Mystery Circle 作品置き場

AR1

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Last update 2009年12月28日

現想パラドックス  著者:AR1



 俺は予想外の展開に動揺していた。視界の中に埋まる風景、その外に広がる情景、自分を取り巻く状況を理解出来ていない自分がいる。辺りを見回せど、そこは普段の自分の生活とは無縁な――しかし、羨むほど豪奢な造りの高級車の助手席。滑らかな革張りのシートの感触が心地いい。
 ……と、和んでばかりもいられず、俺は運転席に陣取り、鼻歌など交えつつステアリングを握る若い女性に話しかけるしかなかったのだ。
「ねえ。勝手に乗り込んで来て、いくらなんでもそれはあんまりだと思わない?」
 彼女は清涼感のある透明な声でピシャリと一閃。しかし、そこに必要以上の悪意はなく、どちらかと言えばからかっているようなニュアンス。また、その無邪気さが外見以上に幼さを感じさせた。虹色に乱反射するサングラスをダッシュボードに置き、赤信号で停車すると同時に俺と向き合う形になって、初めて彼女の顔の全体を認識することが出来た。黒のドレスが妙に艶やかではあるが、顔は声と比例している。妙にマッチングしていなさそうだが、不恰好ではないコントラスト。
「あたしの車に乗り込んで……図々しいとは思わない? 思うでしょ? 無名の小説家さん♪」
 ……なにか非公開情報を射抜かれた気がしてならないが、妙に引っ掻き回された思考回路がそれを悟るのは不可能な話。ということは、俺が状況を呑み込めぬままに助手席の置物と化すことは確定している訳だ。

 で、三〇分ほどの道中。気がつくと俺は――
「随分と広いお宅ですねぇー……」
 高級車の箔に相応しいインテリアの邸宅のソファーに座りつつ、か細い声で称賛を上げるしかなかった。なぜここまで大人しくしているのか?、などと訊くのは今の俺にとって愚問である。俺は今――当の本人にとってみてもまったく信じられない話ではあるのだが――自分自身のことがよく分かっていない。
 名前は……辛うじて覚えている。『真行寺』、それが俺の苗字。そこからが問題で、なにを生業としているのかがよく分からない。プータローとかはやめて欲しい、この状態で聞かされたら泣けて来るから。
「そーだねー。無駄にお金だけはあるから」
「それは何ゆえ?」
「タレント収入プラス投資。時にはデイトレも」
 右手を挙げた招き猫を体内に内蔵しているかのごとく稼ぎまくっている、そういうことらしい。それは一つの羨望なのかもしれないが、俺には壮大過ぎる世界だ。手に余るものは自滅を意味し、そういった野望もないので過ぎたる宝である。
「で、なんであたしの車に乗り込んだの? 理由を聞いてないんだけど」
「え? ああ……」
 なぜだろうか? そう、自分の存在が多少あやふやであっても問題はないのだ。いや、その、途轍もなく困ることなのではあるが、この場を切り抜けるという一点のみに於いては、言語障害と記憶が消し飛んでいなければなんとかなる。
「なんでなんだ……気がついたら、俺は車の中にいて、君が隣で運転していて、それで――」
 一つ一つを思い出しながら、少しずつ事実を噛み締める。
「――ダメだ、思い出せない」
 いたく都合の悪いところしか覚えていない。一般常識諸々のことに欠損がないくせに、こと自己を維持するためのデータベースが見当たらない。まともに覚えているのは名前と性別くらいの些細なもの。
「……そういえば、ここはどこ?」
「あたしの家だけど?」
「いや、そうじゃなくて。もっと具体的な場所。何県の何市?」
 傍から見れば一頭飛び抜けて間抜けな質問に分類されるだろうが、今の俺にとっては死活問題なのだ。この先、記憶が少しでも戻った際の足がかりになるかもしれない。一縷の望みを発掘するためには最善を尽くさなければならないことを本能が教えくれていた。
「さあ? どこでしょう?」
 悪戯っ子の口調ではぐらかす。やはり冗談だと思われてしまったのだろうか……だが彼女の口からついて出た言葉は、それがはぐらかしではないとしたならば、世界中のどの神秘にも負けないくらいの不思議な逸話。
「だって、ここがどこかなんて知らないしね。あたし」
 なにをバカなことを、と吐き捨てようとした瞬間、俺はリビングの外を窓と言う障壁を介して確認し、そして凍りつくしかなかった――隣の家はどこに行った?
 ソファーから慌てふためいて駆け寄り、窓を力任せにスライドさせると、滑らかな風が額をなぞり、髪に吹きつけながら上空を待った。見渡す限り緩やかな坂道、緑の雑草の群集。それらは紅葉のごとく夕暮れに染色されている。そこに〈人〉なる生物の気配はなく、しかし記憶にあるどこかの風景に似ていた。
 どこだろうか? 箱根? スイスの山岳地帯? しかし、どちらも外れだ。そのようなイメージはあるが、俺にとっては未踏の開拓地――いや、待てよ。
 見果てぬ大地であったとしても、やはり記憶の中にはあるのだ。丘陵の上に立つ家、広大な原野、地平線に落ちる朱の電球、そして若くて清楚な印象の女性……このカルテット、記憶の片隅に引っかかる。
「まだ思い出さないかな?」
 振り向くと、まったく変わらぬリビングに、まったく変わらぬ様子で紅茶をソーサーに置いている彼女。冷静でいられる理由でもあるのだろうか? そうならば言って欲しい――これはどんな手品なんだ?、と。そうでなければ発狂してしまいそうだ。それも近いうちに。
 結論から言うと、待ち望んだ答えは返っては来なかった。その代わり、俺はいつの間にか天井のほうを向いていた。しかしそこに白い壁はなく、黒い布と色白の肌が立ち塞がる。肩口には体重がかかり、痛覚を刺激するほどではないが窓辺に体を縫い付けるだけの圧力はある。
「まだ分からないかな? 無名の小説家さん?」
 そこでようやく、俺は違和感に感づくことが出来た。みるみるうちに表情筋が険しくなって行くのが分かるが押さえようがなかった。
「……お前、誰なんだ?」
「あなたの知人……でもないか。でも、あなたは知っているはずだよ、あたしのこと」
 それは答えではなく、そこに行き着くまでのヒントでしかない。どうあっても彼女は正体を明かすつもりはないらしい。長く付き合ってもいたくない緊張感に見舞われているが、そうせざるを得ないようだ。
「あたしのこと、見覚えない?」
 と言われても、これだけの美人な知り合いなどアーカイブに収録されてなどいない。されていたとしても、それを引き出しから取り出せないでいるのが現状。俺は首を横に振るしかなかった。
「それよりも、ここは一体どこなんだ? さっきまで住宅街だったのに……答えをはぐらかすのはよしてくれよ」
「なぜ? ここがどこかなんて誰にも分かりはしない。ここは、誰かが思い描いた、誰かが作り上げた世界なんだから――って言えば分かるかな? 無名の小説家さん♪」
 思い描き、作り上げただと――と切り返しそうになったところで、俺の掌になにかが触れた。いや、触れたと言うのは語弊がある。彼女の手に導かれて触れさせられた。
「あたし、生きているよね?」
 柔らかな膨らみの上の方に重ねられた掌に、彼女はそう語りかける。その弾力に熱が篭り、その鼓動に俺の心臓が共鳴する。確かにそこには、生命を宿している証があった。だがそれは至極当たり前のことであって、それがなければ生物は成立しない。
「いや、そりゃ、まあ、俺が触れるんだから、幽霊とかではないわな」
 どもり声になりながらも、なんとか聞き取れるくらいに歯切れの良い発音で言い終える。だが、彼女はなんの意図があるのか知れないが、その精一杯の返答すらも打ち砕いてみせた。
「いや、あたしは本来は生きてはいないものだよ? 幽霊ではないけど」
「………………はぁ?」
 眉間に皺を寄せて呻く。右手の沈み込む感触すらも忘我の境地、事態の打開に向けて必死に計算機を回転させた。冗談ではない、小説家を目指すものとして、言質など取られてたまるものか――って、ちょっと待てよ。
「小説家? 俺が?」
「何回も言ってるでしょ? さっきからさー」
 頬を膨らませて可愛さを誇張しているのだろうか、純粋にむくれているのだろうか……俺にとってどちらでもいい。もっと重要なのは、俺が無名の小説家であるという事実。
「そういえば、君、どこかで……でも、やっぱり思い出せないんだよ。ひょっとして――」
「言っておくけど、夢じゃないからね。証明してあげようか? 今ここで、あなたの喉元を掻っ捌けば二度と現世には戻れないし、爪を引きちぎれば向こう一ヶ月はマグマの熱さに苛まれる」
 先回りで釘を刺されてしまった。つまり、現実だと言うことか。余計に解明不能の難題が山積することに辟易し、俺はかぶりを振って苦悩を和らげ、彼女の相貌を見つめる。あれだけ物騒な物事を口にしているくせに、その色は穏やかなエメラルド。この世のものとは思えない美麗な宝石が、手の届くところで優しい輝きを放っている。
「ねぇ、なにか悩み事なかったっけ?」
「悩み事?」
 ああ、段々とクリアーになって来た。俺はネガティブ人間なだけに悩み事が貿易のごとく飛び交う毎日。しかし、その中でも特筆すべきものと言えば――
「ここのところ、キャラクターに感情と言うか、生命を与えていないような気がしてさ……」
 小説家を柱として生計を立てて行くことを夢見ている俺にとって、最大の障害はここにあった。この悩みを拭えない限りは死活問題に発展するので、俺としては克服したい筆頭の悩みだ。これのせいでここ数ヶ月、安眠をまともに取れていないのだから。
「なに? そんなくだらないことで悩んでるの?」
 それは侮辱としか受け取れないだろうに平然と言うのか、こいつは。思わず空いている左腕を振り出して殴り飛ばしそうな衝動に駆られたが、彼女の手が俺の腕を更に押し込み、指の食い込みが深くなったことでその意気は失われた。怒りを忘れると言うよりは、その行動の目的がなんなのかが分からない当惑。
「だからさ、言ってるでしょ?」
 俺は俯きかけていた顔を引き起こし、涼風にウェーブのかかった髪を舞わせる彼女を見上げる。
「あなたの創り出した『モノ』は、ちゃんと生きているんだよ、って」
 微笑を湛える彼女に、俺は恍惚の面持ちで瞳を覗き込む。なぜなら彼女の笑みは、芸能人が俺のような赤の他人に向ける顔にしては、あまりにも特別なものだったからだ。




コメント

  • 最後、「手を握る泥棒の物語」と全く同じ・・・。 -- 名無しさん (2009-12-28 20:38:30)
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