Mystery Circle 作品置き場

松永 夏馬

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nightstalker

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Last update 2008年03月15日

どんぶり劇場  著者:松永夏馬


「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ」

 おかもちを提げた女がため息交じりでそう言った。
「な?」
 顔を隠すように俯き加減で足早に踏み出していた田川慎也は、驚いて体をビクリとさせたものの急ブレーキをかけ、女にぶつかることをなんとか回避した。
「な。なんだアンタ」
「だから。お勘定」
 とにかくこの敷地から出ることばかりに気を取られ、慎也はその女の存在にまったく気付いていなかった。だから、その驚きぶりがよほど滑稽だったのだろう。
女は皮肉げに少し頬を緩めてそう言った。
「カツ丼大盛り、みそ汁付で750円」
「お。オレが払うのか!?」
「あたりまえでしょう? 食べたのは貴方ですよね?」
 まだ若いはずなのに、定食屋の白い割烹着がやたらとしっくりくる、地味で小柄な女だ。化粧っ気がないのは定食屋の店員だからだろうが、華が無い。
 慎也はグッと言葉を飲み込んだ。確かに食べたのは自分だ。
「いや、連中が払うんじゃねぇのかよ」
 立てた親指を後に向け、今しがた出てきた建物を指し示す。
「そもそもオレぁ別に食べたいなんて一ッ言も言ってねぇ」
 下唇を突き出し、不機嫌そうな顔で睨みつけるも、女はまったく動じることなく、くりくりとした小さな目で変わらずに慎也を見つめて言った。
「でも食べたのは貴方ですよね」
 そこで何か思いついた女の表情が変わる。細めた目が猫のようだ。
「……あ、電話の向こうで『大盛り、味噌汁も付けろ』って言ったのは貴方じゃないですか? 声がそうですよね? 注文受けたのも私ですもの」
 証拠を見つけたと嬉しそうにそう言った女の笑顔に、慎也は言葉が出なかった。

 確かに言った。ペーペーのくせに偉そうな男にムカついて、電話するその後姿に向けて無愛想に言ったのを覚えている。

「……いや、ま。それは、だな」
「ほら。やっぱり貴方だ」
「おま……、カマ掛けやがったなッ」

 怒鳴る慎也を見て、女は始めて声を洩らして笑った。口元を抑えながら可笑しくて仕方ないといった風で。そして一通り笑った後で、息を整えると右掌を慎也に向けた。

「750円」
「ぐッ……。こ、こういう時のカツ丼はオゴリじゃねぇのかよ」
「なんで私たちの税金で泥棒に御飯奢らないといけないのさ」
「俺ぁ泥棒じゃねぇッ!」
 小さな目がきょとんとする。
「あら、そうなの? じゃぁ何して捕まったの?」
「うるせぇ」
「痴漢?」
「違うわッ!」
 慎也の声が大きくなる。慌てて周囲を見回すと、制服姿の男がちらちらとこちらを見ているのに気付いた。奥歯を噛んで怒声を飲み込んだ慎也は、大袈裟に肩を震わせて深呼吸する。落ち着け落ち着けと心の中で繰り返したながら、女に顔をずい、と寄せて低くドスの効いた力強い声で「黙れ」

「……強姦?」
「違うッ」
 むしろ力が抜けた。
「じゃぁ、詐欺」
「あのな」
「詐欺師っぽくないもんね。顔」
「どーいう意味だッ」
「猥褻物陳列罪?」
「殴んぞ」
「カツアゲ」
「しょぼッ」
「万引き」
「中学生か」
「ひったくり」
「いいかげんに……」
「食い逃げ」
「ぅ」
「う?」
 女がきょとんとして慎也を見上げた。ゆっくりと口元が緩む。

「750円」
 半分笑いながら右手を慎也に向けて、女はそう続けた。
「また食い逃げする? 110番通報しますよ?」
 電話するより呼んだほうが早い。なにせ未だここは警察署の敷地内。しかたなく慎也はポケットを探った。たしか小銭が残っていたはずだ。

「クソ。払やいいんだろはら……」

 慎也の手が止まる。どう探しても硬貨が1枚。この硬貨が何かの記念の1万円硬貨とかでない限り、750円には足りない。足りるわけがない。新硬貨発行のニュースだって聞いたことない。

「どうしました?」
 不思議そうな顔で覗き込む割烹着の女。

「……あのカツ丼だが。アレで750円てのは高くないか?」
「え」
「味付けはまぁともかくとして、だ。カツの衣はまだらに剥がれかけてるわ、揚げすぎで肉はカッチカチのゴムみたいだわ」
「衛生面を考えて火はしっかり通しているんです」
「匂いが悪いのは古い油使ってるからだろ?」
「環境に優しいって言ってください」
「ごはんはべしゃべしゃでちょっと芯が残ってるし」
「アルデンテです」
「パスタかッ」

 劣勢の女に気を良くした慎也は、ニヤリと口元を歪めると顔をずいっと近づけた。
「アレを客に出すのはマズイんじゃねぇ?」
「お……お金を払おうとしない人は客じゃありません」
「アンタが作ってんのか?」
「……そう、ですけど」
「カツ丼はメニューから外したほうがいいんじゃゴブッ」
 笑いながら言う慎也の鳩尾に女の拳。悶える男。
「カツ丼はウチの元看板なんです」
「て……めえ……」
「夫が父から譲り受けた大事なメニューなんです。客でもない貴方にどうこう言われたくありません」
「うま……かったら……払う……ちゅーねん」
「むッ……。それじゃ貴方作ってくださいよ。美味しかったらお代はいりません」

 ********************

 警察署の向かい。定食屋洋野軒、慎也は少し煤けた印象のその厨房でカツ丼を 盛りつけていた。自分でも何故こんなことをする羽目になったのか良くわからない。先ほど店の入り口で見たディスプレイでは、カツ丼(並)は500円だった。
大盛り味噌汁付にした自分に、慎也は呆れていた。500円ならギリギリ払えたのに。
たかだか250円で食い逃げ再犯の危機。しかも初犯はついさっきだ。

 洋野軒は寂れた定食屋だった。夫が切り盛りしていた厨房は、この小さな女手 一つではいささか荷が重過ぎるようだ。
若い主人が急逝してから客足は遠のき、 警察署内の職員の昼食などでなんとか生計を立てている現状。

「それでは。いただきます」
 女は両手を合わせて軽く一礼すると、丼を手で支え、そっと箸をつけた。カツを一口。御飯を一口。

「……どうだ? 一人暮らし長いからな、こう見えてオレぁけっこう料理に自信あるぜ? ……米は確かに安物だが、もち米を混ぜて、酒と昆布を入れて炊くんだ。そうするとふっくらもっちり炊けるし、匂いもよくなる。ツヤツヤして見えるのはほんのちょっぴりゼラチンを使っているからだ。油はラードを使いたいところだが、白絞油でも十分だ。豚の背脂を少し混ぜて香りを付けた。フライヤーみたいなでかい鍋じゃなく、フライパンで揚げれば、使う油も量が少なくてすむしな。それこそ環境に優しい。肉は丁寧に筋を切る。小麦粉は薄く、パン粉は厚くするのがポイントだ。フライパン二つ使って、まず低温で中までしっかり火を通し、高温でカラリと揚げる。2度揚げってヤツだな。手間を惜しんじゃいけねぇよな、うん」

 女はカタリ、と小さく音を立てて丼を置いた。

「で。どうよ?」

「お……」

「おいしい?」

「おっそろしくショッパイ」

 箸を置き立ち上がった女は小走りでシンクへと。グラスに水を注いで一気に飲み干す。
「貴方こんな味付けでいつも食べてんの? 塩分過多で脳血管破裂するわよ」
「な、何おう……」
「ま、確かにカツはジューシーで、御飯もふっくらツヤツヤだけど。この味はどうなのよ? 醤油どれだけ入れたのさ? 味覚異常? 血圧高いでしょ? 今流行りのメタボリック?」
 まくし立てる女に慎也は言い返せずにたじたじ。
「ちょ、お前キャラ変わってねぇか?」
「そんだけ不愉快な味」
「どんな味だッ」
「もう頭きた」
「な」
「ちゃんとお金払ってもらうからね」
「金がねぇッ!」
「食い逃げする気? 警察呼ぶわよ」
「ッく……」
 慎也、何も言えず。750円の壁は大きい。

「……はぁ」
 女は小さくため息をついて肩をすくめた。
「わかった。労働で返してもらうわ」
「ああ?」

「カツの揚げ方、ちゃんと教えて」
「……へ?」

 ********************

 かつて、安いのに絶品というカツ丼を看板メニューとしていた某警察署向かいの定食屋洋野軒。

 その場所で、ジューシーサクサクのカツとふっくらごはんに絶妙な味付けのタレのカツ丼を看板メニューとした食事処・田川が新装開店したのは、それから3年後の年末。

 それは東京に大雪の降った夜でした。




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