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Last update 2008年03月15日

ジャスミンの愛 著者:国見弥一


 彼は、もしかしたら、飛びまわる灰に、どのような墓碑銘を付けるべきか、悩むかもしれない。そんな自分になるかもしれないとは夢にも思わなかった。

 ――所詮は人間なんてこんなもんじゃないか。あの輝きがこんなにも呆気なく潰え去り、骨と灰と煙に成り果ててしまう。

 そんな捨てゼリフのような述懐も何の役にもなりはしないのだった。

 ――いっそのこと、欧米みたいに土葬にすればいい。棺に納めて穴を掘って、地中に埋めてしまう。そうすりゃ、あの人が死んだってことをオレだって事実として受け入れられるに違いないんだ。

 彼は、脳裏に教科書で見た「九相詩絵巻」の図柄を思い浮かべていた。絶世の美女と呼ばれている小野小町だって、死ねばあんなふうな無残な姿を曝け出す。平凡な人間なら、なおのこと…。そう思いたかったのだろう。

 彼は火葬場から遺灰を一掴み奪って、一人、抜け出してきたのだった。
 彼と彼女とのことを知るものは誰もいない。大方は、若い彼の気まぐれが始まったと思うばかりだった。
 彼がどんなに安美(やすみ)という名の彼女のことを愛していたか!
 まして、彼女が彼をどんなに愛していたかなど、誰も知る由もなかったのである。

 否、そのはずだった……。

 ――墓碑銘を刻むんだ。オレだけの墓碑銘だ。保美に捧げる墓碑銘なんだ!

 そう、彼はまさにたった今、火葬場で灰と骨とになり、煙となって空へと飛び去っていった彼女に愛されたのだった。
 十五になったばかりの彼には、死んだと言われても、まるで現実感がなかった。
 ウソなのに違いないと思った。
 彼と彼女との仲を引き裂くための、大人たちの芝居に違いないとさえ思った。
 彼女に誘われ、受験勉強の最中、家族の目を盗んで彼女の元へ走った日々。
 叔母さんだけれど、彼には優しいお姉さんだった。ずっと年上の年上の恋人だった。
 結婚はしているのだけれど、子供は居なかった。旦那さんも優しくしてくれる、なんて彼にのろけ話を言って聞かせる。
 若い彼には、<優しくしてくれる>という彼女の言葉が耳に残り、ついには腰を疼かせるようになった。
 何故なら、彼女は、<あっちのほう以外はね>という余計な一言を付け加え、意味深な目を彼に投げかけたからだ。
 それからは、もう、彼は彼女の虜だった。朝な夕なに彼女の姿が現れた。教科書のまっさらなはずの余白にも彼女の顔が、髪が、眩しいほどに白い胸元が浮かび上がってくるのだった。
<あっちのほう以外はね>などと彼女に言われたのは、彼が中学三年生になったばかりの頃だった。

 けれど、それだって、少年の儚い思い出に過ぎないはずだった。ちょっとした切っ掛けが彼を翻弄することになろうとは、中学三年生に成り立てで、受験のことで頭が一杯の彼には思いも寄らないことだった。
 身近な年上の女(ひと)への切ない恋で終わるはずだったのだ。

 部活が嫌いな彼は、内申書の査定が違ってくるからという担任の勧めや友人らの楽しげな活動ぶりにも無関心を装っていた。
 集団行動は嫌いなのだ。まして体育系など、うんざりなのだった。

 そんな帰宅部の彼は、東京の下町にある学校をチャイムと共に逃げ出すように立ち去ると、隅田川の土手へ向うのが常だった。ある橋の下が彼の縄張りだった。下水道のパイプが通っていて、立ち入り禁止になっているのだが、彼は構わず入り込んでは、鉄柵の檻に囲まれた一角に陣取って、川の流れを眺め、雲の形の変わり行くのを飽くことなく見惚れていた。

 自由。自然。憧れ。山の彼方。

 そんな彼の秘密基地の存在は、学校の仲間の誰も知らなかった。家族にはなおさら秘密だった。
 塾へ通うのも時にサボって、この秘密の空間で彼だけの夢を追っていた。
 ここで彼を邪魔するのは、ハトたちがたまにウンチすることくらいだった。

 ――ここだったのね。

 振り返ってみると、塾の先生だった。それとも彼の叔母さんと言うべきか。

 そう、彼の叔母さんの家が塾だったのだ。
 塾の先生とたった一人の生徒。

 彼女は、その名を知らないものはいない大学の院生になっていた。そこで今の旦那様と出会ったのだった。
 経済的な事情などもあって、彼女は学業を断念し、家庭に入った。
 今では、子供も生まれる見込みがなくなったので、時間的なゆとりもあるし、昔取った杵柄で、塾を開いて、学問ならぬ受験勉強のお手伝いなのだった。
 彼は中学三年になった時からの保美の最初の、そして、たった一人の塾生になったというわけだった。

 ――ここで何をしてるの。

 彼は、不意を突かれて言葉が出なかった。
 サボったという後ろめたさもあって、頭の中が真っ白になった。
 自分の子供っぽい思いが見透かされたような気さえした。

 ――大丈夫。サボっていることは誰にも言ってないから。

 その日から、塾の日が増えた。休日や土曜日を利用しての個人授業を橋の下の檻の中ですることになったのである。その代わり、普段は、保美の家で勉強するという約束になったのだ。

 青空の下での授業は自然の勉強だった。自由という気侭な感覚を堪能しつくすという心身の鍛錬だった。
 五月の連休の間は、特訓の日々が続いた。
 朝から晩になるまで愛を学び続けた。
 寵愛とは何かを彼は知った。
 保美は激発する欲望をからかい、弄り、挑発し、夢路へと誘っていった。
 愛される一人の男であることの誇り。女を霧や夢想の彼方で想い描くのではなく、指と足と腰と腹とお尻と鼠蹊(そけい)と髪と唇とを重ね合い、奪い合い、与え合うことで知っていった。
 女は飽くことのない泉だった。熱い迸りだった。男の本能など呆気なく飲み乾すアリ地獄だった。砂の穴へ誘い込むサソリだった。その毒の甘さは一端、知ったなら誰も逃げることはできない。

 彼は、今や、保美の舌の先に息衝く一匹の獣だった。保美は舌と指先で彼の体中を毒という名の愛を塗りたくっていた。

 ――保美! ジャスミン! 

 ジャスミンというのは、保美の母が好きな花で、女の子ならジャスミンを語感で連想させる保美にしようと言い張ったのは彼女の母だったという。

 毒は体中を駆け巡る。しかも、愛の毒は魂を干すまでは体から抜け出すすべがない。
 愛の虜は逃げないどころか、獲物のほうから穴へと飛び込んでいく。深みに嵌まっていく。
 嵌めているのに、嵌められて、二進も三進もいかない。
 目の前に肉の壁があり、唇は蕩ける愛の河に塞がれ息も絶え絶えになった。
 二匹の蛇は互いの尻尾を追っては食いつき食い破り、食い尽くし、蕩ける唾液は愛液と相俟って蜂蜜よりも甘く濃く、橋の下の寝屋を満たした。
 彼は精根尽き果てて倒れ伏してしまう。なのに、時間が経つと、女は猶も男を駆り立てた。
 カラカラに干からびた井戸の底へと飛び込ませ、素手で井戸の底の石の透き間を掻き削らせ、女という満足ということを知らない大地を湿らせ潤すことを命じられた。

 彼女は彼女の旦那との夜を語った。結婚した当初の激しい性愛の日々。でも、旦那は彼女と結婚したことを後悔していた。彼女と知り合って間もなく、教授と親しくなり教授の家庭に招かれ、適齢期の娘さんがいることを知ってしまったのである。
 あと、半年、いや、三ヶ月だけでも早く教授と親しくなっていたら今頃は助手になっていて、万年博士浪人という生活から抜け出せていたに違いないという思いが、彼の悔恨の念の始まりだった。
 そして夫婦の破綻の始まりでもあった。

 歯車は狂っていくばかり。
 結婚して一年も経たないうちに、仮面の夫婦になってしまった。
 旦那には彼女が疎ましいばかりだった。ほとんど毛嫌い同然だった。
 彼は保美をシカトするばかりだった。そこに居るのに居ない。保美の肉の心が今にも開かれるのを待ち受けているのに、その上を乾いた風が吹き抜けていく。

 でも、彼女は彼を愛していた。
 彼の心も体も愛(いと)しいと思う気持ちに変わりはなかった。
 でも、何年も経つうちに疲れ果てた。

 そんな家庭の事情を知るものは親族にも学校関係者にも誰一人いなかった。二人は完璧な理想の夫婦像を演じていたのだ。

 寝物語を聞いていても、彼には夫婦の機微の微妙なところは理解し切れなかったが、叔母さん夫婦の内情の血の吹き出るほどに冷め切っていることを日々思い知らされた。
 それも、熱く激しく飽くことなく。

 そんな或る日、彼女が病気で倒れた。
 病気と言いながら、実は家庭内暴力(DV)で殴り倒されたという噂が飛び交っていた。
 DVでは、外聞が悪いということで、主に彼女の旦那の関係者を中心に真相の揉み消しが図られていた。 まして、浮気がどうしたとか、近親何とかという噂は、表沙汰にはできないことだった。
 そんな無責任な噂の中には、HIVがどうしたという話さえ流れていたことを知ったのは、荼毘に付される数日前だったろうか。

 病院へは、彼女の家族しかお見舞いにいけなかった。旦那も旦那の親族らも来なかった。
 個人授業を受けていた彼も面会謝絶で会えなかった。
 というより、密かに彼は遠ざけられていたのだった。

 彼は自分のせいだったのかと悩んだ。
 でも、誘われたのは自分のほうではなかったのか。
 誘惑したのはジャスミンのほうなのだ。

 でも、彼女を愛したのも事実だった。世界が彼女の肉の色一色に染まるほどに彼女を愛したのだ。そして、愛された。
 この貧相な自分があれほどの寵愛を受ける存在であるということ。女に欲せられ追われ、駆り立てられる存在であるということ。

 彼女の葬式は夢のように現実感なく終わった。汗と愛液と涎(よだれ)と吐息と叫びしかない現実からはあまりに遠かった。

 彼は、また、一人きりの檻で静かに過ごしていた或る日、流れゆく雲を見ていた。
 いつだったか、彼女の家の書棚でたまたま手にした本の中で、「死骸を火葬にして灰を川に投ぜよ」という言葉を見出したことをふと思い出した。
 彼女の本か旦那の蔵書なのか忘れてしまった。
 エンゲルスの遺言だとあった。

 ――そうだ、川だ。保美を川に流すんだ!

 そう思い立ったのは、火葬場で燃え尽きた彼女の骨と灰とを見た瞬間だった。
 オレたちは、あの場所で愛を交わしたんだ。幾度、保美を引き裂きたいと思ったことか。
 愛は惜しみなく奪う。肉を引き裂くほどに。
 保美の体は彼には無間地獄のようだった。何処まで辿っても行き着く果てはない。そこに保美はいる。でも、自分が一体、保美の何を愛しているのか分からなかった。

 ――ああ、オレたちの愛が流れていく。流れていく前に、墓碑銘を刻まなくちゃいけない。

 彼は、保美が死んでくれて助かったという思いが脳裏を駆け巡っているのを感じていた。
 それどころか、自分が彼女を死に追いやったという思いさえ、沸々と湧きあがってくるのをどうしようもなかった。血が濁らされたという怨念のような、根拠のない直感が彼を苦しめていた。

 ――あのまま続いていたら、オレ、何を仕出かしたか知れやしない。本当に保美を…。…まさか、そんなオレの思いに気付いて保美は…。奴にも疎まれ、オレは愛に目が眩み…。

 ――ボク、分からないよ。
 ――何が?
 ――どうやって愛したらいいのか。
 ――私たちの世界を難しくしないでよ。とりわけ、私たちの世界を。今は、愛が全てなの。欲するがままに愛したらいいのよ。

 ……じゃ、貴方を引き裂いてもいい?

 到底、口にすることのできない言葉だった。
 彼は、流れる川に向って遺灰を投げた。灰は空中を飛び交い川面に落ち、紛れ、流れ去っていった。

 ――墓碑銘は……。墓碑銘は風に任せればいいんだ。……復讐は終わったのだ!





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