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Last update 2008年03月15日

クロスアイ  著者:空蝉八尋



 もうどこにも、あの夜のかけらは残っていなかった。
 煌びやかな宝石よりも、浅ましく輝くシャンデリアよりも、一途に揺れる一本の蝋燭よりも。
 何よりも光の差していた夜は、もう私の眼裏には映らないのです。
 私の眼には、もう何も映らないのです。

「失礼致します、お嬢様」
「もうお嬢様じゃないわ、バトラー」
 私は彼が扉をノックをする前、彼が磨き上げられた廊下を踏み歩く前、彼が紅茶のポットにやかんの湯を注ぐ前から、彼がこの部屋を訪れることが分かっていました。
 きっと彼も段々と分かってくるのでしょう。私が開け放たれた窓の外を見上げ、顔に触れる風の感触に浸っているということも、髪と一緒に流れるカーテンを捕まえるのに夢中なことも。
「何をおっしゃいますか。お嬢様はお嬢様でございましょう」
「いいえ、私はもうお嬢様である身分では無くなったのよ」
 父が病で亡くなり、家の看板も意味を成さなくなり、世継ぎも居らずただ寂れた見かけだけの屋敷に、嬢など居ないはずだと。
 私は幾度も彼にそう言って聞かせました。別に、ひとりでも良いのだということも。
「貴方が紅茶を入れてくれる理由も分からないわ」
 すると彼は迷う間もなく答えました。
「このような良い天気の日には、コーヒーよりも紅茶が似合うと思ったからでございます」
 彼は毎日のように繰り返してきた台詞を、今日もまた何事もなかったかのように呟きました。
「あらそう」
 私はそう短く答えた後、喉に引っかかるような言葉を言うか言うまいか、しばらく悩みました。
 そしてついに唇同士が離れたのです。彼の煎れてくれた紅茶の香りが鼻をくすぐったのを合図にしたように。
「嘘ばかりね、貴方。今日は良い天気なんかじゃないでしょう」
「……分かっていたのですか」
「当たり前じゃない。こんなに風が冷たい匂いなんだもの、晴れているわけがないわ」
 私の瞳が光を映さなくとも、私は周りの景色がしっかりと浮かび上がっていました。
 それが本当に目の前に広がる庭の風景かどうかは、私には分かりません。多少の食い違いがあるでしょう。
 しかしそれを絵にすることも、文にすることも、言葉で表現することも出来ないのです。

 私の記憶の中で、ただひとつの「目の前の庭」として在る以上、その部品を説明することは出来ないのです。

「今更になってですが……お嬢様も、旦那様に似てらしたのですね」
「私がお父様に? いやね、あんなヒゲの顔と一緒にしないでよ」
 私が口を尖らせると、弾けて出た笑い声が聞こえました。
「何もお顔のことばかりを申しているわけでは御座いませんよ。雰囲気といいましょうか……そうしてこの庭を眺めているお姿に、どことなく重なるものがあるのです」
「お父様もこうして、庭を眺めてらしたのね……」
 私は、何故だか自分が馬鹿らしくなりました。
 様をつけて呼ぶ父親も、美しい言葉を選んで使うことも、すべてが無駄なことのように思えたのです。
「どうして私や貴方は、こうして遠慮をし合っているのかしら?」
「はぁ、遠慮……と申されますと?」
 バトラーは心底意味が分からないと言った風に息を吐きました。
「気を使いあっているじゃない。私も貴方も、お父様だってそうだったわ。相手のことばかりを考えて、踏み崩さないように慎重に歩みを進めてきたじゃない」
「そうでございましょうか。私はそう思いませんよ」
「やっぱり貴方は嘘ばっかりね」
「いいえ、私はこの性分なので御座います。この態度、この口調、これが一番私として楽な体勢なのです」
 私は眉をひそめました。それがバトラーに気付かれたかどうかは分かりませんが、それからしばらく二人は口をききませんでした。

 私には、どうしてもバトラーの言い分が理解出来なかったのです。

 私のまぶたに映ってくるバトラーの笑顔は、いつも貼り付けたような仮面の笑顔だったからです。
 そして私の、もうすでに硝子玉のような眼球でさえも、どうしても彼の笑顔を見ようとはしてくれないのです。

「目が痛むのですか」
 額に指先を当てた私を見てか、バトラーは心配そうな声でそう尋ねました。
「痛い」
「それは大変です、何か冷やすものでも……いや、温めた方がいいでしょうかねぇ」
 私は右腕を伸ばし、そこにあるであろうバトラーの腕を掴もうとしました。そしてその手が何秒か空を泳いだ後ふと、滑らかで硬い服の感触が指をかすめました。
 バトラーがわざと私の傍に寄ったのだ、そう直感的に感じました。
「こんなに痛むけれど、涙が出て来ないのよ。別に分かっているの。分かっているけど、悲しいの」
「お嬢様……」
 彼から、この部屋を立ち去る気配は感じられませんでした。その代わりに、何故だかいつもは感じられなかった体温のような暖かみが伝わってくるのです。
「ねぇ知ってる? 分かるのよ、目が見えなくても……この部屋の全てがね」
「それはそれは……不思議で御座いますね」
「なんでかしらね、両目の代わりを果たそうとしているみたいなのよ。鼻も、耳も、舌も、体全体が目の代わりをしているの」
 このただ広いお屋敷の玄関まで、私はきっと一度も転ばずに、何にもぶつからずに歩けることでしょう。
 短い光のあった期間で残された記憶と、そして今の感覚で私はこの地面に足を付けているのです。
 涙が出て来ないのは、きっと私には元より瞳という器官が必要無かったからだと思います。

 無くとも、何も変わらない。それは私の人生がどれだけ薄っぺらで、軽いものなのかを突きつけるようでした。  

「ねぇバトラー、正直に話してちょうだいね」
「なんで御座いましょう?」
 彼は心無しか落ち着いているようでした。
「貴方は何故私に仕えていたの?」
 正直に、と私が念を押したのが効いたのか、それとも他の理由かは分かりませんが、彼はゆっくりと口を開きました。
「……私は旦那様に仕える身でございます。あの方の御命令ならば、私は従います故」
「お父様が、私に仕えろとおっしゃったからなのね」
「さようで」

 そして私は、この時とうとう確信したのです。

 本当は気付いていたけれど、ずっと認めようとはしなかった事実に。
 他のものは脳裏に描けても、これだけはけして浮かべようとはしなかった真実を。

「私の目が見えなくなった訳、お父様は最後まで教えて下さらなかった」
「段々と悪くなる病でしたから……旦那様も、お嬢様を失望させてはならないと思っていらっしゃったのでは」 
 私はその言葉に、思わず下品な薄笑いを浮かべました。
「段々と、ね……そうね、段々と病気にされたんですものね」
 そう私が言い放った瞬間。
 いつも穏やかで、波ひとつたたない彼の表情が、どんなに崩れたことでしょう。
 私の眼裏にこそ映ってはきませんでしたが、それを想像するだけで口元が歪んできます。
 何も言ってくる様子のないバトラーに、私はもう一度言いました。

「毎日紅茶を煎れてくれてありがとう。貴方の煎れる紅茶ってね、個性的で好きだった」

 彼は普段よりもずっとずっと小さな声で、分かっていたのですかと呟きました。
「当ててあげるわ、この部屋の風景を」
 どうしてこんな事を口走ってしまったのか、自分には分かりませんでした。
 何故だか暗闇。私の目に光が差さなくなった夜の、あの暗闇に似ています。
「窓は半分だけ開いて、レースカーテンはバトラーが閉めてくれたのね」
 何が映っているのかなんて、私には分かりませんでした。
 ただ私は体中で感じていたこの部屋を、ただこの数十分の記憶を、掘り返して口に出すだけ。
「私の前のテーブルにはティーポットとカップ……まだ紅茶は入ってないけれど」
 本当は知っていたの。
 知っていたけど知らないふりをしていたのは、実は悪いことだったのかしら。
「小窓下の机の上にあるパッチワーク、風で飛んでいるわ。傍にあった針刺しもきっと、床に転がってる」
 ごめんなさい、私は何も分からないの。
 良いことも、悪いことも、希望も、恐怖も。
「そして…………」


 だって私、この目が見えないんですもの。


「貴方の後ろに隠された右手には、銃」


 どのくらいの時間が経ったでしょう。彼は小さく息を吐き出しました。
「全て、正解でございます」
 私は自分で一度だけの拍手をしました。そしてその合わせた手をそのまま胸の前で組むと、唇をうずめます。
「ねえバトラー。貴方は今、満足?」
 研ぎ澄まされた耳が、少し遠くで乾いた音を捉えました。 
「それはもう、心の底から満足でございます」
「何故?」

「私が人差指を引く一瞬で、これまで築き上げてきた私の生涯を終わらせ、そして誇り高い名誉と財産が手に収まるからでございます」


 私が彼にした最後の抵抗は、その彼の言葉を訂正しないことでした。
 誇り高い名誉と財産など、この見えない両目ほどの価値もないということを。


「それではお嬢様」

 私の光が差さない瞳に映るのは、もうずっと見ていなかった彼の笑みでした。
 なんて優しくて懐かしいのかしら。
 なんて優雅で哀しいのかしら。 
 なんて世界の誰よりも、美しい笑みなのでしょう。


「さようなら」


 彼のなだらかな声は、耳の奥のひだを丁寧になぞっていった。




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