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Last update 2008年03月16日

ブランド志向  著者:AR1



 人工的合成物に過ぎない有名人を、真の英雄だと思いこんでいた。
 その有名人は日本国内では著名な作家で、新作が出るたびに売り上げランキングの上位を獲ってしまうくらいに名が知られている。マサヤも何冊か単行本を購入し、読み終えたそれは棚の中で息を潜めている。彼にとって、その本達は目指すべき道筋の一つに思え、それらに感化されて原稿用紙――今はパソコンのワープロ・ソフト――に黒の足跡を残すことに決めた。中学三年生の思い出。
 だが、マサヤが様々な経験を重ねるごとに誤解が生じていくという痛痒を感じてもいた。揺るぎなく感じられていた価値観として祭り上げられていたものは、果たして本当にそうであったのか、と。
 マサヤは、彼の中の英雄の独創性(オリジナリティ)を疑い始めた。
 英雄像でタチが悪いのは、己の価値観において、森羅万象に対し一定の物差しを駆使することができるようになると、良し悪しはともかく、他者の意見への関心が薄くなり、自己完結することが増えていくことである。初期の物差しは長さが曖昧で、使うごとに壊れたメジャーのように伸縮してしまうが、やがて一定の長さに固着するようになる。
 それは二律背反を招くことに繋がり、様々な長さの物差しによる確認作業を怠っていくようになる――慣れてしまったがゆえに。
 主観のみの世界で動いている内は、そうした英雄像は個人思想の範疇に収まるが、客観に主観の世界を持ち込んだ時、大抵脆くも崩壊する。固着してしまった物差しは、二つの方向にしか作用しない。客観から弾かれて打ちひしがれるか、客観を巻き込んだ結果として、極めて個人的な趣向が世間的に浸透して評価されるか。
 マサヤは、覚めているのに悪夢に追われているような居心地を感じていた。布団を被りつつ、目の奥を往復する思考の波は、彼の睡眠時間を確実に削り取り、その意味では悪夢そのものであった。

 ここ二週間ほど寝不足気味のマサヤは、大学の先輩――マサヤと同じく文学サークル所属――と、大学の校舎内で久し振りに暇な時間が合致しているということで、近所の牛丼屋で昼食を取ることとなった。マサヤは文芸部に顔を出しているものの、先輩は就職活動が忙しいのか、ここ一ヶ月ほどは話す機会を持てずにいた。
 三年生の先輩があそこまで忙しそうにしているのだから、来年は自分も忙しいのかもしれない。そうだとしたら、このような悩みなど靴底で踏んづけたまま忘れ去られているのかもしれない、とマサヤは未来を描き、そのような発想しかできない自分に少々失望した。
「あの、先輩」
 牛丼大盛りを二つ注文する先輩の横から、マサヤ。
「『人工的合成物に過ぎない有名人を、真の英雄だと思いこんでいた』という文章を、どう解釈しますか?」
「糖分欠乏気味の食事前に、そんな小難しいことを言うなよ。次の小説のフレーズ?」
「まあ、そんなところです」
「ふうん」
 ややうつむき加減に黙考する先輩の横でマサヤは、お題として考えて来い、と部長に命じられたことは伏せておくことにした。
「解釈に困るなあ。ストレート過ぎて、捻りどころに困る。そもそも、人間が他者を判断する際に用いる基準からして、既に人工的合成物と言えなくもない……原初の時代、人間は『この道具は使えるのか、この生き物は食べられるのか』というのは、極めて本能的衝動に基づく判断だけど、例えば芸術なんていうのは、個人の感性よりも外的要因(プラス・アルファ)の方が大きいくらいだしぃ」
「いや、それくらいは分かります。ただ、問題は、その、極めて御しがたい個人的感情にどう処理をつけるか、なんですよ」
 マサヤはところどころで言葉を詰まらせながらも、熱っぽく心中を打ち明けることを恥とは思わなかったし、それを認識できるほど冷静ではいられなかった。昨夜から脳味噌の中を通る血流が熱く、勢い静まらない熱気にほとほとうんざりしている。酷暑における蚊の羽音など可愛いものだ。
「言葉にしてくれ、ちゃんとした」
「すいません。端的に言えば、ああ、なんでこの作品は全然評価されないんだろう。なぜ賞に選ばれなかったんだろう……そんな風に思いません?」
「思うよ。でも、慣れた。というか、そんなことに振り回されることが馬鹿馬鹿しくなった」
「そんな……」
 それは単なる思考停止だ、とマサヤは心中で責めた。
「他人の嗜好を変えさせるなんて、並大抵のことじゃできっこない。人間は人工的合成物だ、現在進行形の。外的な要因に興味を持ち、疑問を抱え、消化する。ただ、頭の中身が固着しちまえば、変化や刺激に鈍感になる。誰もがニュースの中の出来事を当たり前のことのように思っていて、雑誌のデタラメ・レビューを鵜呑みにする」
 ある意味、最速の近道は週刊誌の編集者になることなのかもな、と先輩は笑った。冗談のようでいて、極めて大真面目なブラック・ジョークに同調できるほど、マサヤは大人びてはいなかった。また、煮え切らない視線に動揺するほど、先輩の思想は軟弱ではなかった。
「政治家よりは近いだろ? 良いかどうかは別として」
 そう言い放つ先輩の顔は、ふざけているようで大真面目だったのかもしれない。マサヤは、今日もまたこの人に振り回されるのか、と少し俯いたものの、自分の周囲にこれほどあけすけな語り方をする人はいないと思い直し、顎を上げる。先輩の言葉の全てが正しいとは限らないのだから、反論材料は見つければいい。
「本当に、世の中の人達はそうなんでしょうか?」
「世の中のかなりの割合はそうかもしれない、という与太話、さ。俺だって正確な統計を根拠にして話してる訳じゃない。でも、少なくともこの世の上辺は、そういう感覚で回ってるとは感じる。例えば――」
 お待たせいたしましたー、とカウンターの向こう側から牛丼が二つ手渡される。少々時間はかかったが、まだお昼時の午後一時半なので、理想的なタイムを刻めなくとも仕方はない。先輩は割り箸を二膳、それぞれの牛丼の上に置き、肘をカウンターに突いた。
 調理場に引っ込んで行った店員の耳に届かないくらいの声で、先輩は囁いた。
「ここの牛丼は美味いと思うか?」
「まあ、値段の割には」
「それが、世の中を動かしている連中の発想、という訳だ」
「どういう意味ですか?」怒気をはらんだ声で、マサヤ。
「お前の思想が反映されるためには、明確な理由を文字によって説明されなければならない。美味いものは美味い、不味いものは不味い。しかし、それは『なぜ』美味いのか、『なぜ』不味いのか、真っ当な理由を提示してこそ成り立つ。だろう?」
 マサヤは、先輩の主張が正しいのか間違っているのか判断がつきかねたが、明確な論拠がない以上、反論を挟む余地はなく、頷くしかなかった。
「だが、関心の薄いことに、いちいち掘り下げた意見を求めるのは面倒だ。建設的でも、時間を費やすという意味では経済的でもない。だから、ここで新しい機軸を持ち出す必要がある……許せるか、許せないか。ちなみに、俺はここの牛丼は美味いとも、不味いとも思わない。が、許せる」


ブレイン  著者:AR1



 人工的合成物に過ぎない有名人を、真の英雄だと思いこんでいた。世間の誰もがニュースで伝えられる訃報を真に受けて、その人物が伝説であることを鵜呑みにするに違いない。この世を去った人物が、どのような作品を作ったのかも分からないままに。
 ヒデキに寄り添っている裸の女も、まったく違わない性質の持ち主だった。
「伝説的な人だったのにね」
 少し熱に浮かされた声。なにも知らない奴のセリフだ、ヒデキは顔に出さずに嘲笑した。そもそも、この世の誰が生前の芸術家を「伝説」と呼称したのだろう。液晶テレビの発光を受けて白く染まる彼女の肌に目を落とす。つい先程まで肌を絡ませていた時の熱情は、既にその色のように引いていた。もっとも、一晩を共にするだけの希薄な関係であり、彼にとっては切れても未練などない。
 ヒデキが心から異性を愛したことはない、そういう自覚があった。だからこそ、大抵が数日、長くて数ヶ月の蜜月に終始するのかもしれないと分析する。そして、その蜜が大した甘さではないからこそ、この口が衝動的に冷水を吐き出すのかもしれない。この夜も例外ではなかった。
「死んで美化されただけの奴に、価値なんてない」
 翌日、ベッドには彼女の温もりすら残されておらず、亡霊のように痕跡を残さず姿を消した。以降、連絡も何も寄越しては来ず、細すぎた糸は呆気なく断裂した。
 ――はて、俺はなにか悪いことを言っただろうか。正しいことは言ったが。
 どうやら、秋の乾いた涼しさが、この部屋から体温の残り香を消してしまったらしい。

「ジャズ喫茶で会話を交わしてはならない」
 ロックが原初の姿、現代ではポピュラー音楽を支配するエレクトロ・ミュージックなど辛うじて予見されていようかという時代に、ジャズ喫茶が一斉風靡していた頃の暗黙の了解である。今ではその拘束も緩くなってしまったが、頑なに初心を貫いている店もある。ヒデキが訪れている店「スウィング」はジャズ喫茶の初心に比べれば決め事が緩い店ではあったが、原則として私語は快く受け入れられない。
 雑誌を繰りつつ、次に針が落とされるレコードの曲に耳を傾ける。誰の曲かは分からない。彼はジャズに精通していないどころか、まったくの無知に等しい。単にジャズという音楽が彼好みの空気感で心地よく、良質の再生機器とスピーカーを備え、またコーヒーや軽食の味も悪くはないという理由からだった。
 時折、横目でヒデキを窺う客がいるが、彼はことごとく無視する。ジャズ喫茶で音楽に集中しないのは何事だ、という無言の勧告であることは想像に難くない。彼は沈黙でもって「静かに雑誌を読むことが、そちらの音楽環境を侵害するのか?」と意思を表明するのだった。
 ヒデキは一週間に二、三度は足を運ぶ常連と化しているので、マスターに挨拶したあとは定席である窓際で、外の風景に背を向けて腰を落ち着かせ、いつものようにコーヒーとミックス・サンドを注文すると、すぐにマスターの手で料理が運ばれてくる。彼の注文が二年もの間――ヒデキが初めて「スウィング」を訪れてから約二年だ――変わることがないので、ヒデキの顔を見たマスターは、精神と物理的な準備をして注文を待ち伏せしているに違いない。
 ところで、ここ一ヶ月は事情が違っていた。どうにも落ち着かない気配を感じたので雑誌から目を上げると、通路を挟んだ席に対座して、若い女性がヒデキを観察していた。彼の仕草が気に入らないのかと思えばそうではないらしく、最初の数回は興味津々といった無遠慮さで凝視に徹し、だんだんと不敵な笑みが彼女の顔を支配していく比率が増えていった。
 敵意はなく、好奇心むき出しの姿勢にヒデキは、心のどこかで恐れを感じていた。面識がなく、ジャズ喫茶という空間で音楽を楽しんでいる様子もない異端に対し嫌悪どころか好意を抱くなど、彼女も異端決定である。そして、彼女が異質を貫く理由がヒデキには理解できず、平静を装いつつも雑誌を読みふけることで己を慰めるしかなかった。
 勿論、ヒデキが「スウィング」を訪れるたびに遭遇することはなかった。ストーカーではないことが少し保障されたような気もするが、不幸にも今日は鉢合わせしてしまった。視界の隅にもやのかかった、だが脳が勝手に画像補正をかけて映し出した素朴な横顔は、彼の顔を反射的に下に向けるには十分だった。
 今日も動物園の見世物にされることにうんざりしながら、ヒデキはサンドイッチの最後の一口を頬張り、口腔をコーヒーで洗い流す。
「ちょっといいですか?」
 ヒデキが会話をしたことはないが、時々耳にした覚えのある声質だった。この喫茶店のレジの辺りから漏れ伝わってくる、あの声。
「なにか?」
 あなたは俺と寝たことはありますか?、とは訊かなかった。彼女は大学生風で、味気ない黒のTシャツに、太ももの辺りにポケッの付いたベージュのワイド・パンツという井出達。適度な室温に保たれた店内ではお呼びではないのか、セーターを腰に巻いていた。
「以前からお話したいなあ、って」
「俺、面白くもなんともないよ」
「この喫茶店の中では一番『面白いこと』をしているようですけど?」
 それは否定できない。常識にとらわれない楽しみ方をしていると、排他されるか面白がられるかのどちらかである。どちらにおいても共通しているのは、流れる雲ほどに違和感のなく馴染んでいるとはいえない、ということだ。
「……ジャズ喫茶の店内は私語禁止」
「ですから、外で話を窺おうかと」
 そうこられると立場が悪い、とヒデキはつい顔を背けてしまった。彼女が強引であり、ジャズ喫茶の掟を盾に取る強かさを持っている。なにより彼には断る理由が見つからないのだから、殊更に彼女の申し出から逃れることが難しい。今は忙しい、という言い訳は、ジャズ喫茶で時間を潰していられる時間のゆとりがあるのだから通用しないだろう。仮にそういう選択を選び、去り際に毒を吐かれる程度なら良心の呵責など欠片も覚えないが、彼女の片手に保持されているトール・バッグからナイフでも取り出されでもしたら、さすがに良心を発動させない訳にはいかない。
 だが、それのエンジンを始動するのは早い、と踏み止まる。我ながら名案だ、と崖っぷちの最中に光明を見出し、ヒデキはごく自然な至上の名演でうそぶく。
「今、かかっているレコードが誰なのか、必死に考えているところなんだ。独りにしてくれる?」
「あぁ」
 語尾にイントネーションを置いて、彼女は大きく頷いた。ヒデキには「邪魔をしてすいません」という意味に汲み取れた。鼻孔から僅かばかり安堵の嘆息を吐き出すと、彼女はレジとは逆の方向にある大口径スピーカーに耳を澄ませ、微笑みがより鮮明に浮かび上がった。
「セロニアス・モンク、ですね」
 勝ち誇った破顔だった。ヒデキは読みの浅さを呪い、恥じる。彼女との駆け引きに負けたということは、ヒデキは白旗を振って観念しなければならなかった。勝負事はフェアでなければ成立しない。
「…………行こうか」
 ヒデキの声は、宇宙の片隅で瞬く光のように小さかった。

「俺の名前はヒデキ。君は?」
 普通の喫茶店に鞍替えし、落ち着かない心中を押し隠すように椅子に腰を預けたヒデキは、真っ先に名前を名乗った。背広の内側には名刺が息を潜ませているが、この場で差し出す気はなかった。彼女は上客でも、取引相手でもないのだから。
「メグミです」
 捉えどころのないお辞儀を一つ。メグミのやや丸みを帯びた顔を冷静に見つめ、ヒデキは憶測を確信へと変える――彼女と同衾したことは絶対にない。
「あの……私の顔、変ですか?」
 メグミは、ストレートに伸びた黒髪に指を絡ませ、メグミは少々顔を紅潮させる。「スウィング」では強気に押してきたくせに、突然しおらしくなるとは不思議である。この程度の観察に恥じらいを見せたのは、ヒデキと付き合ってきた女性史の中では稀である。
「いや、別に。以前に会ったことがあるかどうか、考えていただけで」
「初対面ですよ」
「そっか。自分の記憶力に自信を取り戻せた、ありがとう」
 テーブルの横から、本日二杯目のコーヒーが届けられた。メグミの前には一足先にオレンジジュースが運ばれている。そういえば、彼女の席にコーヒーが運ばれているところを目撃したことはない。
「で、用事は?」
「……失礼かもしれませんが、職業はなにをされているんですか?」
「は?」
「いつもジャズ喫茶で美術関連の本を読んでいましたから……その関係の人なのかな、と思いまして」
 それはかなりの短絡思考のようにヒデキには思えた。確かに、「スウィング」に出入りする時は必ず美術書の類を持参してはいたが、だからといって美術を飯の種にしていることにはならない。
「だって、ジャズ喫茶に来て美術書を読むなんて、控え目に言っても普通ではないですよ。一度ならず、毎回でしたし」
 メグミ以外の客から時々発せられる視線の棘を鑑みて、ヒデキは妙に納得してしまう。ジャズ喫茶は自宅で再現できない音響でジャズを聴けることに意味があるのだから、彼の美術書は聖域を汚していることになるのかもしれない。理解のできない理屈ではない。
「そういう君は?」
「私は美大に通っているんです」
「なるほど、道理で」
 若干の渇きをコーヒーで癒す。喉が香ばしい熱で満たされることに、ヒデキはいわれのない落ち着きを覚える。おかしい、なぜこれまでは落ち着いていられなかったのだろうか。
「俺は、とある企業の社長をやってるんだ」
「本当?」
「嘘」ヒデキは冗談にもならない騙りを早々に破棄する。「小さな美術館を開いてる。そこの経営者」
「館長さんっ」
 無垢な子供が北極星を指差すように、メグミの人差し指がヒデキに向けて突き出される。彼は失笑を禁じ得ず、肩をすくめる。
「もっとも、死んだ親父のを継いだだけだがね」
「親子で経営?」
「いや、親父は趣味として、ね。社長だったんだよ。道楽に使えるだけの金はあって、俺は未だに肉のないすねをかじり続けてる」
「ふふっ。恵まれてるんですね」
 その意見には同意だが、笑いどころではないと思うな……こうしたズレた感覚が不安になっている原因なのかもしれないとヒデキは、メグミの微笑をかわすように覗き込んだコーヒーの底を眺め、思った。
「でも、館長って大変そうですよね。色々と」
「ああ、大変だ。俺のところは……一回目のブッキングには成功するんたが、二度目は上手くいかない」
「なんででしょう?」
「さあ。慢性的に貧乏神か、呪いにでもかかっているのかもしれない」
 まっさかあ、とメグミは軽い口調で否定し、ヒデキも倣って軽薄な笑みを貼り付けるが、彼自身は呪術的存在を信じている。彼のところで個展を開いた者のことごとくが、多かれ少なかれ創作意欲やイマジネーションが減退し、歯車が狂っていくのである。そろそろ悪魔祓いの予算を計上しようか真剣に検討中だ。
「出世したら、私も美術館をお借りしてもいいですか?」
「それは君次第だな。作品を見てから考える」
「……本当ですか?」
「偽りはない」
「本気で言ってます?」
「俺の美術館のほとんどは、まったく売れてないか、新進気鋭で知られていないかのどちらかだよ。大体、大した面積がないから、ビッグ・アーティストには見向きもされない」
 加えてアプローチするだけの財力もない、という野暮な後付けはしなかった。
「でも、館長ということは真贋を見抜く力とか、凄いんでしょうねぇ」
「いや、全然」
「……冗談ではなさそうですね」
「聡明で助かるね。だが、俺がなにも見抜けないと思うのなら、それは勘違いだ」
 ヒデキは中指を己の右目の下にやり、宣教師が宗教を諭すかのように、断言した。
「俺には贋作かどうかの違いを見分ける目はないが、その作品が異質であるかどうかは分かる」
 芸術とは、人間の感性が織り成す、世界を語るための媒体である。ヒデキは、父親の道楽に付き合わされていた際に、有形無形の様々なものを吸収していったが、その教えの中には「真贋を見分ける訓練」は含まれていなかった。彼の美術館は現代美術を基本にしているため、即興性の高いアートが多数を占めるのも理由かもしれない。
「この美術館を訪れる人々は、本物という血統書を見るために来ているのか? ノー、そんなつまらない理由のリピーターはいない。本質はエネルギーを感じるためさ」
 父の言葉。家庭よりも道楽に時間の比重を置いてさえいたかもしれない父親に、一切の恨みを抱いていない訳ではない。ただ、三十路になって分かることもある。父親が美術館に心血を注いでいた理由の一端も理解できないではなかった。
「俺は確かに、主観と客観を並立させた価値観でモノを判断してはいない。だがな、間欠泉のような息吹も感じられない盲人の国では、片眼の者が王様ということを知っているか?」

「じゃあ、大学からもっと近いところにある牛丼屋は?」
 先輩とは一年の内に何度か夕食をともにしているが、この牛丼屋にしか来店した覚えがなかった。大学からもっと近い位置にも牛丼屋があり、そこを利用すれば五分ほどの道のりを通過せずに済む。
「ここよりも質はいいんだよな。値段も同じだし」
「は?」
「いやな、こっちの方が質は低いけど、許せるんだよ。大学に近い方は……しょっぱくてなぁ。じわじわと塩分による毒殺を図られているようで、嫌なんだ」
 どこぞの国の諜報員に恨みでも買っているのだろうか、とマサヤはいぶかしみながらも、先輩の話には説得力があった。物事に対して評論ではなく、個人の許容の目線での判断となれば、客観に働きかけるだけの論拠の必要性はまったくない。どこまでも自己満足を通してゆける。
「じゃあ、創作という行為は? どういう範疇に入ると思います?」
「世の中の創作物の一パーセントでも、創作者が満足至極だった、完全無欠の作品って存在するのかね?」
 つまり「永遠に許せない」という範疇に入る、と先輩は暗に語った。
「世の中に、真の天才は何人いるか、考えたことはあるか? 数学の世界では、一パーセントの天才が青写真を作り、残りの九十九パーセントが天才の設計した建物を組み上げるんだ」
「へぇ……」
「うん?」
「なにも考えてなさそうなのに、実は色々と考えてたんですねぇ」
「俺がお前と気心が知れていて、ついでに縦社会に疑問を持つ人間で良かったな」
 オールバックにした、少し痛んできた茶髪を撫でながら、先輩は人工的な笑みを貼り付けた。他の先輩に向かってそんな口を利いたら釘バットで場外まで運ばれるぞ、とは元野球部の彼は忠告しなかった。
「でもまあ、ジャーナリストだろうが作家だろうが、大勢か少数の違いだけで、結局は他人の物差しを使わなきゃならないんだろうよ。自分の物差しが世界基準な訳じゃなし」
「俺は、物差しではなく、メジャーを使える人間になりたいですよ」
 お互いに揃って割り箸を裂き、牛丼を片手――先輩は左利きだ――で持ち上げる。マサヤは、一度でも箸が脂分をたっぷりと含んだ牛肉をかき分けると、二人の数十センチメートルの間は真空のように無音になることを、経験から知っていた。途中で紅生姜を一つまみ乗せ、後は寡黙にかっ食らうことだけが使命であった。
「で、メジャーなのはいいとして、伸縮の基準をどこに合わせるんだい? それは本当に、誰の影響も受けないのか?」
 一足先に箸を丼の上に置いた先輩が、プラスチックのコップに満たされた冷水を含みつつ、問うた。マサヤは牛丼の汁に染まった一口分のご飯の孤島を残し、じっと丼の底を睨む。器の底は浅いくせに、彼の視野には、どれだけ長く伸ばしたメジャーでは計測できないほどの無限が溢れているように見えた。
「俺達は結局、他者の存在なくしてはメジャーを引き出せない、色々な価値観の合成物ってこと。いくらでも長さなんて変わっちまうから、重要なのは物差しの長さを常に意識することと、直感を言語に変換する能力だと、俺は思うな……ふ、まだまだ青いよ。少年」
 先輩は芝居臭さを一片も隠さず、ニヤリと勝ち誇った笑み。青二才を落としたくらいで嬉しいのかとマサヤは、本気で先輩の良心を疑い、大学内の学生で親の顔を見たいと思った第一号に抜擢する。
「俺とお前のことを例えるなら、こんなところだろうな」
 先輩お得意の、誰かの書籍の引用に違いない、とマサヤは確信した。先輩は見てくれが荒くれ者のくせに、妙に知的な言い回しを好む。だから野球部で弾かれたに違いない。
「『盲人の国では、片眼の者が王様ということを知っているか?』」




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