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Last update 2008年03月15日

警部補・古葉谷三郎#7 ~灰色の掌~  著者:松永夏馬


 汗ばんだ掌に包まれ、いくらかそれは温まっていた。

 平良遼はポケットの中の右手を、まるで固く封印するかのように握り締めたまま、あえて空を見上げた。くすんだ灰色の夕焼け空が落ちて来る感覚に襲われた遼は眩暈を感じ、慌てて意識をアスファルトの地面へと落とす。手前から伸びる横断歩道の白いラインが歪む。
 大丈夫だ。落ち着け。
 自分自身に言い聞かせるように彼は目を閉じ、息を吐く。肺の中の空気を何度か入れ替える。そうして目を閉じることでようやく自分以外の世界が自分の中に染み込んでいくようだった。
 車の走る音。クラクション。雑踏を踏みしめる幾多の足音と、他愛もない言葉達の波。
 大丈夫。

 小さく頷いてゆっくりと目を開ける。冬の終わりを告げる強い風に、乾ききった枯葉が転がるように舞い足元に絡みついた。

「大丈夫ですか?」
 長身をすこし屈めて遼を覗き込むように、黒尽くめの男が声をかけた。黒いジャケットに黒いシャツ。イタリア辺りの俳優のような少し大袈裟な身振りで話すこの男は刑事である。役職は警部補。もう1人、若くして前髪が後退しつつある刑事はその後ろで額の汗を拭いている。
 休日の夕方、いつも行かない病院からの帰り道。暮らす独身寮まであと少しの交差点で遼を呼び止めたのは、この二人連れの刑事だった。

「ショックだったでしょうか?」
 言葉だけを見れば遼の身を案じているかのようだが、黒尽くめの刑事のそれはどことなく皮肉げな印象で、遼はほんの少しムッとしてしっかりと足を踏ん張った。
「いえ、大丈夫です。……で、本当なんですか」
「えー……残念ながら本当です」
「……そう、ですか。茶木が……殺された……」
「お察しします」
 決り文句のようにその刑事は眉を顰めて大きく頷いた。

「茶木ハジメさんが死体となって発見されたのは今朝の10時過ぎ。田舎から出てきたお母様が第一発見者です」
「お母さんが?」
「ええ、この連休で久しぶりに息子のハジメさんに会いに来たらしいのです。発見した当初のお母様の姿には胸が痛みます。管理会社が管理しているマンションですから、大家さんもいません。一人で息子の死体を発見するなんて、なんて悲しいことでしょうか」
 それを聞いた遼でさえ哀惜の念に駆られる。殺人とはそういった心を抉る凶悪なモノだ。
「場所はそこの独身寮。茶木さんの部屋です。……貴方も同じ寮に住んでらっしゃいますよね?」
「……そりゃまぁ、僕も独身ですから」
 寮の答えに満足そうに頷いて、刑事は続けた。
「えー……。ハジメさんのお母様がベルを鳴らしても出ない、ノックしても出ない。しかし携帯電話を鳴らしてみるとかすかにドアの向こうから音が聞こえる。到着時間を伝えていたにも関わらず寝ているのだと思って、少し怒りながらお母様は預かっていた鍵でドアを開けて中に入ったわけです。」

 そこで刑事は遼の反応を見るように言葉を止めた。口元に手をやり、深刻そうな顔であるにもかかわらず、どことなく余裕を含んだ笑みを湛えているようにも感じる。遼は無言で手を刑事に向け、先を続けるように示した。

「最初は寝ているかと思ったそうです」
 刑事は繰り返す。
「万年床の蒲団が折りたたまれて壁際に寄せられていました。被害者はその脇の床で、少し壁にもたれかかるかのように仰向けで倒れていたそうです。死因は側頭部を……おそらく部屋にあったガラス製の大きな灰皿でしょう、殴打されたようです。一撃です」
「……ちょっと待ってください」
 遼の言葉に刑事は首を傾げて口を閉じた。
「お母さんが合鍵で開けた、ということは鍵が閉まっていたということですよね? 茶木の部屋は最上階の4階だ。ベランダから逃げたわけでもないですよね?
 密室というヤツですか」
「いえ、おそらくそれはないでしょう」
 口の端を上げ、刑事は人差し指を立てた。
「窓の鍵はすべて施錠されていました。しかし……独身の若いサラリーマンの1Kのマンション。合鍵くらいは持っているでしょう。……貴方はどうですか?」
 遼は面白くもなんともない顔で頷いた。確かに自分も普段使う鍵とは別に、近所に住む親に一本、無くした時の為にもう一本スペアを用意してある。大家や管理人がいるマンションではないので、鍵を無くした程度で管理会社に連絡を取るのが面倒だからだ。
 遼の反応に刑事は頷いて返す。どことなく馬鹿にされているような感覚に、遼はムッとして言った。
「……つまり、犯人はわざわざ鍵をかけて逃げたというわけですね?」
「ええ。そういうことになります」
「何故でしょう? 何故密室にする必要があったんでしょうね」
 遼はきわめて冷静に、しかし挑戦的に刑事へ問う。しかし、刑事はわずかに笑い声を漏らし何度も頷いた。
「発見されたのは何故ですか?」
 逆に問い返され、遼は僅かに頬をヒクつかせる。
「田舎から出てきた母親が鍵を開けたからでしょう」
「そうです。被害者にとってはお母様が来る予定でも、犯人はそれを知らなかったのではないでしょうか? もしお母様が来なかったとすれば、土日は放置。月曜日に職場を無断欠勤して異変に気付く、ということになります」
「……どういうことですか?」
 刑事は明らかに笑みを湛えて続けた。 
「犯人が部屋の鍵を閉めて逃げたのは、発見を先延ばしにする為でしょう」
 単純な理論。しかし、間違ってはいない。遼はぐっと言葉を飲み込んだ。
「凶器は部屋にあった灰皿。その場でカッとなって起きた単純な事件でしょう」
 そう言って、刑事は遼の神経を逆撫でするかのようにわざとらしく笑みをこぼした。

「えー……さて」
 再び刑事は眉間に皺を寄せ、立てた人差し指を振る。
「実はこの単純に見える事件にもいくつか気になることがありまして」
 そうだろうな、と遼は思った。そうでなければこんな道端で長々と足止めさせるわけがない。

「ひとつは、被害者の部屋の包丁が一本なくなっていること」
「包丁……ですか」
「ええ。包丁です。凶器は鈍器であるにもかかわらず、包丁が消えています」
「もともと無かったんじゃないですかね?」
「いえ、お母様に確認してもらいました。被害者の茶木さんはあまり料理をしませんが、一人暮らしに必要だからと一本だけ包丁を持たせたと言っていました」
「最近壊れて捨てた、とか」
「茶木さんが二日前に購入したフランスパンが残っていまして、おそらく包丁で切られています。つまり最低二日前までは包丁はあの部屋にあったと思われます。昨日の燃えるゴミに出してしまったとは考えにくいですよね」
「昨日にでもどこかへ持って行って無くした、という可能性もありますよね」
 遼は引くことなくそう言った。
「……ええ。まぁ、可能性はゼロではありませんね」
 初めて刑事の言葉を詰まらせ、遼は内心ほくそえんだ。

 刑事は外国人のように大袈裟に肩をすくめてみせると、目を閉じ額を人差し指で掻いた。
 そして再び口を開く。

「えー……ではもうひとつ……気になることがありまして」

 飄々とした刑事の口から予想していなかった言葉が聞こえた。

「現場にですね。……青汁がぶち撒けられていました」
「はぁ?」

 ********************

 ふと気付けば歩行者用信号が点滅を繰り返していた。

「青汁……?」
「ええ、青汁です。悪役商会が『マズイ……もう一杯!』の青汁です」
 どうやら遼が聞き違えたわけではないらしい。目を丸くした遼を興味深そうな目で刑事は見ていた。
「古葉谷さん、古いッスよー」
 若いほうの刑事が初めて口を挟んだ。
「最近のはけっこう美味しいんですよ、知らないんですか?」
 嬉しそうに挙動不審な若い刑事が笑う。古葉谷と呼ばれた黒尽くめの刑事はそれを無視して遼に向き直った。 
「えー……被害者の冷蔵庫にあったものだと思われますが、粉末になって販売されているもので、水に溶かして飲むタイプだそうです。これもお母様が教えてくれました」
「茶木のヤツ、料理とかしないくせに健康的だったんだな……」
「どうやらこの青汁もお母様の勧めだったそうです。とても子供思いの方です……」
 悲しそうな目で夕焼けを見る刑事。遼にはまるで古いモノクロ映画の一場面のように見えた。
「刑事さん……何故青汁がぶち撒けられていたのでしょう?」
「そこが問題なのです」
 根本的な遼の問いに、大きく頷いて見せた刑事は、額を指で突付きながら考え込んだ。
「えー……茶木さんの仲の良かった同僚として、平良さんなら何か気付かれるのかと思いまして……こうしてお話しを伺っているわけですが。……何かありませんか?」
 小さく唸りながら刑事はちらりと遼に視線を送る。遼はわざとその視線を外し灰色のマンションを見つめていたが、沈黙に耐えきれずに小さく息を吐いた。
「犯人は灰皿で被害者を殴り倒した。しかしそれだけでは怒りが収まらず青汁をぶちまけた、といったところでしょうか」
 遼の言葉に小さく首を振って刑事は答えた。
「青汁は被害者の体、その脇の壁、絨毯、凶器である灰皿に振りかけられていました。被害者に対する冒涜だけで、その周囲にまで青汁を撒く必要はあるでしょうか?」
 無言。遼はきわめて冷静な顔で不敵な笑みを浮かべた刑事を睨みつけた。
「冷蔵庫の中にあったのは開封された1リットルパックの牛乳。ほとんど減っていないところを見ると、開けたばかりだったのでしょう。……それから、未開封のトマトジュース、900ミリリットル入りのペットボトルです。後は缶の発泡酒が2本。使いかけのマヨネーズと卵が6個。以上です」
「一人暮らしの男ならそんなもんじゃないですか?」
「ええ……そうかもしれません。青汁やトマトジュースはお母様が送ったものらしいです。部屋の隅のダンボールには数本のトマトジュースと青汁が一箱残っていました」
 刑事は挑戦的な目を遼から外さない。口元を僅かに歪め、相手を見透かしているかのような、そんな余裕が感じられた。
「個人的には青汁よりも牛乳かけられたほうが、ダメージありませんかね?」
 若い刑事が再び口を挟んだ。落ち着き無く体を揺すり、愛想笑いしながら。
「は?」
 黒尽くめの刑事が明らかに不機嫌そうな顔で若い刑事を睨む。
「ほ、ほら、匂いが。小学校の時によくこぼした牛乳、拭いた雑巾がもう、ね?」
 黒尽くめがぴしゃりと若い刑事の額を叩いた。
 遼は言葉に詰まり、顔をしかめた。

「……例えば刑事さん。被害者と加害者が青汁を飲みながら口論になって、青汁をぶっかけて殴り合いに……とかどうでしょう?」
「そういう場合普通はお酒になりませんかね? ちなみに犯行時刻は昨夜の22時から24時くらいでした」
 見下したような笑みで即座に言い返され、遼は奥歯を鳴らした。
「犯人以外の人間が青汁を被害者に振りかけた可能性は?」
「それは……考えていませんでしたね」
 刑事はほんの少し驚いた顔で、密かに遼を喜ばせたが、相変わらずの不敵な笑みで切り返す。
「犯人以外の誰かが青汁を撒く理由とは?」
 遼はぐっと言葉を飲み込み、足元の乾いた枯葉を蹴った。
「……それは貴方たちが考える仕事だろ」
 不機嫌そうにそう言うと、遼は歩き出そうと足を一歩踏み出した。

 ********************

 ―――暗転。

 暗闇を一筋のスポットライトが切り裂き、照らし出された刑事がアナタに向かって振り向いた。

 黒尽くめの刑事は、暗闇に溶けるような雰囲気で、人差し指を立てて笑みをこぼす。
「この事件最大の謎は、何故、犯人は青汁を事件現場に振り撒いて逃げたのか。牛乳でなく、発泡酒でもなく。それさえ判れば犯人はもう判明したも同然です。その犯人の名は……もうお分かりですよね」
 口元を上げ、右掌を大きく開いて見せると、頷いて見せた。

「えー……古葉谷三郎(ふるはたに さぶろう)でした」

 ********************

「んー……実はひとつ考えていることがありまして」
 慇懃な態度で刑事は遼の前に立ちはだかった。両掌を広げて押し留めるかのように遼を止めると、信号を指差した。
「赤信号です。もう少し宜しいですか?」
 遼は頬をヒクつかせて黙り込んだ。無言で二人の刑事を睨みつける。
「もし、私が考えていることが、貴方の考えていることと同じであったら、私はとても自信を持って捜査に臨めます」
 遼はだんまりを決め込んだ。信号だけを見つめ、変わったら即歩き出そうと心に決めて。その様子に刑事は小さく肩を竦めてから、口を開いた。

「いいですか? 問題は、何故青汁なのか、ということです。牛乳でもない、トマトジュースでもない、発泡酒でもない。青汁でなければならない理由が犯人にあったと仮定します。牛乳、トマトジュース、発泡酒と青汁の違い。……それは単純明快、『色』です」

 そこで刑事は遼の反応を確かめるかのように一呼吸置いた。遼はまっすぐに信号機を見つめている。

「えー……犯人はなんらかの痕跡を残してしまい、それを誤魔化す為に青汁を振りまいた。明らかに不自然な『青汁を振りまく』という行為なのです、それ相応の何かがあったに違いありません。そこに犯人個人をも特定してしまうような重要な証拠が」
 力強くそう言いきった刑事は再び口元に僅かな笑みを湛えた。

「……そう。血痕です」

 刑事は続ける。
「もしかしたら被害者が包丁を持ち出したのが先だったのかもしれません。とにかく犯人は被害者を殴り殺すと同時に包丁で傷を負い、その血痕を残してしまった。包丁についた血痕は包丁ごとどこかに捨ててしまえばいい。しかし……絨毯、もしくは壁紙、被害者の衣服。そういったものに染み込んだ血痕は拭いて簡単に拭えるものではありません。
 ……続けて良いですか?」
 刑事は遼が僅かに頷くのを見て続けた。
「拭いきれない証拠。少量ならば上から別の何かで誤魔化してしまうほうが手っ取り早い。そう犯人は考えたわけです。これ以上血が付かないように灰皿の指紋を拭い、包丁をハンカチにでも包んで自分のポケットに入れる。……犯人は冷蔵庫を開けます。白い牛乳、小麦色の発泡酒ではむしろ血痕が目立ちそうだ。そう思ったことでしょう。……そして、犯人は青汁を取り出した」

 再び刑事は遼の反応を見つつ言葉を止めた。

「異論はありますか?」

 遼は何も答えなかった。

「……被害者は粉末の青汁をその都度水に溶くのは面倒だと、空いたペットボトルにあらかじめ作って冷蔵庫に保存していたのです。だから貴方は気付かなかった」

 刑事は気付いている。

「同じトマトジュースのペットボトルが2本冷蔵庫に入っていた。開封済みの1本と未開封の1本。しかし、開封済みの1本にはトマトジュースではなく青汁が作りおきされていたんです。普通に考えれば血痕を誤魔化すのならば同じ赤のトマトジュースです。しかし犯人が使ったのは緑色の青汁」

 遼は信号を睨みつけたまま、ゴクリと喉を鳴らした。

「貴方は気付かなかった。赤緑色覚異常……赤と緑の区別がつかなかったから」

 灰色の夕焼け。
 気付き難い色の信号。

 そして、よろけて壁に手をつき残された灰色の手形。

 汗で少し湿った包帯が掌の中で不快感を思い出させた。急に傷が痛み出す感覚に、遼は諦めたように右手をポケットから出した。信号から視線を落とすと、また足元に枯葉がまとわりついていた。

「一口でも……飲んでみれば良かったですね」
 くくくっと声をもらし、黒尽くめの刑事が笑った。
「あいにく僕はトマトが嫌いでね」
 ふぅ、と息を吐いて、彼は足元の枯葉を蹴った。長い信号だった。




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