名を口に乗せる。それだけで、俺には全て察しがついた。
「……おまえ、あいつのなんだよ? 友達か?」
「そ。結婚式にも出席したし、ブーケまで貰ったの。覚えてない? ま、あなたにそれを期待するほうが馬鹿だけど」
「……」
 婚姻届を出し忘れた間抜けな元彼女の友達だと、女は名乗った。
 俺たちは険悪な雰囲気のまま自販機でコーヒーを買い、傍のベンチに腰掛けた。昼休みは、残り十分を切っていた。
「おまえどこの所属だよ? 見たことないけど」
「人事部」
「ふーん」
 気のない返事をしてやる。俺がそこへ行くことはないだろう。書類の受け渡しなんかは全て女性社員か派遣にやらせている。聞いても意味のないことだったが、雑談するにはこれ以上適当な話題はない。
 女もそれはわかりきっているようで、ざっと話を切り替えた。
「……大学時代からつきあってたんでしょ。わたし、同じ会社にあのこの彼氏がいるって知って、こっそり見に行ったこともあるの」
「ふーん」
「……あなた」
 空返事をする俺に眉をつりあげ、女は軽蔑しきった声で言った。
「向こうのご両親にも、あのこにも、謝罪してないんだってね」
「おいおい」
 俺は苦笑した。
「なんで俺が謝らないといけないんだよ。婚姻届を出し忘れたのはあっちなんだぞ。
こっちはそれも知らずに今までつきあってたんだ。俺のほうは気持ちは冷めてたし、お互いバツイチなんて経歴もつかないうちに別れてやったんだ。何を謝罪しなくちゃならないんだよ」
「……ほんとに…」
 女は片手で髪をいらいらとかきあげる。うっすら茶色がかった髪がさらさらと指の間から零れ落ちた。
「あの子はあなたと別れて正解だった。ねえ、もう一回ビンタしてもいい? あなたと話してるとそうしたくなるの」
「だったら俺と話してないでさっさと行けよ。俺はうんざりなんだよ、しばらく女とは口も利きたくないんだ」
「はぁ……」
 女は深いためいきをつくと、立ち上がった。お互い缶コーヒーを開けてもいない。買ったはいいが、飲む気にはなれなかったのだ。
「あのこの方は、まだあなたのことが好きみたい」
「はぁ!?」
 俺は間抜けな声を出した。なんだって!?
「ほんとに、なんでこんな男がいいのかわかんない。わたしまで男性不審になりそう。こういうダメ男に母性本能くすぐられちゃうタイプなのかもね、あのこ」
「本人目の前にずけずけ言うね」
「だって事実だもの。……あのこ、ひとりになったあなたのこと、心配してたわよ」

 哀れむように俺を見下ろす女の目とその言葉に、俺は一瞬固まった。
「……なんでだよ。あっちが出て行ったんだ」
「あなたが言ったんでしょ? さっさと出て行けって。酷いこと言うわよね。あのこ、ちょっと鈍いところもあるし、無神経なところもあったけど、あのこなりにあなたのことを、大事に思ってたのよ」
「大事に? あいつは本当に自分勝手な女だったんだぞ」
 俺はへっと笑った。
「夫婦になっても自分が一番、俺のことなんか考えてもなかった。気に入らないことがあると全部俺のせいにされたし、自分の頭の悪さも棚にあげて、俺を罵ってばっかだった」
「……じゃあ、あなたは?」
「は?」
 女は手の中の缶コーヒーを弄びながら、俺を見た。
「あなたはあのこに、何をしたの? あのこを一度でも見た事があった? あのこはわたしにいかにあなたが好きかっていつも話してた。自分が馬鹿なことをしても冷静に突っ込んでくれて、それがいつも恥ずかしくて心にもないことを言ってしまうとか、後からああすればよかった、こうすればよかったって後悔してたのよ。あなたは? …あなたはあのこに対して、鬱陶しい以外の気持ちを抱いたことはないの?」

「……ないね」
 わずかに逡巡した後、俺は言った。言い切った。そうさ、ここで俺が迷ってしまったら。
「そう」
 女はそれを聞いても肩をすくめるだけで、咎めるようなことは何も言わなかった。想定内だったからだろう。
「あのこにも悪いところはあったわ。あのこはあなたのことを心から信じていなかったんだし。…それは、あなたのせいでもあったんだけどね。仕方ないわ。あなたたちは結ばれるべきじゃなかったのよ。それがよくわかった」
「そうですか」
「ええ」
 女は腕時計にちらりと目をやると、缶コーヒーを困ったように見下ろした。
「じゃ、そろそろ行かなくちゃ。…これ、いる?」
「いらねーよ」
「勢いで買っちゃったけど、わたしコーヒー苦手なのよ。苦味がいつまでも口の中に残るし」
 他の子にあげるかとつぶやいた女は、意地悪そうな目になって俺に言った。
「あのこもコーヒーが苦手なのよ。知ってた?」
「そりゃ…」
「へえ、意外。じゃあね、言っておくけど、叩いたこと、わたし一生謝る気ないから」
「はいはい」
 つかつかと早足で去って行く女の背を、俺はぼんやりと見送った。俺も立ち上がらなくちゃならないのに。仕事場へ戻らなくてはならないのに……



『今夜は、あなたの好きなものを並べてみたんですけど、お口に合いますか?』
『そりゃ、俺の好きなもんなんだから、合うよね』
『えっと……』
『なに?』
『……いえ、なんでもありません』


 なんだよ。
 ……なんでこんなこと思い出すんだ。


『あの、聞いてもいいですか』
『なに?』
『どうして、私と結婚してくれたんですか。絶対断られると思ってました』
『断る理由もないからね』
『え……』
『俺もいい歳だし、お互いいつまでも独り身じゃ、周囲が放っておかないよ』
『あの……』
『なに?』
『それだけ、ですか?』
『え? 他に理由がいるの?』
『……そうですよね。そう……ですよね…』


 べこっと音がして我に返る。手の中の缶コーヒーがわずかにつぶれていた。
 …なんだよ。今更なんだよ!?


「ああそうだよ」
 俺は立ち上がる。和らいだと思っていた頬の痛みがぶり返した。
「俺はあいつの好きな食べ物も、何色が好きかも、どんなテレビ番組が好きなのかも、何も知らねえよ! だからなんだ! あいつは俺に何も話さなかった! 知りようがないじゃないか!」



『ん? 何コレ?』
『あ、売ってたんで買ってきました。この間、それ飲んでましたよね』
『ああ、この銘柄のビールはうまいんだよね』
『へへへ』
『なに? どうしたの?』
『いいえ…なんでもないんです』



 うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!
 俺が悪いのか!? 違うだろ? あいつはたかがシューマイごときにひとりで大騒ぎしてヒステリー起こすようなどうしようもない女だったんだ! 俺が愛想つかすのも当然じゃないか! コーヒーが苦手だ!? 知るわけないだろう! あいつはなんにも言わなかったんだ!



 ――あのこはあなたを心から信用していなかったんだし。



 そうだ……
 あいつは俺を信じてなかった。そりゃ話すこともないだろうさ。俺たちの間には思い出と呼べるようなものなんか何もなかったんだ。



 ――あのこの方は、まだあなたのことが好きみたい。


 ――ひとりになったあなたのこと、心配してたわよ。




 くそ…っ! 
 女なんかなぁ…馬鹿で力もないどうしようもない生き物なんだよ! 
 そうだろう!? なあ!




 昼休みを過ぎても職場に戻らなかったせいで、俺は上司からお小言をもらい、残業を遅くまでやるはめになった。
 仕事を淡々とこなしながらも、俺の頭の中はあいつのことでいっぱいだった。
 …今ならわかる。
 俺はずっと、あいつのことを試していた。
 こいつはどこまで俺についてこられるだろう。
 どこまで冷たくすれば、俺に本性を見せるのだろう?
 つきあっても決して俺に心の内を見せようとしないあいつに、俺は苛立っていたんだ。
 どこまでも他人行儀で、俺の三歩後ろを歩くようなおとなしいあいつが、俺は憎らしかった。
 結婚して一緒に住むようになってしばらく経つと、あいつは遠回しに俺を責めるようになった。
 一緒に出かけようと言っても俺が断ることを根に持っていつまでも文句を言う。
 何をしても無駄なのだと悟ってわがままに振舞うようになった。そんなあいつに俺は安堵すると同時に嫌になったのだ。
 試すことばかりに夢中になって、幸せになる方法をとらなかった自分と、あいつと、あの生活に。
 …今にして思えば、あいつが婚姻届を出さなかったのも、記入すらしていなかったのも全てわざとしたのではないかと思えてくる。あいつもどこかで思っていたのだ。この結婚生活が長く続くわけがないと。
 終電ぎりぎりの満員電車の中、俺は静かに息を吐いた。
 言ってやればよかった。
 結婚して欲しいと言われてうなずいた本当の訳を。



 誰もいない家に帰る俺の目に、外灯の下、ぽつんと待っている女がいた。
 長いこと凍っていた心臓が、どくんと跳ねる。駆け寄るのも格好悪くてそのままの歩幅で近づくと、女は俺に気づき、はにかんだように微笑んだ。別れて以来会っていなかった、婚姻届を出し忘れた女だった。
「すみません。なんかストーカーみたいな待ち方しちゃって。あの、友達が、失礼なことしたそうで…すみませんでした」
 いつから待っていたのだろう。もう日付も変わっているというのに。そういえば、俺がどんなに遅く帰ってきても、家の灯りはついていたな。
「わざわざ待たなくても」
 俺がそう言うと、女はとんでもないと首を振る。
「どうしても謝りたかったんです。大丈夫ですか」
「うん。もうなんともない」
 嘘だった。頬は今もちくちくと痛む。……おかしいな。いつもだったら本当のことを言って困らせてやるのに。
「良かった」
 女はほっとしたように笑う。……俺はこのとき初めて後悔した。俺がこういえば、こいつは笑うのだ。どうして今まで、困らせてやることしか考えなかったんだろう。

「あ、それじゃあ帰ります。さようなら」
 女はぺこっと頭を下げ、俺に背を向ける。俺は慌てた。
「さようならって、だってもう電車ないよ?」
「えっ、そうなんですか」
「そうだよ。今何時だと思ってんの」
「え……と、あっ! あ……ほんとだ。……あー、えと、大丈夫です。それじゃ…」

 女は腕時計を外灯の下に晒して絶句したが、俺を見て誤魔化すように笑うと、もう一度頭を下げる。俺はイライラした。
「ねえ」
 咄嗟にその腕をつかみ、俺は目を丸くした。なんだよこいつ、明らかに痩せてる。

「わっ」
 女は簡単にバランスを崩して、俺の腕の中に倒れこんできた。支えるように後ろから抱きしめてやると、懐かしいその感触に、喉の奥が痛くなった。
 最後に抱きしめたのは、いつだった? もう長いこと、こいつに触れていなかった。……ああ。なんだって俺は。
「すみません…!」
 女は慌てたように俺から離れようとする。俺は自然と腕の力を強めていた。ここで逃がしたら、本当に終わりだ。
「ねえ、聞いていい?」
「え」
「なんで、俺と結婚したいって言ったの」
「……」
 女は息を呑み、かすかに震えた。それはもしかしたら俺だったかもしれない。
 女は囁くように、恐らく俺に聞こえないように口を開く。だが時間が悪かった。そのつぶやきはやすやすと俺の耳に届く。いや、こうして抱きしめていれば、どんな喧騒の中でも同じだったろう。
「あなたが好きだから」
「……なんで? 俺いっぱい酷いことしたと思うけど」
「それでも良かったんです。あなたが私を嫌いにならない限り、傍にいたかった。…でもあなたは私なんか元々必要じゃなかったんですよね。だからいいんです。…こういうこと、してくれなくてもいいんですよ」
「……」
「ありがとうございました」
 そう言って、女はまた俺から離れようとした。だけどどうすれば俺に腕の力が緩められるんだ。
「君は、どうして俺にそんななの」
 俺は力なくつぶやいた。女は俺の腕の中でもがいていたが、それを聞いて黙り込む。
「つきあう前も、つきあってからも、一緒に住むようになってからも頑なだったよね。絶対に俺に本心を見せようともせず、うわべだけで俺の隣にいた。俺はそれが嫌だった。なんとかして君を怒らせたくてわざと色々言ったけど、君はわがままになるばかりで、やっぱり俺に心を開かなかった」
「……あなたに嫌われないようにするには、どうすればいいかわからなかったんです」
「だからさ、そういう態度を俺が嫌がってるって、なんで思わないわけ」
「だってあなたこそ、私に心を開かなかったじゃないですか」
 女は疲れたように言った。
「結婚したのだって、断る理由がないって、世間体のためってそう言いましたよね。
 ……ちょっと、辛かったです」
「……」
 ちょっとどころではなかったはずだ。どこで間違えたんだろう。どうして俺たちは、こうなってしまったんだろう?
 女は俺から嫌われたくなかったという。俺はただ、格好つけたかっただけだ。加えてお互いがお互いを、ちっとも信じちゃいなかった。
 それだけと言われればそれまでだ。だが安易に人を信じてしまうことに、どこか俺たちは恐れを抱いていたのも否めない。それがずっと傍にいたいと思う人であっても。不器用同士が惹かれあって、変わることを恐れた結果がこれなのだ。
「今でも俺のことが好きだって、友達から聞いたけど」
「はい」
「どうして?」
「好きなことに理由はいらないですよ。私もどうしてだろうって思ったけど。だけどやっぱり好きだから、会いに来ちゃいました」
 ごめんなさいと、女は泣きそうな声で謝った。俺は呆れた。
「君って変な人だったんだね」
「……そうですよね」
「俺たち、努力ってものをしなかったね。お互いが相手のために何かをしても、お互いがそれを拒絶した。変わらないわけだよ」
「…そうですね」
 俺は女を強く抱きしめて、肩に額を乗せた。
「――君の事、きちんと考えてやれなくてごめん。嫌われるようなことたくさん言って、それでも君の気持ちが変わらなかったのが悔しくて、俺は君を突き放した。もう嫌だったんだ。身勝手だった。ごめん」
 俺がごめんと謝るたびに、女は体の力を抜いていった。その甘い重みは女の心そのものみたいで、俺はようやく、手に入れることに成功したのだと確信した。
 そうだ。俺がずっと望んでいたものは、これだったのだ。
 こんな身勝手な俺に最後までついてきてくれるのは、世界中どこを探しても、この女しかいない。その確証となるものを、俺はずっと欲していたのだ。
 女は俺に体を預けたまま、涙声で「あーあ」とつぶやいた。
「これで最後にするつもりだったのに。気持ちに区切りをつけて、他に優しくてかっこいい男の人見つけようって思ってたのに」
「残念だったね」
「だけど無理みたい。どうしてかな。離れていても、考えるのはあなたのことばかりだった」
 俺が後ろでにやにやしているのがわかったのか、女は肩をすくめて、諦めたように、それでも優しい声色で言った。

「あなたって、麻薬みたいな人ね」




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