Mystery Circle 作品置き場

時雨

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

鴉の欠片  著者:時雨



 扉を開けたら赤かった。
 琥珀色の液体も、撫で付けられた黒髪も、立ち並ぶボトルも、全てが狂気の色を纏ってちろちろと揺らめく様子に、暫し愕然として見惚れた。
 この赤から逃げてきた、のに。

 煙たいような空気の先で、マスターが目を細くして笑う。




「いらっしゃいませ。」




 >>>>>>>>>

 崩壊の始まりは実に唐突で自然でその上不自然だった。


 最初は市場だった。
 行った先で赤い色を見つけた。5、6メートル先の女連れ。赤い髪に赤い目に、整った顔の同居人。
「…克明」
 反射的に追い掛けかけてやめる。今声をかけたってどうするわけでもないわけで。
 昼の強い日差しを反射する鮮やかな赤は、数秒後には人混みに消えた。
 家を出た時は確かにソファで潰れていた克明は、そこら辺の鴉のように夜行性だとばかり思っていたが昼にも出かけるのか。 
 女の人が一緒ってことは今日は遅いのか。食事はどうしようか。

 夏の日差しは流石に辛い。逃げ込むように家の扉を閉めた瞬間のろのろと響く声。

「あー。おかえりー」
 誰も居ないものだと思ってた為に吃驚して辺りを見回すと、ソファの肘掛の影から赤い髪がはみ出してるのが見えた。
「あれ?克明、市場行きませんでした?」
 明らかに寝起きの顔が覗く。赤い目が機嫌の悪さを表に出しておかしな具合に光っている。  克明の寝起きは機嫌が悪い。機嫌が悪いときほど良い。焦点の合わない目に掠れる声。
 …どうかしてる。
「寝てたのにどーやって行くの。」
「いや貴方に凄くよく似てる人を見たんですけど。女の人と一緒で。」
「…何?昼間からぐーたらしてんのが気にくわねぇの?んならそーゆー遠回しな嫌味じゃなくて普通に言えよ。」
「違いますって。そういうわけじゃなくて。」
 この親友が機嫌が悪い時はタチが悪い。怒ったかと思えば次の瞬間にはその話題に興味を無くしている。
 ゆっくりとソファの肘掛の影に隠れる頭はいよいよ赤い。綺麗な色だ。
「ね、出来たら後でシーツとっかえてくんね?汗臭いの。」





「……暑…」
 同居人兼親友の茹だるような部屋の中で、シーツと枕カバーを引っぺがし、ついでにそこらに放られている服もかき集めて思わずぼやいた。
 昨日はソファで寝ていたから、部屋は使われてないのだろう。部屋に染み付いた煙の匂いに眩暈がする。
 どうかしてる。
 自分が克明に対して、同居人だとか親友といった感情以上の執着を持っているのは確かだ。でもそれを認めるのが怖かった。こんなのは傲慢以外の何物でもない。
 抱えた白いシーツやらの塊に、汗が落ちて染み込む。

「うわ!この部屋あっつ!」
「…克明、それ吸いながら歩かないで下さい。灰が落ちる。」
「あ、わり。…俺エアコンのリモコン何処置いたっけか。」
「それなら確か鏡の前…」
 あそこ、と指し示した鏡の中の自分と目が合った。何か変な感じがする。
 鏡の中の像は、こちらを見て立ち尽くしたまま、はっきりと。
「……っ」
 はっきりと、笑いかけた。





 二度目にそれがあったときは、考えるよりも先に追いかけていた。
 出かけた帰りに、大通りの角を曲がろうとした時、ふいに目の前を赤い色が掠めた。 
「克明。」
 人混みを掻き分けて走り出す自分を、驚いたようにまわりの人が見る。視線が痛いが、この際気にしている余裕は無かった。
「止まって!克明!」
 やっとの思いで数歩先まで追いついた赤い色は、声が届いたのかゆっくりと振り返ってこちらを見た。笑うでも慌てるでもない、まったくの無表情で。
 克明はそのまま、驚いて足が止まった自分を一瞥すると、また歩き出して視界から消えた。


「おかえりぃ。」
「…何で居るんですか。」
「え、何、俺家から追放食らったの?」
「だって今貴方あそこで」
 あそこで。あれは本当に克明か。いやでも。見間違う筈がない。こんな赤を見間違う筈がない。
「…真っ青。どしたの。」
「……僕が聞きたいですよ。」
 本当にどうしてしまったのだろう。気が狂うような事を僕はしたか?してないと思うのだけど。 「貴方をそこの角で見かけたと思ったんですけれど…気のせいですね。」
 それじゃなきゃ瞬間移動。……馬鹿馬鹿しい。

「…ああ、もしかしてさ、おまえ俺の事好き?」

「は」
「そんで道行く人皆俺に見えるとか。」
 あまりにもあっけらかんと言い放たれた言葉を理解した瞬間、体中の全ての血液が一旦引いて、一気に沸騰した。
 克明はあくまで真顔だ。何となく自分が惨めに思えてきた。
「…だとしたら?」
「んー。困る、かな。」

 そりゃそうだ。

 酒と煙草とギャンブルと女が好きな男に、男を好きになれってのは無理だ。女ならまだ良かったのに。
 主題がずれて放心していると、克明は早速煙草に火を点けて煙を燻らせている。こんなに吸ってるんだからこの人は早死なんじゃないか。
「…煙草なんて美味しいんですか?」
「これは夢を与えてくれる薬だ。望み通りの夢を。」
「フリーターの世迷い事じゃないんですから。」
「おまえ酒も煙草もやんねぇだろ?耐性無いと毒は回るの早いから」
 どうやら既に会話をする気はないらしい克明は最後に、気をつけろよ?とだけ言って、また煙を吐き出した。
 克明が煙を部屋中に振り撒いてくれるせいで、この甘くない匂いは常に家の何処かに潜んでいた。





 僕が気にしようと気にしまいと、赤い色は必ず視界を掠め、日増しに頻度を増していくようだった。
 ある日などは口も利いた。普通に会話して帰ったら、普通に家の中に克明が居た。
 家に居る克明が克明であるのかさえ怪しくなって、赤い色はどんどん増えて、仕事も出来なくて、結局逃げるように近くのホテルに来た。実際逃げているのだが。
 ホテルに居ても当たり前のように人は居て、あの忌々しい赤い色も居て、浮かされるように人の居ないところを探した。

 家を出てからずっと、胸の辺りがつかえていて苦しい。





 >>>>>>>>>

 赤い照明の下で、ジャズの音が時折掠れて、鴉の声のようにノイズが入る。
 最初にここを見つけて入った時は、その赤い色にどうしようかと思ったが、どうしてかここに居ると苦しくはなかった。人も居ない。

 マスターの後ろのボトルは、変わらず赤く濁っている。ふとボトルに映りこんだ自分の顔が、ゆら、と濁ってまた映るのを見て、ああまたかと思った。
 自分かと思うその顔は、しかし決して同性ではなく女性だった。
 彼女は、硝子やら鏡やらに映っては、こちらと視線を合わせてはっきりと物を言う。いつも。

  は な れ て

 居心地の悪さに耐えかねて、悪戯に口を開いてみた。
「マスター、」

 ここの空気は甘くて重たい。甘いというのは感触で、実際に嗅覚が捉えるのは苦い煙だ。その苦い煙は白く甘く濁って、寂びたレコードの音と共にぐるぐる回って四散する。
 どうにも調子が悪い。抜け切れない浮遊感が頭を重たくして、口を軽くする。

「どうも僕には姉が居るみたいです。」
「それは素敵だ、貴方の姉上ならさぞかし美しいでしょうに。」
 お世辞でもなく、一連の流れのようにすらすらとマスターが言う。言った後で一段柔らかい声が続ける。
「…貴方は何か危惧しているように見えますが。何を。」
「それを言えば僕は気違いになりますからね。生憎自分が居心地悪いのは、どうにも。」
 琥珀の水面に自分によく似た顔が映る。それを眺めながら、彼女は僕の欲の具現だ、とぼんやりと思う。彼女がまた口を開く。

  駄目よ
  早く
  離れて

「マスター。」

 ここの空気は甘くて重たい。甘いというのは感触で、実際に嗅覚が捉えるのは苦い煙だ。その苦い煙は白く甘く濁って、寂びたレコードの音と共にぐるぐる回って四散する。
 この匂いを僕は知っている。いつも克明が吸っていたあれだ。


  ー煙草なんて美味しいんですか?
  ーこれは夢を与えてくれる薬だ。望み通りの夢を。


「…これは夢を見る薬ですか。」 

 赤い色が増えていく理由はもう随分前に悟った。彼女が忠告する理由も分かっていた。
 分かっていたんだ、僕は。

 マスターは人の良さそうな細い目を更に細めて、暗示のように言葉を紡ぐ。
「所詮この世は赤い夢。私達が見ているものは残像。私達の世界は私達の中にのみある。」
 人の良さそうな細い目の奥で、瞳が色を反射する。赤い。
「全て人の見る夢ならば、人のみが追う悦楽に浸れと、思った末路でしょうねぇ。」




 彼等は禁忌の赤い花に手を出した。芥子の毒に犯されて、ひたすらその悦を求めた。
 快楽のみを知る、極彩窟。
 この世の規制は脆くも崩れ果て、彼等は赤い夢を見る。




 彼女は克明が居ると現れた。
 克明の苦い煙の白くて甘い部分が連れてきた。
 …ああ
 彼女は克明が連れてきたのか。


  -女ならまだ良かったのに。


 そう、彼女は僕の欲の具現だ。
 あれに削られた残りの理性が形作った最後の理想だ。
 どうやら僕は克明に酷く憎まれたか愛されたかしたらしい。あれのお陰で良い夢を見た。何も逃げて来なくても良かったみたいだ。


 この世に居るのは僕と克明と克明の代わりだ。だったら全員克明になったって何も不都合は無い。


 手元のグラスの氷が溶けて、琥珀色をした液体を揺らす。映っていた彼女が揺らめいて消える。カラン。
 いつの間にかマスターの居たところに見慣れた赤い色が居る。克明は目の前で甘ったるく笑ってみせると、視界から姿を消した。
 克明を失った視線が、その先の変わらず赤く濁ったボトルを捉える。赤に赤が映りこむ。
















 正面に見据えたボトルに克明が映った。

















 ああ、あれの呼び名は何と言ったか。甘美な赤い夢の薬の名は。




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