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Last update 2008年03月16日

紫  著者:櫻朔夜




 英夫は、雨の降る夜道を傘もささずに歩いていた。

 そこそこに勤めた会社も、もうすぐ定年の60歳。一見、どうしようもなく優柔不断で気弱そうな英夫だったが、妻の綾子と二人三脚、郊外ではあったがオレンジ色の電車が走る地にマイホームを持つこともできた。一人娘だって、立派に育て上げた。その娘のゆかりも、今や都心に居を構える大手企業の企画マンだ。

 今日も一度は、片道1時間近くかけて愛着あるマイホームへと帰ったはずだった。
 普段の今頃なら、仕事の疲れをささやかながらに癒してくれる食卓へとつき、ビールの1杯でもやっているところだ。

 それなのに。
 その娘がやらかしてくれた。


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 ついさっき、英夫は通勤で使うのとは反対方向へと走る電車を降りたところだ。
 時刻はとうに夜中過ぎだ。駅構内のアナウンスは、その電車が終電であることを告げていた。改札口の前に立ち、初めて自分が切符を持っているかどうかの疑問に思い至り少し焦りはしたが、いつの間にか買っていたらしい切符は、部屋着であるくたびれたスウェットのポケットに、所在なさげに収まっていた。
 何も考えずに電車へと乗り込んでしまった英夫に、目的地なんてなかった。当然のように乗車賃は足りなかったが、いつも帰宅後すぐに玄関の靴箱の上に置いている財布を、条件反射のように持って出ていた自分に安堵しながら清算機の前に立つ。と同時に、体だけは冷静に日常の行動を取っていることに、何だか自嘲えた。
 背後にシャッターの閉まる音を聞きながら、英夫は駅前で立ち尽くした。遠くにあるのであろう市街地のネオンの光を反射してか、厚い雨雲が白っぽく光っているせいで、雨の夜中でも奇妙に明るい。辺りを見回しても、居るのは田舎特有と見えるヤンキーの少年が数人。眺めていると、それに気付いた大柄な少年が眉間にシワを寄せるようにこちらを振り返る。ふいに「親父狩り」なんて言葉が頭を過ぎって秀雄は目を伏せてため息をついた。

 ……まさか年甲斐も無く、自分が家を飛び出すことになろうとは夢にも思わなかった……

 英夫はぼんやりとそんなことを考えながら、逃げるように少年達が屯するのとは反対の方向へと歩き始めたのだった。

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 弱くはあったが、シトシトと振り続ける雨が黒々とアスファルトを塗らす。俯いたままにどのくらい歩いただろうか。そのアスファルトが、何かの光を映しているのに気付いた英夫は、ふと顔を上げた。寂れてはいるが、この地域の小さな酒場のようだ。暗い道をしばらく歩いていたせいで、数件の飲み屋が地味に主張している看板の明かりが眩しい。
 そろそろ濡れた体が冷たくなってきていもいた。英夫は、どこかへ入ろうと幾つかの飲み屋の軒先に立ったが、どの店も地元の常連と見える同年代の親父達が、垢抜けない化粧の女達を相手に騒いでいて、とても入れる雰囲気ではなかった。そうこうするうちに繁華街の終わりが近付き、看板同士の距離も遠くなり始めた頃、その通りに交差するように走る横道の影に、1つだけポツンと紫色に光る看板を見つけた。あまり期待せずに近付いて入り口を覗き込む。地下へと続く階段の奥から途切れ途切れだが、若かった頃、綾子とよく行ったジャズ・バーで聞いた耳馴染みの曲が聴こえていた。今夜の英夫の宿が決まった。


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『こんな片田舎で、ジャズ・バーなんて客は入るのだろうか』
 その疑問は案の定で、年季の入ったカウンターを取り囲むように据え付けられた棚に溢れるレコード以外、店内で存在を主張するものは何も無かった。

「いらっしゃいませ」

 懐かしいアコースティック・ジャズの調べに一瞬心を奪われていた英夫は、我に帰るように静かながらも通りの良い声のする方を見やった。

「おや、濡れ鼠ですね。今、タオルをお持ちしますから、どうぞこちらへ」

 そういいながら、その声の持ち主は、自分の前のカウンター席を視線で指し示した。そういえば濡れたままだったと、今更ながら着古した上に水が滴るスウェットを見下ろし、小声で「すみません」と詫びる。気にするなと言った雰囲気で目配せして、その男は店奥へと消えて行った。
 英夫が席につくと、戻った男が清潔なタオルを差し出し、それを受け取ると同時に今度はコースターがカウンター上に置かれた。
「何になさいますか?」と男。歳は自分と同じくらいだろうか、と英夫は思う。
 店員は1人、店の感じから察するに、この男がマスターだろう。店の雰囲気と、年齢の近そうなマスターのお陰で緊張が緩んだ英夫は、やっとまともに口を開いた。

「ウィスキーを。銘柄は何でも…ロックで」


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 暫くの間、店内に流れる心地よいジャズと、溶けた氷がグラスを鳴らす音以外何も無かった。他には、時折空いたグラスに入れるためマスターがアイスピックを振るい氷をかき崩す音、ウィスキーを注ぐコポコポという音。英夫はそれらの入り混じる音を黙って聞いていた。
 何度目かのレコードの交換に、マスターがカウンターを外しかけた時だった。酔いも手伝ってふいに、英夫は棚へ向かうマスターの背中に向かって、曲の合間の静寂を突き破りたい衝動にかられて唐突に言った。
「実は、今日恥ずかしながら家を飛び出してきちゃったんですよ。」
「ほう、そうですか」
 普通なら大の男がそんな話を始めれば、情けなさを笑うか、さもなければ酔った席での与太話くらいに取り合いもしないのだろうが、マスターは細い目を更に細くして微笑んだまま、これまた年季の入ったステレオプレイヤーに次のレコードを置く手は止めずに続けた。
「一体どうしたんです?」

 再び、スロウなメロディーが流れ出す。英夫は、その曲に合わせるように話し始めた。

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 英夫が家に帰りつくと、玄関に見慣れない靴があった。この家で男は自分しかいない。だが、この靴は自分のものではない…
 財布を下駄箱の上に乗せながら、英夫は妻を呼ぶ。
「綾子、今帰ったぞ」
「はぁい」
 ダイニングから、ぱたぱたとスリッパの音。いつもと変わらない妻の様子に少し安心して、鞄を預けながら英夫は尋ねた。
「誰かいるのか?」
「ええ、ゆかりが紹介したい人がいるって…」
 …悪い予感は的中した。

 綾子に似て、颯爽としている娘のゆかりが連れてきていた男は、ゆかりとは対象的な、見るからに頼り無さそうな男だった。モゴモゴと口を動かし、ロクに挨拶もできずに小さくなっていた。英夫はそれを見ながら、訳もなくイライラとしていた。ゆかりは男を隣で小突くようにしてはいたが、なかなか話を切り出せない男に呆れたのか、自分でサラリと言ってのけた。
「お父さん、私、この人と結婚するから」
 英夫は勿論反対だった。こんな弱気で礼儀もつくせないような、頼りない男に娘をやるわけにはいかない、と。
 次の瞬間、逆上する娘とオロオロする男、夫の気も知らずに「いいじゃないの」という妻。娘を素性も解らない上にハッキリしない男に盗られるという認めがたい現実に、やりきれなくなって英夫は前後の見境なく家を飛び出してしまったのだ。

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「…今思い返せば本当に恥ずかしい話なんですがね、そのまま訳もわからずに電車に乗ってしまったようで、気付いたら終点のこの地に居たわけなんですよ……」
 英夫はそこで、グラスに残ったウィスキーをグイと飲み干した。
「成る程、それで…」
 マスターのその言葉が、寝巻きでずぶ濡れだった自分の井出たちにやっと納得したというニュアンスを持っているのに気付き、英夫は改めて店内を汚してしまったことを詫びた。
「いえいえ、良いんですよ。男親なら誰もが1度は受ける、人生最大のショックですからねぇ、娘の結婚ていうのは。お気持ちは良く解りますよ…」
 空いたグラスを次のグラスと取り替えながら、マスターが何かを思い出したように遠い目をした。英夫はそれを見逃せずに問い返した。
「じゃ、マスターも…?」
「ええ、そうなんですよ。私にもね、嫁いだ娘がいるんです。元気にしていると思ってはいるんですがね…」

 マスターの話は、こうだった。

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 「私には、別れた妻がいるんです。
 娘が3歳の時に、妻はその娘を連れて出て行きました。
 何があったかなんて野暮なことは今更お話はしませんが、きっと苦労をかけていたんだと思います…
 その頃から私はジャズ狂いでしたし、飲んでばかりの甲斐性無しでしたから…
 それでも娘は可愛くってね、いつも私の傍でニコニコしている良い子でした。
 妻が出て行った後も、何度か娘に会おうとしたんですが、妻の弁護士からは会わない事を条件に出されていましたし、それ以降目にすることもありませんでした。けどね、さすがに娘が嫁に行く時、初めて妻が連絡を寄越したんですよ。
 勿論、結婚式に参列することは許されませんでしたが。
 夫となる男のことも、今娘が何をしてどこにいるのかも、全く知れない中で、たった一つだけ知らされたのが、娘の結婚でした。
 私の中で、3歳で止まったままの娘が嫁に行くなんて話、現実感がこれっぽっちも湧かなかった上に、私の娘としても不完全だったまま誰かのものになるっていうのがショックでしてね……
 ただ、妻がその時に言ったんですよ。
「相手の男性はね、とてもジャズが好きだそうよ」って。

 私の我侭な解釈だとは思うんですが、娘に何かしらの形で残せた私の存在があったんじゃないかって思った瞬間、確かに寂しくもありましたけど、何となく、すんなり認めることができたんですよ……

 もしかしたらですけどね、お客さんもそんな何かが感じられれば、寂しくても、
 ……ね。」

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 マスターの話はそこで終わり、ちょうどレコードもプツプツと終わりを告げていた。英夫は、これを最後にしようと、グラスをくるりと回し、氷の乾いた音を楽しみながら、マスターの話を頭の中で反芻していた。


 自分が、綾子の両親に挨拶に連れて行かれたときのことに思いを馳せているとき、ふと、何故ゆかりがつれてきた男に訳も無くイライラしたのかに気がついた。

 あの男は、自分に似ている。少し気が弱くて、頼りない……言いたいこともなかなか言い出せない…あれは、綾子の両親に会ったときの自分だ。そして、家を飛び出しはしなかったものの、
「お前みたいな頼りないヤツに綾子をやれるか!!」と、怒鳴られたことも………


 綾子とゆかりの性格は良く似ていたっけなぁ……


 綾子は気が強い。優柔不断で気弱な自分には、その性格がとてもあっていた。きっとゆかりも…。

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「マスター、ありがとう。そろそろ、行ってみるよ。」
「えぇ、そうですか、丁度いいかもしれません。明け方には雨もやむ予報でしたし、そろそろ電車も動き始める頃かもしれませんよ」
 マスターは、終わったばかりのレコードを大事そうにジャケットへと仕舞いこみながら、話し始めた時と同じ、目を細めた微笑を投げかけてくれた。


 階段を登っていくと、マスターの言うとおり、雨は上がり、雲間から白み始めた空が見えた。

『さあ、帰るか…』

 と、とっくに乾いたスウェットの後ポケットで、ピピピ…と携帯が鳴った。自分が携帯も持って出てきていたことに少しまた自嘲いが漏れたが、こんな時間に誰だろうと画面を見ると、娘のゆかりだった。通話ボタンを押して、耳に携帯を当てた瞬間、ゆかりの声が響く。
「ちょっと、お父さん、どこに居るのよ!!」
 それから、重なるように妻、綾子の声。
「皆で夕べから探してるんだからね!!何処に居るのよ!?」
 その剣幕にやられながらも、モゴモゴと英夫は降りたった駅の名を言う。
 その後から、健二とか言ったっけ、ゆかりの連れてきた男の声が小さく聴こえる…
「二人とも、落ち着いて………」


 そのやりとりが、いつもの自分を含めた家族3人のやりとりのようだった。

「今から迎に行くから、動かないでよね!」
 ゆかりがまくし立てるように言ったかと思うと、台風の様に電話は終わった。

 周囲の店はとっくに店仕舞いしていた。英夫はその繁華街を振り返り振り返り、駅へともと来た道を辿った。娘の結婚式が終わったら、きっとまた来よう。
 紫(ゆかり)色の看板のあの店へ。


「その前に、皆に謝らなくちゃな…」
 英夫は1人、笑った。




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