Mystery Circle 作品置き場

かしのきタール

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

M I S A  著者:かしのきタール



「彼女は精神異常なのか? 神経症なのか ?」

 じわじわと増すみぞおちの重みに体がよじれ始めた僕は、相変わらず何も見えてない、聞こえてない彼女の、ただ前方に向けているだけの横顔からそっと眼をそらし、綿ぼこりになった灰色の塊をみぞおちから取り出して、地面にばら撒き落としながら心の中でそう叫び、呪縛をいったんとりはずす。

 すると残酷な叫びは悔悟と懺悔をもたらして、残忍な闇と調和を図り、そうしてまた僕は、体を伸ばして彼女の横顔を見つめることを続ける。
 ミサという女の心の痛みを引き受ける努力を、僕はまた、一から始める。

 出会いから4年が経って、僕たちはこんなに変わった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こんにちは」と笑顔で声をかけてきたあの日のミサを、夢まぼろしに思うのは、僕がうたた寝していたからだ。
 だから、初めて見たのは、「橋詰コウキさん、でよろしいですか?」と、まだ寝ぼけ眼だった僕を相手に勝手に会話を始めた時の彼女のはずなのに、出会いを思い出す時にはいつも、デスクを覆うように体を投げ出し寝ている僕にためらいもせず近づいて、小柄なタイプの多い保険外交員の中では抜きん出て長身のその体を、両ひざを軽く曲げて深く折り、寝癖がついたままの頭に顔をくっつけるくらいに寄せて、長い髪を片手で軽く押さえながら、「こんにちは」と笑顔で声をかけているミサの姿が見えてくる。

 それは、同じような光景を、何度も見たせいだろう。
 ミサはいつも堂々としていた。
「こんにちは、ミスズ生命です。」と、フロア中に響く声で挨拶をし、背筋を伸ばして入ってくると、まず上司のデスクに近寄って丁寧に挨拶をした。
 時には営業をかけるのか、パンフレットを渡しながら真剣な顔つきになることもあって、そんな彼女をはや昼食後のねぼけ眼で遠目に見やりながら「熱心だよなぁ」なんて呟いているのが僕だった。

 やがて彼女は、手元のバインダーを繰りながら、昼食後の休憩時間を思い思いに過ごしている社員に向かって話しかけ始める。
 けれど、「生命保険の外交員さん」に用のある人なんか、まずいない。
 声をかけられるのが面倒だからと、フロアから出てしまう人も多いくらいだ。
 ぶっきらぼうにあしらわれたり、あからさまに迷惑がられたりしている彼女。
 うたた寝なのかフリをしているだけなのか、あの日の僕みたいに突っ伏しているヤツもけっこういる。

 そんな彼らに、僕に、彼女はいつも真剣だった。いやな顔をされても、
 笑顔も礼のある態度も崩さないし、冗談や雑談にも気軽に応じるソツのなさを見せる。
 顔見知りになった社員と親しく会話をしそうになるたび、けじめをつけて、軽く肩をゆすりあげ背筋を伸ばす。そんな彼女の凛とした背中が、「ゆるんだら負け」だと言っていた。

 彼女・・・入江ミサという勧誘員と、勧誘される社員という立場から、やがてミサの顧客になった僕は、一対一でひんぱんに話すうちに見えてくるようになった本当のミサにだんだん取り込まれていった。

 -----保険屋の看板を背負っている時の私は全然私じゃないんだもの。。。
「入江さんってそういう人なんだ。」という発言が格段に増えた頃、最初の頃は「そうですか?」だったミサが、諭すような調子で静かに言った。
「演技してるんだね。」
「女優だよね。」
 どちらからともなくそう言ってから、わかり合ってしまって構わない関係なのかどうかを、もう一度考えた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昼休み以外は外出が多い上に独身寮で寝泊まりする僕にミサから電話がかかってくるのは、夜だ。
 契約内容に関する連絡や確認という用件でも、ミサからの電話はうれしかった。
 直接対話する時の、発音重視の硬さがとれた彼女の声は、まるで磨きこまれたアンティーク家具のように、ひそやかに僕を誘う。
 触れてみたくても易々とは触れられない高貴さにひるむと、見透かしたように「コウキくんって、若いよね。」と言葉を返す。
 若さが厭になったのは、初めてだ。

 演技に努め、保険内容についての勉強も怠らないほど懸命なミサが、仕事をするよりも実は主婦でいたい女性なのだということも、電話で知った。
「子供が欲しいの。すぐに欲しいの。」本当は仕事どころじゃないという言い方が、ピンとこない。
 サラリーマンの旦那さんは帰りが遅い。子供のいないミサは、保険の仕事の勧誘に、「うっかり、ハイって言っちゃったんだよね。」と、「うっかり」に意味を持たせるように言った。
「すぐやめられると思ったのに、やめさせてもらえる雰囲気じゃないの。」

「やめないでよぅ。」23才の僕は、6つ年上のミサに、毎晩のように電話して甘えるクセが、ついていた。
「そうね。ふふ。やめられないと思うよ、まだ。じゃあね。」
 甘えの分量を正確に測っているのか、含み笑いにまでかすかな拒絶を匂わせて、僕の想いを遮断する。顧客でいるのは、もう無理かもしれない。
 それなら何になれるのだろう。手垢のついた安物のプッシュホンを握ったままで、僕はいつまでも、ミサの「じゃあね。」を反芻していた。

 ミサがいつどうやって退職したのか、僕は知らない。
 夜の電話が遠慮がちになる前から、昼休みには彼女ではなく、別の外交員が来るようになっていたから、姿を見ることもできなくなった。
 大柄で朴訥な、若くて体力だけはあります、という感じの女性外交員は、ミサのような演技ではなく、本気で一生懸命だったから、たびたびフライングをして、時には怒鳴られてもいた。
 ミサの女優魂を、彼女は伝授されていないのだろうかと、僕はぼんやり考える。
 どうでもいいけど、と思いながら。

 ある日、その"朴訥さん"から、「入江は退職いたしました」と聞かされた。
 -----アフターフォローはすべて私が責任を持ってやらせていただきますので・・・・
 声は大きいけれど少しこもってしまう朴訥さんの言葉を聞き流しながらミサのことを考える僕の耳に、「じゃあね。」がまた、聞こえた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 あっという間に年月は経つ。
 やめたいと言ってやめながら、対話して関係を築いた顧客のことを後任に任せるだけにしておくことのできない性格のミサは、顧客名簿から拾い出した住所に、律儀に年賀状を書き続けているらしかった。
 印刷済みの年賀ハガキに一言「お元気ですか」とだけ書かれた文字。

 ミサにとって僕は、やっぱり顧客のひとりというだけなのか。
 いつ途切れるかわからない年賀状に、期待をこめてはいけない。
 3年目の年賀状を見つめながら、来年はもうこないかもしれない、そう、思ったのに。。。。

 再会したのは彼女の家だった。電話をくれたのも、彼女だ。
 僕にそんな勇気はない。わずかな拒絶が離別につながることを僕はもう知っている。
 マンションの扉を開けて、「久しぶりね」と笑ってみせるミサは、以前よりずっとやつれていて、妙に無防備で。
 そんな彼女に、拒絶ではない別の壁ができているのを敏感に感じてしまう自分が悲しくなる。

「外に出られないの。」
 珈琲を淹れながら観念したように寂しげにつぶやく。そんなにも、弱味を見せたくないのだろうか。
 僕に余計な期待を抱かせないためだろう、何年も経って今頃なぜ連絡を取ろうとしたのか、という理由は、あらかじめ電話で聞かされていた。

 いつものように買い物に出たら、急に動悸が激しくなって、経験したことのない激しい呼吸困難に陥ったのだという。
「息の仕方を忘れちゃうって、怖いのよぅ。」
『現場の状況』なるものを語った電話のミサは、明るい声を出して、僕を脅してみせる。
 ----だから外出する時、ついてきて欲しい。
 そう言う声は、少しだけ落ち込んだ。頼みごとの苦手な人なのだ。
 そばにいて欲しい、とは、やっぱり言ってくれない。

 外交員の時はスーツばかりだったミサの、フレアスカートのラインが新鮮だった。
 ベージュのTシャツが、艶めかしかった。
 ミサという女性が、無防備で無邪気で、だけど強烈に自我が強いのを僕は知っていた。
「ミサ」と呼ぶのを許してくれて、僕を「コウキ」と呼んでくれる。
 無防備に懐深く迎えて甘えさせてはくれても、突然無邪気に冷淡になる。
 抱きすくめようと手を伸ばせば、ミサは自分から僕の胸に飛び込んでみせるだろう。
 そんな彼女を抱きしめようとすれば、自分から飛び込んだクセに、思いきり突き飛ばすんだろう。
 どうして僕は、こんなにも、彼女のことを理解してしまうのか。
 今まで何度も襲われた絶望的な哀しみにも、そろそろ慣れてきた、少しは大人になったかな。
 自虐的な性格になったのも、ミサのせいだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 保険の仕事をやめたのは、赤ちゃんができたからだと彼女は教えてくれた。
 -----でもね、予想通り、なかなかやめられなかったの。
 保険の"仕事の"勧誘に乗せられて「うっかり」入社したミサは、営業成績もさることながら、その支店の"頭数"として必要だったのだ。
 ---もうすこし早く気付いて覚悟しておけばよかったのよね。
 月が変わるごとに、月末でやめさせて欲しい、と頼んでも願いは聞き入れられない。
 その時にダメならば、またあとひと月、彼女は黙ってがんばってしまう。

 つわりはひどく、いつまでも続いた。お腹の張りに苦しみながら、外回りを続けた。
 女性支店長は、彼女のために訪問先を絞ってくれたけれど、一歩足を出すごとに、胃もおなかも絞れるようで、支店に戻るたび、つっぷして動けなくなるほどだった。
「休むこともできないの?」と聞いてみると、
「無理でしょうね。」とさびしく笑うミサの細い指先をまたきれいだと思ってしまう。

「留守電を許さないんだから、支店長。」
 ミサ同様に、勧誘を受けて気軽な気持ちで入社した若い女性は多かった。
「最初は、先輩が成績の面倒を見てくれるからいいんだけど、ひとりでとらなきゃいけなくなると、途端に締め付けがすごく、厳しくなるのよ。」
 特に、元々主婦である女性は、すぐに厭になってしまい、なんとか理由をつけて、休むようになる。すると、支店長は、電話をかける。電話に出ると、こんこんと説教をして、出てこさせる。そうすると、次は、電話に出なくなる。
 すると、支店長は、延々と留守電にメッセージをいれては、またかける。
 いつかけても留守電にしかならないと。
 ・・・・自宅に押しかけ引っ張り出す。。。。

「ホラーでしょ。」
 それも、ミサは他人事だと思っていた。
 いつまでも誘われた時の気分のままに、保険内容の質問にも答えられないで外交員をしている女性たちは、間違っていると思っていた。
 乗り気ではなかったが、半端な気持ちでいては、辛くなる仕事だと感じ取っていた。
 だから彼女は、演じた。精一杯、女優をつとめた。最後まで外交員として演じ続けるつもりだった。

 ところが、妊娠による身体の変化は、彼女を痛めつけ、演じる気力を奪ってしまった。
 自分が勧めた保険にはいってくれた顧客を何よりも大切にする彼女にとって、退職の挨拶もできないままに、顧客回りができないことは、本意でない分余計に辛かった。

 -----それでもそのまま消えていれば良かったのかもしれない。
 最終的に、彼女は自己契約を入れた。親兄弟の分の契約もした。
 それこそが、外交員勧誘の狙いともいえるのだった。
 外交員は、成績を問われると自己契もするし、親兄弟、親類縁者、友人知人を頼ることになるから、ひとりの外交員には、見込み客がぞろぞろとついてくるはず、ということ。頭数として必要とされるのは、つまりそういうことなのだ。
 ミサは、自己契約も、親の契約も、まったく考えていなかったという。
「そこも、気づくのが遅いのよね。」彼女の退社は認められた。妊娠6か月になっていた。

 やっと、引き継ぎが許されて、顧客への挨拶回りが始まっても、彼女には辛いことばかりだった。退職ではなく、産休だと言うように指示されたのだ。
 ----産休します。また必ず戻ってきますので、他の生保会社に乗り換えず、待っていてくださいね。
 そんな程度のウソをつくのが大人社会だとはわかっていても、そこで彼女はどうしても、女優にはなれなかった。

 しばらく顔を出していなかったことを責めるように、そっぽを向いてしまう顧客も多かった。
 ---それはいいの。だってオトモダチじゃないんだから、当たり前なんだけど。
 ただ、本当のことを何一つ言えないで、このまま去ったらそれこそオトモダチじゃないんだから、もう二度と会えないかもしれないのに、まともに話をすることもできないなんて。
「もうどうしようもなくなっちゃって」
 深いため息を長くついてから、
「お客さんたちの前で」
 たちまち目がうるむ
「泣いちゃってね。」
 もう一度ついたため息に、涙声の言葉を乗せた。

「大丈夫?」と声をかけながら、想像する。
 もしも突然、お腹の大きなミサが素のままでオフィスにはいってきたらどうしただろう。
 やっぱり僕も、驚きとショックを隠すために、ふてくされた態度を取ってしまったかもしれない。

 彼女は流産という不幸にも遭ってしまった。
 それも、一年後に再び、二度の流産だ。
「三度目になると、習慣流産っていう病名がつくんだって。」
 ---もうこわくてとても妊娠できないっていう気になるわよね。
 物静かな旦那さんは不機嫌になって、寝込んでいる彼女を労わるのを忘れてしまった。
「それが、きっかけだったと思う。」
 寝込んでいた彼女に、夜遅く帰ってきた旦那さんは、
「俺が帰ってくる時に寝てるなよ。」と、彼女の方も見ずにそう言った。
 たったそれだけだった。
 けれどそれまで、妻が働くことに文句を言わず、流産をも責めなかった旦那さんに感謝していたミサは、その一言で、実は彼が、自分を許していないのだと思ってしまった。

 翌日、買い物に出ると、突然それは襲ってきた。追い立てられ、取り囲まれているような圧迫感と、罪悪感。呼吸が苦しくなったと思った途端、
「息のしかたが、わからなくなっちゃったの。」
 吸う・吐く・吸う・吐くのリズムがわからない、どこをどうすれば息はできるのか。
 なんとかしなければ、と強く思っていると、やがて突然、吸う、ができて、吸う、吸う、のあとでやっと、吐く、ができた。。。

 今の彼女はひとりぼっちだった。とことん、ひとりぼっちだった。
 そんな彼女が、僕を必要としてくれたのを、喜んでもいいことだと思いたい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 外に出る練習をしようと、二人で歩いた。
 彼女の眼は、何も見てはいなかった。おびえた目をするよりはいいと考えるようにしよう。ミサという女の心の痛みは、彼女の絶望も、希望になりえることも理解できるはずの僕が、すべて引き受けたい。そばにいることを許してくれる間は。
 ・・・いや、きっと、彼女は僕を呼ぶはずだ。今日みたいに、何年の間を経ても。

 僕のよれたダンガリーシャツのひじを、とがった指先でつまんで下にひっぱり、そのままぶら下がるようにして、軽く体を預けてきたミサに、高いと思っていた彼女の身長が、案外僕と釣り合うことに気がついた。

 生気がないように見える目の奥には、それでもちらちらと燃える細い細い軸があると信じたい。うつろな顔を、女優の顔に戻してみたい。
 どんなに憔悴しても意に介さないかのように、つやつやと輝く黒髪に唇をよせながら、
「ミサの女優の顔ってまた見られるのかな。」と言ってみた。

 聞こえなかったのだろうか、と思うくらいの間をあけてから、「そうねぇ。」と言って、僕から身体を離したミサは、さんきゅう・・・とつぶやく。

「サンキュー?」
「ちがう、出産の、産。仕事に戻るのもいいかなって。」
 確かに、克服できる苦しみは、克服するのに越したことはない。
 社会にウソをつかされて壊れたミサが、演技を武器に戻っていく。
 ミサには女優も似合うけれど、戦士もまた似合う。

「あのあと、考えてたことがあって、聞いてくれる?」
 ミサの顔に少し赤みがさした。
「あのね」

「私、今の社会って、お芝居みたいな気がして仕方がないの。」




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