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Last update 2008年03月16日

月影に寄せて  著者:国見弥一



 その顔は、月影で見るにはあまりに恐ろしかった。

 奴は三日月の夜に現れるのだった。冴え冴えと照り映える三日月はまるで喉元の匕首(あいくち)だった。反り返った日本刀の切っ先が眼球を今にも刺し貫きそうだった。
 病に臥して身動きのならない彼の心臓を容赦なく抉りそうだった。

 今夜は月影が素敵に見えるはずだからと、消灯した際にカーテンを開けてくれた彼女の心配りが仇(あだ)となっていた。
 満月でもないのに、青い月光が部屋に満ち溢れていた。

 どうして今夜は月影が目に痛いのだろう。
 目を閉じればそれで済む。
 分かっていても、月影と対峙する自分がいた。

 そうだ、去り際に彼女がふと漏らした言葉が耳に付いて離れないのだ。
 それは、「幸せってどういうこと」という一言。

 ただの呟きだった。別に彼に向って問い掛けたとも思えなかった。
 むしろ、彼女が彼女自身に自分の気持ちを訊ねているのだろうと思えた。

「幸せってどういうこと」なんて、そんな何気ない一言に過ぎなかったが、彼には心に突き刺さった刃だった。今の彼が一番、背を向けていたい問いだったのである。

 別れの予感。今のままでは埒が明かない。
 道は行き詰まっていた。余命幾許もない命。
 カーテンを開ける彼女の後姿。月影を浴びる頬や首筋が艶かしかった。彼女を愛することができなくなって何ヶ月も経っている。そしてもう、二度と愛することは叶わない。
 外の世界へ飛び出そうとする彼女。
 闇の世界へ落ち込む彼。

 そう、月光に見た恐ろしい顔とは彼女の顔のことだったのだ。

 生気溢れる命。緩やかにうねる髪。細い腰。そして腰から下の白い肉の輝き。
 そうした全てをどんなに愛撫したことか。あの、目の前に居る彼女にどんなに愛されたことか。
 二匹の獣となって愛を貪った。

 その彼女と彼とは違う世界にいる。
 別に彼女が彼に別れを告げているわけじゃない。
 現にさっきだって熱い口付けを交わしたのだ。彼女の体からの熱気が彼を包んだ。懐かしい体臭をそれこそ貪るように飲み干した。

 彼は三日月を眺めた。それとも三日月が彼を冷たく尖ったその切っ先で彼を腑分けしていた。
 目を凝らしているうちに彼は、月影に不思議な淡い幻を見た。

 が、それはどうみても幻ではなかった。
 ふと、彼は地球照という現象のことを思い出した。暇のつれづれに読んだ本に、「月の欠けて暗くなっている部分がうっすらと見える現象で」、「地表で反射した太陽光が月にまで達し、その光がさらに月面で反射され」云々と書いてあったのだった。

「幸せってどういうこと」という問いに今の彼には応えようがなかった。生ける躯(むくろ)なのだ。夢を追うこともできない。自分のほうから別れを告げるのが思いやりなのではないか。
 たおやかな肉体の底に息衝く熱い魂。情熱。命。生への渇仰。

 月のように優しい彼女だけれど、彼女は太陽なのだ。命が滾っているのだ。そのことは彼が一番、知り尽くしている。幾度、圧倒されたか知れない彼なのである。
 女とはこんな生き物なのか。男が獣だなんて、可笑しく思えるほどに命の泉は際限なく情と気を溢れさせ続けた。

 オレが病に倒れたのは、もしかしてあいつの本性に恐れをなしたからからではないか。誰にも、それこそ、自分にさえ発したことのない煩悶が寝床の彼の脳裏を駆け巡っていた。

 そして今、彼は月でさえもなくなっていた。
 そう、三日月の片割れの地球照ほどの命を息を潜めて眺めている。風前の灯の命には太陽は眩しすぎるのだ。三日月でさえ辛い。

 ほんの数ヶ月前、入院して間もない頃は、彼は月影を愛でるのが楽しかった。曇っていて月が出そうにない夜以外は、彼女は必ず去り際にカーテンを開けてくれる。

 そして、病に倒れた自分は太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえないのかもしれない。
 でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだとしても。
 月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見えないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そして反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。

 月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。

 月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かばせる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
 せめて、月の影ほどに、この世に寄り添いたいと思う。
 太陽の光も素晴らしい。けれど、陽光を浴びた月が惜しげもなくこの世に光を満たしていることを思うことも素晴らしい。
 窓の外の定かならぬ月影を見ながら、そんなことを思ったのだった。

 違う! あの頃は未だそんなことを思えたのだ。
 今は月が優しいだなんて、毛頭、思わない。そんな余裕など消え去ってしまった。

 それでも、彼女が居なくなった世界など考えられない。
 けれど、その日は間近い。太陽の消えた世界が彼には間違いなくやってくる。

 彼は、地球照の月を眺めた。
 せめて、三日月の輝きと地球照の淡い滲みとの対比に人生の全てを見ようと思った。最早、手の届かぬ彼女の余韻を懸命に深い夜の底に嗅ぎ取ろうとした。
 彼女に触れることができなくても、彼女の肉体の残滓を心行くまで堪能したい。暗い部屋に満ちる光のような彼女の世界を、闇の変幻のその微細な相貌に見たい、否、感じたいのだった。

 消えゆく命。揺れる蝋燭の焔。握る手から零れる肉の世界。
 自分と彼女とは、地球照の月なのだ。
 燎原の火のように三日月に煌く彼女に、淡い滲みのような夜の世界の月である自分。

 あと何ヶ月もしないうちに、彼は月の裏側の世界へ旅立っていく。
 ただ、背中合わせの世界には彼女と分かち難く絡み合った藍色の静かな世界がある。
 あそこでなら、心置きなく彼女と一緒にいつまでも暮らしていける…。

 そんな時だった。足音が聞こえてきたと思ったら、ふいに扉が開き、真っ暗な部屋がぱっと明るくなった。
 見回りに来た看護師さんが部屋を覗いたのだった。
 が、廊下から漏れ入る光、そして懐中電灯の照射はあまりにえげつないものだった。

 また、開いている…。

 そう呟いて、看護師さんはカーテンを閉めて行った。
 そして、やっと掴み取った彼女との二人の世界が呆気なく消えた。




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