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Last update 2008年03月15日

Virtuoso  著者:AR1



 いつからジャズは、小難しい音楽のジャンルに入ってしまったのかな、と彼女は少し不服に思う。特に日本においてはそうだ。誰もがテレビをつけてポップで耳を肥やすわりに、ジャズをウィーン・フィルハーモニーばりに背筋を正して鑑賞する上流階級の娯楽とでも思っているのだろうか――そう思わざるをえないほどに耳をする機会が少ない。この比喩でタチが悪いのは、地上波テレビ放送に限って言えばクラシックよりも意識的に接することのできる数が減ってしまったことである。そして、今の時代にラジオは優勢なメディア足りえない。
 この世の音楽好きには三種類ある。音楽に興味のない者、音楽が好きな者、辛抱たまらずに楽器に触れてしまった者。いつの時代でも変わらない方程式。この公式が成り立っている以上、素晴らしい演奏者がこの世に産み落とされていく訳だから、春日マキはその点を心配するつもりはなかった。しかし、そうした人達の才能が埋もれていくかもしれない状況を憂うことはあった。ジャズだろうがフュージョンだろうが真正のロックであろうが、既に閉鎖的になってから久しい。
 どこからか漂流してきた木屑を頬から払い落とし、明るい色合いのハード・メイプル材のネックを手に取る。指が這うべき面はこげ茶色のローズウッド材が貼り付けられており、音階を区切るためのフレットを打ち込む溝は既に刻んである。あとは金槌を行使して適当な加減で打ってやれば良い。
 ふと、このフレットを乱暴に打ったらどうなるのかを想像する。もしフレットの打ち方がいい加減であったなら、弦を押さえた際に確実なテンションを保つことができない。ピックで弦を弾いた瞬間、妙な振幅を起こして音がビビることは必至。これを手にとって操る者であれば一発で気づくだろう。初心者がオーダーメイドの代物を注文することなど、あまり考えられない。自由度が高い商品というものは、自分の望みを注文書に記したり、クラフトマンへ言葉として変換するだけの知識や経験が必要であるからだ。
 それを聴いているリスナーはどうなのか? 音楽に向ける情熱がひたむきである人ほど感づく。だが、万人がそうである訳ではない。
 自分にとって分からないことに気づいている者であれば、それは仕方がない。学というものは個人差があり、深くなるほど謎は解消されていく――実際は解消された数と同数以上の謎が生まれるのだが、それはあえて念頭から消した。
 マキの手と固定工具(クランプ)によって据えられたネックを見下ろし、金槌を作業台の上に置く。経験の浅いマキにとって、かなりの曲者になるであろう一本のベース・ギター。こんな時に、あたしはなにを考えているのだろうか?(……いらない邪念、か)
 よくないことに意識を割いている時に作業はするな――失敗を食い止める教え。人間の体は機械のように一律化された規則正しい動きを求めることはできない。だが、手作業による個人製作は滅びを見ない。なぜならば、ギターは工業製品ではないからだ。大量生産ではなくとも利益を生み出せ、巨大な製作機械を導入しなくとも商品を生み出せる。
 姿形は工業製品――フェンダーやギブソンなどの大手メーカー――に似せてあるかもしれない。しかし、その中身はまったく違う。
 エレキ・ベースの基本は四弦である。しかし、マキと格闘しているネックには五本の弦が張られることになっている。こういった代物を任せられるのは初めてではあるが、作業内容に大きな違いはない。ただ、弦の本数が問題だった。
 日本人の体格は、白人と比較すれば小さい。手の大きさも比例し、弦を増やした分だけ横幅が増した五弦仕様ネックの弾きやすさ(プレイアビリティ)を引き上げるには、天地方向にある程度薄く仕上げなければならない。弦間を詰めて横幅を薄くする案も考えたが、クライアントに丁重に断られた。曰く、チョッパーがやりづらいのは困る。
 更なる難問は、ネック自体の強度である。太いベース弦から生まれる張力は相当のもので、弦の力に負けてネックが反ってしまうのである。エレキ・ギターでも起こる問題だが、弦を追加したベースではそれ以上に頭を抱える問題である。もっとも、良い木材と補強金属棒(トラスロッド)の調整をすれば、五弦ならそれほど難しくはないので、今回は無事に切り抜けられそうだ。
 ネックが仕上がってから悩んだところが詮無いことではあるが、それでもマキは自信を持つには至らなかった。これが正解なのか? なにか妥協はしていないか?
 工業生産に正解など存在しない。クラフトマンが廃れないのは、彼らの手で作られたものは工芸品であるからだ。しかし、個人ごとの好みに合わせて作られる特注品にも正解はない。なぜなら、好みには個人差があり、それに対応している限りは絶対的に統一された基準など制定されるはずもない。
 マキは金槌右手に、アーチ状に沿ったフレットを左手に収める。とにかく、今は前に走るしかない。それに、父にアドバイスはもらっている。進言に忠実であるのだから、これが粗悪なものである訳がない……が、正しいと断言もできない。
 プロフェッショナルとは、目隠し状態のバトミントンに等しい――師匠(父)の言葉。見えないシャトルを正確に打ち返す、それができれば一人前。マキにはシャトルが宙を舞う気配は読み取れるが、ラケットを出すには躊躇いがある。不安感を拭うには、彼女はまだ若すぎる。
 さて、少々思案に暮れすぎた。仕事に戻るとしよう。音楽を耳で嗜むことがハイカルチャー寄りに移行してしまったのは悲しくもあるが、その中で楽しまれるのなら上等だ――今は、それだけで十分。

「ところでさ、以前に発注したベースのことなんだけど」
 近くの飲み屋に中年の男が二人。二人は高校の同期であり、親友だった。当時はフュージョンという名の魅惑に取り付かれ、マキの父はギターを、彼の親友はベースを担当していた。
「ウチの娘がやってるよ。あとはネックをセットして、諸々のものを取り付けて、終わり」
 つまり、最も時間のかかる塗装の乾燥工程は終了していることを示唆している。
「出来はどう?」
「悪けりゃ俺が作る」つまり、商品として出せる裏返し。
「じゃ、安心だな」
 親友は焼酎を猪口に注ぎ、快活に笑う。昔から豪快で、人の良いところは変わらない。
「そっちの子供、将来は店を継ぐのか?」
「さあ。マキ次第だな」
 素っ気ないと思われても仕方がないが、本当に分からないのだ。店を継ぐか、別の勤め先を見つけるか……しかし、なんらかの形で音楽に関わり続けるでたろう。
「あの子は……なんというか、着火しにくい代わりに、火がついたら燦々と燃え続けるタイプのような気がするなあ」
 鋭い。さすがはマキのことを幼い頃から知っているだけはある。彼女と楽器の間に結ばれた関係――好奇心は、友情をつなぎ止める絶好の絆である。




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