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Last update 2008年03月16日

星降る夜にきみと歩けば  著者:なずな



いつの間にか、無数の星が天を満たしていた。
仰ぎ見る。両の手を伸ばす。
星が空から降りてくる。
あるいは逆に自分が 上昇。

吸い込まれる。
身体がつぅ、と浮き上がる。
目をつぶる。想像する。
限りなく膨張する大きな大きなカプセルの中。
そして カプセルはゆっくりと口を開ける。

山は遠くなだらかに続き
目の前は刈り入れ前の稲田が息をひそめ広がっている。
時折緩い風が吹く。
穂が波打って揺れ ひそやかに囁く。
圧倒的な夜。
どこまでも広がる夜。


幼い頃僕は 夜、外に出るのが怖かった。
月明かりの中陰影を増し、流れていく雲の動きが怖かった。
当時住んでいた家のあった所も、丁度この辺りみたいな風景で
周囲に田んぼが広がり、夜はとてつもなく暗かった。
昼は親しい風景が どうして夜はこんなによそよそしいのだろう・・
蝉とりした大きな木のシルエットも、魚掬って遊んだ川も、夜見るとただ怖ろしく
言いようもない不安が胸を締め付けた。
底なしの闇が全てを呑み込み、自分がどんどん小さくなって消えてしまいそうな
そんな気分になった。

星が綺麗だよ、出てきてごらん・・
解ってるくせに 兄の拓己はわざと面白がって僕を外に連れ出した。
ふざけて置いてきぼりにされ、締め出しをくらい、何度も大泣きした。
気が付いた母にドアを開けてもらう。最初に叱られるのはもちろん拓己の方。
けれど、いつまでもぐずぐず言う僕も結局、小言を食らう。
「怖がりもたいがいにしなさい。何にも怖くないよ、いつまで泣いてるの」
そんな時、拓己は慌てて僕を庇い、自分が悪いんだ、ごめんなさい、ごめんなさい・・泣きながら母に謝ってくれた。


 *

僕の少し前を ペースを崩すことなく彼女は歩き続けている。
顔を真っ直ぐ前に向け、その先にある何者かに挑むように。


「最初に夜道を一緒に歩いたから 志田くんのこと好きだと思ったのかもしれない」
鹿子さんは立ち止まって天を仰ぎ、振り向かずに突然そう言った。
聞こえるのは水路を流れる小さな水音と、虫の声。
鹿子さんの声が響いて消えると、余計に静けさを意識した。

今、後ろをのこのこ付いて歩いている僕も「志田くん」だ。
夜空が怖いなどと言って可愛い年齢ではもうない・・と自分では思っている。
けれど、彼女の言ってるのは僕のことではない。6歳上の大学生の兄、拓己のことだ。
胸がツクンと痛む。
「送ってくれて、ずっと話し続けてくれて、ひとりっきりで怯えながら部屋に帰らなくて済んだから・・」
この人がいてくれたらずっと安心なのだと、この人と一緒にいたいと
そう思ってしまったのだ・・と鹿子さんは僕に背を向けたまま、続けて言った。


大学に行くため地方から出てきて間もない頃、いきなり夜道でひったくりにあったと聞いている。
後ろから来たバイクの男に、鹿子さんは鞄を無理やり奪われた。
恐怖で声も出せなかったという。
何歳になったってそんな目に遭ったら、ひとりで歩くのが怖くなったって仕方ない。
当たり前じゃないか、と僕は思う。

拓己と友達数人で集まって遊んだ日、女友達が同じ学部の彼女を誘って連れてきた。
暗くなってしまった帰り道、女友達に勧められて鹿子さんは拓己に送ってもらうことになる。
 ─こっちに来てすぐに ひったくりに遭って夜道が怖いの この子。
 ─じゃあ、オレ送って帰るわ、方向も一緒だし。
そういう時の拓己はなかなか 爽やかないいヤツだ。
けれど帰って来ると拓己は、そんな彼女の怯える様を 僕と母に軽く笑いながら話した。
彼女のこと話題にしながら、他の女の子からのメールをチェックし続ける。
笑い事じゃないんじゃない?
僕は拓己の携帯を奪って、窓から思いっきり遠くへ投げ捨ててやりたい衝動に駆られた。



拓己は、昔から結構モテた。
ルックスはどうか解らないけれど 男女の別なく話相手になるのがともかく上手い。
相手を褒める言葉に遠慮がなく、何かしてもらった時の喜び方と感謝の表し方は一級品。
それが、特に恋愛対象の相手に限らないということがいつも厄介ごとの種だ。
けれど拓己にすれば別に狙いでやってる訳ではない。すくすく真っ直ぐに育った自然の態度だ。
これって天性のものなんだろうな・・と僕は拓己にあって自分にないものを思う。
女の人たちとの付き合いは浅く広く、そして残念なことに、ごく短い。
彼女たちはやっぱり「特別な一人」になりたかったんだろうな・・僕がはたで見ていても解るのに
離れて行く女の子を見ながら、拓己は毎回理解できずに落ち込むのだ。


今まで家に来た女の人たちと鹿子さんの印象は、かなり違った。
丁寧なお辞儀つきの挨拶。
ぺこんと下げられた頭、柔らかそうな栗色の髪は微妙に色ムラがあった。
慣れない手で、髪を染めました・・まさにそんな感じ。
少し前まで、まじめな高校生だったんだろうな、素顔が透けて見える感じの薄化粧からもそんな感じがした。
さらり、髪がが下向いた顔に掛かる。
ぎこちない動きで髪をかき上げるその指は、爪が律儀に切りそろえられていて 
何だか子どもの手みたいだった。
クリアフォルダーに、少し角ばった生真面目そうな文字の並んだレポート用紙が見える。
「池上・・シカコ・・?」
僕が指さして読むと彼女は照れたように俯いて、それから笑って訂正した。
「池上かのこ。鹿と子と書いてかのこです。シカコとかカコとかよく読まれるんだけど」
 ─「かのこ」って正しく読んでね。
彼女はそう僕に言い、正しい姿勢のままリビングでお茶だけ飲んで、ぎくしゃくした別れの挨拶をして
外がまだ明るい内に、あたふたと帰っていった。

「何だか 変わった人だね、今度の彼女?」
玄関で後姿を見送った後、拓己に言うと、
「レポート代わりに書いてもらった」
手に持ったレポート用紙をひらり振って見せ、何の曇りもない顔でにっこり笑った。


 *

 ─かなり衝動的なんだけど・・、実家に帰ろうって思って 切符買ったの。
でも、途中、ここで降りたくなって。
こんな何にもない 知らないところでひとりっきり、歩けるか試してみようって思ったの。
だめだなぁ・・ほんと私。
胸の動悸は収まらないし、星の美しさなんて感じるどころじゃない。
怖い 怖い。 怖くてしかたないの。
だけど、私、 それをかみしめるために ここへ来た・・
「なんて、ね」

鹿子さんはやっと くるり振り向いて僕を見て言った。
身体の動きに合わせて髪がふるんと揺れた。泣きそうな顔で笑っていた。
気づかれないように後ろを付いてきた といっても、真っ直ぐな農道は隠れる場所もない。
鹿子さんが気づいても構わない、むしろ もう気づいて欲しい。
 ・・僕と鹿の子さんの距離はほんの僅かになっていた。

鹿子さんは少し後戻りして僕の横に並ぶと、ふぅっとため息をついた後、ゆっくり空を見上げる。
「家に帰って、親にそれ見た事かって言われるのが嫌で、途中下車したっていうのが本当なんだけどね」
「家のひと、反対したの?こっちの大学受けること」
「うん、おまえに一人暮らしなんてできっこない、みたいなこと言われて余計に意地になって」
「実家って、この先?もっと遠いところ?」
「何にもない小さな町。山も海も近くない、観光地でもないごく普通の住宅地。
親は近くの女子大に進学することを勧めたけど、押し切った。
どんな所に行ったって、驚く程違わない。ちゃんとやっていける、そう思ってたの」

「こんなところを一人きりで歩いてまで、怖さを乗り越えたかった?」
「うん・・・でも、後ろに あなたがいた」
「いつ気づいたの?」
「電車降りた時すぐ。ごめんね、気づかないふりしてこんなところまで歩くの付き合わせて」
「何で謝るの。勝手に後を付けて来たんだよ。後ろをひとに歩かれるのだって、怖かったかもしれないのに」
そうなんだ。ひったくり犯は後ろから襲ってきたのだった。
夜道だけでなく、後ろを歩かれることだって怖かったに違いない。
自分のしていたことは、逆に鹿子さんにとって酷いことだったのではないか・・
今頃気づく。

「大丈夫よ、気遣ってくれてありがとう。でも感謝してるのよ。
あなたが付いてきてくれてるのが解って、俄然心細くなくなったんだもの」
鹿子さんは脇に生えていた草の葉に手を伸ばし、ぷちりと取って水路に流した。
緩い流れに乗って、草の葉の船が離れていく。頼りなく、あちこちにひっかかり止まりそうになりながら。
「・・ずるいよね、私。こんなんじゃ何にも克服できない」
鹿子さんはひったくりに遭った日から、夜道を一人で歩けなくなり、日が暮れていくことさえ怖くなった。
動悸が激しくなり 呼吸の仕方がわからなくなる。
体調がおかしくなることへの恐怖感まで重なって、夕暮れ時に外へ出るのには相当な勇気が必要だったという。

「いいんじゃない?ゆっくり慣れたら。別に無理して一人で歩くことないんじゃん。
それに・・克服って言ってもさ・・こんな田舎道、ひったくりする人なんかどこにもいないし」
鹿子さんの心にできた深い傷を思う。なのに出てくるのはこんな程度の慰め。
拓己のこと責められたもんじゃない・・自分が嫌になる。

「そうよね・・・全くそうだわ」
鹿子さんは僕の顔を目を細めてしばし眺め、その後ひとしきり笑った。
そしてふと笑い止むと、ぽつんと言った。
「ほんとにそう。私のやることって どうしてこう・・ずれてるんだろう」
すぐそばの草むらで虫がそっと鳴きだした。
心底情けない顔をした鹿子さんを慰めるみたいに。
大丈夫だよ。あなたが悪いんじゃない。あなたが特別弱いんじゃない。
こんな田舎道が怖くてしかたなかったのはむしろ僕の方なのに。


「でも・・」
鹿子さんは何か言いたげに 辺りを見回してから言葉を切り、大人の声で僕に言った。
「もうすっかり暗いし、あなたは家に戻らなきゃいけないわ」
草の葉の船はすっかり遠くに流れて行き、きらきら月明かりに水が光るばかりだ。
『あなたは』の言葉の響きにひっかかった。
ちょっとぐさりときて、問い返す。どうぞ簡単に肯定しないで。
「僕が・・子どもだから?」

道に延びた僕たちの影。鹿子さんの方がずっとずっと長い。
「心配してくれる家族が待ってるからよ」
鹿子さんは僕の肩に手をそっと伸ばした。



 *******


 ─参った、参った。
拓己は採点されたレポートを投げ出して 言う。

「またいい加減なことして、女の子怒らせたんじゃないですか、拓己くん」
母が夕食の用意をしながらからかいぎみに聞く。おたまが突撃レポーターのマイクだ。
拓己はカッコ悪い話も含め、恋愛話を家族にするのが案外好きだ。
「違う、違う、このレポートだよ。シカコさんの書いたヤツ」
「書いてもらったっていう あれ?」
僕もサラダのハムをつまみ食いしながら口を挟む。
拓己は鹿子さんの名前を、笑いながら「シカコさん」と呼んだ。
会ってる時も そう呼ぶんだろうか、鹿子さんは僕に「正しく呼んでね」って言ってたのに。

「『君はずいぶん複雑な女性心理がよくわかるんだね、流石だなぁ、フフン、文字まで女性らしくなるようだし』」
それは、拓己がモテるのを知ってるやっかみ半分の嫌味な教授のものまね。
文学のレポートは拓己の一番苦手な分野だった。丁度周りでは「カノジョに書いてもらう」っていうの、流行ってたらしい。
拓己の他の女友達ときたら、揃ってメールの文さえ読めたものではなかったので、絶対に任せる訳にはいかい。
それで、最近たまたま部屋まで送る機会があった「シカコさん」にお願いしたのだ。
 ・・・拓己の説明は まあ、こんな風だ。

「鹿子さんに書いてもらったレポート、読みもせずそのまま出したの?鹿子さんの字で?」
母の顔がじわじわ怖くなる。
「いや、文学とか語らしたら急に元気になる子でさ・・レポートの話したら、ぜひ、ぜひ書きたいと・・」
 ・・・おい、おい嘘でしょ、あっけらかんとした拓己の横顔を見て思う。
でも、その雰囲気は少し解った。
弾まない会話に四苦八苦して、やっと拓己がほっとできたのが 好きな本について鹿子さんが語り始めた時。
そして熱心さのあまり 他人のレポートだということも「書き手」が男子だということも忘れて
女性目線で熱く語ってしまった鹿子さん。

「そもそも 他人にレポート書かすのが悪い」
母の意見に両手挙げて賛成。

 *

僕が鹿子さんに本屋で会ったのは それから少したった頃だ。
作者名、アイウエオ順に並んだ棚。
上の方にある本を取るため背伸びして、細い腕を真っ直ぐ棚に伸ばしてた。

僕はこの本屋が嫌いだ。
塾に近いから時々覗くけれど、雑誌、話題の本ばかり積み上げてある。
人気作家だけは出版社無視して50音順に並び、後は「その他」扱い。
試しに目当ての本の有無を尋ねてみたら、対応は最悪でいい加減。
探す気も、取り寄せる気も全くない。
相手が子どもだと思ってナメてるのがまた、カンに触った。

声を掛けて、僕のこと覚えてなかったときの恥ずかしさを思うと、思いっきり怯む。
鹿子さんより先に 黙って本屋を後にした。
鞄の中には 店員の目を盗んでさり気なく放り込んだ一冊の文庫本。こういうこと、たまにする。

「弟くん・・?」
本屋の先、少し歩いたところで、後ろから呼ばれた。
振り向くと後ろに立ってたのは鹿子さん。
見覚えのある細い指先が、僕の手に小さな紙を押し付ける。
相変わらずきっちりと切りそろえられた爪は 何だか少し艶を失ったように見えた。
「はい、レシート。私からのプレゼント、その本いいわよ。すごく好きなの」
意味が解らなくて、鹿子さんの顔を見上げると
「お勘定に使った本は棚に戻してきたから。ああ、あなたの選んだ本が解ってよかった」
レシートには、僕が鞄に入れた本と同じ値段が打ち込まれている。
鹿子さんは、僕が本を鞄に入れるところを目撃した。
店員は気づかないままだったけれど、彼女は同じ本を選び取ると慌ててレジに持っていってお金を払う。
後ろから追いかけた相手が「拓己くんの弟」だってことに気が付いたのは、その後だったそうだ。

「ちゃんとお金払わないと、本が可愛そうよ」
もう、絶対万引きなんかしないでね・・。
鹿子さんは 僕のおでこをちょんと突付いてそれだけ言うとくるっと向きを変え、
後ろを向いたまま手だけ振って、帰っていった。
遠ざかる鹿の子さんの後姿を眺めながら 僕は間抜けに口を開けたままただ立ちすくんでいた。
鮮やかなその態度にただ驚いて、情けないことにお礼はおろか返事ひとつ出来なかった。

おでこに鹿子さんの指先の感触が残っていた。
「弟くん」と呼ばれたことが少し、寂しかった。

 *

次に鹿子さんを見かけたのは、夏休みも半ば過ぎた頃のこと。
僕が駅近くの塾に行く通り道。反対側の歩道。
鹿子さんはいつも 何処へ向かうのかひとりで歩いていた。
今年の夏は暑かった。夕方でもまだ西日がじわりと肌を焼き、こんな時間好きで歩く人なんてまずいない。
Tシャツにジーンズ。特徴のないファッションに、無造作に下ろした髪。
盆を過ぎ、空気が秋めいてきて、日没がだんだん早くなる。
何度も、同じ時刻に歩く彼女を僕は見る。
鹿子さんはますます真剣な表情で、足早に通り過ぎるのだ。
何かに追われるように。
何かに取り付かれたように。

今日こそ話しかけてみよう。
そう思って家を出たのに、今日に限って、鹿子さんはいなかった。
どうしたんだろう・・。塾の始まる時間のことも忘れて、自転車で辺りを走り、僕は鹿子さんの姿を探した。
そして やっと彼女を見つけたのは結局、僕の家の前。
拓己に会いに来たのだろうか・・少し離れたところから見る僕に彼女は気づかない。
結局チャイムも鳴らす様子もなく、しばしうちの門の前で佇んだ後、何か小さく呟いて、
鹿子さんはくるりと僕の家に背を向けた。
唇が「さようなら」と動いたように見えた。
さっきまで明るかった空は もう夕焼け色に変わっていた。


鹿子さんはずんずん道を歩いて商店街を抜け、横断歩道を渡り 
気が付いたら駅に着いていた。
どこまでの切符を買ったのか解らなかった。
自転車を慌てて駐輪場に入れ、掴んだ小銭分の切符を買って後を追った。
元々用事でもあって、どこかへ出かけるだけかもしれない。
「さようなら」と動いたと思った口の動きだって 僕の思い込みかもしれない。
後をつけて来たことに気づかれて、気分害されて咎められたらどうしよう・・
色々な思いが脳内をぐるぐるする。
電車の揺れに身を任せながら 少し離れた席から鹿子さんの様子を伺った。
鹿子さんはいつもと同じ軽装、荷物も持っていない。
薄墨色の闇が、夕焼けをだんだん消していった。



 *****

「帰ろう。もう大丈夫よ。まるで誘拐犯だわ、あなた連れてたら」
全然「大丈夫」そうには見えない青ざめた顔で、鹿子さんはそう言った。
周囲の闇は深まり、星々はくっきりと輝いている。虫の声も一層大きく響いていた。
僕と鹿子さんは 小さな明かりのついた駅に向かって一本道をぼつぼつ戻る。
こんな時間になったら もう何時間に一本かもしれない小さな駅。

「あのさ・・あれから拓己と会ってる?」
「ううん、レポート渡して、それから学食で一、二度会って少し喋って・・
そうそう・・読み終わった本 貸した・・たまたま持ってたの、その時」
「拓己、何か言ってこないの?レポート書いて貰っといて」
「いいの、その事は。後から気づいたもの、失敗したって。採点結果も噂で聞いたし。
 何だか恥ずかしくて・・思い出さないようにしてるの。」
「レポート内容、思いっきり女性目線だったんだって?」
「だって私、女だもの。課題、昔の名作だから仕方ないとは思ったけど、主人公の男性のどこが良くて
あんなに尽くすか解らないし、勝手に思い出美化しちゃう主人公の神経が解らないわ」
鹿子さんの声に力が入る。真剣に感想を語りだす鹿子さんの横顔。
「・・・でも、人に頼まれたレポートだったのよね。それも男の子に。
あんなレポート張り切って書いちゃ 拓己くんが退いちゃっても仕方ないよね」
それでも、気に入ったレポートだったんだろうな。のりに乗って書いたんだろうな。

「もの書くの 好き?」
「好き。読むのも好き」

「ひったくられた鞄には、買ったばかりの本が入ってたの」
人気のない駅が見えてきた頃、鹿子さんは話し始めた。
次の日の朝、少し先の交差点脇の溝に、ひったくられた鞄が捨てられているのを鹿子さんは発見する。
朝の平和な日差しの中、散乱した鞄の中身。
「お財布から現金だけ抜かれてた。そういうのも確かに悔しかったけど・・」
大好きな作家の新品の本が、無残に濡れていた。綺麗な表紙が汚れきって、中のページが折れていた。
「悲しくて、悔しくて、腹が立って・・涙出た」

鹿子さんの話を反芻しながら、ホームの蛍光灯に蛾が集まっているのをぼんやり見ていた。
電車が来る気配もなく、ホームには他に誰もいない。
蛍光灯は古びていて、時折ジ・ジ・ジ・と唸り、点滅する。
視線を落とす。
鹿子さんの手が蛍光灯の明かりの中で一層、白く見えた。
本屋で長い間立ち尽くし、背表紙をじっと眺め、決めた本を抜き出すために、棚へそっと伸ばした手。
この人が本当に大事に思っているのは本の「外側」だけじゃない。

「だから、僕には、ちゃんと本を『買って』欲しかったんだ」
「そうね、本には文字だけじゃなくて、『想い』があるんだもの」
作者だけじゃなく、編集者の、装丁した人の、印刷する人や売る人や支持して応援する人たちの。
鹿子さんは 一息ついてから悪戯っぽく笑って付け加えた。
「あの本屋さんは・・私も好きじゃないけどね」



「ねぇ、聞いていい?」
「何?」

「何で、いつもあの時間、歩いてたの?」
鹿子さんは 僕の顔をそれこそ穴を空ける気じゃないかと思う程見つめてから、やっと、目をそらせ、ため息ついた。
「見てたんだ。」
「うん。観察日記つけてたよ」
「嫌だなぁ・・何てこと言うんだ、この少年は」
鹿子さんは口をツンと尖らして、それからゆっくり笑顔になった。
ホームの白線が月明かりで光る。その上を辿ってゆるゆる歩き、鹿子さんは数歩行って立ち止まる。
「同じ時間に歩いても、少しずつ暗くなっていくなぁ・・って思ってたの。
これって リハビリになるかも・・って」


「今日うちの前まで来たでしょ?拓己に会いに来たんじゃないの?」
「それも知ってたんだ・・」
鹿子さんは悪戯がばれた子どもみたいにバツの悪そうな顔をしてからゆっくりした口調で答えた。
「今日だけじゃないよ。何回もおうちの前まで行った。知らなかった?
 そうね・・最初は、会えたらいいな・・と思ってた。偶然みたいな顔して、言うの。
『あ、そういえば志田くんのおうちってここだったよね』って」

「でも・・思ったの。安易に誰かに支えてもらいたいなんて、
そんなのを『好き』と一緒くたにするなんて・・・相手にしたって、きっと迷惑だよね」


鹿子さんは白線を越え、月明かりに照らされた線路を覗く。レールの上をひらひら羽虫が飛んだ。
長い髪がさらりと横顔を隠す。
「拓己くんが私に特に興味ないってこと解ってた。あなたも解ってるんでしょ?」
「拓己はさ、誰にでもあんな感じだから・・・」
言葉を濁した。・・・拓己は鹿子さんの良さが解ってないんだよ。
「悪いヤツじゃないんだ。きっとまた話しかけたら気さくに喋るはずだし、暗くなったら一緒に帰ってくれると思う。
どんどん使ってやればいいんだ、無理したり、遠慮なんかしないでさ」
慌てて付け加えた。

「・・ありがとう、優しいね、弟くん」
「弟くん、じゃなくて悠人。ユウトって読む人もいるけど、ハルト。正しく呼んでくださいね」
「はい。悠人くん」
鹿子さんは明るい目をしてくすっと笑うと、白線の向こう側から ぴょんとこちらへ大きく跳んだ。



 *

無人の駅舎の壁の 古びた時計を見る。もうそろそろ塾も終わる時間だ。
「公衆電話探してくる。うちに電話入れとくよ」
中学生にはまだ早い、母はそう言って僕に携帯を持たせてくれてない。
「いいよ、私の携帯使って。拓己くんの電話番号、まだ登録してある」
鹿子さんが 携帯を差し出してくれた。
拓己の電話番号に掛けた。鹿子さんの携帯番号表示、拓己にも解るはずだ。
出ろよ。ちゃんと出ろ。コールの間 念じ続ける。

「はい」
「オレ。今 鹿子さんとS県にいる」
「え?どこだって?悠人、オマエ何やってんの?こんな遅い時間、塾じゃなく S県って・・」
「拓己の代わりに 鹿子さんが夜道をちゃんと歩けるまで付き合ってるから」
「鹿子さんって・・・ああ、シカコさん?え?何でオレの代わりぃ?」
おろおろした様子、拓己の声が上ずっている。

「拓己は責任持って母さん安心させてよ。今夜は気が済むまで歩き続ける」
「責任持ってって・・気が済むまで歩くって・・」
電話の向こうで拓己が赤くなったり青くなったりして 慌てているのが解る。
家族思いの心配性。
「ついでだから言うけど、借りた本はちゃんと大事にして読んでから 返しなよね」
「ほ・・本って・・」

「じゃ、頼んだから」
ぶちりと切ってやった。
社交辞令で借りて、結局読まずに放りっぱなしになってる その本。
部屋から持ち出して僕が読んたことも拓己は気づいてないかもしれない。
鹿子さんが本屋で長いこと題名を見つめ、意を決したように棚から抜き取って買った本。
拓己が鹿子さんに借りた「夜のピクニック」。
夜道を延々と歩き続ける話だ。



「あんな電話しちゃって・・帰ったら帰ったで、また、大変な騒ぎになりそう・・」
「まあいいじゃん、拓己もたまにはちゃんと反省したらいいんだ」
愛想だけじゃなく、ちゃんと誰かに寄り添って、とことん付き合ってあげればいいんだ。
何を怖がって、何に怯む?
リハビリが必要なのは 鹿子さんだけじゃないのかもしれないね。


「本当に歩くの?」
「鹿子さんの気が済むまで」

伸びをしながら ぐるり周囲を見渡す。
黒々とした山のシルエット。こんもりした森。
僕は夜の空の雲を見上げる。月を隠し、僅かに外郭がぼんやり明るい。
星が瞬く。
雲が流れる。雲の切れ間から月がゆっくり姿を現す。

鹿子さんの手が 僕の手のすぐそばにある。
指先の丸っこい5つの爪が、月の光を受けて艶やかに光った。




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