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Last update 2008年03月15日

うさぎの数え方  著者:田川ミメイ



 ゆず、と、うさぎが言った。
 参道の脇に置かれた段ボール箱の中の小さなうさぎが、柚子っ、と私の名を呼んだのだ。まるで子どもを叱るように。
 思わず立ち止まり、その赤い眼をのぞきこむ。息を詰めるようにして尚もじっと見つめると、うさぎは後ずさりしながら箱の隅へと逃げていった。
 どうかしてる。うさぎが喋るわけないじゃない。
 胸の中でそう呟くと、強ばっていたからだがわずかにほどけた。北風が吹き抜けて、手にしたスーパーの袋が、かさかさと音をたてる。二つに分けて、ゆるく編んだ髪がやわやわと耳を撫で、化粧もせずに出かけてきたことを思い出した。ため息がひとつ、こぼれて落ちる。

 さっきまで空は薄青く明るかったのに、いつの間にか日が傾いていた。人波に揺れる破魔矢の羽が、西日に照らされて淡い金色に輝いている。うさぎ売り――そんな呼名があるのかどうか知らないけれど――の男が、いかにも的屋といった声色で、晴れ着姿の彼女を連れた若い男を呼び止める。
 ちょっとそこのお兄さん、うさぎはね、縁起がいいんだよ。ぴょんと跳ぶからね。連れて帰ってごらんよ、今年一年が飛躍の年になること間違いなし。出世すりゃ、彼女も惚れ直すってもんだ。な、どうよ 負けとくよ。

 陽気な口調に誘われるようにして、参拝客が足を止め、白いうさぎを眺めていく。子どもたちは段ボールの周りにしゃがみこみ、ぴくぴくと鼻を動かすうさぎの顔を、物珍しそうに見つめている。いつまでも動こうとしないその背中を、母親が突いて声をかけ、少し離れた場所に立つ父親が、焦れたように子どもの名を呼んで言う。ほら、行くぞ。
 ぼんやりと突っ立っている私の前で、何度も同じような光景が繰り返される。まるで「家族」という名の寸劇みたいに。エンドレスで再演される、決まり切った物語。
 その父親役の男たちの疲れた顔に、無意識に真治の顔を重ねていることに気づいて、私はかすかにたじろいでしまう。今までそんな風に思ったことはなかったのに。
 彼が、見知らぬ家族の一員で、誰かの父親であることは知っていた。けれど、そんなことはとるにたりないことだと思っていた。私の前で、彼は「男」以外の何者でもなかったし、だから私たちは、いつだってただの男と女だった。ひと組の、あるいは、一対の。
 少なくとも、あの日までは。

 12月25日。その日は朝からなんとなく億劫だった。珈琲をいれるのも、ベランダの鉢植えに水をやるのも。それでもなんとか急ぎの仕事――日記文学の翻訳。ちょうど旅芸人が安宿で病に伏したところだった――を仕上げてファックスで送ると、まるで見計らったようにひどい悪寒が襲ってきた。よりによって、こんな日に。
 それでも私は出かけていった。風邪薬と解熱剤を飲み下し、ヒールの高いブーツを竹馬のように感じながら、どうにか待ち合わせ場所にたどり着くと、煌びやかなツリーの前で真治はまっすぐ前を向いて立っていた。駆け寄る私に気がついて、ゆったりとした笑みを浮かべる。
 その笑顔に安堵したせいだろうか、ふいに踵がくねりとよじれた。そのままなだれ落ちるようにして、真治の胸に倒れ込む。咄嗟に私のからだを抱き留めた真治は、その途端、言ったのだ。柚子っ、と、驚きと叱責が入り混ざったような声で。子どもを叱る父親のように。

 それからの真治の行動は速かった。こんなに熱があるのにどうして来たんだ。そう言いながらも携帯を取り出し、レストランの予約をキャンセルし、タクシーを拾って私を家まで送ってくれた。ごめんなさい、よりによってこんな日に。謝る私に、いいから、さ、早く寝なさい、寝るのが一番だと言って笑い、パジャマに着替えさせベッドに横たえ、水に濡らしたタオルを絞って額にそっとのせてくれた。されるがままになっていた私は、見慣れた部屋に帰ってきたことで、少しだけ気分が良くなったような気がして、てきぱきと動く彼の姿を眺めていた。こんなに、こまめな人だったっけ。呆けたような頭で、ぼんやりと驚いていた。

 出会ってから、ちょうど1年。私が見てきた真治は、どちらかといえば生活感の薄い男だった。何事においても熱くなりすぎず、かと言って、醒めているわけでもなく。自分のことについてあまり語らない代わりに、他人を詮索することもない。人は人と割り切って、自分の人生を飄々と歩いているような、そんな男。だから私は、つい忘れてしまうのだ。彼には帰るべき家があるということを。あまりにも彼が淡々としているから。風のない海のように、平らかだから。

 そんな真治が、いつになく懸命になっている。心配そうに私の目を覗きこみ、何か食べられるなら食べたほうが良いな、と、冷蔵庫を開けて何やらがさごそとやっている。熱に浮かされていたからなのか、私は妙に嬉しくなって、まぶたをとろんとさせたまま、台所に立つ彼の背中に向かって話しかけた。なんでも良いから話していたかったのだ。彼の声を聞いていたかった。

 あなたが料理をするなんて知らなかった。家でもそうやって台所に立つの? もしかして子どもをお風呂に入れたりもする?
 私のその問いかけが、あまりにも軽やかだったからだろう――実際、あの時の私に彼を責める気持ちなど、これっぽっちもなかった――、真治の答えも屈託がなかった。まるで今さっき見たテレビドラマの筋を教えるかのように、気軽に淀みなく話してくれた。
 料理はたまにしかしないけれど、子どもたち――8歳になる息子と、5歳の娘――とは、よく一緒にお風呂に入ること。娘はいつも真治のあとをついて回って、なんでも真似をしたがるから、下手なことはできなくて困っている、ということ。

 小さな一人用の土鍋に炊かれたお粥は、玉子でとじた菜の花粥だった。少しばかり塩が効きすぎていたけれど、どこか懐かしい味がした。ふうふうと冷ましながらゆっくりと口に運んでいると、なんだか自分が子どもになったような気がした。どう、食べられる? と訊く真治が仲の良い兄のように思えて、私は幼子のように、こくりと頷いた。彼の話し声が、子守歌のように聞こえていた。その内容がどんなものであろうと、心地好く鼓膜を震わせた。何よりも真治が自分のことについて話してくれていることが嬉しかった。

 明くる朝、目覚めてみると熱は引いていた。まだからだの節々がぎしぎしと軋んではいたけれど、起きてホットミルクでも飲もうかと思えるくらいには回復していた。丈の長いカーディガンを羽織ってキッチンに行ってみると、洗いかごの中に、土鍋が伏せてあった。
 そういえば、と、思い出す。ゆうべは私だけではなく、真治までもが熱に浮かされたようだった。ふたりして、どこか違っていた。まるで停電の夜の子どものように。あるいは、修学旅行の夜みたいに。いつもよりずっと親密で、怖いくらいに無防備だった。だから色んな話しをした。したような気はするのだけれど。
 一夜明けてみれば、すべては夢の中の出来事のように現実感がない。あれはもしかしてクリスマス・キャロルだったのかも。電子レンジからマグカップを取りだして両手で包みこみ、暖かな牛乳の甘い匂いを吸いこみながら、ひとりきりのキッチンでそっと笑った。

 が、その微かな笑みは、すぐに冷えて固まってしまった。ホットミルクに張る白い膜のように。
 流しの端に、ちょこんと置かれたゴミ袋。元はスーパーのレジ袋の、その持ち手の部分が、きゅっと固結びになっていた。結ばれた先はきれいに伸ばされて、ぴんと上を向いている。まるで長い耳みたいに。それを目にしたとたん思い出したのだ。ゆうべ、真治が話してくれたことを。

 流しの三角コーナーにあるゴミ袋を見た真治は、うちと同じだ、と言ったのだった。うちもこのスーパーの袋をゴミ袋にしている、と。私はたぶん、そう、とうなずいただけだったと思う。この辺り一帯にはそのスーパーマーケットのチェーン店が点在しているし、彼の家はここから二駅しか離れていないのだから、それはしごく自然なことで、他に相づちの打ちようがなかったのだと思う。それでも何しろゆうべの私は機嫌が良かったので、ただ、にこにこしながら彼を見ていた。いや、あまつさえ、話しを促すかのような表情をしてみせたかもしれない。彼は、そのゴミ袋に玉子の殻を放り込み、そして話しはじめた。

 ある時、ゴミでいっぱいになったこの袋の口をぎゅっと縛って置いておいたら、彼の娘が「うさぎ」と言った。袋を指さして、嬉しそうに、「うさぎだ」と。確かにその袋にはスーパーの名前が赤字で印刷されていて、しかもアルファベットで書かれたそのロゴは、ふたつの「O」という文字がデフォルメされて描かれている。ぎゅっと縛って、まっすぐ上に伸びたふたつの持ち手が長い耳、赤い「O」が、ふたつの目。なるほど、うさぎに見えないこともない。――ほんとだ、うさぎさんだね。

 調子よくそう答えたまでは良かったのだけれど、大変なのはそれからでさ、と、真治は続けた。翌朝のゴミ出しに備えて、その袋を収集用の大きなゴミ袋に入れようとすると、突然娘が泣きだした。うさぎさん、捨てちゃだめ。大声でそう言いながら、飛びかかってきたのだという。どんなになだめすかしても泣きやまず、結局違う袋にゴミを移して捨てた。それからは、この袋をゴミ袋にできなくなってしまって困っているんだ。どうしてもこの袋しかない時には、娘が見ていないときにそっと捨てるようにしているんだけれどね。

 話し終えた彼は、困ったような、笑いだしたいような顔をしていた。呆れ果てたかのような、それでいて、どこか誇らしげな。
 ふたりだけでいるとき、真治はいつだって迷いのないような顔をしていた。こんな曖昧な表情をしたことがなかった。いったい、この人は誰だろう。私はまぶたの重さを感じながら、そう思っていた。

 いやだ、買うの。うさぎ、買って。
 振り絞るような声に驚いて顔をあげると、赤いコートを着た女の子が泣いていた。いつの間にか辺りは暮れかかっていて、立ち並ぶ夜店に灯がともっている。泣きわめく女の子は、まだ四,五歳だろうか。横にしゃがみこんだ父親が、怒って抱きあげようとするたびに、女の子はその手を振り払い、いかにも哀しそうな泣き声をあげる。取り囲む人々の目を気にしてか、父親はついに、分かったから、と少女に言った。分かったから、もう泣くな、と、やけのように言ったのだった。

 すかさず、うさぎ売りの男が優しい声で女の子をあやしはじめる。
 お嬢ちゃん、ほら、せっかくの美人が台無しだよ。そうそう、もう泣かなくて良いんだからね。よかったね、優しいお父さんで。
 まだ年若いその男は、泣きやんだ娘の小さな肩を抱き寄せるようにして、どれにするんだと訊いている。困ったような、笑いだしたいような曖昧な表情で、真剣に迷う娘の顔とうさぎを交互に見ている。その顔は、あの夜の真治の顔によく似ていた。

 ひとりキッチンに立って、あのうさぎのゴミ袋を見たとき、私は初めて淋しいと思った。たぶん彼は、眠っている私を起こさないように、そっと部屋を片付け、土鍋を洗い、ゴミをまとめて袋に入れ、その口をぎゅっと縛って、わざわざ「うさぎ」にしたのだろう。目覚めてこれを見たなら、きっと私は笑うはず。ひとりきりの部屋でも、淋しがらずにいられるだろう、と。レジ袋のうさぎは、彼にとって幸福の象徴だから。その半透明の長い耳の向うに、守るべき者が透けてみえるから。そして灯りを落とし、彼は帰っていった。本当に守るべき人のいる家へ。幸福な家族の元へ。

 あれから一度だけ真治に会った。彼の仕事納めの日に。その後も、何度か電話をもらった。その度に真治は、前よりもずっと親密な物言いになり、私は少しずつ言葉を探すようになっていた。
 それまで私は真治のことを、風のない海のような男だと思っていた。いつも鏡のように平らかだから、その水面の下に潜む者たちのことなど考えもしなかった。たぶん彼はとても用心深い男なのだ。心を波立たせて、その底にあるものが顕われたりしないように、いつも気を配っている。光射す海底をのぞくことができるのは、彼が心を許したものだけなのだ。愛すべき家族、守るべき者たち。

 あの日、いつもと違う状況の中で、彼は錯覚してしまったのかもしれない。弱っている私を、守るべき者だと思いこんでしまった。だからつい心を開いてしまったのだ。愛おしい子どもの話しなんか、してしまった。
 聞かなければ良かった、と思う。うさぎの話しなんか、聞くんじゃなかった。そうだ、あの時無理をしてでも平気なふりをして、予約した店で乾杯していれば、あんなことにはならなかった。いや、あの日、熱さえださなければ。そもそも、彼に出会わなければ。

 ひとりきりの部屋で、私は何度もそう思った。そんな思いに囚われては、途方に暮れた。今さら、そんなふうに思ったところで、どうにもならない。時を戻すことなどできないのだから。失ったものを、取りもどすことはできない。でも、私はいったい何を失ったのだろう。もしかしたら失ったのではなく、初めから何も得ていなかったのかもしれない。
 時が経つにつれ、私は自分を「うさぎ」のように感じるようになっていた。捨て置いても、誰も泣いてはくれないうさぎ。ゴミ捨て場に、ぽつんと置き去りにされた、一匹のうさぎ。

 そりゃだめだ、お父さん。うさぎは一匹だけってわけにはいかないんだよ。番(つがい)で一羽なんだからさ。
 的屋の濁声が、わざとのようにゆっくり言った。
 その言葉に、箱の隅のうさぎを指さしたまま、女の子の父親が眉を寄せ、首を傾げる。立ち去ろうとしていた見物客が足を止め、話しの続きを促すかのように振り返る。男は、少し得意げな顔になり、芝居がかった口調で話しはじめた。
 時の将軍徳川綱吉より出された「生類哀れみの令」には、世間一般いかなる者も獣の肉を食べてはならぬ、というお達しがあったそうな。それでもやはり食べたいものは食べたい。ある時、町の知恵者が番(つがい)のうさぎを連れてきて、こう言った。「これは獣ではなく鳥である。鵜(う)と鷺(さぎ)の二羽の鳥だ」。
 で、まんまと「うさぎ」を喰っちまった。それから「うさぎ」は番で一羽と数えるようになり、それが正しいうさぎの数え方っていうことになったという、嘘のようなホントの話し。

 感心と不審が入り混じったような笑い声があちらこちらから立ちのぼり、人垣が揺れて崩れた。立ち去る見物人につられるようにして、私もゆっくりと歩きだす。灯りに浮かび上がる本堂を背にし、赤い鳥居に向かう。尚も言葉を続ける的屋の声が、背中から聞こえてくる。
 だからさ、うさぎは一匹だけじゃだめなの。番が揃って初めて一羽になんだから。片割れのいないのは、ハンパ者。ね、お嬢ちゃんだって、お父さんとお母さんが仲良く一緒にいたほうがいいもんな。
 その時初めて、女の子が、はっきりと答えた。
 お母さん、いないの。
 そうか、おうちでお留守番かな。お母さんも、うさぎさん見て、きっと喜ぶよ。
 ううん、そうじゃなくて。おうちにも、いないの。お母さん。
 振り向くと、的屋は頬に笑みを貼りつけたまま、固まっていた。うさぎのように、先の丸い鼻だけがぴくぴくと震えていた。

 鳥居の向うに、楕円の月が浮んでいた。明日から仕事初めの人も多いのだろう。行き交う人影もまばらになっている。色とりどりのお守りや破魔矢で溢れかえる「お札納め」の小屋にも、もう人影はない。ふと立ち止まり、提げているスーパーの袋を見おろす。中に入っているものは、意外に少ない。歯ブラシと剃刀、シェービング・クリーム、CDが2枚。私の部屋にあった真治の持ち物がたったこれだけなんて、なんだか拍子抜けしてしまう。
 ゆっくりと小屋に近づき、その傍らにしゃがみこむ。小さな札やお守りが散らばる黒土の上に袋を置き、口をぎゅっと結び、その先をぴんと伸ばした。

 立ち上がって、数歩さがり、眺めてみる。入っているものが少ないせいで、なんだか貧相だ。そのくせ、CDなんかが入っているものだから、やけにエラが張っている。ちょっと強情そうな、痩せたうさぎ。
 風が吹いてきて、伸ばした耳がかさかさと揺れる。顔がわずかにへこみ、赤い眼がくしゃりと歪んだ。痩せたうさぎが、泣き顔になる。
 片割れのいないうさぎは、ハンパ者なんだろうか。そう考えて、小さく首を振る。良いじゃない、片割れがいなくたって。ひとりだって、歩いていける。今までだって、ちゃんと歩いてきたのだから。欠けた半分を思って泣き暮らすよりも、ずっと良い。小さな箱のような部屋の中で震えながら、抱き上げてくれる手を待ち続けるなんて哀しすぎる。

 くるりとからだをまわし、うさぎに背を向けて深呼吸をする。鳥居の向うには坂道が続いている。まっすぐに下ったその先に、ぼんやりと駅の灯りが滲んでいる。
 電車に乗って、二駅。歩いて五分。小さな建て売りだというその家の前に、袋のうさぎを置いてくるつもりだった。それで、おしまい。そう思っていたのだ。でも、もう良い。そんなことしなくたって、けりをつけられる。きちんとひとりで。

 思い切るように足を踏みだす。弾みをつけて、坂道をくだる。勢いよく、大股で。白々と明るい街灯に照らされて、影が跳ねる。結んだ髪が大きく揺れて、それはまさに長い耳のようだった。
 片割れのいない一羽のうさぎが、月に向かって飛び跳ねる。道ばたの闇を蹴散らしながら、ひとりきりで駆けていく。




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