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Last update 2008年03月16日

家族の時間  著者:なずな



机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた。
トモが、ママ、見てと 歓声を上げる。
「ほうらね、やっぱり。来たんだ、猫ちゃん」

淡い色のその毛は、午後の日差しを受けてきらきらと金色に輝き
トモが走り寄り、両手を付いて机に飛びついた拍子に、ふわりと舞い上がり 散った。
風が金木犀の香りを運んでくる。
隣の屋根の上、「猫ちゃん」と呼ばれたそいつは、ベランダでじゃれ合うトモと
母の由香里に目もくれず
その大きな身体を横たえ、うつらうつらしている。

トモは、わざとベランダの網戸を少し開けたまま学校へ行く。
その猫を自分の部屋に住み着かせたくて、トモがこっそり餌になる物を部屋の隅に置いている事は
由香里も長女のユキも、とっくに知っていた。
「大人ののら猫なんだから、そんなことでトモの猫にはならないよ、諦めな」
ユキが何度言っても、トモは譲らなかった。
「嫌だ、猫ちゃん飼うの。うちの子にするの。絶対にするの」
トモとユキの言い合う声が煩かったのか、猫は大儀そうにあくびを一つすると 
おもむろに起き上がり
思いのほか身軽なしぐさで、するりと隣家の庭へ下りていった。


ユキ、トモ、歳の離れた二人の子ども、母の由香里・・・そして 下宿人一人。
親から受け継いだ二階建ての木造家屋は、三人暮らしでは部屋が余る。
ユキが物心ついた頃には祖父母はすでに亡く、誰かしら下宿人が一緒に住んでいた。
由香里の住まわせる「下宿人」は決まって、いつも男の人だった。
ユキが覚えている限りでも、数人いる。
どうやって選ぶのか、年齢はまちまちだが、どの人も上手に家族に溶け込み、気を遣わないでいられた。
聞き上手な由香里相手に、他愛のない日々の出来事を家族のように話し、
時にはユキ達が疲れて眠ってしまう程長い間、ずっと話していたこともあった。
暇な時には、ユキたち相手に良く遊んでくれた。
楽しい時間って、どうして続かないんだろう。
仕事の都合や子どもには解らない色々な事情で、その人たちも去って行ってしまうのが、ユキはいつも寂しかった。
どの人も皆好きだった。たった一人を除いては。

下宿代を少ししか取らない上、相手が望めば食事や身の回りの世話までする。
だから由香里が病院で清掃のパートを続けても、生活は慎ましいものだった。
「物騒な世の中、女三人所帯では何かと不安でしょ?
部屋も空いてるんだし、僅かな家賃収入だって、家計には大助かり」
「掃除の仕事だってね、色んな人と出会えて、結構楽しいのよ、ママ気に入ってるんだから」
由香里は屈託なく笑って言う。


 ─ママの理屈はそうだけど、世間はそう思ってない。
母が幼い頃から知っているという、近所の人の目がいつもそれを突きつける。

「下宿人の人・・塔岡さんだっけ?元気そうになって、見違えるようになったじゃない。
来たときは、何だか暗くって、ふらふらしてて今にも倒れそうだったのにねぇ」
「あら、何だ。ずっと居るわけじゃないの? 嫌だ、私ったら・・トモちゃんたちも懐いてるし、今度こそてっきり・・」
「ねぇ由香里ちゃん、そろそろ ユキちゃんも難しい年頃でしょ、トモちゃんも、もう小学生だし。
次の下宿人は女性にした方がいいよ。私、心当たり探してみるから、いつでも声かけて」
余計なお世話だ、噂話のネタが欲しいだけなんじゃないの?ユキは心の中、呟く。
「色々心配してくれてありがとう。考えてみるね」
由香里はそういう時でも、いつもの大らかな笑い声を立て、悪びれずお喋りに付き合うのだ。
「ねぇ、由香里 せっかく技術があるんだから、病院の掃除婦とかボランティアみたいな下宿しなくてもさ・・
あの人思い出すから 嫌なのは解るけど・・」
この間会った母の幼なじみは、そう言って髪に当てた手で挟を形作る。
が、ユキとトモの視線に気づき話を慌てて変え、わざとらしい大きなため息をついて肩をすくめた。
「本当に由香里はお母さんと一緒よね、赤の他人の世話には熱心で。そのくせ自分の事になったら全然相談もしてくれないんだから」
少し膨れた顔をしてみせる幼なじみに、由香里は愛想良く笑いながら感謝の言葉を言って、別れた。
急ぐ用事があるわけじゃないのに、トモの手を引く由香里の足は 心なし速い。

ユキは母親の過去を全く知らない。祖母がどういう人だったのかも知らない。
いつも朗らかでお喋りの好きな母が、自分の話になると全く語りたがらない事は、ユキも気づいていた。
どんな風にこの家で育ち、どういう経緯で自分たちを産んだのか、知りたいとは思う。
あの人達に聞けば喜んで教えるだろう。でも他人には教えてもらいたくない。母もきっとそれを望んでいない。


洗濯物を干し終えると、トモの開けた網戸を閉め、由香里はシャッと音を立てて
カーテンを引く。


 *

ぼんやりと由香里はベランダに立っていた。
「ママ?」
ランドセルを机の脇に掛けながら、トモが声を掛けた。
「どうしたの?考え事?」
トモは時々、妙に大人びた物言いをする。由香里は振り返っていつもの笑顔を見せ、部屋に入った。
頭の中で繰り返し考えていたのは 幼なじみに言われた言葉。由香里は頭をふるんと振って、トモには別の事を答えた。
「雨になりそうだなって思って。金木犀ももう散っちゃうのかな」
見上げると天井、トモの机の上辺りに染みのようなものが広がっている。
「屋根直さないと、漏ってくるね」
「やだ、濡れちゃうと困るよ。絶対困る」
トモはそう言いながら勉強机の上にぺたりと頬を寄せ、机を抱きしめる格好をした。

白にピンクをあしらった「おひめさまの」デスク。
学習机がずらりと並ぶ家具屋の中を浮かれて走り回った挙句 トモはが気に入ったのは「白い机」だった。

「皆と同じような色じゃないって、後で嫌にならない?」
「一生使うものなのだから、しっかりした物の方がいいんじゃない?」
一緒に暮らす日が長くなり、塔岡も子ども達に自然に話しかけるようになっていた。
父親ごっこを楽しむかのように、小学校入学を控えたトモの学習机選びに 塔岡はやけに熱心に口出しし続ける。
「学習机を一生使う人なんて 見たことないよ」
塔岡に買ってもらったクッションの包みを抱いて、ユキがあきれ顔で笑って言った。

家具屋の店員は当たり前のように、塔岡に商品の説明をし、
「お父さん、優しくていいね」
かがんで目線を合わせ、飛び切りの愛想顔で、トモにに話しかけた。
トモも満更ではなさそうで、にこにこしながら塔岡と手をつないだりして甘えてみせる。
ユキのイメージの中の「父親」は もう少し細身で若かったけれど、それも単なるイメージでしかない。
母は父のことを全く話してくれない。生きているのかどうかもユキは知らない。

売り場でトモが目をつけた白いデスクは組み立て式の安っぽい品物だったのに
結局塔岡がカタログまで出してこさせて、これに決めた。
由香里は何度も断ったけれど、塔岡が強引に自分のカードで支払った。
「塔岡 正弘」
塔岡は自分の名前を躊躇なくサインした。由香里はその手元をじっと見詰める。

ずっしりと重く艶やかに輝くその家具は、日に焼けた畳敷きの狭い部屋で妙に浮いて見えた。


 *

塔岡は、最近出かけがちだ。
トモはとっくに小学校に行っている。
寝巻きのまま ユキはカーテンを開け外を見た。
ひんやりした秋の空気が心地良い。
隣のトモの部屋に続くベランダには、もう乾きかけた洗濯物が風に揺れている。

この春からユキは、黙って学校を休む日が増えた。
「あの担任、嫌い」
問い正しても、ユキはそれ位しか答えない。
「家庭訪問の時は沢山お喋りして下さって、ママは楽しそうな良い先生だと思ったんだけどなぁ」
 ─その「楽しいお喋り」の後、うちの家族構成について、学校でねちねちと聞いてきたんだ。
だけど、それは言えない。
担任はその時 家にいた塔岡の姿を見ていた。

ユキの不登校におろおろする由香里に向かって塔岡は言う。
「人生長いんだから、ちょっと休む時間があったって大した事ないさ」
「人生の休み時間」とか「仮の時間」という言葉を使って、塔岡は話を続ける。
 ─心のバランスが危うくなったら、人生の一時期、自分に「別の時間」を与えることも必要なんだよ。
四人で食卓を囲みながらそんな話をしていると、何だかユキも、こんな風にずっと「家族」が続くといいのにな
 ・・そんな気になってしまう。


 ─ママ、今日は仕事、休みなんだ。
ベランダのあたりから聞こえる何だか楽しそうな笑い声に、ユキは耳を済ました。

 *

塔岡が外出するのと入れ違いに若い職人が屋根の修理に来た。

「代金はジュース代くらいでいいですから・・」
数日前、近所で仕事が入ったついでに 瓦のずれを直してやると言ってきた若い男。
「ほんとにジュース代で済むの?屋根に上がって、適当なこと言って
何十万する工事の必要があるとか 言ってきたりしない?」
「実際屋根に上がって見ないと解らないこともありますけど・・」
日に焼けた顔を更に赤くして、人の良さそうな青年は、不器用な言葉で応えていた。
玄関先で由香里は 気さくに話しかけている。
セールスマンや保険の勧誘にも驚くほどフレンドリーに応対する人だ。
結局ジュースを出し、由香里はそのまま茶の間で青年と話し込んでいた。

由香里の母も田舎の感覚が抜けない人で、よく若い配達員や御用聞きを家に上げ、休憩させた。
由香里が学校から帰ると、そんな「お兄ちゃん」たちが茶の間で新聞を広げていて
「お帰り」と言ってくれることもよくあった。
配達ミスで余ったものをこっそり貰ったり、宿題を見てもらった事もある。
そんな母が、周囲からどんな目で見られているのかなんて、そのころの由香里には考えも及ばなかったことだ。
すっかり屋根屋の青年がくつろいだ様子になった頃 トモが帰って来て、男物の見慣れない靴に気づく。
青年が「お帰り」と声を掛けると、トモは酷く驚いた顔をした後、さっと表情を硬くした。
「トモの部屋の天井を見てもらったよ、瓦がずれてるんだって」
「良かったね、今度お兄さんに直してもらうから、もう机が濡れる心配もないよ」
「ほら、やっぱりジュース代だけって訳には 行かなかった」
由香里の華やいだ話し声が、帰ってきた塔岡の耳にも届いた。


「塔岡 正弘・・」
まだ 馴染まない自分の名前を、塔岡はひとり呟いてみる。
「下宿人」以上の心配りや、身の回りの世話をしてもらっているとは思う。
けれど本当のところ、由香里の周りには、それ以上踏み込めない堅いバリヤーがある。。
トモの部屋の雨漏りなんて、自分は全然気づかなかった。
もちろん 修理の相談なんてされない。
この家にとって、自分はただの通りすがりの人間なのだ。
 ─誰にでも愛想の良い、親切な由香里さん
塔岡は机を買った時の自分の浮かれようを思い出し 自分を哂う。
それでも酷く 寂しかった。


 *

ユキは、トモの白い机を手の平で撫でた。

「デスクマット敷いた方がいいよ」
「このまま使うの。だって、白くてつるつるで綺麗なんだもん」
ユキの忠告を、トモは頑として聞きいれなかった。
「その代わり、時々拭くんだよ。でないと真っ黒になっちゃうよ」
塔岡が言うと、トモは可愛さを最大限装った声音で「はぁい」と答えた。

自分が小学校に上がるとき この家に住んでいた男をユキは忘れていない。
「どうせ勉強なんかしないだろ」
何の権利もないくせに口を出し、
「良かったな、お前、勉強机だぞ、おい 嬉しくないのか」
男が運んできたのは、潰れた近所の会社から譲りうけた事務机だった。
スチールで、色は灰色で傷がいっぱいあって、 椅子はビニールが破れ、ウレタンが覗いてた。
動かすと、きぃきぃいった。

結局別の机を近所から譲り受け、ユキは使っている。
由香里は何度かちゃんと買おうと言ったが、
「あのひとが運んで来た机でなければ、どんな机だっていい」
嫌悪感を露にして 小さいユキはそう答えた。
由香里はユキの顔を驚いた顔でじっと見つめ、哀しそうな目をして無言でユキをぎゅっと抱きしめた。
男はそれから間もなくどこかに出て行き、そのまま二度と戻らない。

 *

猫ちゃん ここに寝てください。
さあ、猫ちゃん わるいところはどこですか
事故にあったんですね
今までのこと何にも覚えてないんですか?
困りましたねぇ。たいへん困りますねぇ
トモせんせいがなおしてあげましょう。

手術しますからね。
その前に、ここの毛、少ぉし 切りますよ。
痛くないよ。
痛くないからね。
はい、ここ、切りますよ。
切りますよ。



 ─だけど・・・ 
トモは机の上に乗った猫を、くいと押さえたまま考える。

思い出さなくっても、いいこともあるかもしれない・・
思い出さずに 「今のまま」を続けられないかなぁ・・。


 *

「何してるの?」
トモの部屋から悲鳴みたいな猫の声がした。
「何にもしてないよ、ママ」
慌てた様子で何かを引き出しに隠し、トモが振り向く。
「今日はお仕事お休みしたの?」
「うん、朝、屋根の修理の人来てたからね」
「塔岡のおじさんは?」
「さあ・・・出かけたみたいだけど?」

トモの目がベランダの方に向き、隣の屋根の向こうに走り去る猫の姿を追った。
「ねぇ、ママ?」
「何?」
「塔岡のおじさん 好き?」
「トモは好き?」
「ずっと一緒に暮らさないの?」
急なトモの質問に由香里は口ごもり、少し間を置いてからトモに向き直って言った。
「そうね、それは・・きっと、できないと思う。でも、また元通りになるだけよ。リセット。
部屋が空くのが寂しかったら、また次の人探そう。そういうのトモは嫌?」
トモは俯いて白い机をじっと見据える。
「塔岡のおじさん、トモのこと本当は嫌いかな」
思いつめたような顔。トモってこんな顔をする子だったろうか。
「ママ、おねえちゃんが中学ずっと行かなくて、トモもほんとのほんとはもっと悪い子だったら・・リセットしちゃう?」
「馬鹿ね、こどもをリセットなんて出来るわけないじゃない」
強い調子で即答し、一息ついてトモの腕にそっと手を伸ばす。意外な力で振り払われた。
日ごろのトモの無邪気な様子に酷くそぐわないものを感じ、由香里は戸惑う。
「じゃあ、大人だったら?もっと大きくなったら?
 ママと喧嘩しておねえちゃんとかトモとか・・、出てっちゃったら、ねえ、ママ、
 今まで居たことなんか、なかったみたいにして、忘れちゃう?」
「何で、そんな・・」
「ママは本当は・・トモのことリセットしたい?」
トモの頬をぽろぽろと涙が伝って落ちた。

そんな素振りを見せたことはないはずだ。         
トモの顔を由香里は呆然と見つる。足元からずるりと沈んでいくような感覚に囚われた。
トモが生まれたとき、「父親」そっくりだと思った。最近ますます目元が似てきた。
トモへの愛情とは別に、何かの拍子にあの男の面影をトモの中に認め、背筋が凍りつく自分に気づく。

視線を感じて振り向くと、寝巻き姿のままのユキがドアのところに寄りかかって立ち、
酷く冷めた目で、二人を見つめていた。


 *

最近 塔岡が出かける先は解っている。
外傷はすっかり綺麗になったし、体調も回復した。きっともう、記憶も戻っている。
由香里の勤める病院に、転落事故で運ばれてきた塔岡は、頭を強く打っていた。
奇跡的に助かったが、事故以前の記憶を失っていた。
医師は一時的なものだろうと言う。
病院に駆けつけた「奥さん」は、短い髪のよく似合う綺麗な人だった。


恋愛感情なんて、もう誰にも持たない。
ただ一緒に家にいてくれる男の人が欲しかった。
過ぎた日々は全部「別の時間」。
泣いたり悔やんだり、みっともなく縋ったり、そういうものは無縁。
あいつが万が一戻ってきても、居場所はない・・下宿人で部屋を埋めるのは、それが一番の理由かもしれない。
あの男・・父親らしいことなんかせず、ただ、だらだらと家にいたり
ふらりと出たきり帰らなかったりの繰り返しだった。
たまたまユキの入学準備の頃、少しの間、家にいた。
恩着せがましく古びた事務机を運んできたあの嫌な男が、自分の「父親」だとユキは知らない。
そして、私にトモを身篭らせて、またどこかへ行ってしまったことも。
あいつが帰ってきたって、一歩だってこの家には入れない。
もう私には絶対に触れさせない。

由香里はトモの机の引き出しをそっと開け、トモがこの前慌てて隠したものを探した。
きらりと光って見えたのは、細身のシルエットのカット鋏。
「どこから、こんな・・」
言葉を失った。
美容師を始めた若い頃、由香里が大事に使っていた宝物。
夫婦で店を持とうというあの男との、夢を信じた頃の思い出の品だ。
押入れの奥のどこかに追いやったまま忘れたつもりでいた。
思い出すこともなく心に封をしたはずの過去の時間が、大きな波となってうねりながら押し寄せる。
由香里は立っている事さえできず、ぺたりと床に崩れた。


 *

病院のベッドで目覚めた時、塔岡は自分が誰なのか解らなかった。
大きな事故に遭ったということは 痛む身体が教えてくれる。
身元は所持品から辿れ、呼ばれた「家族」が病院に来た。
しかし、それもただ徒に混乱を招いただけ。
「自分」というものが何なのか考えようとする度、頭が割れるように痛かった。
事故の前にあったはずの「愛情」すら思い出せない。
ベッドサイドで自分の手を握り涙する「妻」を見ても、懐かしい気持ちさえ浮かんではこなかった。
本当に自分はこの人と幸せな家庭生活を送っていたのだろうか、疑念が頭の中を占める。
「このまま帰れない、少し時間が欲しい」
疲れ果てて氷のような表情になった「妻」はこくりと肯いた。

病室の掃除をしながら話を聞いてくれた由香里に、塔岡は寄りかかり、甘えた。
今時こんな風に、何の縁もない者の話を聞いてくれる人がいるのか・・
彼女は聞き上手で、その距離の置き方が心地よく温かい。包み込むような優しさを感じた。
「母が田舎の感覚が抜けない人で、他人を放って置けない質だったの」
 ─そんな親を見て育ったからかな?もともとおせっかいな家系なんだよね、
由香里はくすくす笑って言い、今丁度下宿人を募集していたところだと、自分の家に塔岡を招き入れた。
由香里の傍だけ、不思議な時間が流れ、落ち着く。二人の子どもも可愛かった。
白い机はせめてものお礼。
トモの喜ぶ顔が見たかった。束の間 塔岡は家族になった夢を見た。

それでも、由香里は塔岡に言ったのだ。
屋根の直った後の強い雨の日。落ちた金木犀の花がアスファルト一面をオレンジ色にしていた。
「何もして頂く理由はないわ。机代はきちんと返させて」
 ─本当の家族と本当の時間をもう一度進めなさい。どんな結果が先に待っているとしても。

由香里は塔岡に言う、柔らかな笑顔のまま。
「奥さんのところに帰りなさいね」
 ─ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、ちゃんと過去と向き合って。
あなたの今まで来た道は、あなたのこれからに繋がっているはずだから。
そう言って、もう一度くしゃくしゃな笑顔を見せた後、由香里は視線を逸らし、
宙を見据えて唇をかんだ。
気詰まりな沈黙。雨音が一層激しくなる。
空気がピンと張り詰めて、何かの拍子に周囲全てがカタカタと崩壊しそうな気がした。

 *

トモが学校から帰ってくると、僅かばかりの塔岡の荷物がなくなっていた。
「ママ、塔岡のおじさん いなくなっちゃったの?」
トモが泣きそうな顔で息を弾ませながら駆け込んできて言う。
勢い余って壁にぶつかりそうになるトモを 由香里はしっかり抱き止めると
膝に乗せて 髪を撫でた。
「塔岡さんは元気になったから、家族の待っているおうちに、ちゃあんと帰ったの」
トモは身体を捩って、由香里の顔を見上げ 責めるような口調で問う。
「次は誰?あの屋根屋さん?ママもう決めちゃったの?」
階段で立ち止まって、ユキも同じ気持ちで聞いている。
「決めてないよ、そんなの」
由香里は大きく息を吸い込んだ。

「あのね、ママ、下宿はもう止めようかな と思ってる」
由香里は少し目を瞑って沈黙した後顔を上げ、すっきりした笑顔を見せて言った。
─え? 何で? それ本当?
ユキもトモも何か言いかけて上手く声が出せない。
「三人で暮らす。家族で暮らす」
「どうして?」「お金困らないの?」
ユキとトモがまだ、もごもごと上手く言葉にできないまま 問いかける。
「ひとに言われたからそうするんじゃなわよ、ママもそろそろ考え時だな、と思ってた」
 ─自分が助言したからだって、誰かさんが嬉しがのも悔しいしね・・
ユキは由香里の肩に手を掛ける。トモは由香里の腕をしっかり握った。
由香里は二人の頭を引き寄せて、おでこを引っ付けると、囁いた。
「ユキもトモも髪、伸びっぱなしだね。ママ、格好良くカットしてあげる」
突然のことにユキもトモも戸惑う。由香里がカットしてくれるなんて言うの、初めてのことだ。
これが大事な打ち明け話?
「大丈夫、心配は無用。随分ブランク開いちゃったけど、実はママは、プロの美容師さんなんです」
由香里はちょっと大げさに 胸を張って言った。

 *

「ユキ、ベランダにシート敷いて」
「トモ、タオル持ってきて。ねぇやるよ、今すぐだよ」
お風呂場の方がシャワー使えて便利だよ、とユキが言うのも取り合わず
急な事で驚くばかりの二人の子どもに、由香里はてきぱきと指示を与える。
洗濯物を除けベランダに椅子を出し、その思いつきにうきうきした様子で、由香里は準備を進めた。
黒いエプロンを掛け、袖をまくり、髪を後ろに一つに束ねる。
「ママ ほんとに大丈夫なのかな」
トモが小声でユキに言う。
「解んない・・解んないけど」
ちょっと 素敵じゃん、今のママ。

「お客様、お席へどうぞ」
由香里が声を掛け、トモを椅子に座るよう促した。
「それから・・この大事なママのカット鋏・・」
トモの机の引き出しから 由香里が挟を取り出すと、トモはみるみる真っ赤になって俯いた。
「ごめんなさい。ママの大事なものって知らなくて。押し入れで見つけて、凄く綺麗で、カッコよくって・・」
泣きそうなトモの肩にビニール袋を広げたケープを掛けると、由香里は飛び切りの笑顔で二人を見、
シャカシャカと鋏を鳴らしてみせた。
ユキが以前トモの引き出しで見た時より、艶やかに光っている。
丁寧に手入れされた輝きだった。

小気味良い鋏の音、カットに集中する由香里の目。
こんな目をした母を初めて見た気がする・・ユキは由香里の手元を目で追う。
「下宿の人置いたり清掃のパートするのを止めて、ママはもう一度美容師さんになろうと決めました」
カットの手を休めずに、二人が予想もしなかったことを由香里は切り出し、ふふっと笑った。
「だから勉強するの。最近の技術も覚えなきゃね」
「そう、だから『仮の時間』は終わり。あ、ううん『仮の時間』にして逃げるのはもう終わり・・って方が正しいな」
そして 小さな声で付け足した
「ずっとユキとトモと過ごしてきた時間だものね。『仮』なんかじゃなく、大事な本当の時間だわ」
ユキが顔を上げ、由香里を振り向いて見ようとしたら、
「お客様、少しだけ真っ直ぐしていてくださいね」
由香里はユキの頭を軽く抑えて、シャキンと鋏を鳴らした。
いい音だ。


「わぁ、見て、すっごい夕焼け」
カットを先に終えて いい感じのショートカットになったトモが、
ベランダの柵から半身を乗り出して叫んだ。
「特等席だね」
「そう、VIP席でございます」
ユキが肩を揺すって笑い、由香里がもう一度ユキの頭を真っ直ぐになるよう押さえ直す。
夕焼け色を映した鋏は シャキリと鳴り魔法のように皇かな動きを見せた。
この間の雨に負けずに残って、花を咲かせた金木犀が微かに香る。

「おーい、猫ぉ」
「のらの、猫ぉ」
トモが叫ぶと、いつもの猫が隣の屋根の上で首をもたげ、じっとこちらを見て、
「何もかも知ってますよ」という顔で一声、「にゃあ」と、鳴いた。




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