Mystery Circle 作品置き場

おりえ

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nightstalker

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Last update 2008年03月15日

葬られた供述  著者:おりえ



「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
 そう言って、わたくしに微笑みかけるマダムはとても美しくて、わたくしは目頭が熱くなるのを抑えることができませんでした。
 わたくしは貧しい平民の出でございました。
 ええ、世の中、わたくしのような卑しい身分の者は、それこそ掃いて捨てるほどおります。
 何も食べるものがなくなると、時には木の皮を削って口に放り込み、それをいつまでも咀嚼しては飢えたこの身を慰めるという、とてもマダムには聞かせられない毎日を送ってまいりました。
 それでも、神様は見ておられる。そう気づかせてくれた目の前のマダムの存在は――ああ!
 今でも思い出すたびに、この胸が狂おしく騒ぎ出すのでございます。
 それは、寒い日のことでございました。
 わたくしがいつものように道端に座りこんで物乞いをしておりますと、そこに一台の馬車がやってきたのでございます。
 馬車は手前で止まりますと、中から立派な服を着込んだ貴族の御仁が、あろうことか、わたくしの前でぴたりと止まり、かがんで顔を覗き込んでくるではありませんか!
 わたくしは、嗅いだことのない香水の匂いをめいいっぱい吸い込んで、それからぴかぴかに光った皮の靴を、飽きることなく見つめていたのでございます。
 御仁は優しくわたくしに口を開きます。
「寒いだろう、中へお入り。暖かい毛布とスープをあげようね」
 わたくしのひび割れた醜い手を、御仁は真っ白な手袋をはめた手でやさしく包み込んでくださいますと、呆然としているわたくしを、丁寧に丁寧に――まるで大切な本の中へ挟む押し花入りのしおりのように――ふうわりと、馬車の中へ引き入れてくださったのでございます。
 馬車の中でも御仁は親切でございました。わたくしの手を離すことなく、何事か話しかけてくるのですが、わたくしはとてもとても、顔をあげることなどできません。御仁の顔を見上げてしまったら――、わたくしは恐らくこの世から消えてしまう。そんな恐れがあったのでございます。……ええ、そんなことがあるはずがないことは、承知しております。けれどもわたくしはその時、光に触れたことのない闇のような気持ちでいっぱいだったのでございます。闇は光に触れると消えてしまう……そんな幼稚なことを、頑なに信じていたのでございます。
 馬車はごとごとと進んで、終には立派なお屋敷の前で止まりました。
 御仁はわたくしをまた丁寧に丁寧に馬車から降ろして下さいますと、わたくしを気遣いながらも歩みを進めるのです。わたくしは恐る恐る、ただそれについていくことしかできませんでした。
 御仁とわたくしは、無言で扉の前まで歩き、御仁が誰かに扉を開けるよう命じます。
 素晴らしい装飾が施された立派な扉――
 その扉が左右に開け放たれますと、中は別世界が広がっておりました。わたくしは眩暈を覚えてふらついてしまい、御仁はそんなわたくしの肩を、優しく抱いてくださったのでございます。
 まばゆいシャンデリアの輝きは、わたくしの瞳を射ち――、見たこともない美しい絵画の数々は、私の胸を、心をたやすく打ち砕き――、どうして立っていられるでしょうか。磨き上げられた床の上は、わたくしの素足につんと突き刺さり、それでもわたくしは、目の前に広がる圧倒的な数々を前に、屈することしかできなかったのでございます。
 御仁はそれから、わたくしを何故ここへ連れ来たのかを話してくださいました。
「君はあんな場所にいるような人間ではない。一目で気に入ってしまった。君は今日からわたしのものだよ。いいね?」
 わたくしは、何を言われているのかわかりませんでした。ただこくりとうなずくばかりで、御仁のおっしゃる本当の意味が、わからなかったのでございます。
 御仁は満足げにうなずきますと、使用人たちに、わたくしを綺麗にするよう命じました。その使用人たちは仮面でもつけているように無表情のままでハイとうなずき、わたくしの手を引いて歩き出すのです。
 わたくしはこれから何をされるのかと、怖くて御仁を振り返りますが、御仁はただ、優しく微笑むばかりでありました。
 わたくしは着ているものをすべてはぎとられ、全裸にされました。
 さすがに恥ずかしくて抵抗しますと、使用人たちはそこで初めて目を細めたのです。
「可哀想に。あなた、耐えられるかしら」
 その言葉は鋭利なナイフのようでした。何も知らないわたくしの皮を引き裂き、肉をひきずりだすような、おぞましい響きがありました。
 わたくしは後ずさり、使用人たちを睨み付けましたが、使用人たちはため息をついて、幼子をあやすように近づいてきます。
「私たちはあなたに何もしない。綺麗にしろと命じられればそうするだけよ。でもね、この後のことは保証できない。貴族様は悪趣味よね」
 それからわたくしは、使用人たちの手によって髪を洗われ、全身の垢を落とされると、きらびやかな衣装に着替えさせられ、御仁の前に再び立ったのでした。
 御仁は寝室でくつろいでおられ、わたくしを見ると満面の笑みを浮かべ、大きくうなずきました。
「やはりわたしの目に狂いはなかった。綺麗になったね」
 その言葉はとてもうれしくもあり、気恥ずかしいものでした。聞きなれない賛美の言葉は、わたくしの全身に甘く染み渡ったのでございます。
「さあ、こちらへおいで」
 両手を伸ばしてくる御仁の言葉のままに足を進め、その大きな胸にすっぽりとおさまりますと、御仁は深いため息をつかれました。
「いい遊び相手が見つかったものだ。さあ、すべて教えてあげるよ。君に、――すべてね」
 御仁は立派なひげをたくわえていらっしゃいました。そのひげが頬に当たるのがくすぐったくて身をよじりますと、御仁は低く笑い、わたくしの耳元でそっと囁きます。
「いい子にしておいで。……いい子にしていたら、君が食べたこともないご馳走をあげるから。……お腹が空いているんだろう? いいかい、わたしの言うとおりにするんだよ」
 そう言って、その手が、わたくしもほとんど触れたことのない場所に入り込んだとき、わたくしは初めて悲鳴をあげたのでございます。
「おとなしくするんだ。……ああ、こんなに震えて……大丈夫だから、わたしに任せて。君はわたしの手によって生まれ変わる。――私の瞳の色とそっくりだね。涙で濡れている。君の目にはわたししか映っていない。それがどれだけ幸福なことなのか教えてあげる。とても綺麗だ。わたしの小鳥……」
 ぞわぞわと這い上がるものがありました。それは昔、耳の中に入り込んだ百足のような感触で、わたくしは百足をたたき殺したときのように、御仁に手を振り上げたのです。
「指の形も完璧だ。ひび割れているこの皮膚さえなければ――これからは誰にも君を傷つけさせないからね。素晴らしい――」
 御仁はその手をすばやくつかんで引き寄せますと、なめるようにして爪の形、指の間、全てを見つめては体を震わせたのでございます。
 わたくしはようやく御仁の顔を見ることができたのですが――想像していた高貴な面影は、どこにもありませんでした。
 この世のものとは思えぬほど醜悪な顔――
 孤児院に入れられていた頃、夜な夜な子供たちの寝顔を眺めてはにたにたと笑う女のことを思い出し、わたくしは嫌悪感で胃がせりあがってくるような心持がいたしました。吐けるほど何も食べていないのにと、あなたはお笑いになりますでしょうか?
 御仁はいつの間にかわたくしを天蓋つきのベッドへと押し倒していました。わたくしが抵抗するのを笑って眺めておりました。
 救いなんかあるわけがない――
 神様なんているわけがない――
 少し前までいるはずのない神様のことを思って感謝していたわたくしは、もうどこにも見当たりません。
 わたくしの目に涙が浮かんだ頃、ばたんと大きな音がして、重い扉が開かれたのでございます。


「何をしているの、あなた!」


 暗がりの部屋の中、突如差し込んできた光。その光の真ん中に立つご婦人こそ。
 わたくしは確信いたしました。
 マダムこそが、わたくしの神様なのだと。
 わたくしの上に乗っていた御仁は、ベッドを大きく揺らすほど体を震わせ、血走った目でマダムを見て叫びました。
「お、おまえ、出かけたんじゃなかったのか!」
「今しがた帰ったのです。ここは私の家です!」
 マダムはつかつかとわたくしたちの方へ歩み寄ってきました。おびえて縮こまるわたくしをちらりと一瞥すると、御仁に怒鳴り散らします。
「なんてこと……こんな子に!」
「物乞いしていた子だ!」
「だからなんだというんです!」
 マダムは御仁の下にいたわたくしを引っ張りあげますと、ぎゅっとその肩を痛いほどつかみました。
「汚らわしい人! 娼館に通っているほうがまだマシというものです!」
「なんだと!? そいつなら間違いは起きないじゃないか!」
「ああ、神様!」
 マダムはわたくしの肩をつかんでいるというより、わたくしを支えに立っているようでした。わたくしはこんなときだと言うのに、マダムの腕を取り、支えて差し上げたいとすら思ったのでございます。
「神に背く行為です! あなたがこんな趣味を持っていると知っていれば、結婚などしなかった!」
「没落貴族が偉そうに! わたしの世間体のためだとはいえ、おまえの裕福な暮らしは誰のおかげだと思っているんだ!」
「こんな暮らしができるのも、あなただけのおかげではありませんわ! あなたのお父様の力じゃありませんか! あなたはその上でのうのうと――こんな」
 マダムは涙でくぐもった声で、わたくしを見下ろしました。
「こんな少年にいかがわしいことを……!」
「珍しいことではあるまい。貴族ならよくある話だ!」
「私は認めません!」
 マダムは悲鳴に近い声で叫びますと、わたくしの手を引っ張って、御仁の寝室から出て行ったのでございます。
「それはわたしのだ! 返せ!」
 わたくしの背後では、御仁の狂気に満ちた声が鳴り響き、わたくしの背にぺたりと張り付きました。
 しかしマダムは毅然とした態度で、わたくしを連れ去ってくれたのでございます。


「私をマダムと呼ぶのはお止めなさい」
 マダムの部屋へ通されますと、マダムはわたくしのためにお茶を命じて出してくださいました。お茶菓子もございました。わたくしがお茶に口をつけ、あまりの熱さに咳き込みながらもお礼を言うと、マダムはうるさそうにそう言ったのです。姉と思いなさいと。
 確かにマダム(わたくしにとってマダムはマダムでした)は口調は大人のそれと変わりませんが、顔立ちは幼く、わたくしとそんなに年は離れていないような気がいたしました。ろくに食べ物も口にできないやせっぽっちのわたくしより血色もよく栄養もとれているマダムは、小さなわたくしより背は高く、美しく、怒りに体を震わせているその様は、同じ人間とは思えないほど圧倒した存在感がありました。
 わたくしは、自分はいったいこれからどうなるのかをたどたどしく聞いてみました。するとマダムは顔をゆがめ、力なく首を振ったのです。
「あなたをこんな状態で手放せば、あなたはあの人のおもちゃにされる。使用人に聞いたのだけど、あの人はあなたをとても気に入ったようだから、当分手放さないでしょう。……そうはさせるもんですか」
 マダムはきっとわたくしを見つめました。わたくしの頬に赤みが差したのは、緊張のせいでも、マダムの美しさに心を奪われたのでもありません。いえ、マダムの美しさには、見た瞬間から全身の血が沸き立つような、戦慄を覚えたことは事実です。しかしわたくしは、その時確信のあまり、頬を染めていました。
「あなたは当分、私の傍に置くわ。私の世話を焼いて頂戴。あの人のところにいるよりかはマシでしょう」
 神様――…!
 わたくしが歓喜の涙を流している本当の意味を、恐らくマダムはわかってはおられない。
 それでもいいのです。
 地を這う生活を送っていたわたくしをすくいあげ、また地に叩きつけようとした手から救ってくれたこの美しいマダムの傍にいられるということが、わたくしにとってどれほど幸いであったことか! どれほど喜びであったか!
 泣いて礼を言い続けるわたくしを呆れたように見つめていたマダムでしたが、やがてくすりと笑みを浮かべました。
「あなたも災難だったわね」
 いいえ――いいえ、マダム。
 今この瞬間、わたくしより幸せな人間は、どこを探したっていません。

 その夜、マダムは御仁が心配だからと、わたくしとベッドを共にすることを宣言いたしました。
 わたくしは見た目は少女のようであっても、中身は違います。ましてあの御仁のような趣味は持ち合わせてはおりません。
 あなたのためにもよくないと何度も言いましたが、マダムは私を人間と思っていないのか(それはそれでさびしいものなのですが)、まったく構わないとおっしゃいました。姉と寝ると思いなさい。私もそうするから。ああマダム。わたくしに姉はおりませんのに。
 あなたは信じてくださいますでしょうか。
 昨日まで物乞いをしていたちっぽけな子供が、貴族の家へ招かれ、ご婦人とベッドを共にするというこの奇跡を!
 マダムの腕に抱かれ、その体温を、匂いを、息遣いを謀らずとも堪能してしまったわたくしは、愚かな望みを抱いてしまったのです。ただこうして抱き合って眠っているだけだというのに、これ以上望んだら、二度と神様はわたくしに手を差し伸べては下さらないだろうに、浅ましい思いを抱いてしまったのです。
 疲れているのはわたくしのほうだというのに、わたくしよりぐったりと眠るマダムの顔を飽きることなく見つめ続けたわたくしは、その夜とうとう一睡もできなかったのでございました。


 マダムが懸念していたことは、あっさりと解決してしまいました。
 なんと御仁は、新たな少年を翌日連れてきたのでございます。
 呆れて何も言えないマダムを前に、御仁はいやらしく微笑みを浮かべました。
「この子はわたしと過ごしたいと言っている。そうだな?」
「はい、だんな様」
 少年はにっこりと微笑みました。わたくしにはわかりました。あの少年は、慣れている。今まで似たようなことをやって、今まで生き延びてきたのだと。
 嫌悪感で倒れそうになるほど震えるマダムが可哀想でならなくなり、わたくしはマダムの傍を片時も離れませんでした。
「もう嫌。あんな男と一緒に住みたくない……どこか行ってしまえばいいのに!」
 その夜、マダムはワインを片っ端から空けながら、さめざめと泣きました。
「僕が、あの人を消して差し上げましょうか」
 酔いつぶれたマダムにそっと囁きかけますと、マダムはとろんとした目をわたくしに向けて、微笑みました。
「ああ、それは素敵ね。そうして頂戴……」
 わたくしを卑怯とおっしゃいますか?
 酒の席の世迷言をマダムに言わせるわたくしを?
 それを実行したわたくしを?
 ――ああ、わたくしが犯罪に手を染めることを、あなたは心配してくださるのですね。なんとお優しい方でしょう。
 けれどマダムが、その気だったら、それですべてがいいのです。例え世迷言であっても、マダムの本心だと思うから、わたくしは躊躇わずに実行できたのです。
 ぼろの衣服に着替えさせ、泥酔した彼らを冷たい川へ放り込めば、こんなにたやすく事は済んだ。
 翌朝川から水死体があがったところで、誰が彼らを彼らと思うでしょうか?
 綺麗にひげをそったあの男と見知らぬ少年。ぼろの衣服は身分を証明してくれる。誰も見向きはしないはず。だってマダムの傍にはわたくしが――ひげをたくわえ、底の高い靴を履き、マダムの夫の服を纏うわたくしがいるのです。
 笑顔でわたくしの胸に飛び込んでくる愛しき妻は、もうわたくしのものなのです。
 貴族としての立ち振る舞い、どうです、なかなかのものでしょう? 誰も気づかないまま、もう十年が経ちました。今は底の高い靴を履かずとも、わたくしは妻より大きくなった。妻は何もかも知っていて、わたくしを愛しているのです。これ以上の幸福がありますか?

 ……さて……何故長々とわたくしがあなたに真実をお話したか、そろそろおわかりでしょう。


 ――ああ、もう眠ってしまったのですね。大丈夫、何も怖いことはありません。お仲間の警察官が来たら、もう出て行ったと伝えます。さあ、いきましょうか。冷たい冷たい、川の底へ……




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