Mystery Circle 作品置き場

望月来羅

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nightstalker

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Last update 2008年03月15日

綴り人の夢想 / オギノ=ユーラルトの場合  著者:望月来羅



 何を書こうか迷う。だが、黙考しているうちに少しずつ考えがまとまり、静かに指を滑らせた。書く内容・・・綺麗な景色が良い。故郷を思い出した。煌めく川、溢れんばかりの緑。そして白紙も忘れてはいけない。悪戯心で木の枝に宝石でも縁取ってみようか。

 背後でカタカタと、いつもの音が聞こえる。
 その音は不規則で、時に早くなり、時にゆっくりとしたものになる。だが、いくら探そうとも、その音源を見つけることはできない。姿勢を正す。仕切りなおし。目の前の白紙、始めに丸を書く。丸く、小さく、丁寧に。
 力が入りすぎて、真さらな白地にインクの染みを作ってしまった。
 目の前の机に敷かれているのは、一枚の白紙。今、書いたばかりの少々不恰好になってしまったインクの染みを、少しだけ苦い面持ちで見つめる。出だしから鼻をくじかれた気分だ。
 丸を書くことに意味はない。物語を綴るときのジンクスのようなもので、なんとなくペンの滑りが良くなるのだ。
 さてどのような物語を綴ろう、と黙考していると、いつものように白紙が語りかけてきた。世界を難しくしないでよ、と、甘えるように言う。とりわけ、私たちの世界を。
 やれやれ。小さく息を吐く。こちらとしても、難しいものを書きたくて書いているわけではないのだが。
 気分直しに、外へ行こうと立ち上がる。部屋の中に溢れているのは膨大な紙の束だ。まとめるのが面倒で、書き終わった物語は隅の方に積み上げていたのだが、気がついたら足の踏み場もないほどの原稿が部屋中に溢れかえっていた。くすんだ印象を受ける部屋の中では、肩まである自前の銀髪もくすんで灰色になっている。
 ふと下を向いて、紙を踏んでいることに気づく。足を持ち上げると、つい先日書上げたばかりの原稿の一枚目だった。端を折り曲げてしまい、少し肩をすくめる。
 そのとき、背後から軽やかな足音が聞こえてきて、はたと動きを止めた。思った通り、その足音はこの部屋の前で止まり、少々強めのノックの後に、こちらの返事も待たずに部屋の扉が開かれた。
「オギノ!起きてる?」
 思ったとおりの相手がそこにいることに、当たり前だと思いつつも、やはり慣れなくて違和感を感じる。
 扉を開けた左手はそのままに、そこに仁王立ちしているのは、淡い水色のゆったりしたワンピースに身を包み、艶やかな腰まである黒髪、整った目鼻立ち。アーモンド型の茶色の瞳が印象的な、まだ若い少女だった。といっても、その姿が本当に彼女の元の姿なのかは知らない。
 なにしろこの空間内では全てが『無から有する』。彼女の姿形にしても、彼女がこの空間に迷い込んだ時点で頭に浮かんだ『自分像』を形にした結果にすぎない。以前この空間に迷い込んだ科学者を名乗る男は、無からの誕生に矛盾を指摘したが、そんなことはどうでもいい。すでにこの世界はあって、私はいるのだから。
 近づいてきた彼女を、私は渋い面持ちで見上げた。彼女の背が高いというわけではなく、私の背丈の問題で、彼女の胸ほどまでしかない。
 これも仕方がない。気がついたとき、私はこの体にいて、意識だけは過去から続いた記憶を持ち、すでにやるべき仕事は分かっていたのだから、別に疑問はなかった。
「・・・・何その顔。可愛いお顔が台無しー」 
 面白くない、という声音とともに、ふいにむにぃ、と両頬を引っ張られた。彼女のこの突発的な行動も最近では慣れてしまい、彼女の両腕をゆっくりと頬から離した。
 彼女の名前はサラ。顔を合わせた日に、自分からそう名乗った。
「まったく・・・君もいい加減、もといた世界に帰ってくださいね」 
「なんでそーゆーこと言うかなぁ。オギノだって一人は寂しいでしょ?」
「いえ別に」
 彼女は、もともとこの世界の人間ではない。いや、世界と主張するには狭い・・・多分狭い空間でしかないが、それでも私にとってはここが唯一の世界だ。物語を綴ることが私の仕事だが、たまにふと気づくと他の世界、空間の生き物が迷い込むことがある。それは時に動物や植物であったり、昆虫であったり、妖精や思念であったり、人間であったりする。
 彼らは大概自分の目的を見失い、無目的で過ごすうちに瞬間的にこの空間に訪れるものが多数だ。この空間には時間という概念はないから、彼らと私では時間の感じ方が違う。きっと、夢でも見たのだと思うだろう。
「・・・皮肉ではなくて、本当に早くもといた世界へ帰った方がいいですよ。この世界に長く居過ぎると、夢の坩堝にはまってしまう。私にとってはこの空間が全てでも、君たちは本来存在することのできない空間なのに」
「わかってるよぉそんなこと。でも、全然違和感ないんだよね。だって異空間なんでしょ?でもオギノだって外見人間に見えるし。おまけに」
 顔を横に向けたサラは、ひょい、と傍の机から紙とペンを取り上げた。
「なんで異空間に紙とペンがあるわけ?オギノって名前も」
 狭い部屋の中で、動くでもなく、退くでもなく、ただ好奇心に任せて質問をしてくる彼女に軽く頭を振って、私は彼女の手からペンと紙を取り返した。
「物を書く。書を読む。私が存在する上で、書くものと書かれる物は必然的に必要になってくるんですよ。あと、私の名前は気がついたらこの名前でした。オギノ。もっとも、この世界には基本的に住人は一人しかいないことになっていますから、固有名詞は必要ないはずだったんですけどねぇ。いつの間にか」
 名前が生まれるきっかけは、一人の物書きの思念がこの空間に迷い込んできた時のことだ。今思えば、変わった思念だった。私に様々なことを話しかけ、質問の回答を求めた。
 彼の世の真理、宇宙の果て、生命の理論・・・。あいにく私も新しい物語を執筆中で詳しくは語れなかったが、気づいた時にはその思念はいなくなっていた。ただ、オギノと名乗ったことだけは覚えている。以来、その名を気に入り名乗っているというわけだ。
「空間を渡り歩いて備品を調達したとか?オギノっていろんな世界に行けたり?」
「行こうと思えば行けなくもないですけど」
「便利ぃ。・・・この原稿完成したんだ」
 サラが、すぐ横に積まれていた紙の束の、一番上の紙を手にとって呟く。サラがこの空間にきたとき、最後の章を書いていた物語は、一応私の中での完結は終えることができていた。長い横髪を耳の後ろにかけて、殺人鬼の虚日、と呟くように読み上げる。
「前読んでも思ったけどさ、アウンガードも私の世界の名前だよね。しかもゴッディス=神って。宗教にも通じてるってこと?」
「ここにいると結構いろいろな知識が入ってくるんですよ。それらを参考に」
「ふぅん?・・・『綴り人の思想』・・・荻野?」
 手にしていた原稿を、元の束に戻し、そのすぐ隣の束から引き抜いた一枚の題名を読み上げ、見覚えのある名前を見たのか、サラの眉が僅かに上がった。
「そういえば、その人もオギノでしたねぇ。その話は私が書いたわけではないんですよ。気づいたらここにあったので、以前の私が書いたのか・・・おや?とすると、私の名前の持ち主は、私の書いた物語から派生した世界の人物だったと・・・」
「頭痛くなるようなこといわないでよ」
 好奇心に煌めく茶色の瞳が、わずかに曇る。サラは、あまり計算というものに通じてはいないようだった。私は、サラの渋い表情を見上げて、何故かため息をつきたくなった。どうやら、彼女と私はほぼ正反対の性質を持っているようだ。
「考えれば考えるほど不思議ですねぇ。なんで君みたいな人がこの空間に訪れたのか・・・。本来この空間を一瞬でも訪れる人は迷っていたり、出口のない考えに囚われている人が多いはずなんですが」
「失礼な。私だって気づいたら・・・迷いだってあったよ?」
「もうかなりここにいるし、この空間の異常性にも気づいたでしょう?外の生き物がこの空間に長くいることは、毒にしかならない。時間は確かに流れているのに、空腹も睡眠も必要なし。おまけにこの空間は、私より『外』の人間が何かを書いてくれないと、何も広がらない、不変の世界なわけですよ。・・・普通の生き物ならば、すぐ帰れるはずなんですけど。ここまで長くいたのはあなたが初めてですね」
「順応性あるから私。ってか、まだ帰れないよ」
 サラは、ここに来て長い。部屋の隅にある大型の木製万年時計に目を凝らす。その時計は、私が始めて時計の知識を得た日に作ったもので、一定の時間ごとに針が一周する仕組みになっている。時計は、彼女がこの世界に現れてから144もの回数回転していた。
 僅かに迷って俯く彼女を見やるが、結局何も言えずに視線をそらす。手にしていた原稿を元の束に戻すと、サラの背を出口の方へ押しやった。
 驚いたような反応があって、背を押されたままの彼女が私の方を振り向いた。
「外、行きましょう。君が帰りたくないというなら無理に追い返したりは出来ませんから。気分転換に」
 彼女の艶やかな黒髪の感触を掌に受けながら、出口まで押していく。思えば、不思議なことだ。空間、世界に違いはあれど、彼女も私も外見はほぼ同じような姿形だ。これは『私の世界』を書いているものが私をこのように描写したからだろう。もしかしたら、この空間の外で私を書いているものがいるとすれば、その存在も私達と似たような容姿なのかもしれない。

 細い廊下を渡り、いくつかの部屋を通り過ぎる。久しぶりに、部屋の外の扉を開けた。一気に人工でない光が差し込む。振り返ると部屋の中は、一気に暗くなっていた。
 眩しさのあまり手で保護しながら空を仰ぐと、眩しいばかりのスカイブルーの色合いが瞳に映った。目の前にあるサラの髪が蒼味を帯びる。
「まっぶし・・・っ!ぅっわ、何?また景色変わってない?」
「おや。本当ですね」
 同じような格好で空を仰いでいたサラが、首をぐるりと巡らせた。風で水色のワンピースの裾がふわりと靡く。背から手を離して、つられて景色を見渡し、私もサラに同意する。
 私の住む世界は、景色が定期的に様変わりをする。時に熱帯雨林のジャングルとなり、時に水の上の孤島となっていたりする。最も、私にとってはこの世界で自我を認識した時点からそんな境遇で、違和感を感じることはなかったのだが。
 ちなみに今の景色は、風光明媚、というのだろうか。風さえも色づくような、長閑な風景がそこにあった。主なニ色は緑と青で、間に見える雲の白が際立っている。
 開けた扉から伸びる、細い一本道。砂利や雑草の生えたその道は遠くまで続いており、目を細めても先の終点を確認することは出来なかった。
 道の両側に広がるのは豊かな水を湛えた水田だ。畦道に生える雑草はその瑞々しい葉にわずかに露を乗せ、光を浴びてきらめいていた。

 水田同士をつなぐ道の所々に、数本の木が生えていた。ふと視線を移した拍子に、きらりと光るものがあり、興味を引かれてすぐ側の木に歩み寄る。近くまで行って見上げ、背後でサラが息を呑むのが分かった。
「ぅっわぁ・・・天然石?」
 頭上の枝に、その光るものは『生っていた』。宝玉の枝、というやつだろうか。様々な色に光っているが、一番近いところに生っている緑色の石を取ろうと手を伸ばす。届かない。背伸びをして・・・
「・・・」
「残念。届かないねぇ。ぼく、取ってあげよっかー?」
「・・・サラ」
「はいはい。ってかもう慣れたけど、今改めてオギノって子供だなーって。外見子供なのに精神は老成してんだもんねー」
 私よりも比べるまでもなく背の高いサラは、私が背伸びしても届かなかった枝に、あっさりと手を伸ばした。届いた腕の、肘が曲がっているのを見て少々ムッとする。
 その石は、軽く触れるだけであっさりと枝からはなれた。サラの掌に乗ったその石を、二人で見下ろす。枝に生っている実は大小さまざまで、大きいものは掌ほどもあったが、今サラが持っているものは親指の爪ほどの大きさで、深い緑色をしていた。
「・・・カマリアですね。深みのある緑で、すこし白味がかった層が年輪のように線を残している・・・」
「カマリアっていうのは知らないけど孔雀石じゃないの?これ。私一つ持ってたけど」
「孔雀石?あぁ、そうともいうかも知れませんね。あなたとは別の世界の言葉ではカマリアと言います。お守りとして親しまれている石ですね」
「へぇ。私の国ではあまりそういうのはないけど。・・・で、なんで木に?」
「私に言われても」
「オギノが書いたからこうなったんじゃないの?」
「まさか。私は私の世界には干渉することはできません。私は自分で書く小説には好きな描写をすることができますが、それと同じですね。この世界もそういうふうに設定されているんでしょう」
 石を彼女の掌に戻し、改めて周囲を見回すと、水田の上を、二匹の小さな羽の生えた生き物が仲良さ気に飛び交っていた。色は薄い黄色で、心なしか燐光を放っているように見えた。知らず、心が和む。
 自分の後ろには生彩を欠いたように薄暗い部屋へと通じる扉がある。巡らせた視線を下へと移し、軽く眉を顰める。扉のすぐ側に、白紙の束が置いてあった。
 もちろんそんな所に置いた覚えはない。きっとサラではないだろう。創造主は私に外で書いて欲しい物語でもあるのだろうか。
「よくわかんないなぁー。何回も説明はしてもらってるから大体は分かるけどね?じゃぁ簡潔に言ってよ。もし私が元の世界に戻ったら、探せばオギノに会える?」
「無理でしょうね」
 即座に返答する私に、心なしサラの表情が不機嫌になる。風で乱れた長いストレートの髪を直して、なぜと視線だけで問われた。
「球根を思い浮かべてください。球根は、何層にも包まれているでしょう?私とサラは、たぶんですが違う球根の皮上にいるんです。きっと、サラの方が私より内側に。この世界の外側にも球根の皮はあって、そこの世界の人物が書いた物語がこの世界を作っていると思うんですよ。ですから、中から外への干渉は難しいと思います。ってか無理ですね」
「そこまで言われるとなんかムッとするわ。なんでオギノは自分の存在も誰かによって作られたと思うの?そういう考えってむなしくならない?誰かに作られた存在って・・・。私は向こうの世界で寝て、起きたらここにいた。オギノを見て、その仕事とこの世界を見たときあなたのことを神様だと思ったんだよ。創造主でしょ?」
 香気を含んだ風が、優しく吹いている。背後に流れるのはいつもの不規則な連続音。風によって目の前を遮られた銀髪を後ろへ払い、私は緩く微苦笑した。自分の仕事が創造主。そうかも知れないし、そうでないかもしれない。
「創造主というのはわかりませんが。まぁサラから見たら不思議かも知れませんね。でも、私は外に世界はあると思います。ここは他の世界と比べて若干『壁』が薄いですから。それとなく分かります。自分の過去の記憶も含めて。この肉体も、きっと誰かに綴られて、ここにいる。この世界で『新たな世界を綴り、広げる人』という役割で。私が自由に生きている今この瞬間の出来事も、誰かによって『綴られている出来事』なんですね、きっと」
「・・・気のせいとか」
「むしろ気のせいだったらここまでやれませんよ。この世界はご覧の通り私だけしかいません。仕事を理解していなければおかしくなっていたかもしれませんね」
 扉の側に積みあがった白紙の前までゆっくり歩く。よく見るとその原稿は、大きな紙の束が2つあり、一つは以前に完成させたもの。もうひとつの束が白紙と、その上に羽ペンとインクが置いてあった。不意に、先ほどのサラの言葉を思い出す。
「・・・あと、先ほどの話しに戻りますけど、なにもペンやインクはサラの世界の物だけではありませんよ」
 ペンと原稿を手に取ると、サラが近づいてきた気配がして、側に座り込んだ。
「他の世界にも同じものが?」
「ええ」
 首を傾げるサラに軽く頷いて、原稿を手渡す。『世界樹』と題名の書かれているその原稿はいつ書いたのかは忘れてしまったが、紙はどこも折れておらず、また、染みも付いていなかった。
 その原稿は、他のものと同じく、白い紙に縦長の癖字で書かれている。だが、インクは遠い処へ行った時にたまたま手に入れたもので綴ってある。ペンよりも滑りがよく、くすみにくいので重宝していた。
「その原稿は『ガラ』と呼ばれるインクで書かれています。あなた達とは全く異なる世界から取り寄せました。その世界では、生物の頂点に君臨しているのは人間ではありません。ですが、『綴る』という点ではペンもガラも同じこと。全く違う歴史を辿っても、必要があればその世界は似たような世界になるのですよ」
「そっかぁ・・・なんかね。最初はオギノのその説明を聞くたびにわけの分からない苛立ちが募ってさ。だってその理論で行くなら私の存在も誰かによって作られたってことでしょ?私は向こうの世界では・・・まぁ、ちょっと疲れちゃっててさ。本気で自殺とか考えるくらい悩んだこともあったわけ。なのに、そんなところまで設定されてたらって思うたびになんかイラッとね」
「それは違う!」
 違います、と少しだけ声が大きくなった。驚いたように、座り込んだ彼女の薄茶の瞳が私を見上げる。どう説明したものか、と悩みつつも、彼女の誤解は解いておきたくて自分の持論をゆっくりと口にした。
「創造主がいるとしても、手がけたのは最初だけでしょう。物語というのは自分で広がっていくんです。私も、悩んだことはありました。最初は辛かったです。でも、しばらくして違うんだと気づきました。この世界は空腹を感じることもなく、まどろむことはあっても睡眠も必要ありません。一瞬のような永遠の時間がここにはあり、たまに訪れる『あなた達』の存在だけが、私に刺激を与えてくれる。
 私は誰かによって作られた物語の登場人物かもしれません。でも、それでも私の自我はある。私も物を書く側だから分かります。物語というのは何も一方的に与えられる立場ではないんです。」
 今また背後で開始された、不規則な連続音。私はこの音が今まさにこの世界を綴っている音だと推測している。
 だが、私がこのようなことを考えたとしても、おそらく書いているものには私の考えを止めることは出来ないはずだ。あくまで物語を『綴る』のであり、制御し操作するのではない。
 おそらくこの世界の外側にいるであろう人物に想いを馳せていると、ふ、と口元に微笑みが浮かんだ。この文章も眼にしているであろう創造者は、今何を考えているだろうか。

「・・・ま、良いや!」
 私の言葉を聞いて、黙っていたかと思うと、不意に彼女が言った。表情を見るとやけに晴れ晴れとしていて、つい先ほどと同一人物の表情とは思えない。
「サラ?」
「ん。良いや、なんかもうさ。オギノの理論聞いてると頭いたくなってくるし、今はこの景色を楽しみたいっていうかさ。悩んでるのが馬鹿らしくなっちゃって」
 言うなり彼女は、私の見ているまえで立ち上がるなり駆け出した。どこまで行くのかと視線で追えば、なんと水田だったりする。
「やれやれ」
 自分で説明を請うたかと思うと、すぐに考えを翻す。好奇心の固まりのような彼女には振り回されている気がする。
 水色のワンピースを膝上までたくし上げて、水田を歩き回り、何か生き物を見つけては笑い声を上げている。私よりもよほど子供のような行動の彼女を見ていると、呆れるとともに、羨ましいなとも思う。
 だが、私は彼女がこの世界に訪れた日のことを忘れてはいない。外は叩きつけるような豪雨で、暖をとろうといつもは使わない部屋の灯りをつけた途端、部屋の隅に彼女はいた。
 蹲り、震えていた。泣いていたのかは分からない。
 『実体』が伴っていた。思念のみならず、体が伴うほど、なにかから逃げて、この世界へと飛んでしまった。未だにサラは、元の世界のことを語らない。私も聞いたことはない。
 それで良いと思う。私から誰かに干渉することはない。この世界は、他の世界の生き物にとってはいわば夢の中の逃げ道のようなものだ。
 私も時に自分の無力さを痛感することもある。一向に成長しないこの体も含め、生きるとはなんなのかと誰にともなく問うたこともある。
 創造主の存在を心の底から認めたとき、サラの言うとおり言い様のない苛立ちに襲われた。自分の考えを見つけるまでに、長い月日を要した。

 今、明るい日差しのしたで、水しぶきを上げながら一人遊びに興ずる彼女を見ていると、どこか心が温かくなる自分がいた。
 確かに私は孤独を恐れはしない。この世界に長くいるサラにしろ、いつかはいなくなってしまう存在だ。だが、こうして他の生き物と触れ合うたびに、自分が確かにこの世界にいるのだという自信が持てる。
 自分が書くからこそ広がる世界があるのだと思うたび、登場人物達のその後を思っては心が温かくなるのだ。『自分なしでは広がらない世界がある』。そう思えることは、どれだけ幸せなことだろう。少なくとも、この世で自分しかできない存在理由があるのだから。

 座りながら、側の紙とペンを拾い上げた。インク壺の蓋をあけ、羽ペンのペン先を静かに浸す。
 彼女をモデルに、物語を書こう。そう思った。
 長い髪と、好奇心旺盛な性格。口下手な言動。今の自分に、新しい世界を発見させてくれる彼女。そして、彼女も他の世界の綴り人にしよう。私の書く世界の中で、物語を進める創造主。寂しくないように、仲間も沢山書いてあげよう。
 なぜだか、想像するだけで楽しかった。白紙の一番初め、左上に丸を書く。丸く、小さく、丁寧に。

 未だに水田ではしゃぐ彼女に視線を向ける。ワンピースが汚れるのも構わずに、水田の淵に腰掛けて空を仰いでいた。
 縦に長い癖字で書き出しながら、彼女の視線を追って空を仰ぐ。  
 抜けるようなスカイブルーは、変わらぬ位置の白雲を際立たせて、その蒼さを増していた。




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