Mystery Circle 作品置き場

幸坂かゆり

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nightstalker

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Last update 2008年03月15日

淡色憧憬~あわいろどうけい  著者:幸坂かゆり



 それは何の飾りも文字もない、ただの真っ白い封筒だった。
 まだ四月だというのに、蒸し暑いその日。まだ陽も落ちていないのに、早々と届けられた夕刊を取りに玄関に出た久子が、郵便受けを見ると、それが入っていた。思わず、息が止まりそうになる。久子は急いで封筒を郵便受けから取り出すと、小走りで家の中に戻った。心を落ち着けるべく、深呼吸をしてから、封に手をかける。昼間の気温のせいで、紙は温まっていた。まるであの日のあの人の体のように。宛名も何も書いていないということは、あの人がここに直接、持ってきたのだ。一体、いつ来たのだろう。私は昼間ずっと庭にいたというのに。薄く糊付けされた封は、容易に剥がす事ができた。案の定、便箋らしきものは入っていない。久子の胸に、懐かしく甘酸っぱい想いが込みあげてくる。
 あれは夏の日。今日のように蒸し暑い、こんな日だった。


 その人は、久子よりもずっと年下で、久子の家の裏に住んでいた。そこはたかが一軒家、と呼んでしまうには、もったいないくらいの、お金持ちの屋敷にふさわしい、美しい洋館だった。品のあるご両親。かわいい犬。あの家では毎日夫婦で犬の散歩をしていた。その一人息子が、その人だった。しつけの行き届いた、かわいい背の高いお坊ちゃん。
 久子はその頃、現在の夫、浩市と同棲生活を送っていた。共に仕事をしていたが、久子は派遣会社に登録していたので毎日仕事があるとは限らず、そんな日は、家の仕事や庭の手入れに勤しんでいた。浩市もそのことは承知で、関係には何の支障もなかった。ただ、久子は近所づきあいが苦手だった。

 いつ、ご結婚なさるの。
 お子さんをお作りにならないの。
 派遣なんて、夜の商売ではないの。

 お上品な見かけとは裏腹に、心に土足で踏み込む貧乏くさい質問を投げかける、近所のマダムとやらには、関わりたくなかったのだ。けれど、長靴を履いて、軍手をはめ、土と戯れる庭仕事が好きなので、最初はなるべく気にしないようにして庭に出ていたが、その内、マダム達の、どことなく久子に同情しているような、それでいて、見下しているような、そんな目に出会うのが嫌になり、表の庭を諦め、裏庭の方をそっといじり始めた。陽の当たらないその場所は、夏だというのにひんやりとして、久子の心も落ち着いた。
 ある日、草むしりをしていると、裏庭の柵から誰かがこちらを見ていた。久子は顔を上げた。それは裏手のお屋敷の息子、和人だった。和人だけは、久子のことを「久ちゃん、久ちゃん」と言って、慕っていた。高級車やバイクの類を何台も親の金で所有し、超一流と言われるような、有名大学に通っている。
 けれど、和人には、純粋に人を見る眼差しがあった。わからないものは素直に訊き、至らぬことで久子に注意を受けても、消化させることのできる人間だった。なので、久子は彼だけには心を開いていた。

「あんた、学校は?」
「今日は休んだ。だるかったから、なんて言ったらまた久ちゃんに説教されそうだけど、風邪気味で本当にだるくて休んだ」
「寝てなくていいの?」
「充分寝かされたもん。親がしょっちゅう熱計りに来てさ。面倒くさくて久ちゃんを見に来た」
 なんて理由だ。私は動物園の中の生きものか。
「久ちゃんって、なんで裏にばっかりいるの?」
「表だと、面倒くさいの。あんたと同じ理由」
「何が面倒くさいの?そんなに表の庭、広くないじゃん」
 悪かったね。このぼんぼんが、とは思わない。彼は本当に疑問に思っているだけなのだ。
「庭の手入れのことじゃなくて。あたし、近所の奥さん連中苦手なのよ。あんまり聞いて欲しくないことばっかり聞いてくるから」
「ふうん。オレは?」
「あんたは余計なこと、聞いて来ないじゃない」
「じゃ、オレは久ちゃんの中では上位なんだね」
 何が上位の基準かわからないが、何となく納得したので頷いた。和人は嬉しそうに、はにかんだ顔をした。こんな所が素直でかわいいな、と久子は思うのだ。
「うわ、でっかいミミズがいる!久ちゃん、殺虫剤とか撒かないの?」
「こんなミミズなんて、大したことないじゃない」
 ほら、と久子はミミズを軍手の上から持ち上げて、和人の側に持ってきた。ミミズは、うにょうにょとその細い体を動かした。
「やめてくれよー!オレ、虫は苦手なんだよー!」
 和人が大きな声で怖がるので、久子は楽しくてしばらく色んな虫を見つけては、丁寧に和人の前に、ほーら、と掲げてみせて恐怖に陥れていた。大人げない。そう思いながらも同じ目線で話ができるこの小さな、大人になりつつある、和人との時間を久子は存分に楽しんだ。
「あ、そろそろ戻んなきゃ。お袋、オレがちょっといなくなったらうるさくてさ」
「心配してるのよ。特に今日なんか風邪でしょ?病人は寝てるのが鉄則よ」
「はいはい。でも、すげえ楽しかった。何で久ちゃんと話してるとこんなに楽なんだろ」
「あ、こんな虫、知ってる?」
「うわ、もう勘弁してよ。じゃ、またな」
「早く治るといいね」
 和人は笑顔で返事をして、柵から離れた。和人の走って行く恰好を見て、あいつ、パジャマじゃん、と、今頃久子は気づいて、ふと微笑みがこぼれた。かわいい奴。

 本当はわかってる。和人が久子に少なからず、女性として好意を抱いていることに。けれど、この裏庭の柵のように、こちらに入ってこようとはしない。だから久子も放っておく。
 陽の傾きかけた頃、久子はやっと腰を上げた。軍手を取り、結んだ髪をほどいて、風になびかせた。少しだけ、窺うようにして表に出ると、誰も歩いていなかったので安心した。

「玄関に涼しげな顔をした美人がいる、と思ったらそれは私の恋人でした」
 気障な台詞と共に、ちょうど恋人の浩市が帰ってきて玄関で一緒になった。
「おかえりー。今日暑かったね。冷え冷えになる料理でも食べますかー?」
「ん?何なんだ?それは」
「冷しゃぶとか、冷やし中華とか」
「あ、そういうこと。何でも食べます。お腹ぺこぺこ。ヒサの料理は、めちゃくちゃ早いし、うまいもんな。今日も同僚から夕飯の誘いがあったけど断ってきた。なるべく寄りたくないよ。もったいないもん」
「うまい事言っちゃって、お兄さん」
「本当だって。どうせ店に行くならヒサを連れてく。その方が盛り上がって楽しいし」
 こんなふうに浩市は、私を立ててくれつつも、休みの日には朝から自分で好きな料理を作り、私を無理矢理起こそうとはしない。自分で食べたいと思ったら、好きに作る。逆に、ヒサも食ってみろよ、なんて薦められる。きっと他のお宅の亭主関白ぶった男なんかが、こんな光景を見たら、顔を真っ青にするでしょうね。私は浩市をそんな男にさせないから。これだけは、自負してる。
「なあ、あの近所の奥さんグループ、何とかなんないもんかね?」
 思わず、台所に立った久子の手が止まる。
「何か言われたの・・・?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ、いつ結婚するんだ、とか、少しくらい妬かせてあげないと、刺激がなくてつまらないわよ、とかさあ。あんな化粧くせえばあさんに言われたくないんだよなあ。気を悪くしたよ。こっちは仕事で疲れて帰ってきて、すぐにヒサを抱きしめたいのにさ」
 そう言って、浩市は本当に私に抱きついてきた。
「ヒサの体ってホント、気持ちいい。ふかふかしてる」
「それは、太っているということでは」
「それが何か違うんだなあ。ただの太ってるやつなんていっぱいいるだろ」
「うん、まあ、浩市がそう言うんなら信じて、いい気になってしまいますけど」
「そ。いい気になってて。ずっといい女でいてくれよ」
 あの、ばばあ軍団。私の大事な浩市にまで魔の手を伸ばしやがったのか。許さん。いつか、本気で考えなくては、この家を出る事を。だから気にするもんか。久子は浩市に守られながらも、守っていく決意を新たにした。

 けれど、その日、夢見が悪かった。和人の風邪がうつったのかも知れない。朝起きると、頭がずしりと重かった。ちゃんと休んでろよ、という浩市の言葉に、はーい、と返事をしつつ、また裏庭の手入れをしたい、と思ってしまう。だって、昨日中途半端なところがあったんだもん。久子は自分に言い訳して、裏庭に出たが、事もあろうにスコップを忘れた。ぼんやりしちゃって、とため息をつきながら表の物置に行くと、ちょうどマダム軍団がどこかでランチでもするのか、通りかかった。ああ、浩市の言うこと聞いとけば良かった。
「あら、こんにちは」
「こんにちは・・・」
 久子は何の抑揚もなく、頭を下げた。
「旦那さまと仲がおよろしいのね。羨ましいわ」
「・・・おかげさまで」
 何て言っていいのかわからず、久子はむにゃむにゃと返事をした。
「そんなに旦那さんにべったりで、お洒落をしなくても何も言われないなんて、ちょっと浮気の心配をした方がいいんじゃないかしら」
 かちん。私と浩市の何を知っているというのだ。久子は明らかに自分が気分を害しているのがわかった。睨みつけてやる、と、ものすごい形相で振り返ったが、大きな背中が見えて、視界が塞がれた。
「失礼。お久し振りですね」
 和人がいつの間にか、来ていたのだ。
 マダムは急に口調を変え、あら、和人くん、大きくなったのねえ、と、愛想の良い声を出した。和人は、マダムの急激な反応の変化にその後が続かなくなった。何よ。かばってくれるんじゃなかったの。久子は、そのままスコップを手に取り、ぷい、とその場を去り、裏庭へと急いだ。

 スコップをぐさりと土に一突きすると、止まらなくなった。何度も柔らかい土を、ぐさり、ぐさりと、久子は刺した。何よ、何が悪いのよ。私と浩市はふざけながらも、いつもきちんと会話をする。いつだって愛する相手には本気だもの。お洒落という小道具はそんな時に使うものじゃない。そっちこそダイエットでもしたらいいのに。きっとお宅の旦那の浮気相手の方が、マダムより美人だと思うよ。

「久ちゃん」
 和人が背後から話しかけてきた。
「気にすんなよ、あんな言葉」
「気にしてないよ」
 和人に当たるのは、お門違いだ。第一、和人はケンカになりそうなところを、あんな陳腐な挨拶一つで、マダムの気を逸らさせてしまったではないか。
「こういうこと、一緒に住んでる男は知ってるの?」
「あたしの嫌味は言ってるみたいよ。気を悪くしてた」
「オレ、久ちゃんの男の方がムカつく」
「なんでよ!?浩市だって被害者よ?」
「だって、久ちゃんがこんな目に遭ってんのに、のほほんと帰ってくるんだろ?久ちゃんを抱きしめる権利を持ってるんだろ?」
 抱きしめる権利。その言葉に思わず顔が赤くなった。
 そう。抱きしめる権利は、浩市にもあれば、私にもある。本当は誰にでもあるのだ。けれど私と浩市が公認されるのはなぜか。恋人同士だからだ。おまけに結婚も控えている。文句を言われる筋合いはまったくない。しかし、それが効力を発揮するのは本気の時だけだ。それはいとしいと思う時、かわいいと思った時、淋しさを感じさせたくない時などに使用できる大切な権利。だからこそ、こんなつまらないことに浩市を巻きこみたくなかった。その権利を駆使したあとには幸せになっていなければ、虚しい。

 けれど何より、のほほん、という言葉、似合ってる。マダムが期待するような昼のメロドラマのように、毎日事件なんて起こらない。だからこそ、何にも負けないと思うのだ。私達には私達の話題が、きちんとある。いつも部屋の中が面白おかしいことで溢れている訳じゃない。けれども小さなことでも浩市に話したい。浩市にでなければ聞いて欲しいと思わない。だからこそ、家は私と浩市の聖域なのだと思う。誰にも触れさせないし、触れることなんかできやしない。そんな関係をゆっくりと作り上げていったのが、私と浩市なのだから。
 ああ。昨日の浩市の言葉。疲れて帰って来た時、したいことが、私を抱きしめることだなんて。この言葉が、そして行為が泣かせるじゃないか。女にとって幸せに心を潤ませることは、マダムが使うどんな高級な化粧品なんかよりも、ずっと美しくさせる効果があるのだ。抱きしめる権利はこういう時に実力を発揮する。あんな薄っぺらな言葉しか紡げないマダムには、こんな幸せ、絶対にわからないだろう。
「久ちゃん、ドライブ行かない?」
「今日は無理よ」
「今日じゃないよ。朝から出発するの。少し遠出しようよ」
「いいね。じゃ、明後日は?」
 久子の素早い切り返しに、和人は少々驚いた顔をした。
「いいの?」
「いいよ」
 なぜに、即答か。明後日、浩市は出張でいないのだ。いとしい人がいない時は、かわいこちゃんと過ごしたい、という純粋なる不純な動機で、そう思ったのだ。

 当日、用意をして家の前で久子は和人を待った。
 しばらくすると、ぴかぴかに磨いた大きなキャンプ用の車で和人はやってきた。高級車らしいが、あいにく車種には詳しくないのだ。
「さて、どこに連れていってくれるの?」
「色々。山とか行こう。久ちゃんの好きな草花がたくさん見つかるよ」
「嬉しいわね」
 若い男と恋人同士のようで、久子の心は浮き立った。そして、それとは違う心の場所で、浩市、今頃何してるかなあ、とぼんやり思うのだ。車はどんどん山の中に入っていく。陽射しも隠れてしまうような、山奥。

 合い間に食事の時間も入っていたが、それでもかなりの距離を走ったと思う。午前中に出て来たのに、陽が暮れかけている。しばらくすると、川の流れる、草がふさふさと生えた場所に着いた。
「うわあ、こういうとこ大好き!すごいね、あんた。あたしの好みわかってる」
「そりゃあね。好きな女のことくらい」
 そう言ってしまってから、和人は、はっとした顔をした。
「ばかね・・・」
 久子は和人の真っ赤になった顔を見て、髪をくしゃりと乱した。
「・・・帰りは明日の朝になるから」
 和人は思い詰めたように言う。ここに着くだけで傾いていた陽射しは、こうして話している間に、隠れてしまい、空にはうっすら星が一つ二つと見えていた。
「そうだろうな、と思ったわ」
「なんで断らなかったの」
「来たかったから」
「それは・・・」
 口ごもる和人に、久子は目で話を促した。
「オレと、どうなってもいいってこと?」
「それであんたが何かから救われるんなら、何したっていいよ」
 自分から誘っておいて、和人は今、困っている。
 その困った顔を見て、久子は、何故このかわいい男の子は、もうすぐ結婚する、庭仕事の好きな年上の女を目に入れてしまったのかと思う。同じ大学の中に、女の子はたくさんいるだろうに。そして、すぐ久子は自分にも問いかける。接点も何もない金持ちのぼんぼんに、なぜ自分は何をされてもいいと思うのか。答は、簡単だった。恋をしたからだ。誰もが皆、幸せになりたいと願う。けれど、その願いに忠実でいると、人の心は音も立てずに行ってはいけない方向に、動いてしまうこともある。それが理不尽な恋の魔力。

「オレ、久ちゃんのこと、好きだ。久ちゃんはオレのこと、どう思ってるの」
「あたしもあんたが好きよ」
「じゃあ、結婚なんかするな。オレと一緒にどこかに行こう」
「できない」
「なんで」
「浩市がいるもの」
「じゃ、なんで今日こうしてるんだよ。女って、いや、久ちゃんてそういうことができるんだな」
「あんたは?あたしに恋人がいるって知ってて、好きだなんて言ってる。おあいこよ」
 和人は唇を噛みしめた。
「おまえみたいな女、最低だよ」
 久子は一瞬、ぶたれるかと思い、体を硬くして目を瞑った。しかし、予想に反して、和人は久子を慣れない手つきで抱き寄せた。
「あんただって、最悪。女の敵」
 そう言い返して、やはり言葉とは裏腹に、和人の広い背中に腕を回した。ゆっくりと首筋の匂いを嗅ぐと、ほんのり香水と汗の混じった和人の匂いがした。久子はそのまま、温かい腕の中でうっとりと目を閉じる。無骨だからこそ、心地良いこともある。たった今、吐息のかかる距離にいるかわいい人からの言葉は、それが、どんなに罵倒するものであっても、すべてを甘い囁きに変える。
 おまえなんか。
 あんたなんか。
 それは、この上ない誘惑の罵り合い。せつなく唇をこじあけ、くちづけを交わし、草の上を転がる。服と草がこすれ、ざざざざと雑音のような音を立て、互いの服をはだけさせる。草の上に敷いた服は、最高な二人の褥になる。夜の匂いが辺りに立ちこめると、湿気を含んだ風が二人の体に新たな汗を吹き出させる。もう心を痛めるような言葉は必要なかった。唇や手、夜の闇に浮かぶ野生動物のような瞳の輝きは、何よりも饒舌だ。
 月も星も虫も鳥も、みんな眠っている。今はこの世の中に、たった二人だけ。

 和人は、横になって乱れた久子の髪を梳いた。
 久子はもっと撫でて、というように頭をずらした。
「すごくいい匂いがする。久ちゃんの体」
「和人もだよ」
「オレ、久ちゃんのこと、すごく好きだ。どうしようもない。結婚するってわかってても」
 そんなの、私だって同じだ。私は結婚する。けれど、和人が好きだ。ただ、好きなのだ。
「結婚の話は、出さないで。和人とは関係がないから」
「口を出すなってこと?」
「違う。和人は和人だから」
「大人って都合のいい言い訳が得意だよな」
「和人だって、大人じゃない」
 和人はどこかが痛いような顔をして、久子を見た。その痛みは、久子が和人を傷つけた痛み。もう後戻りのできない成長痛。けれど、そんな痛々しい隙のある表情を浮かべることができる和人を、久子はやはり好ましいと思う。
「オレ、久ちゃんに祝福の言葉、言えない」
「言わなくていいよ」
「その代わり、久ちゃんに手紙を出す」
「なんて書くの?」
「何にも書かない。オレが久ちゃんを誰よりも愛してるってことを証明するためだけに手紙を出すんだ。だから真っ白」
「いたずらだ、って捨てちゃうかもよ」
「久ちゃんは気づいてくれよ」
「絶対、気づくわ」
 約束になりきらない約束。けれど、いい。今はこうして抱き合っているのだもの。何もかも構わない。けれど、夜が明けてくる頃、和人も久子ものろのろと服を着け始めた。
 ほらね。どこかに行こう、だなんて言っても所詮、帰るべき場所に帰るのよ。忘れたいような腹立たしい時間も、切り取りたいほど宝物のように思う時間も、無差別にそのまま、夜と共に川のように流れていく。きっと今日、我慢して何もなければ、ただの青臭い思い出になっただろう。もうこんな機会、持つことはないと久子は思う。
 たった一夜限りのこと。だからこそ、それは胸の中で星よりも輝く。

 その後、久子と浩市は結婚をし、引っ越すことになった。
 和人とは、あのドライブの日以来、久子は敢えて二人きりで会うことを避けた。その家での最後の日、トラックで荷物が運ばれていくのを晴々と久子は見ていた。最後なので、お世話になりました、と、マダム達に心の中で舌を出しながら言って回った。そこに、和人の姿はなかった。わかってる。どこにいるのか。ずっとわかっていて、行かなかっただけだ。久子は、そっと裏庭に行く。和人は柵にもたれて、ぼうっとしていたので、突然現れた久子の姿に驚いたが、すぐに懐かしいものを見る目に変わった。
「世話になった、とか言うなよ」
「言わないよ」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「こんなに好きで、ごめん」
 その目を凝視すると、和人は泣いていた。久子は思わず駆け寄り、抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、行ってはならない。同情は、自分が一番して欲しくなかったものだ。
 何も言えないまま、下を向くと、土の中から少しだけ成長した雑草が歪んで、いくつにも重なって見えた。なぜだろう、そう思いながら、顔に手をやると、いつの間にか、久子も涙を流していた。

 引っ越した先の家にも、裏庭がついていた。
 近所との確執がいやだという、久子の希望によるものだ。けれど、この土地には嫌味や皮肉をいう人間はいなかった。みんな久子と浩市を歓迎してくれた。だから安心して表の庭を堪能した。裏庭は、自然と放置されたままになってしまい、何年も過ぎた。


 真夜中、久子は上着を着て、そっと裏玄関の靴脱ぎに腰掛け、昼間の熱を含んだ真っ白な封筒を上着のポケットから出し、鼻に当ててみる。
 なぜ今の家がわかったのだろう、などとは思わない。きっと幻想を抱いたまま、探しあててしまったのだろう。あの人は、私の姿をどんなふうに見たのだろうか。幸せそうに微笑み、ひっそりとした裏庭ではなく、表の庭の草花を愛でる姿を。そして、別の人をあの人とは違う方法で愛する私を。思わず、答を仰ぎたくて、窓を見る。
 けれど、そこにはただ、夜の闇に塗り込められた裏庭が、ガラス越しに広がっていた。




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