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Last update 2008年03月15日

ある日のデート  著者:暖房



 会った瞬間、叱責の幻聴が聞こえてきた。目の前にいとおしい女の顔があるのにも関わらず追いかけて来るあの上司の声がした。だがそこに本人がいる訳もなく、俺は何とか待ち合わせ相手の女の笑みに集中しようとした。それは大きなストレスから逃れる為の唯一の方法だった。恋愛が捌け口になるという愚かな構図には我ながら嫌になったが、どこかでそれに甘えてもいた。だから今日も俺は女に声を掛けた。
「ごめん、遅くなっちゃった。待った?」
 女は何事も無いように答えた。
「ううん、大丈夫」
 こうして優しい言葉と共にやっと幻聴は去り、俺達はデートができた。俺達は駅前の雑踏に混じって歩きながら夕方のレストランを探した。他の人間達の声の中には上司を思わせる似た声もあったが、俺は耳に入らないように心を配った。幻影に過ぎないと心に言い聞かせた。女は時折俺の横顔を見る。話の内容はどうでもいい事ばかりだったけれどその囀りは心地良かった。十二月の冷たい風に煽られながらも俺達はぎゅっと手を繋ぎ、仄かな暖かさを頼りに前に進む内に突然女が止まった。
「ほら、ここ、美味しいらしいよ」
 見ると緑の看板には黒い店名の他に赤いpizzaの文字が踊っていた。それはきっと一年中同じ配色に違いないのだが、近いクリスマスを思わせてならなかった。俺は小さなプレゼントを見つけたように思った。
「じゃあここにしようか」
 女は小さく頷いた。その仕草が可愛くて少し手を強く握ると、俺達は舞台を去るようにレストランに入って行った。
 広く暗い店内はウッド調ベースの少し煤けた感じだったが、テーブルに置かれた様々な色付きグラスのキャンドルの瞬きが何か特別な吐息を感じさせた。女はセピア色の輝きを放つテーブルを指差した。
「あそこがいいわ」
 俺は女の手を引きそのテーブルを目指した。赤い光や青い光の間を通り抜けて辿り着いたそのテーブルはまるで二人の想い出のように揺らいでいた。俺達は座り、メニューの中をあれこれと散策しながら店員が来るのを待った。選べる自由というものが俺には嬉しかった。
 ピザを待つ間に女の唇はよく動いた。職場の事、家族の事、それはまるで堰き止めていた水が放たれたようにテーブルに溢れ続けた。俺はそれをふんふんと聴いている内に何かしらの違和感を覚えた。それは頭の片隅にある上司の事が次第に膨らんでくるという現象だった。好きな女の言葉に乗ってそれはどんどん加速し密になっていった。好きであるという事に夢中になれない俺がそこには確かに居た。

 上司は最近離婚したばかりの男だった。仕事はよく熟したがいつも奪われた子供や別れた妻の事で苛立っていた。そして何彼に付けて部下に難癖を付けては憤り当たっていた。その怒りはやがて沸点へと立ち上り、そして愚直なまでに、失われた時への哀惜を叫び続ける。それが毎日々々社内で行われ、殆どの者は辟易としていた。だが俺はそういうのは苦手だったから時折反抗した。そしてそれはやがて俺の私生活への非難にも繋がっていき、結局の所、結婚もした事の無い者に何が分かるかという罵倒で終るのだった。
 正直な話俺は何時もその事に呆れた。確かに俺は結婚はしていないが恋人は居る。だから別れるという事に関しては分かっているつもりだった。子供が居るにせよ居ないにせよ突如孤独に戻るという事の痛みは分かっているつもりだった。だが上司はいつも「違う」と言った。そんな生温いものでは無いと。そうして何時も俺の想像力さえもが否定された。

 目の前にピザが来たのに気付いてはっとすると女はまだ話していた。俺は暫く意識が何処か別の場所へ行っていた事を知り慌てて女を見たが、何時も通りに微笑みながら話していた。
 俺達はピザを食いながら互いを見、そして緩やかに話を続けた。トレンチコートを脱いだ紺のスーツ姿の俺とダッフルコートを脱いだ首回りの緩いピンクのセーター姿の女はきっとこの店に合っていた。
 ピザは美味かった。とろりとしたチーズにサラミ、さくさくのクリスピーの生地にトマト、もう余計な事など何も無かった。と、急に女は訊いた。
「大丈夫?」
「何が?」
「何か難しい事でも考えてるのかなって」
「いや」
 俺は慌てて否定したが内心はどきっとした。今この場に関係の無い上司の事が再び頭を持ち上げた。冗談じゃない、何の権利があってこんな隙間に入って来るのか。俺は女の顔を見てもう一度言った。
「何でもないよ。美味いね、これ」
「うん」
 いくら上司とは言えいい加減にして欲しかった。俺と女の間に割って入るなんてとんでもない話だ。だがこびり付いた幻影はいつしか俺達の隣に座り込み平気な顔をして邪魔をするのだった。
 女は気にするでもなく話を続けた。俺も気にしないようにそれを聴いた。だが一方で他人事とは言え別れという重い話が何度も胸に甦り、俺はそれを払拭するのに必死だった。幸せな時間はいつしか薄っぺらになり上司の嫌な言葉は心の何処かで繰り返された。
 女の可愛い囀りとチーズの香りに紛れ、キャンドルの光の差さない僅かな隙間を狙って潜り込んでくるそいつはまさに影だった。




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