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Last update 2008年03月15日

Raison d'etre(存在意義)  著者:望月来羅



 誰かの名前が呼ばれ、隣のソファーに座っていた人が立ち上がった。
 何もすることが無い。ツカサは欠伸をかみ殺した。寝れば時間経過を感じなくてすむだろうか、と、包帯に巻かれた自分の右腕を見下ろしながら瞼を下ろす。
 深く息を吸い込むと、鼻に独特の匂いが広がった。白が基調の廊下。そこかしこに充満するのは消毒の匂いで、町で一番大きな病院の待合室。この場所に座ってから呼ばれないまま、すでに2時間が経過していた。

「お兄ちゃん・・・。遅いね・・・」
 いざ寝ようとしたとき、右隣から呟く声が聞こえた。僅かに瞼を開け、長い前髪の間から目だけで隣を見やると、大きな曇りのない瞳と目が合った。ただし、相手は左目だけ。右目はまだ新しい包帯に覆われ、額と、視線を落とせば左足にも包帯が巻かれていた。
 包帯の白が嫌になるくらい映える黒髪は、肩下ほどまで。いつもはツインテールに纏めている髪が下ろされていることには若干の違和感があったが、彼女も髪を結んでいる余裕が無いのかもしれない。心理的に。
「あぁ。さすがに2時間も同じ体勢だと疲れるな。愛理も?」
「ちょっとだけね。でも大丈夫だよ。・・・傷、痛む?」
 視線を泳がせた後、おずおずと尋ねてくる妹に、ツカサは瞬きをした後、眠ろうとしていた体を起こして愛理の頭を自由な左手でゆっくりと撫ぜた。愛理は、小さい。
 今年18歳で身長180㎝のツカサとは年10歳、身長約50㎝の差があり、今年やっと8歳になる。
「平気だ。おまえこそ」
「愛理は平気だよ。違う、お兄ちゃんの方が酷いから・・・」
 愛理の視線が、ツカサの右手を見た後、わき腹を見、それから足まで降りていった。左目に涙が溜まる。またか、とツカサはため息をついた。
 良くも悪くも、愛理は周りに気を使いすぎる子供だった。普通、8歳と言えば未だ世界の広さ、深さを知らず、気に入らないことがあれば泣くのだろう。だが、愛理は、周りに気を使いすぎた。
 ツカサは、どうやら愛理の中では一番近い人物と認識されているらしい。自分の怪我も痛いだろうに、ツカサの怪我を見ては泣くのだ。

「平気だって言っただろ。お前は人に気を使いすぎ。もっと自分中心に生きろよ」
「その言い方は変だよ」
 フフ、と控えめに愛理が笑ったとき、廊下の向こうから、顔馴染みとなった看護婦が歩いてくるのが見えた。見ていると、こちらに気づき、やはりツカサ達の番のようで手招きをされる。
「凄い傷だね。事故かな」
「小さいのに可哀想・・・。お兄さん痛いのかな、ずっと笑わなかったよ」
 愛理を急かして立ち上がったとき、隣に座っていた中学生くらいの少女二人の会話が聞こえた。
 こちらの視線に気づいてか、会話はすぐにやんだが、余計なお世話だと思う。外見だけで同情されたり余計な勘繰りをされるのが大嫌いだった。確かにツカサは笑ったことがない。小さい頃から、周りに合わせて笑顔を作ったことはあるが、心から笑ったことがなく、自分でも不感症なのかと疑ったこともあったが、いまとなってはどうでもよかった。
 歩きながら引かれる腕に気づいて下を向くと、愛理の視線とぶつかった。今の会話が聞こえたのだろう。気にしなくていい、と言うように首を振ってやると、安心したように頷いた。
「勝手なことばっか。お兄ちゃんだって笑うことあるのに」
「気にしなくて良い。本当のことだ」
「違うよ。・・・愛理見たもん。お兄ちゃんが一回だけ、笑ったところ」
 下を向きながら、気になる物言いをする。ツカサは、愛理の前では作った笑顔を見せることは無かったが、他人に対しての笑顔であれば、愛理も何度も眼にしているはずなのに。
「俺が・・・笑った?」
「うん。本当に笑ってた」
「いつ」
 心から笑った覚えがなくて問うが、愛理はそれっきり黙ってしまってこたえようとはしなかった。診察室のドアをくぐる。

「・・・やぁ。ツカサ君。愛理ちゃん。その後、調子はどうかな?」
 柔和な笑顔で二人を迎え入れたのは、後ろに丁寧に撫で付けられた髪に白いものが混じる、人の良さそうな初老の男性医師だった。胸元には小さなプレートに『野々村』と印字され、ペンの頭で額を掻いている。怪我をしてこの病院に訪れてから、ずっとツカサと愛理の担当を受け持ってくれている。
 ツカサは愛理の頭に手をやり、頭を下げてから薦められた椅子に腰を下ろした。
「おかげさまで。最初よりは大分良くなりました」
「そうですか。それはなにより。・・・愛理ちゃん。まだ目は痛むかい?」
「痛くないです。もう何も感じないから」
「そっか。わかりました」
 目の包帯を押さえた愛理に心配そうな視線を投げたが、ひとまずホッとしたように息をついた。愛理の目は、もう機能しなくなって、2ヶ月が経過していた。
「・・・じゃぁまず傷の具合を調べようかな。ツカサ君」
「あ、はい」
 カルテを手に持ったまま野々村医師に促されて、シャツの前を寛げた。看護婦がゆっくりとした手つきで包帯を巻き取ると、約10センチほどの深い裂傷が現れた。
 直りかけなのか傷口の周囲がわずかに盛り上がっている。後ろで愛理が心配そうに見守る中で、野々村の手が、わき腹の傷部分の上部に触る。身体にはその他にも丸い何かを押し付けたような後や、引っかき傷などがあり、見慣れたツカサとは違って野々村は眉間を寄せた。
「相変わらず・・・ひどい傷だね。わき腹は?その後化膿は」
「いえ。大丈夫です。膿んだりもしてません」
「そう。じゃぁ包帯変えて、新しい痛み止めの薬を・・・」
「大丈夫です先生。薬なら、最初に頂いたのがまだありますから」
「しかしあれは強すぎて・・・」
「今はちょっとお金がないので・・・すみません」
「あぁっ、いや、こちらこそ気づかなくて。じゃぁ今日は、包帯と、腕の調子を見て・・・おや、こっちの傷は・・・膿んでいますね」
 野々村の手が、肩の部分の丸い傷跡に触った。小さな赤い点のような傷だが、熱を持ち、瘡蓋のはがれたところが膿んできていた。

 ほんの二ヶ月ほど前に、母親に与えられた傷だ。全身のいたるところに、引っかき傷、煙草の押し付け後などがあるが、これでも妹の愛理よりは随分とマシだ。体の大きくなり、身体を守る術を知らなかった幼い頃とは異なり、力を使うことを覚えたのだから。
 妹の愛理は、両親から虐待を受けながらも、それでも両親、特に母親を愛していた。ツカサが母親を殴りつけて妹を暴力から守ろうとすると、泣くのだ。
 お母さんに怒られるのは自分が悪いからだと。サラ金を抱えた父親、酒に走った母親。素面の時の母親は優しくて、愛理が嫌がるのもあって、どうしても家を出ることは出来なかった。
「煙草の灰が傷口に入ってたみたいで。一応消毒はしたんですけど」
「・・・そうですか。分かりました。」

 包帯を替えてもらい、愛理の目も診察してもらい。診察が終わって、廊下に出ると言う所で、ツカサは野々村に呼び止められた。愛理にロビーで待っていてくれと言い残して部屋の扉を閉めると、野々村は何かを考え込んだ後、ツカサの目を見てゆっくり話し出した。
「ツカサ君。考えたんだけどね。愛理ちゃんを私の知り合いが院長をやっている施設に預けてみないかい?」

「・・・・え」
「君たちの身の上は分かっているつもりだけどね・・・。愛理ちゃんはまだ8歳だろう?親御さんが亡くなられて、君も大変じゃないかい?もちろん強制するつもりはないけれど・・・」
「愛理を・・・施設に」
 両親が亡くなってから、一度も考えなかったわけではない。だが、いつもは思考の隅をふっと横切るくらいで、きちんと脳を働かせて考えたのはこれが初めてだった。
「10歳以下の子供は特に手厚く待遇される。といっても、普通の子供として受け入れられるだけだけどね。院長さんが良い人なんだ。きっと気に入ると思う。・・・ごめんね、さすがにいきなり愛理ちゃんの前では話せなくて。それだけだけど」
 戸惑っているツカサに、野々村はその施設の名前と連絡先を教え、帰って良いよと促した。

「なんの話してたの?」
 病院を背後に少しづつ遠ざかりながら、ツカサと愛理は並んで歩く。あまり歩くのが早くない愛理のために、自然スピードはゆっくりとしたものになる。
「傷のことについてちょっと」
「・・・悪いの?」
「違う。ただ愛理には怖い話になるからってさ」
 頭の中では先ほどの施設の話を思い出しながらも、無意識の内に口からはスラスラと都合の良い話が出来上がる。ふぅん、と曖昧に頷いた愛理が、ふと空を見上げた。
「良い天気だねぇ」
 快晴である。風も穏やかで、季節は春。ツカサの一番嫌いな季節だった。
「・・・脳が寝そうで俺は嫌いだ」
「寝たかったら寝れば良いじゃない。不思議だなぁ。あの空の向こうに沢山の星が広がっているなんて・・・。こんなに広いのに、地球よりも大きな星があるんでしょ?」
「あぁ数え切れないほど。宇宙の広さは今の科学をもってしても解明されてない」
「なんでお兄ちゃんは難しく言うのかなぁ・・・算数の教科書だってそうだよ。1は1って言えば良いのに、2引く1とか、4引く3とか言うんだもん」

 膨れる妹に、目元が緩む。その考え方は、ツカサとは正反対の考え方だった。きっと、愛理は文系なのだろう。
「ねぇお兄ちゃん」
 愛理が、強風に舞う枯葉を目で追いながら、呟くように言った。
「人って死んだらどこに行くのかな。宇宙?」
「・・・どうだろうな」
 なんと言って良いか分からず流すと、愛理も愛理で上を向いたまま続けた。
「この前ね、授業中に宇宙人の話しをしてたら先生に怒られたの。変なこと話すなって。・・・宇宙人っていないのかな」
「お前が今いる星は?」
「地球?」
「あぁ。先生に言ってやれ。宇宙人を否定することは=自分の存在も否定してることになるんだってな。地球は地球だけでは生きていけない。宇宙の中にあるからこそ地球なんだ・・・と。友達が言ってたな」
「よく分かんない」
「人間も同じだ。自分一人だけだったら自分の居場所が分かり難い。人間は一人だけだと人間ではなく『人』になる。間に人と人との繋がりをもってして初めて『人間』になるんだ。・・・ブランドとかもそうか」
 世界に自分という種が一人だけ。それはとても寂しいことで、きっと自分の本来の姿を忘れて世界に溶け込もうとしてしまうのだろう。側に誰かがいて、外から自分を見てくれる。幸せなことだと思った。

 ふぅん、と愛理が頷く。
「そっかぁ・・・・愛理も、一人だったら嫌だなぁ」
「今のところは俺がいるだろう」
「うん。前は母さんがいた」
 何気なく呟いた愛理の言葉に、ツカサは思わず歩みを止めた。どうしたの、と振り返る愛理の顔上部の包帯。不機嫌になる自分を自覚しながら、眉を顰めて愛理の頭を軽く叩いた。
「・・・あいつは俺らを守ってくれてたわけじゃない。おやじもおふくろも、虐待してばっかだっただろ。お前なんかいつも」
「・・・お母さんはお兄ちゃんも愛理も好きって言ってくれてたよ。時々怖くなったけど。」
「いつもだったろーが。酒飲まない日があったか?」
「でも、母さんも優しかったよ」
「・・・・」
 どこか儚げに笑みを浮かべながら歩く愛理を、信じられないような気持ちでツカサは頭を振った。ふいに、目の前の風景が歪み、フラッシュバックする記憶によろめいて顔に手を当てた。思い出すのは一ヶ月前。

 かつて小さな株式会社を経営していた父親が、会社の倒産でサラ金を抱えるようになり、母親も虐待と酒に溺れる様になってから、約四年経っていたあの日。
 珍しく、父も母も上機嫌で、珍しく四人で食卓を囲んだあの日。いつもは締め切っている黒いカーテンを開けて、笑顔で母が食事の支度をしていた。
 愛理は喜んで手伝い、ツカサも久しく見ていなかった暖かな様子を見て心を和ませたものだ。四人で食卓を囲み、四人で手を合わせ。ご飯を口に運んでいるうちに、意識がふっと遠のくのが分かった。

 気がついたとき、振動と外の移り行く景色を見て、車に乗せられているのだと分かった。しかも、最後に箸を口に運んだとき、外は確かに青空だったのに、今は綺麗な夕焼けで、下の方には僅かな暗色すら混じっていた。
 追いつかない頭で身を起こし、隣に愛理、運転席に両親がいるのを確認して窓の外を見やり、怪訝に思った。道がない。
 最初に見えたのは、崖越しに見える、真っ青な海だった。道路ではない。そもそも、車など当に売り払ったはずだった。海に向ってごつごつとした岩肌が斜めに突き出し、窓から精一杯前方を確認していたツカサは不安が胸に広がるのが分かった。隣で愛理が目覚める。

「・・・この車、なんで借りたんだ」
 父は、気がついた愛理とツカサを見ても何も言わず、振り返った母は、痩せこけて疲れた顔に、歪に満面の笑みを浮かべた。
「ツカサ、愛理ちゃん、おはよう。すごいでしょう!?お父さんがレンタカー借りてきてくれ、くれたの。今ね。もう少しでね。疲れないところにい、行けるからね」
 母親の口調は、呂律が回っていなかった。笑った顔と、口調がアンバランスで異質さが目立つ。よく見ると、母親は口の端から唾液を垂らしており、上唇にはわずかに白い細やかな泡が付着していた。目を見ると焦点が合っていない。
「ドラッグ・・・?」
 母親の様子に何を感じたのか、愛理がツカサに体を寄せてきた。母親の言った言葉の意味と、この状態を考えて、答えが出る。
「・・・・一家心中ってやつかよ・・・?」
 呆然としたまま、目が無意識に窓の外の地面に向く。尖った石や岩が幾つも転がり、植物はあまり生えていなかった。

「愛理!」
 かなりのスピードで暴走していたが、躊躇うわけにはいかなかった。
 ここがどこの自殺名所かは知らない。だが、死ぬわけには行かず、また、愛理を死なせるわけにはいかなかった。
 ドアを開け、愛理を伴って逃げようとしたとき、愛理の怯えたような悲鳴に背後を振り返り、悪鬼のような表情をした母親が愛理の左手首を掴んでいるのを見た。
「・・・ど、どこ行くの?愛理?ツカサ・・・?」
 父親は何も言わない。口の端から泡を出し、すでに意識がないのか、車は減速しない。抵抗する愛理を放すまいとするように、ギリギリと爪が手首に食い込んで血をにじませていた。思わず視界が赤くなる。崖はすぐ目の前だ。どこまで人を道連れにしようというのか。ドアに手をかけたまま、母親の手をこじ開けようとした。
「やめろ!!愛理、っは、関係ないだろ!」
 跳ねる車に身体を揺られて上手く動きが取れない。記憶の底に眠る、大昔の両親の笑顔が思い出された。幸せな、家庭だったのに。愛理が生まれて、会社が倒産して、サラ金を抱え、暴力を振るうようになり・・・いつからこうなった?
「やめてくれっ!母さん!」
「あなた達も・・・ひ、一人じゃぁ、さ、寂しいでしょ・・・!?お、お母さん達と一緒にい、行こう、ね?」
「愛理はまだ生きれる!頼むから、愛理はっ・・・!!」
 薬か何か、すでに正気を失っているのだろう、怯えたように笑う母親ごしに、綺麗な夕焼けと崖の先端が見えた。

「――いやあぁぁぁっ!!」
 愛理が泣き叫んだ。
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、母親の指に思い切り噛み付いた。生え揃って間もない白い歯が、大好きと言った母親の指に噛み付く。力の限り噛み付かれて、歯と指の間から鮮血が滴り落ちた。母親の細い悲鳴が上がる。
「愛理っ!!」
 少しだけ緩んだ指から愛理を無理やり奪い取り、躊躇する暇もなく、母親の呼び声を背後に聞きながら、ドアの外に身を躍らせた。
 平らな道ではなく、道から外れた岩の転がる林道に強かに身を打ちつける。かなりのスピードから飛び降りたらしい。腕が折れた音がした。
 地面に当たったとき、側に倒れた愛理が悲鳴を上げた。慌てて体を起こそうとして、自分もわき腹と腕に衝撃があり、激痛が走ることに気がついた。頬も木の枝か何かで切ったのか、ぴりりと痛む。だが構っていられなくて、愛理を起こして息を呑んだ。
「愛理!目が・・・っ!」
 愛理の左目から、鮮血が溢れていた。首も何かで切ったらしくザックリと割れ、そこからも出血が酷かった。
「痛い・・・い、痛いよぅお兄ちゃん・・・目が見えない・・・」
 右目からは、涙がとめどなく溢れている。縛っていた髪は、右だけ自由になっていた。
 かけるべき言葉が見つけられずにいると、ツカサの全身を眺めた愛理の目が見開かれた。
「お兄ちゃん、おなか・・・!」
 言われて痛みを思い出して自分の腹部に眼をやると、わき腹に太さ2センチ、長さ10センチほどの木の枝がつき立っていた。抜こうとして走った激痛に眉を顰めて、抜くのは諦めた。今抜けば、出血が多くなってしまう。
「・・・大丈夫。あんまり痛くない、から・・・」
「・・・お母さんとお父さんは・・・・?」
 怯えた表情で、愛理がゆっくりと立ち上がった。目と首から出ている出血の量を見て、動かない方が良いと言うが、首を振った。目を細めたツカサは、愛理が右足にも傷を負っているのが見えた。2本の、細く長い引っかき傷だった。
 足を引きずりながらも、僅か10メートル先の崖まで歩き出した愛理を、ツカサも追う。
 先に崖上まで到達して、下を覗き込んだ愛理が、力尽きたようにペタンと腰を落としてしまった。あぁ、と細い悲鳴が漏れる。
 わき腹を庇いながら追いついたツカサは、崖下に視線をやり、渦巻く水の中心に、車の端が沈んで行くのが見えた。目を凝らしても、周りに人影は浮かんでおらず、仮に浮かんだとしてもこの渦巻く激流では、到底助からないだろうと思った。
 愛理から嗚咽が聞こえ、チラリと顔に視線をやると、口の端から血が出ていた。 口の中を切ったのか、あるいは母親の血か。大好きといった母親に、最後まで殺されそうになって、その口で母親の指を噛み切ろうとした。
「こんな・・・私がここにいる意味ってなんだろ・・・」
 虚ろな瞳で、左目から血を流しながら、愛理が言葉を漏らした。それは、何か答えを求めての言葉ではなく、胸中から零れ落ちたとも言うべき言葉だった。
 血に塗れた掌と、崖下に渦巻く水を見ながら、ツカサは迷うことなく口を開いた。すぐに訂正してやらねばならなかった。愛理は、未だ幼い。大好きといった両親が死ぬことによって、心を死なせるわけにはいかなかった。
 誰に罪があるなどとは言わない。だが、少なくとも愛理は加害者ではない。
「お前が気にすることじゃない・・・朝の時点で俺が気づくべきだったんだ・・・・。お前は俺の存在する意味だから。・・・いらなくなんかない」
「愛理がお兄ちゃんの・・・存在する意味?」
「あぁ。だから・・・お前は俺にとっては大事な妹だから・・・」
「・・・お母さん殺したのは愛理だよ・・・?」
 どこか責めるような愛理の声に、再び崖下に目を向ける。はるか下の海には、最早海水が渦巻いているだけで、両親を乗せた車は見えなかった。
 風に髪が煽られて、心の底から、何かがこみ上げてきた。目に涙の幕がかかり、顔を片手で抑える。混乱した気持ちの中でも、両親が死んで嬉しいという思いがどこかにあった。    
 ツカサにとって、両親との血のつながりは、淀んだ真紅の鎖でしかない。
 それとも悲しいのだろうか。嬉しいのか、悲しいのか分からない。ただ、涙を抑えてその顔のまま愛理を振り返ると、愛理が息を呑むのがわかった。
「俺は気にしない。・・・自業自得だよ、愛理・・・・」
 だってそうだろう?

「お兄ちゃん?」
 心配そうな声に、ハッと我に返った。立ち止まっていた場所は丁度信号場所で、覗き込んでくる愛理の頭を押し返し、改めてその顔を見つめた。
 幼さの残る顔立ちに、包帯。本当なら入院しなければいけないほどの傷でありながら、費用がないからと通院にしている。
 ツカサ達の両親が心中をしたことは、周知の事実だった。葬式を挙げるお金もなく、ただ崖に花を添えるくらいだった。ツカサは忘れていない。父親は、借金を完済していなかった。あの厳しい取立ての風景が脳裏に浮かび、頭を振った。
 今居るアパートも、嗅ぎ付けられないとも限らない。そうなる前に逃げるつもりだったが、愛理をその逃亡劇に巻き込むわけには行かなかった。
 先ほどの野々村の話を思い出して、唇を軽く噛む。それから数秒考え込んでいたが、やがて顔を上げると愛理と視線を合わせて野々村の話をした。

「あのな、愛理。野々村先生に言われてずっと考えてたんだけど、父さんと母さんが借金を抱えてたのは知ってるだろ?いつまた借金取りが押しかけてくるかもしてない・・・だから、お前は施設に入れ。野々村先生が良い施設を紹介してくれるって。借金はなんとか俺が工面するから」
 あの時のことを思い出して、愛理に決心した言葉を告げると、数秒後、言葉を理解した愛理が信じられない、と言うように目を見開いた。わずかに目が潤み、首を振る妹の肩を掴み、愛理のためだと言い聞かせる。
「今俺と一緒に生きてもなにも良いことはない。頼む」
「いきなりなんでそんな・・・そんなのずるい。何が愛理のためなの?愛理の気持ちは!?」
「・・・野々村先生に言われたんだ。そこの施設では10歳以下の子供であれば、手厚く保護してくれるって。だから・・・・」
「お兄ちゃんは?お、お兄ちゃんも、愛理が行っちゃったほうがいいのっ?」
「俺は・・・・」
 涙もろくなっているのかもしれない。片方だけの、左目に一杯の涙を溜めた愛理を見ながら、ツカサは迷ったまま呟いた。
「別に、お前がいなくても生きていける。泣くだけなら、ついてこなくてもいい。お前も俺といるより施設に入った方が安定した生活保護が受けられる。・・・借金取りだってくるかもしれない」
 とりあえず6畳間のアパートを借りたは良いものの、いつ借金取りにかぎつけられるか分からない。それならば愛理だけでも施設に、と考えての結論だったが、瞬間、愛理の目が見開かれ、数秒を置いて涙が目の淵を切った。
「お・・・・お兄ちゃん、おに・・・お兄ちゃん!」
 ドクン・・・、と心のどこかがざわめいた。だが、押さえつける。自分は間違っていない。親無しの二人暮しでは、8歳の愛理は耐えられないだろう。
「・・・大丈夫だ。施設にはお前と同じくらいの子供もいるだろう。・・・できる限り、仕送りもする」
「そんなことが聞きたいんじゃないよ!なんで、なんで・・・ねぇ、愛理は・・・愛理はっ・・・!」
 ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、愛理が服の前を掴んだまま叫んだ。
「あの時愛理は俺の存在理由だって、い、言ったじゃない!!愛理は!?なんで愛理にとってもお兄ちゃんが居場所だって気づいてくれないの!?」
「愛理!?」
「嘘つき!!」
 叫ぶなり、身を翻して目の前の信号機が赤になったばかりの歩道を駆けて行ってしまった。心に言葉が染み入る。 
 『俺の存在理由』『愛理にとっても・・・』『存在』

(駄目だ・・・!)

 心が警鐘を鳴らした。
 突然、心のざわめきの理由を悟った。彼女は。愛理は。ツカサの存在を、認めてくれている存在だからだ。自分が言ったではないか。人間は、一人では自分を見つけにくいのだと。この世界で自分を必要としてくれる人間がいる。それは、とても幸せなことだったのではないか。彼女がいなくなったら自分は。自分の居場所は。

 とっさに駆け出そうとして、その瞬間に歩道の信号が赤になった。自由な左手を伸ばそうとして、目の前を大型のトラックに遮られる。一度も振り返らずに歩道を渡り、走り去っていく愛理を目で追いかけながら、もどかしくて下唇を噛む。

 ふと我に返って皮肉気に笑った。この状況は、紛れもなく数分前に自分自身で招いたものだ。元凶も自分なら、悪化させたのも自分。常日頃の自分とあまりに違う焦りようは自分でも戸惑うほどだった。だが、なぜ気がつかなかったのかと焦る心が笑った。
 無償の信頼。自分が世界に在るのだという実感をくれる。心が急いて、例えなんといわれようが、追いかけないわけにはいかなかった。

 視界の隅で、信号が青から黄色になる。
 ツカサは足元の枯葉を蹴った。長い信号だった。


Parallel world(平行世界)  著者:望月来羅



 眠りの海がひたひたと足首を濡らし始めた。
 退屈だ。ツカサは少し錆びかけたパイプ椅子の上で足を組みなおして、欠伸をかみ殺した。寝れば時間経過を感じなくてすむだろうか、と、腕を組んだ自分の両腕を見下ろしながら瞼を下ろす。

「・・・寝ないで、兄さん」
 持ち前の体質で、すぐにも夢の世界へと旅立とうとしたとき、正面から小さな声がした。声に反応してゆっくりと顔を上げると、正面、アクリル硝子を挟んだ真向かいに、知らない少女が腰掛けている。アクリル硝子には小さな穴が円状に連なって開き、そこから向かいの少女の声をはっきりと聞き取ることが出来るのである。
 ツカサは僅かに眉を顰めたが、すぐに少女から視線をそらした。いい加減退屈になり周りを見回すが、6畳ほどの質素な白い部屋には、家具も何もなく、今ツカサが座っている場所とは反対方向の入り口ドア前には、革のつなぎを来た2人の男が立っているのみだ。

 この退屈な状態になって、すでに10分ほどが経過していた。
 目の前の少女に視線を戻す。じっと見つめると、少女の顔が安堵の色に染まるのが分かった。
 年齢は多く見積もっても15は超えていないだろう。入ってきた時に目安で図った身長は150後半くらいか。それなりに可愛げのある顔立ちだと思う。
 髪は漆黒で肩過ぎまで伸びたストレートだ。同じく漆黒、アーモンド形の瞳は輝きを放っているが、左目だけだ。右目は額から斜め掛けに真新しい包帯が巻かれ、視線を下に向けると首にも包帯、そして、この暑さにも関わらずダークブラウンのワンピースの上に長袖の黒いパーカーを羽織った姿は一種異様だった。それとなく観察していると、腕を伸ばした拍子に袖があがり、左腕にも手首まで包帯を巻いているのだと知る。

 先ほどから、何度も少女に話しかけられた。『私だよ、兄さん、愛理』『忘れちゃったの?』
 覚えが無いのだから仕方が無い。今までは毎日視線を感じるベッドで腕や傷の治療を受けていたのだが、先ほど急に10分間の面会を言い渡されたのだ。正直どうでも良かったが、そろそろ眠気が限界になり、舌打ちをして椅子の硬い背もたれにもたれかかった。
「・・・・で。何が言いたいんだあんたは」
「・・・あんたじゃないよ。お兄ちゃんは私のこと愛理って呼んでた」
「どうでもいい。良いか。さっきから言ってるだろう。俺とお前は初対面。・・・たぶんな」
「初対面じゃない!なんでこんなに・・・忘れてるなんて・・・!」
 感情が高ぶったように身を乗り出す少女を、ツカサは冷めた目で眺めた。

 そう、なにしろ彼女が誰だか分からないのだ。
 黙っていると、少女が鞄から出した新聞をばさりと目の前に突きつけられる。そこには数ヶ月前の記事が載っており、そのなかの一区画がピンクのマーカーで囲まれていた。
 『借金に追われ一家無理心中か』
 やや小さめの記事の見出しの下には崖からクレーン車か何かで車が海から引き上げられている写真が載っていた。
 ドクン・・・・と心臓が一つ鼓動を打った。
 急に始まった頭痛に顔を顰めて額を押さえる。だが、目はその記事の文章を無意識に追っていた。
 日付は約2ヶ月前。釣りに来ていた男性が、車のバンパー部分が露出しているのを発見、通報したのだと言う。その後の調査で、中からは男性一人の遺体が見つかり、調査の結果40代後半の男性と判明。側には女性用の鞄などもあり、警察では行方の分からない二人の子供と母親を探して海底調査を・・・。

「・・・私がこの記事に気づいたのは、この事故現場のすぐ側に倒れてたときに親切な人が助けてくれたから。目と腕はもうあまり使い物にならなくなっちゃったけど・・・」
 少し感慨深げにつぶやいて、愛理と名乗った少女はその記事を畳んだ。
「私が倒れていたところはね、林道の砂利道。現場から100メートルも離れてないところだった。なんでかはよく覚えてないけど。最初にベッドで目覚めたとき、記憶が曖昧だったの。だけど、すぐにその家の人が教えてくれてね。医者も呼んでくれて、兄さんが刑務所に入ってるって知ってすごく驚いたんだよ」
 背後で、看守が時計を気にしだした。もうそろそろ面会時間が終わりに近づいたのだろう。少女はパーカーに隠れた腕の包帯と、目を気にしながら、目を触ろうとした手を下に下ろした。
「もう目は慣れたけどね。最初は大変だったんだよ。平衡感覚がわかんないし、距離感がつかめないし。沢山転んじゃった。腕とかだって裂傷が激しくて・・・行方不明になったはずの兄さんが見つかって嬉しかったのに刑務所で・・・殺人未遂って、なんで・・・なにしたの?」
「覚えてない」
「そんなの変だよ!私が動けるようになるまで2ヶ月掛かった!兄さんのいる刑務所探したり、大変だったんだから」

 目の前で、何かを考え込んでいる青年を、愛理と名乗った少女は心の中で憎憎しげににらみ付けた。やっと、見つけたと喜んで、入念に下調べをしたのだ。
 ずるい、と思った。こんな田舎の刑務所で、罪状が殺人未遂?青年は、立派に人殺しだ。
 下唇を噛んで、青年に見えないように机の下で、自分の手の甲に爪を立てる。
 思い出すのは2ヶ月前。24歳の姉と、二人きりの旅行。両親が事故で亡くなったばかりで、ひと段落着いたところで傷心旅行に出かけたのだ。
 両親が死んだときは、目が溶けるかと思うほど泣いた。優しい両親だったから、悲しくて泣いた。風光明媚な田舎で、林道を歩いていて。誰が襲われるなどと思うだろう?
 前から青年が歩いてきて、自分はその整った顔立ちにわずかに胸をときめかせたと言うのに。手に握られたものが鋭利なドライバーナイフで、すれ違うその瞬間に姉の体が衝撃に揺らいでもなお、何が起こったのか理解できなかった。
 当時を思い出すと、今でも右目が痛みに疼く。『彼女』は、なんとしても生きなければならなかった。動いた拍子に首と腕に鈍痛が走る。霞む左目からは涙がとめどなく流れ、目の下は腫れている。
 だが、それでも左目で懸命に前を見る。右目はすでに機能していなかった。親指の爪ほどの小石が目にめり込んでいたからだ。だが、激痛に違和感、血まみれになりながらも小石を取るわけにはいかなかった。とれば、きっとさらに血を失う。生きなければならなかった。なんとしても。
 復讐しなければならなかった。警察には言うまい、と思った。警察に言えば、彼の罪は重くなり、懲役が伸びる。だが、それだけだ。許せない、と思う。
 彼は人を殺しているのだ。目が覚めたとき、真っ先に復讐を誓った。乾き始めた血に塗れた手で姉の体をゆすっても、ぴくりとも動かない。
 日本の警察はぬるい、と思う。たとえ外国のように極刑に処されるとしても、それでも苦しみは一瞬だ。そんなのは許せない。苦しみが足りない。
 自分の手で殺さなければ、気がすまなかった。復讐は、何も生まない。分かりすぎるほど分かっている。それでも、記事を見て、青年の妹が丁度15歳で、未だ死体が見つかっていないという文章を見たとき、これだ、と思わずにはいられなかった。
 当然、警察の刑務所に行けば疑われるかもしれなかったが、青年がどうやら記憶喪失らしいことを逆手に取らない理由は無かった。青年が居る刑務所が、それなりに田舎だということもプラスになる。
 今こうして会ってみて、何も分からないように冷めた視線を自分に投げかけてくる青年に、憎悪の念と、殺意が胸中で燃え上がった。
 確かに自分は、青年が記憶喪失と聞いて、チャンスだと思った。逆に、青年が記憶を取り戻してしまえば自分の虚偽が分かってしまう。
 だが、いざ会ってみて、その青年はあまりに酷いと思った。青年の過去も、自分達姉妹を殺そうとしたことも忘れているのか。それは、あまりに許せなかった。
 警察に、青年の『殺人』という罪状を告げようとは思わなかったから、余計に許せなかった。


 目の前で、自分を見つめてくる少女の瞳に暗い色を確認し、間違いない。と、ツカサは僅かに頷いた。
(俺と彼女は初対面じゃない)
 先ほどから何を思って面会を求めてきているのかは知らないが、妹のはずがないのだ。

 妹の愛理はツカサがその手で絞め殺したのだから。

 『家族』に未練は無かった。ツカサにとって家族とは、血のつながりという鎖で連なった、歪んだ愛情の形態だ。
 身近にいた愛理を掴んで、崖に突っ込もうとする車からとっさに飛び降りた後。両親が確かに崖下に落ちたのを見届けた瞬間、ツカサは何かから開放されるのを感じた。
 強い崖下からの風に煽られながら、崖の縁に手をかけて下の荒れた渦を見ていると、背筋が泡立つような奇妙な快感と、頭の中が掃除されたかのように寒気が通り抜けた。

 く、と口角が緩むのを感じた。
 例えようのない興奮に驚いて口元に手をやると、僅かに開いた唇の両端が上がり、自分でも笑っているのだと分かった。不感症と言われていた自分が。止まらない、呻き声が漏れた。声を抑え切れなくて、笑いながら涙がこぼれた。
 幼い頃から自分を苦しめてきた両親は、自分達の手で、その生涯に幕を閉じた。自分にとっては世界とも言えるほど、大きな存在だった両親が、いとも簡単に。
 脳がざわめく。その感情がすっかり自分の中で落ち着いた頃には、自分でも分からないほど、その奇妙な興奮に虜になっていた。だって自分はこんな感情を知らない。
 自分が助けた、気を失ったままの妹の姿に母親の姿がダブって見えた。そして、真紅に輝く鎖が。はっきり言うと、あの時自分は幻覚を見ていたのか、夢を見たいたのか、それともただ記憶が曖昧なのかははっきりしない。

 ただ分かるのは、愛理はツカサが殺したということ。喉にゆっくりと力を込めて締めると、だんだんと息がか細くなっていったのは、ツカサの中では妹ではなくて母親だった。
 笑いが漏れる。頚動脈と心臓に手を当て、鼓動の停止をはっきりと確認してから、何の感慨もなくその死体を引きずって崖の上から投げ落とした。
 海に落ちる前に、岩に激突して体が折れたのを見た。そうして、車の最後のバンパー部分も、妹と思しき白く細い腕も、ツカサの見ている前で沈んで行ったのだ。

 興奮が忘れられず、その足で山道を降り、途中で出会った2人の姉妹も発作的に襲った。すぐ側の崖下に二人とも投げ落とし、次に出会った四人の家族連れに襲い掛かったところで、一家の主人と思しき男に身体を取り押さえられ、麓の警察に連行されたのだ。
 記憶が混合した精神異常者を装うのは容易かった。いや、実際あの時は精神が異常だったのかも知れない。


 そうか。考えこむように口元に手を当てながら、その下で自然に笑みが漏れた。
(あのときの姉妹か)
 他には考えられない。復讐だろう。
「・・・聞いてくれ」
 相手が妹を装っているのなら、ツカサもそれにあわせなくてはならなかった。
 自分は、兄。目の前にいる少女は、殺したはずの妹。
「君が本当に俺の妹だと言っても俺には分からない・・・すまないとは思っている。俺だって思い出せるなら思い出したいと思っていた。最初の頃はな」
 少女の視線を感じながら、だけど・・・と口ごもる。
「俺は思い出せないことがある。だけど・・・はっきり言うとな。最近はそれでも良いのかもしれないと思うことがあるんだ。古いことは忘れる・・・記憶なんて多かれ少なかれ、みんなそういうものなのかもしれないし」
 彼女の出方を待った。ここですぐに引くようならば、相手にするまでも無いのだ。
 だが、彼女は身を乗り出して、真剣な表情で首を振った。
「違う・・・そうじゃないよ・・・お兄ちゃん。些細なことでもちゃんと思い出して。
私・・・待ってるよ。ずっと・・・ずっとずっと待ってる」
 彼女は、影のある笑顔で『心配する妹』を演じた。
 それでいい。心の中で、笑いがこぼれるのを自覚した。彼女が待っているのはツカサが思い出すことではないはずだ。思い出せば、彼女の嘘がバレる。それとも、本当に思い出したふりをして欲しいのだろうか。
 姉妹を殺されたことを、ツカサが忘れているのが許せない?

「・・・愛理」
「・・・何?」
「俺が・・・もしかしたら人を殺していたかもしれない。だから今、こうしてここにぶち込まれてるわけだし・・・。もしお前が本当に俺の身内だと言うのなら・・・出て行ったとき、また会ってくれるか・・・?」
「当たり前でしょ!私には、もう兄さんしかいないんだよ!?兄さんが私の存在理由なんだから・・・・だから、はやく出てきて・・・お願い」

 面会終了を告げるベルが静かに鳴り響く。
 泣きそうな表情を堪えて席を立つ彼女を見ながら、笑いをこらえるのが大変だった。
 彼女は、未だツカサの記憶喪失を疑っていない。いや、疑っていてもいい。大事なのは、彼女は本心からツカサの出所を願い、虚心から兄妹だと主張していること。ツカサが出所して、彼女がツカサを殺したいのが本心なのだろう。
 そして、それはツカサにとっても同じことだった。何を思って彼女がツカサの罪状に『殺人』を加えなかったのかは分からないが、ツカサにとっても都合が良かった。
 模範囚になろうじゃないか、と心に決める。
早く出所して、彼女との駆け引きに興ずるのも面白そうだった。 そして、どちらが先に嘘が露見し、殺されるのか。


 仮初めの兄妹劇。役者は精神異常を装った青年と、妹を演じる赤の他人。
 ああ、なんておかしな虚劇なのだろう。不感症かと疑ったあの頃が嘘のようだ。
 自分は今、こんなにも楽しい日常に身をおいている。

 心の中で笑いすぎたのか、目の淵から一筋の涙がこぼれるのが分かった。




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