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Last update 2008年03月15日

盾から伸びた手  著者:おりえ


 会った瞬間、叱責の幻聴が聞こえてきた。
 苦手だと直感した。
 元々人付き合いは悪いほうだ。大勢よりひとりを選ぶ。
 世間体と生活のために入った奴隷社会の一角にすぎない灰色のビルの中で初めて上司と呼べるその男を見たとき、彼は無表情を装いながら絶望していた。
 ――こりゃ、長くは続けられないだろうな。
「この業界、経験あるの?」
 男は素っ気無く尋ねた。
「前の会社でかじった程度です。ご迷惑をかけるかもしれませんが、どうか宜しくお願いします」
「うちもこの通り忙しいからね。あんまり君に構ってる時間はないんだ。体で覚えて」
「はい」
 頭を軽く下げながら、彼はもやもやと心を覆う不快感に吐き気をこらえていた。
 ――ダメだ。何がダメなのか分からないが、この男にはついていけない。そんな気がする。
 そんな素振りはおくびにも出さないが、彼が不安な目をしたのを見つけたのだろう。男は苦笑した。
「あ。そんな硬くならないでいいから。はじめから重要なことはさせないよ。安心して」
「……はい」
 人と接するのは嫌いだ。
 それを痛いまでに後悔するのはこういう時。
 初対面の人間相手に、どんな言葉を言えばいいのかわからない。
 下らない冗談を飛ばして笑わせていいのか。その内容は果たしてこの空気に合っているのか。
 そんなことをつらつらと考えてしまって、何故人と接することの出来る学生でいた頃にそのノウハウを身につけなかったと自分自身を罵りたくなる。
 会社など辞めなければよかった。
 そうすれば、新しく構築しなくてはならないこの厄介な人間関係というものに頭を悩まされないですんだものを。
 それでも辞めたきっかけがそれが無残なまでに崩壊してしまったことなのを思うとやりきれない。
 結局世渡りが下手なのだ。ひきこもりにでもなれれば楽だが、そうなるためには経済的に余裕がない。現実は厳しいのだ。
「挨拶もすませたことだし、昼行くか。奢りだから安心しろ」
「あ、すみません。助かります」
「はは、正直なやつ」
 未だ心を開けないままの緊張した面持ちのままで、彼は混雑する飲食店の通りを男の背を追いかけて小走りになった。
「前の会社は厳しかった? なんで辞めちゃったの」
 男はロースカツを箸でつまみながら、向かい側に座る彼を見た。
 彼は恐縮しながら味噌汁をすすり、言葉を濁す。
「なんと言いますか、自分のケツの青さが嫌になったというか……」
「おいおいメシ時にシモ関係の話はやめてくれよ」
 男は笑いながらカツを頬張った。
「ちょうど親の具合も悪くて、今思えば自分余裕なかったなって」
「お母さんのほう?」
「あ、はい。先月亡くなりまして」
「そりゃあ大変だったなあ」
 男は神妙な顔つきになって、カツを箸で割り始めた。
「元々父親もいなかったんでね、唯一の肉親でした。葬儀やら何やら……金もかかったし、母親の口座から金引き出そうにも今は色々手続きがいりますでしょ。保険金のこともあるしで……正直まだバタバタしてるんですけど、職は手にしとかないと信用も得られないから、頑張らないとって……はは、すみません、初日から楽しくない話を」
 彼が場を取り繕うようにカツの周りのキャベツをソースを絡めていると、男はうんうんとうなずいた。
「俺のおふくろもとうとう痴呆になっちまってなあ」
「え――、おいくつなんですか」
「90過ぎてる。まあ年齢的にもそういう時期なんだろ。家だけじゃもう面倒見切れないってカミさんが泣くから、今度施設に入れようかって話してんだけど、俺びっくりしたよ。施設に入れるだけで金が面白いように飛ぶんだってよ」
「そうなんですか」
「そうよ。で、痴呆入るとおふくろ正常な判断なんてつかないだろ? だから後見人の手続きをこないだやったんだけど、これがもう面倒でなあ」
 男は白米をかきこんで味噌汁で流し込むと、一気に話し出した。
「後見人だから、そう簡単にはなれねーんだって。おふくろは後見人が必要な状態だなとあっちが判断するには色々調べて、三ヶ月かかるって言われちまってよ」
「三ヶ月!?」
「そ。何を調べるのかわかんないけど、それくらいは最低かかるって。どこでもそうだって言うんで驚いた。お前さんはそういうの経験せずに後処理でばたばた。こっちはいつ終わるかもわからんばたばたで参っちまうよなぁホント!」
「ほんとですね……」
 彼はキャベツを咀嚼しながら、どこも同じだと思った。
 今、大変なのは自分だけじゃないんだと。
 ……なんだか不幸自慢したみたいで、気が引けた。
 自分が少し心を開いただけなのに、苦手だと思った目の前の男は会ったばかりの自分に家の事情をぺらぺら話す――
 人が人に歩み寄るには、受身だけでいてはいけないのだと今更ながらに感じた。
 自分から歩み寄って自爆した屈辱と恐怖が怖くて長いことそれができなかった。
 常に受身で生きてきたが、今まではそれでやっていけた。
 だが肉親が亡くなり、仕事がなくなったとき、そのツケが回ってきた。
 部屋にひとりきりでいるときの静寂の重み。わけもなく襲ってくる不安。こういうときにかかってくる友人の結婚報告の電話。くたばれ。
 自分だけができない。人ができることができない。他人はみんなうまくやっているに違いないのに。自分だけが。
 そんなことをぐるぐる考えすぎて、気づけば泣いていた。
 そして愚直なまでに、失われた時への哀惜を叫び続ける。もう戻ってはこないのに。
 その状況から脱したくて、彼は就職活動をし、片っ端から会社の門をくぐっていった。その彼を受け入れてくれたビル。彼に心を開いた男。
 店から出る頃には、彼は男に気を許しかけていた。
「課長」
 上司である男の顔を見上げながら、彼は微笑む。
「なんだい」
 冷たい顔だと思ったその顔が緩む。その瞳に映る自分の顔も、笑っていた。
「これから、宜しくお願いします」
「おう」
 上司について歩いていると、ふと並びの店の窓ガラスに映る自分が目についた。
 この間まで、母の遺影を持って立ち尽くしていた喪服姿の自分はもういなかった。
 彼は映る自分にうなずいてみせた。
 そいつはまさに影だった。
 母を失った時は絶望し、職を失ったときは憔悴した、共に苦しんできた影だった。
 彼がうなずくと、映る自分もしっかりとうなずきかえしてくれた。
 上司がどういう人なのかはまだよくわからない。
 やっぱり気に入らないかもしれないし、仕事を辞めたくなる時だってあるかもしれない。
 それでも、もう受身で生きていくのはやめよう。
 どことなく小さい頃別れた父の面影を宿したこの男をもう一度見上げて――
 彼はひとりで含み笑いした。
 ――そういうことか。
 幻聴は現実になるかもしれないが、まあいいかと、上司の背中を追いかけた。




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