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Last update 2008年03月15日

Bladecaster -神國異聞録-  著者:Clown


 なぜなら彼女の笑みは、芸能人が俺のような【赤の他人】に向ける顔にしては、あまりにも特別なものだったからだ。
 それは、俺にとっては多少なりとも嬉しくはあるが、同時に非常に困った悩みの種でもあった。
 つまりそれは……



【Bladecaster -神國異聞録-】



 林立するビル街を通り抜ける風は、瘴気にも似ている。仕事を終え、帰宅するビジネスマンは熱病に喘ぐような表情で一様に下を向き、定まらぬ足下を正そうともせず、死霊のように群れを成す。
 月明かりは細いビルの隙間など照らす力もなく、人工の灯りが無機質な光の束となって歩く死体達に影を付けている。
 俺は屍達の流れに逆行するように、人工物の森をかきわけ歩いた。目印は、森の中で一際輝く一つの巨木。日本の急速な経済成長を糧として育った、日本を見下ろす大樹。
 東京タワー。
 余りに目立つ待ち合わせ場所に俺は辟易したものだが、彼女いわく「木を隠すなら森の中」なのだそうだ。その例えは間違っていると指摘してやりたかったが、言ったところで「細かいことは気にしない!」で済まされそうなので、口答えしないことにした。
 それにしても、東京タワーとは。因果なモノだと思いながら、俺は目の前にそびえ立ったそれを上から下まで眺めた。つい最近【仕事】でやってきたときはゆっくりと見る暇もなかったが、こうしてみると確かに美しい造形をしている。多少電飾が喧しいが、それとて華やかと言えば確かにそう言えるのだろう。
 時計を見、指定の時間をオーバーしていないことを確認する。彼女の仕事は9時に終わると言う話だったから、後10分は余裕がある。俺は入場券を買い、エレベーターで展望台まで向かった。
 エレベーターを下り、指定されたタワー大神宮の前に立つ。石組みと木材で作られた、それなりにそれらしいお社だが、この小さいスペースで大神宮もあったもんではない。それでも、祭神は一応【天照皇大神】であるらしい。天照と言えば伊勢神宮の内宮に祀られているはずだが、古来より神は国中を大移動するものとなっているから、別に間違いではないのだろう。つくづく便利な宗教観だ。
(ま、こんな物はただの依代(よりしろ)にしか過ぎないが)
 神に真の姿形はなく、ただ存在するのみ。つまりは、存在さえすれば、姿形など何でも良いのだ。そう、何でも。
 小さな大神宮の隅々を眺めている間に、約束の時間になった。恐らく今頃仕事を終えてこちらに向かっている頃だろう。俺のすぐ足下の階層の仕事場から。
「お待たせー!」
 案の定、5分も経たないうちに聞き慣れた高い声が聞こえてきた。手を振りながら小走りにやってくる彼女は、ピンクのワンピースをひらひらさせながら満面の笑みを浮かべている。俺は頭を抱えたくなるのをぐっと抑えて、何とかため息をつくに留まった。
「あのな……もう少し慎重に行動してくれ……」
「え? 何のこと?」
 目の前で豪快に汗を拭う彼女に、俺は今度こそ肩を落とした。どうやら自分の立場を自覚させるのには、まだまだ時間がかかるらしい。幸い、閉館時間も近いとあって、展望台にいる人の数はまばらではあるが、それでも油断は出来ない。
「取り敢えず、あまり目立たないところへ移動しよう。ここは遮る物が何もない」
「えー、まだお参り済んでないよー?」
「何のお参りだ」
 思わず突っ込んでしまってから、彼女のにへらとした顔を見て「しまった」と思った。しかし、今更言葉を取り消すことは出来ない。
「何のってぇ……えへへ……決まってるじゃない。恋・愛・成・就!」
「あのなぁ……」
 そもそも恋愛の成就どころって一体どこなんだよ、と更に突っ込みたかったが、そこはギリギリ抑制した。答えの予測できる突っ込みほど、馬鹿馬鹿しい物はない。
「そもそも、お前が【ここ】にお参りする理由はないだろう」
「何言ってるのよ。【ここ】だからこそ、よ」
 悪戯っぽく笑う彼女の真意は、俺には読み取れない。
 心なしか軽く頭痛がしてきた俺をよそ目に、彼女は小綺麗な祠に向かって手を合わせた。目を瞑って何かを一生懸命祈っているようだが、どうにも彼女の祈る姿からは煩悩とかそう言う類のオーラしか感じ取れない。
 普段の【仕事】をしている姿からは、想像もつかないのだが。
「ん! お参り完了! これで一ヶ月は大丈夫だわ!」
「短い御利益だな……」
 呟く俺の腕をとりながら、彼女は笑顔で俺を引っ張っていく。どうやら場所を移動しなければいけない事情は察してくれたらしい。既に遅きに失している気もしないでもないが。
「全く……普段は【赤の他人】を装えって言ったろ? 問題になったらどうするんだ」
「大丈夫よ。その時は、君が護ってくれるんでしょ?」
「あのなぁ……」
 ガックリとうなだれる。最早何を言ってもこの笑顔から逃れられそうにない事を知って観念すると、取り敢えず成されるがままに彼女の後に付いていった。

 ○

「で、【仕事】の方はどうなんだ?」
 公園の鉄柵に寄りかかりながら、今日の出来について尋ねる。近くの屋台で買ったたこ焼きと格闘する彼女は、踊る鰹節に苦戦しながらもそれを頬張ると、満足そうにニコニコしながら言った。
「ひょうほへっほうひょうへ……」
「いや、食ってから喋れよ。つか、質問に答えてから食えよ」
 明らかに時間差があっただろ、と突っ込むが、今の彼女はたこ焼きに脳容量の大半を裂いているらしく、全く反応がない。一度こいつのファンにこの姿を見せてやりたい。
 しばらく幸せそうにモグモグやっていたが、ややあって大きくノドを鳴らすと、恍惚とした表情で吐息をついた。
「美味しいー! やっぱり焼きたてが一番よねー! で、なんだっけ?」
「鳥か、お前は」
 仕事の話だ、と肘で脇腹を突くと、ポンと手を打って「思い出した」ポーズを取る。
「お仕事は今日も絶好調だったよ。Club333のゲストは初めてだからちょっと緊張したけど……」
 でもDJの子が凄く話し上手でねー、と嬉しそうに話す彼女に対して、俺は本日何度目かのため息を禁じ得なかった。
「いやいや、そっちじゃなく」
 力なく否定の突っ込みを入れる俺に、ようやく彼女は俺の意図することを汲み取ってくれたらしい。
「うん、そっちもバッチリ。ただ、ちょっと複雑だから時間かかっちゃうのよねー」
「おいおい、まさか前の時みたいにギリギリとかじゃないだろうな……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。もう半分は完成済みだから」
 指でVサインを作る彼女だが、俺の不安をかき消すまでには至らない。本当にこいつは大丈夫なのだろうか。
 まぁ、こいつに頼らざるを得ないのは確かなのだが。
 最後のたこ焼きをやっつけに取りかかった彼女を横目に、俺は空を見上げてみた。
 雲一つ無い黒のキャンバスに、絵の具を筆で散らしたような星が瞬く。ビルの谷間をわたれなかった月光も、ここでは我が物顔で地上に降り注いでいる。
 ぞっとするほどに張り詰めた空は、緊張の糸を一本切ってやればそのまま硝子のように砕け散るのではないかとさえ思えた。視線を下げた先に鎮座する東京タワーは、まるでその壊れやすい空をその一点で支えているかのようにも見える。
 いや、視点を変えれば。
 目の前のソレは、この空を突き崩さんとしているようにも。
「たっこやっき、たっこやっき、おっいしっいなー♪」
 隣から、そう言った緊迫感を一掃する歌声が聞こえてくる。
 傍目に見てもかなり大型のたこ焼きを確実に平らげながら、口元に付いたソースを舌で拭い、しかも器用に歌まで歌う彼女。一つ一つの仕草を見ると可愛いと言っても良いが、総合的に見ると妖怪か何かの類にしか見えない。
 全く、これが人気急上昇中の【清楚な巫女さんアイドル】だと言うのだから、世間様の見る目の程を疑う。
 何をどう間違ったかと言えば、神社の一人娘で巫女でもある彼女に絶大なる歌唱力が備わっていたのがそもそもの間違いだったとも言える。昔からノリで生きてきた彼女にとって、それを【天職】と心に決めるまでにそう時間はかからなかった。
 地元の歌謡コンサートからとんとん拍子に上り詰め、ミコトという名で歌手デビューを果たした彼女は、今やゴールデンタイムの音楽番組にも顔を出す人気ぶりだ。確かに神社の娘だけあって巫女装束は嫌になるほど似合っているし、清楚な和風イメージが新感覚で受けるのも分からないではない。
 だが、実態はと言えば……正直、清楚とはほど遠い。普段着も洋服だし、神社の裏手にある彼女の離れ部屋はファンシーともファンタジーとも付かない小物で溢れている。更に言えば、彼女が実際に境内で巫女姿をして立っているのを、俺はこれまでに三度しか見たことがない。
(しかも、内一回は【仕事】がらみだしな)
 こうやって彼女と接していると、本当に彼女が生まれもっての巫女であるのか疑問になるときがある。年末年始のアルバイト巫女の方が余程長く境内にいる気がする。
(……こいつ、【本職】忘れてないだろうな……)
 些かどころか大いに不安だが、こればかりはいくら不安を抱いたところでどうなることではない。彼女に代わりはいないのだから。
 そうだ、代わりはいない。
 だからこそ、彼女にはあまり盛大に日の当たるところには行って欲しくなかったし、俺の手の届く範囲に留まっていて欲しかった。さもなくば、【赤の他人】を演じて欲しいと頼んだ。
 何故なら、それは。
「あら? もしかして、歌手のミコトちゃん?」
「ほえ?」
 不意にかけられた声に、たこ焼きを頬張っていた彼女は間抜けな返事を漏らす。声のする方を見ると、真っ赤なドレスを着た女が立っていた。いや、ドレス、というのは少しおかしいかも知れない。赤と黒で描かれた花の絵をあしらい、腰に帯の巻かれたその姿はどちらかと言えば着物に近い。
 女は彼女の顔を見て嬉しそうに笑うと、つややかな長い黒髪を揺らしながらこちらに近づいてきた。
「こんな所で会えるなんて、嬉しいわ。私、あなたのファンなのよ」
 清楚、と言うよりも妖艶と言った方がしっくり来る美貌の持ち主は、「握手してもらってもいいかしら」と言いながらそっと右手を差し出す。彼女はたこ焼きの舟と爪楊枝で塞がる両手をおたおたさせながら、ひとまず口の中に残っていたたこ焼きを飲み込んだ。
 そして、俺に一旦たこ焼きの舟を預け、握手に応じるために右手を差し出す。女はそれをやんわりと握ろうとして、

 ──ぎちり。

 俺の手が、反射的に動いた。
 それは自分でも驚くほど滑らかな軌跡を描いて、たこ焼きの舟ごと女に向けて叩きつけられる。加速度を得たたこ焼きのソースが一瞬俺の手よりも先行し、女の着衣に付着しようとした瞬間。
 女が、目の前から消え失せた。
 行き場を失い、虚空で制止をかけられた俺の手から離れたたこ焼きとそれに付属する爪楊枝は、目一杯の推進力を得て張り詰めた空気の中をおよそ食品とは縁のない速度で滑空し、無惨にも大地に叩きつけられて分解した。デンプンで作られた外套はバラバラに砕け散り、弾力のあるタコが反発力を得て宙を舞う。
 その最後の欠片が地面に落ちると同時、張り詰めていた空気が一挙に巻き戻った。
「あー! タコー!!」
 一瞬の出来事に目をぱちくりさせていた彼女が、たこ焼きの惨状に気付いて喚く。もっと別の所に驚けよ、と突っ込みたかったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 俺は意識を集中すると、一瞬で十メートル以上の距離を跳躍した女を凝視した。女はその視線に気付いた物か、先程までとは違った妖しい笑みを浮かべている。
「あらあら、いきなり女性に手を出すなんて、マナー違反じゃなくて?」
「普通の女性なら、な」
 苦笑いと共に皮肉を返してやると、女は益々笑みを深めた。その額には、いつの間にか下顎の欠けた髑髏の刻印が浮かび上がっている。
「……【妖(あやかし)】」
「坊や達の言葉で言うなら、ね」
 妖。
 古来より幾度となく人間と関わってきた、人ならざる者たち。俗に妖怪と呼ばれる存在も彼らと近しい存在ではあるが、実際には更に幅広いカテゴリーとして彼らは存在する。人と同じように様々な思想によって行動する彼らは、時に人と与して悪事をはたらき、また時に人と交わり共に戦ってきた。
 目の前の女は、恐らくは前者だろう。
「良く気付いたわねぇ? なるべく気配を殺したつもりなのだけど」
「生憎、鼻は利く方でね」
「あらあら、次からは香水も必要かしら?」
 くすくすと笑う女。こちらからの挑発を余裕で受け流すほどの余裕があるらしい。上手く「誘い出す」ことには成功したが、どうやら厄介な【仕事】に当たってしまったようだ。
 俺は隣で未だにうーうー唸っている彼女を肘で小突いた。たこ焼き程度で本来の目的を忘れてもらっては困る。合図に気付いてもしばらく恨みがましい声を上げていた彼女だが、どうやら事態がそれなりに緊迫してきたことは察知したようだ。
「……【羅刹国の陣】、行けるか」
「うぅ……ちゃんと来る前に準備しておいたから、大丈夫だよぅ……」
 今ひとつ気合いが入らないが、良しとする。返事を受けて、俺はウエストバッグから五枚の符を取り出した。そのいずれにも、朱文字で一文字ずつ文字が書かれている。
 【封】【禊】【廻】【刻】【域】
 それを確認する間も惜しみ、俺は符をばらまいた。手から離れた符は、まるで操られるかのように綺麗な正五角形を描く方向へと飛び去る。女は俺の行動を阻止するでもなく笑いながら見ているが、今のところ無視しておくことにする。
 符が全て行き渡ったのを確認すると、彼女は別の符を自分のポシェットから取り出し、鍵となる言葉を読み上げた。
「【羅刹国の契り】に依りて、盟約の主に代わりて命ずる。楔に約されし【域(さかい)】を以て【禊(みそぎ)】の地とし、永劫に【廻(めぐり)】し【刻(とき)】の回廊に【封(ほう)】ずべし!」
 一瞬、視界がぶれる。それと同時に、そこにある全ての物が──雑踏も、虫の声も、空気の流れさえも──動きをやめ、永遠の静寂の中へと沈みこんだ。
 予め楔によって指定された有限の平面と、無限の鉛直軸で囲まれた半閉鎖空間を作り出し、その空間における一切の時間の流れを歪曲させる。【羅刹国】と伝わるその空間で起こった出来事は、全て現実の世界に反映されない。つまり、この空間の中にいる限りは、何をどれだけ破壊しても陣を解くだけで元通りに(正確には何ごとも起こらなかったものとして)処理される。
 施術者(俺)とその代行者(彼女)、そして術式の対象となった者(女)は、この空間から出ることは出来ない。唯一この空間を解除出来るのは、術者の意志か、術者の死をもってのみ。
「あらあら、本物の巫女さんみたいね? 羨ましいわ、こんな有名人が側にいるなんて。ねぇ、【刀鍛冶】?」
 俺の方に向けて、はっきりとそう口にした女。どうやら心配が現実になる日が来てしまったらしい。もっとも、まだ完全ではないが。
「……その言葉を知っていると言うことは、お前も【刀狩り】か」
「あら? 何の事かしら?」
 今更とぼけたことを言う。だが、むしろそっちの方が好都合だ。俺は心の隙を見せないように毅然とした態度を装うと、やや挑発の調子を交えて切り出した。
「幾つか聞きたいことがある。その返答如何によっては、俺はお前をこの国から追い出すか、さもなくば消滅させなければならない。出来ることなら穏便に行きたいんだが……」
「あらあら、物騒ね。私は、何か罪を犯したかしら」
 俺の言葉を遮り、困惑したような声を出す女。だが、その顔はちっとも困惑の色を呈していない。寧ろ、愉しんでいる。そんな感じの表情だ。
「……まず一つ。今月に入ってから今日までの二週間で十五件、謎の通り魔事件が発生している。被害者は全てが男性で、一様に裸に剥かれた上、致死量ギリギリまで血液を抜き取られていた」
「あら、怖いわねぇ」
「うち十三名はそのまま衰弱により死亡。一命を取り留めた残り二人は、譫言のようにこう繰り返していた。【赤い蛇に飲み込まれた】と。これについて、お前の見解は?」
「まぁ、きっと怖い夢でも見たのね」
 女は、艶やかな笑みを崩さずにそう答える。とぼけているようにも見えるが、その表情からは真意までは掴めない。この話題についてこれ以上掻き回しても、恐らく埒はあかないだろう。
「では、もう一つ」
 若干の間を置き、俺は次の質問を──実はこちらの方が重要なもう一つの質問を、口にする。
「……何処で【刀鍛冶】の存在を知った?」
 俺の言葉に、女は笑みを深めた。
「……さぁ、何処かしらね?」
「それは、【刀鍛冶】の存在を知っている、と言う前提での返事だな?」
 すかさず鎌をかける。女は悪戯を咎められた子供のようにちろりと舌を出すと、黒曜に濡れる髪をかき上げた。どうやら、それ以上何も答える気はないらしい。それを受けて、俺は新たな符を取り、構えた。
「ならば、打ち倒して聞き出すまで」
 強く、冷たく。
 言い放つ俺に向けて、女は、初めて声を立てて笑った。
「ふふふふふ……嫌いじゃないわよ、強引なのも」
 真っ赤な長い舌で、女は自分の指を舐める。
 それが、合図。
「雷(いかづち)纏いて来たれ、黄龍(こうりゅう)!!」
 俺との会話にまぎれて距離を取っていた彼女が、二枚の符を投げつけ言霊を放った。それに反応するように、二枚の符は各々が雷をその身に纏う龍に変化し、女の元へと殺到する。だが、女がそれを一別して掌をそちらに向けると、二匹の龍はまるで操られたかのように軌道を逸らし、明後日の方向に向けて飛んでいった。
 彼女は間髪入れず更に倍の符を擲(なげう)つと、先程にも増して大きな声を張り上げる。
「炎(ほむら)立ちて舞え、紅龍(こうりゅう)!!」
 その声の大きさに比例するかのように、紅蓮の炎を全身から吹き出した巨大な四匹の龍が、唸りをあげて女を襲う。アスファルトの舗装すら溶かす超高熱の炎。しかし、女はそれらを睥睨してにやりと笑うや、何の予備動作もなく、一呼吸の間に遙か上空へと飛び上がった。
 突如目標を見失った四匹の龍は勢いを殺せず、方向転換しようとして互いにぶつかり合い、消滅する。女はその様子を眺めると、両手を高く掲げた。その手にはそれぞれ黒い雲が宿り、やがて雷を宿す。
「うふふ……お返しするわね?」
 女の声が響くと同時、その手から発せられた雷撃が雨の如く一帯に降り注いだ。俺は咄嗟にポケットから追加の符を取り出して一枚を彼女の方に投げつけると、もう一枚を自分に重ねて叫ぶ。
「金剛鎧いて護れ、白龍!!」
 炸裂する雷が突き刺さる間一髪の所で、煌びやかに輝く白い龍が俺達を包み込んだ。雷は鏡のように滑らかな鱗に弾かれ、四方へとはじき飛ばされる。それでも、伝わってくる熱量は相当のものだ。
 雷の威力が弱まった頃を見計らい、俺は同じく白龍の下で顔をしかめている彼女の元へと駆け寄った。同時に雷撃がやみ、白龍は役目を終えたとばかりに消滅する。
「……大丈夫か?」
 宙に浮く女から目を離さずに、彼女に問いかける。焦げたニオイがしないところを見ると、何とか間に合ったらしい。彼女は片手を挙げて「びっくりした……」と漏らすと、反対の手でポシェットから八枚の符を取り出した。どうやら戦意は喪失していないようだ。
 俺はベルトのバックルとして使っていた金属片を取り外し、それを彼女の顔の前に差し出した。一瞬きょとんとしたらしい彼女は、しかしすぐにその意を察すると、符を持たない方の手でそれを受け取る。
 その金属片は──闇に翳る月を彫り込んだその円形の金属片は──これから行われる【仕事】を締めくくるための、鍵。
「頼むぞ……【照那(アキナ)】」
「うん、任せて、【冥羽(クラハ)】」
 今日、初めて呼び合うお互いの名前。それは【現名(あらわしな)】と俺達が呼ぶ、力を持つ名前。みだりに口に出すことの出来ないそれらを承認する(呼び合う)ことで、俺達の最初の戒めが解き放たれる。
「作戦会議は終わったのかしら?」
 未だ艶めかしい笑みで宙に浮く女。俺はわざと挑発するような笑みを返すと、照那の元を離れて駆けだしながら符を取り出す。その一枚を右腕に張り付けると、俺は気合いを込めて叫んだ。
「現世(うつしよ)裂きて出でよ、銀龍!!」
 それと同時に、銀色に輝く龍が俺の腕に巻き付く。形を変え、腕と一体化したそれは、現世に存在する何ものよりも鋭い刃となる。
 俺はもう一枚の符の力を使って一気に空中へと躍り出ると、まるで待っていたと言わんばかりの表情で腕を組む女と対峙した。漆黒の髪が風にたなびき、朱に縁取られた唇が弧を描く。
 改めて向き合うと、その女が如何に強大な力を持っているかが否応なく伝わってきた。【現名】を承認したことで敏感になった俺の肌に、女から漏れ出る静かな殺気がギリギリと絡みついてくる。
「お前、【名】は」
 俺の問いに、目を細めた女は唇に指を重ね、短く、囁くように言った。
「……【九蛇躯(くじゃく)】」
 その名には、聞き覚えがある。古くは【八岐大蛇(ヤマタノオロチ)】に根源を持ち、死した大蛇の腐肉から生まれた【妖】の一族。そのいずれもが大蛇に劣らぬ力を備え、末法の世(釈尊入滅後の最後期)に出でて國を喰らい尽くすと言う。
 その者たちの名は、【屍蛇羅(しだら)】、【破蛇皇(はじゃおう)】、そして【九蛇躯】。
 一瞬、後悔がよぎった。難儀どころではない。今回の【仕事】は、最悪だ。
「……いよいよ、末法世と言うことか」
「あらあら、もうとっくに、よ?」
 愉しそうに言う女。俺は刃と化した右腕を翳すと、女──九蛇躯に向けて突きつけた。
「切り開く」
「出来るのなら」
 挑発が終わると同時、俺は九蛇躯の懐へと飛び込み、右腕を一閃した。銀色の軌跡が空を斬り、一瞬景色がぶれる。彼女は直前に後方へと跳躍していたが、銀の燐光が触れたドレスがわずかに削り取られていた。
 俺は休息を与える間もなく刃を二閃、三閃と打ち込んでいく。その度に空間が歪み、銀光の軌跡上に存在する一切を【無】に帰す。
「ふふ……実存を切り取る刃ね?」
 九蛇躯は軽快に空中でステップを踏み、全ての斬撃をギリギリの所でかわしていた。躍るドレスがその度に千切れ、消滅するが、不思議なことに次の攻撃までには元の状態に戻っている。どうやら着衣自体は実体を持たないようだ。
 全て見切られている……ならば、あまりこの方法は時間稼ぎにならない。そう判断すると、俺は即座に攻撃を切り替える。
「開放せよ、銀龍!!」
 言霊に反応し、腕の刃は分解され、それぞれが光の筋となって九蛇躯の元へと飛んだ。ギュイ、と不気味な音を残し、銀の光が彼女の右腕を貫く。拡散した光がそれを更に押し広げ、彼女の腕は完全に千切れ飛んだ。
「あら、酷い事するのね」
 吹き飛んだ腕を器用に無事な方の手で掴み、困ったような顔をする九蛇躯。だが彼女が千切れた腕を切断面に押しつけると、まるで何ごともなかったかのように接合される。
「結構体力使うのよ? 腕を繋げるのって」
「言ってくれる」
 俺は内心歯がみをすると、ウエストバッグから四枚の符を取り出した。それをすぐには投げず、宙を蹴って九蛇躯から距離を取りながら、時間差で投げつける。
「万象砕きて喰らえ、紫龍!!」
 言霊が響き、紫に彩られた四匹の巨大な龍が体の中腹まで割れた口を開く。彼らはその口から発した超音波で対象を文字通り骨まで砕き、そして喰らう。
 九蛇躯は一瞬口角をつり上げたかと思うと、瞬時に後方へと跳躍する。ほんの瞬きの間に数十メートル先に出現した彼女を、しかし四匹の飢えた龍達は決して見逃さない。更にもう一度の跳躍を行った彼女の出現点を予測し、その巨躯から想像もつかない速度で先回りした彼らは、あっという間に彼女を囲い込む。次の一手まで予測されていた九蛇躯は、待ちかまえていた彼らの超音波を一手に浴び、すぐさま四肢を食い千切られた。
 いや、食い千切られたかのように見えた。
 次の瞬間、紫の龍達は一斉に爆散した。砕け散った肉片があたりに散らばり、霧となって蒸発する。しばらくして晴れた霧から出てきた九蛇躯の四肢に噛まれたような痕は一切無く、何ごともなかったかのように平然とそこに立っている。
 全くの無傷。これは、俺も予想していなかった。だが、動揺の色を見せてはならない。あくまでも堂々と振る舞わなくては……【刀鍛冶】のように。
「……次は、こっちの番かしらね?」
 言って、彼女は右手をこちらに向けて翳す。俺は咄嗟に符を取り出すと、前面に投げつけて叫んだ。
「金剛鎧いて護れ、白龍!!」
「おいでなさい、【屍喰の蛟(しぐいのみつち)】」
 ダイヤモンドの硬度に匹敵する白き龍の盾が展開されると同時、漆黒の塊がそれにぶつかって轟音を立てた。たったそれだけで、先刻の雷でもびくともしなかった白龍の体にわずかなヒビが入る。塊はもぞもぞと動き始めると、ぐっと体を伸ばした。その醜悪な姿は、恐らく永遠に俺の記憶に残るだろう。
 鋭い鉤爪の生えた四肢を持つ巨大な蛇。背には小さな八枚の翼を持ち、覆う鱗はその一枚一枚が鋭い刃物のように輝いている。顔とおぼしき場所にまともな顔はなく、ただ発達しすぎた顎と巨大な歯が立ち並ぶのみ。そして何より目立つのは……腐肉で出来た腹から覗く骨と臓物。これが一個の生物かと思うと、吐き気すら催す。
 正真正銘化け物のその後ろで、女は愉快そうにこちらを眺めていた。坊やの相手はこの程度で十分だ、そう言いたげに。
 化け物は白の防壁の向こうでうねると、再びその巨体を突っんできた。とてつもない音が響き、白い破片が飛び散る。白龍は今度も何とか持ちこたえたが、ダメージが相当酷い。後一度は支えきれないだろう。
 俺は一気に符を十枚取り出すと、それを両手に五枚ずつ構えたまま化け物の動きをじっと観察した。化け物は腐肉を散らしながら身震いすると、次の突進に向けて体をよじり始める。その力が最大限に達したと思しき瞬間、俺は白龍の盾から飛び出した。
 化け物は瞬時に標的を変える判断力は持たないらしく、そのまま白龍に体当たりをかました。限界が生じた龍は全身に亀裂が入り、粉々に砕け散る。俺はそのまま宙を蹴って全速力で化け物から距離を取ると、まず五枚の符を宙に投げた。
「金剛鎧いて護れ、白龍!!」
 今度は五匹の白龍を呼び出し、前面にすきま無く展開させる。一匹ずつの防御力は同じだが、あの体当たりの力を分散させることが出来れば防ぐ時間は格段に上がるはずだ。早くもこちらに気付いた化け物を遠目に見ながら、俺は残った五枚のうち四枚を放り投げた。
「炎立ちて舞え、紅龍!!」
 白龍の外縁を縫い、四匹の紅き龍が化け物目指して咆吼を上げる。若干の時間差を置いて化け物を攻撃するが、化け物はほとんどダメージを受けていない。それどころか、一匹、また一匹と化け物の巨大な顎に挟み込まれ、噛み砕かれていく。
 ほんのわずかな時間稼ぎの間に、俺は最後の一枚の符に最大限の力を込めた。より強力な龍を召還するには、元々符に込められていた力では足りない。
 化け物は見る間に紅龍を食い散らし、目の前に展開する白竜に向けて攻撃を開始した。その巨体が龍を叩き潰し、破壊の顎で鱗を砕く。どうやら見立ては甘かったようだ。五匹も展開した白龍は、先程とほとんど変わりない速度で破壊されている。
 いや、その若干の差は、大きい。
 最後の白龍を吹き飛ばした化け物に向けて、俺は符を撃った。
「黄昏喰らいて滅せよ、黒龍!!」
 その呼びかけに符は黒く歪み、そこから一切の光を拒絶する暗黒が生まれ出る。暗黒は燃えるように身を沸き立たせながら、漆黒の龍へと変化した。化け物はその様を見ても怯まず、歓喜とも狂気ともつかない咆吼を上げて、黒龍へと突進する。
 その腹が、一瞬のうちにえぐり取られた。
 化け物は絶叫を上げてのたうち回る。黒龍はそれに構わず化け物の体を次々と噛み千切った。黒龍の体内は、空間軸と時間軸が現世のそれと著しく解離している。そのため、黒龍に食された物は決して現世に戻ることは出来ない。例えそれが、一部であろうと全部であろうと。
 為す術もなく体を食い千切られる激痛に踊り狂う化け物は、とうとう我を忘れて破れかぶれの突進を繰り返し始めた。黒龍は直線的なその動きを難なくかわし、その度に化け物の体を抉り取っていく。
 そして何度目かになろうという突進は黒龍を通り過ぎ、あろう事か招喚者である九蛇躯に向けて放たれた。正気を欠いた化け物には、最早敵味方の区別は付いていない。
 九蛇躯は迫り来る化け物に向けて右手を伸ばした。暴走する化け物はそれが意味するところも分からず突撃し──その手に触れた瞬間、まるでそこだけ時間が静止したかのようにぴたりと動かなくなる。
「あらあら。主に向かって『おいた』するなんて、仕様のない子ね」
 僅かに落胆を含んだ笑顔が漏らす台詞が終わるか終わらないかの内に、巨躯があり得ないスピードで吹き飛んだ。物理法則を限界まで使い切って空を切るそれはそびえ立つ東京タワーにぶち当たると、異様な音を派手に撒き散らして挽肉になった。衝撃でタワーの支柱は歪み、その角度が若干変わる。
 俺はその圧倒的な力に戦慄すると共に、ほんの少しだけ安堵した。これだけの力を持て余していながら、この女は最初に俺を殺そうとはしなかった。それはつまり、彼女にとってこの戦い自体が「遊び」という程の認識であると言うこと。今まで【刀鍛冶】を狙ってきた奴らは、隙あらば首級を挙げんとする奴ばかりだった。それ故彼我の力量差が生き残る確率を左右していたが、今回は圧倒的格差がありながら勝機を見出すことが出来る。
 そして勝機を得るための【鍵】も、もうすぐ完成するはずだ。
「ごめんなさいね、出来の悪い子で」
 苦笑いのような表情を浮かべながら、九蛇躯。台詞はまるで母親のそれだが、先の行為を見た後では寒々しさすら覚える。
 俺は残り三枚となった符を取り出すと、眼前に構えた。時間稼ぎの種は、これで尽きる。何とか耐えきらなければ……俺は一瞬焦燥感に駆られた。いや、駆られてしまった。
「……あら?」
「……ッ!!」
 その一瞬を、九蛇躯は見逃してはくれなかった。
「……なるほどねぇ。あなたは【鍛冶守】だったわけね?」
 俺の焦りが、強烈に縛ったはずの意識の鎖をほんの少しゆるめた一瞬。俺は、照那の方に視線を送ってしまった。
 対【妖】戦闘史上最強の刀を創り出す、【刀鍛冶】に。
「くッ……金剛紡ぎて封ぜよ、白龍!!」
 俺は一枚を九蛇躯に向けて投げ、相手の行動を封じるための白龍を呼び出す。だが、彼女が僅かに腕を払っただけで、白龍は硝子のように弾け飛んだ。その間にもう一枚を銀の刃へと変えると、俺は九蛇躯の前に立ち塞がる。
 だが、
「ふふ、折角ここまで頑張ったのに……残念」
 目の前にいたはずの九蛇躯の声が真横から聞こえ、俺は咄嗟の防御も空しく地面に向かって吹き飛ばされた。何とか重力をコントロールし、地面すれすれで静止することに成功する。彼女の腕が接触する間際、銀の刃がその腕を切断したために直撃を免れたが、もしまともに食らっていたら俺もあの化け物と同じく地面に大穴を空けてミンチになっていたところだ。
 九蛇躯はまたしても腕を器用に繋ぐと、真っ赤な舌を覗かせて笑う。そして、「これで終わり」と言わんばかりに両腕を広げた。その間には、先程と比べものにならない程の濃度を誇る暗雲が立ちこめる。その矛先は、
「冥羽!! 出来たよ!!」
 大声でこちらに合図を送る照那。それを引き金に、九蛇躯は雷土(いかづち)を開放した。爆発的なエネルギーを秘めた光の帯が、照那に向けて疾る。
 照那の顔が、光の奥で悲痛に歪んだ。
 俺は、大声でその【名】を叫んだ。
 瞬間、目の前が真っ暗になった。

 光が、収束する。

 目を開き、俺は「それ」を手にした。握りしめた柄から、力が流れ込んでくるのが分かる。鞘のない剥き出しの刀身は微細に震え、この世に生まれ出でた喜びを体現しているかのようだ。
 握る手に力を込め、眼前に構える。その切っ先の向こう、驚きを隠せぬ顔で宙に浮く女に目標を定め、俺は高らかに言霊を掲げた。
「昏(くら)き冥府より羽衣纏いて我が前に光臨せよ、【帥冥(すいめい)】!!」
 刀身に込められていた力が、開放される。発せられる闘気は青白く揺らめき、萌え広がって俺の体を包んだ。そのエネルギーは凝縮されて物質化し、漆黒の鎧となって全身を覆っていく。
 数千年の時を、妖の殲滅に捧げ続けてきた刀──帥冥。冥府の使者であり、月の支配者でもある天津神(あまつがみ)、【月読】の化身とも言われ受け継がれてきたこの刀は、武を司り、太陽を支配する天津神、【天照】の血を引く巫女の手によってのみ鍛えられる。
「……だから、俺は照那に有名になって欲しくなかったんだが」
 しかし、その伝承は時を経て歪み、帥冥を鍛える者と使役する者は混同されて、いつしかこう呼ばれるようになった。
 すなわち、【刀鍛冶】。
「まぁ、今更言っても仕方ないか」
 独りごち、俺は刀を振り下ろした。その一降りは直線上に虚無の空間を創り出し、真っ直ぐに女を──九蛇躯の左肩から先をばっさりと切り落とす。無表情になった彼女はその腕を回収しようともせず、先程までとは打って変わった低く唸るような声で問うた。
「……どういう絡繰りかしら?」
「切り札ってのを、使っただけだ」
 そう言って、俺は持っていた「最後の一枚」の消し炭を彼女の前でばらまいた。
 温存していた最後の符。それは、対象と自身の間の空間を転移させるための、正に切り札。呼び出された双頭の龍は、瞬時にして俺と照那の位置を入れ替えた。後は、俺が刀に触れさえすれば、あの程度の雷土なら防ぐことが出来る。
 刀の執行者たる【刀使い】である俺なら。
「そう……坊や達二人で一つなわけね……?」
 九蛇躯はそう呟くと、天を仰いだ。その瞬間、爆発的に彼女の妖気が高まり、見る間に彼女を巨大な妖へと変化させた。妖艶な素顔はそのままに、体の背面が鱗で覆われ、胸と腹は強固な外骨格で鎧われる。腕は龍のそれに似た鉤爪を備え、腰より下からは九つの頭を持つ蛇が鎌首をもたげた。
 これが、九蛇躯。八岐大蛇の血を引く、旧き妖。
「それじゃあ……二人とも壊してあげるわ」
 身の毛もよだつ恐声が響き、本体を現した九蛇躯が雷土を振りまいた。九つの頭が一斉に放射する雷土は、先程の物より威力は弱いものの、数が多い故に累積するダメージが大きい。俺と転移した照那は白龍で辛うじて身を守っているが、その表情はかなりきつそうだ。
 俺は帥冥で雷土を防ぎながら、先程と同じように刀を振り下ろす。空間の断層はそのまま蛇の頭をはじき飛ばしたが、尋常ならざる再生力が働いているのか、すぐに新しい頭が生えてきた。どうやら、本体を直接叩かないことには倒せないようだ。
「なら……【帥冥】に命ず。我が身を賭して冥府の扉を開くべし!!」
 言霊を叫び、俺は自分の力と引き替えに刀の力を更なる高みへと開放した。気力が一気に刀へと流れ込み、一瞬気を失いそうになる。何とか踏みとどまり、ギリギリ限界量の力を刀に乗せると、俺は九蛇躯へと跳躍した。
「うぉぉぉッッ!!」
「……!?」
 まさか突っ込んでくるとは思わなかったらしい九蛇躯は、驚嘆の表情を浮かべる。今度は逆にこちらが笑顔を浮かべてやると、俺は膂力を最大限使って刀を振り下ろした。

 ──ズ。

 鈍い音が、辺り一面に響く。
 振り抜いた刀は、九頭の蛇を全て虚無空間に帰し、更に彼女の腰から右肩にかけて斜めに切り裂いた。切断面は即座に再生しかけたが、そこへ追い打ちをかけるように照那の放った炎の龍が仕掛ける。九蛇躯はこの世の物とは思えぬ絶叫を挙げると、先程の大きさまで縮んでいった。そして、そのまま落下して地面にぶつかる。
 俺は帥冥の任を解いて装備を解除すると、九蛇躯の横へと降り立った。向こうから、符術を放った照那も駆けつける。
 九蛇躯は傷口も再生できぬまま、そこに横たわっていた。腰から下と右腕を失い、無事だった上半身も焼けこげた状態で未だ息をしていることが驚異的だが、それでも浮かべている彼女の笑顔にまず驚く。
「……ふふ……負けちゃったわね……」
 そう言って、九蛇躯は残った左手で顔を覆った。
「遊びのつもりで手を出したのに……私も、老いたかしら……」
 その手から、白い煙が上がる。焼けこげた為ではない。妖術の一種なのだろう。
 おそらく、その煙を吸ったら彼女は死ぬのだと思った。
 何の根拠もなかったが、彼女の声から失われてしまった艶が、それを予見させた。何千・何万年と生きてきた彼女にとって、もしかしたら既に持て余した命だったのかも知れない。
「でも……久々に楽しかったわ……」
 九蛇躯の体が、崩れていく。まるで、内側から燃えていくように。ゆっくりと、ゆっくりと。
 そしていつしか、そこには一山の灰だけが残った。
「……終わった……」
「……終わったねー……」
 気が緩んだ瞬間、硝子の割れるような音と共に【羅刹国の陣】が崩れ去った。その一瞬で、何ごともなかったかのように全てが一変する。そこには歪んだ東京タワーも化け物のミンチもなく、そして九蛇躯の遺灰すらも残されていなかった。
 羅刹国の陣の中で死んだ者は、そのまま陣の中に取り残される。例え天地がひっくり返って九蛇躯が生き返ったとしても、最早この世に出てくることは出来ない。
 与えられた【仕事】が終わり、呆然とする俺達を、塔の向こうから伸びてきた光が照らしつけた。

 ──こんな俺達にも、朝は容赦ない。




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