Last update 2008年03月16日
DOLL 著者:空蝉八尋
もう水をやろうと元には戻りませんでした。
泣きじゃくる少女の前で、それは粘土砂となって地面に伏しています。
「ごめんね」
頬を伝わる涙が、その少し大きな粒に堕ちました。
それは表面を覆って浸透し、侵食し、道を通って蒸発していきます。
「ごめんね、デボラのせいで、ごめんね」
黄色い太陽が容赦なく少女に降りかかり、それでも翡翠色のローブに包まれた黒褐色の肌の少女は、汗ひとつ流しません。
履き潰したサンダルからのぞく小さな爪に、乾いた砂とサボテンの欠片がこびり付いていました。
「せ、せっかく貴方が友達になってくれたのに……」
その涙はみるみるうちに増し、痩せた顎を撫でては堕ちていきます。
海原のようにどこまでも広がるまわりの砂と違い、赤茶色をした砂の山に堕ちていきます。
堕ちては灼熱に焼かれ、堕ちては空に昇り、少女はそれでも唇を噛み締めたまま。
「もう……お返事、できなくなっちゃったの?」
少女の小さく柔らかな手が、砂の塊をひとすくいしては愛おしそうに見つめました。
彼女には聞こえてきませんでした。
この崩れ落ちた砂の山が、まだ雄大な人の形をしていた頃。
彼女に優しく語りかけた低く大地を震わす声は、もう少女に届きません。
「ねえ。また、花無しサボテンの兄弟の話をして。デボラに、お星様の結婚式の話を……もう一度、聞かせてよ」
少女の手が、再びその砂に伸ばされました。そしてそのまま、腰を折り頬を近づけ、涙で濡れた顔を押し付けます。
乾ききっているはずの唇は、どこか艶やかでした。
「ねえ。聞いてくれる?」
返事は、どこからも返ってきません。
「デボラ……さっきまで水を運んでいたのよ。一生懸命、貴方に届ける為に」
まぶたが閉じられ、長いまつげで縁取られた深緑の瞳が姿を隠します。
「頑張って見つけて来たんだよ。もうこの街に残された水はないんだって。大人が言ってた」
遠く目を細め、少女は口元をわずかに歪ませました。
「でもね、ほら知っているでしょう。納屋をぬけた所の石段で…………転んじゃったの」
少女が膝をまくってみせました。そこにはうっすらと血の滲んだあとが拭き取られています。
握ったこぶしを小刻みに震わせ、少女はなおも話を続けました。
「貴方が、泣かないで、っていつも言うから、デボラ泣かなかった。偉いでしょ? でも、水はかえってこなかったのよ」
砂の山に語りかける少女から、ほんのわずか離れた位置に、ひび割れた小さな水瓶が横たわっているようです。
底に水は一滴も残っていません。底から半分は砂に埋もれ、時がたつほどに焼かれていきます。
泣きじゃくる少女の前で、それは粘土砂となって地面に伏しています。
「ごめんね」
頬を伝わる涙が、その少し大きな粒に堕ちました。
それは表面を覆って浸透し、侵食し、道を通って蒸発していきます。
「ごめんね、デボラのせいで、ごめんね」
黄色い太陽が容赦なく少女に降りかかり、それでも翡翠色のローブに包まれた黒褐色の肌の少女は、汗ひとつ流しません。
履き潰したサンダルからのぞく小さな爪に、乾いた砂とサボテンの欠片がこびり付いていました。
「せ、せっかく貴方が友達になってくれたのに……」
その涙はみるみるうちに増し、痩せた顎を撫でては堕ちていきます。
海原のようにどこまでも広がるまわりの砂と違い、赤茶色をした砂の山に堕ちていきます。
堕ちては灼熱に焼かれ、堕ちては空に昇り、少女はそれでも唇を噛み締めたまま。
「もう……お返事、できなくなっちゃったの?」
少女の小さく柔らかな手が、砂の塊をひとすくいしては愛おしそうに見つめました。
彼女には聞こえてきませんでした。
この崩れ落ちた砂の山が、まだ雄大な人の形をしていた頃。
彼女に優しく語りかけた低く大地を震わす声は、もう少女に届きません。
「ねえ。また、花無しサボテンの兄弟の話をして。デボラに、お星様の結婚式の話を……もう一度、聞かせてよ」
少女の手が、再びその砂に伸ばされました。そしてそのまま、腰を折り頬を近づけ、涙で濡れた顔を押し付けます。
乾ききっているはずの唇は、どこか艶やかでした。
「ねえ。聞いてくれる?」
返事は、どこからも返ってきません。
「デボラ……さっきまで水を運んでいたのよ。一生懸命、貴方に届ける為に」
まぶたが閉じられ、長いまつげで縁取られた深緑の瞳が姿を隠します。
「頑張って見つけて来たんだよ。もうこの街に残された水はないんだって。大人が言ってた」
遠く目を細め、少女は口元をわずかに歪ませました。
「でもね、ほら知っているでしょう。納屋をぬけた所の石段で…………転んじゃったの」
少女が膝をまくってみせました。そこにはうっすらと血の滲んだあとが拭き取られています。
握ったこぶしを小刻みに震わせ、少女はなおも話を続けました。
「貴方が、泣かないで、っていつも言うから、デボラ泣かなかった。偉いでしょ? でも、水はかえってこなかったのよ」
砂の山に語りかける少女から、ほんのわずか離れた位置に、ひび割れた小さな水瓶が横たわっているようです。
底に水は一滴も残っていません。底から半分は砂に埋もれ、時がたつほどに焼かれていきます。
「だから、貴方に水をあげられなかったの」
少女の言葉の語尾が、ほんのわずか掠れました。
風が吹きます。
乾いた風が吹きます。
それは音となって紡がれ、砂を掻き荒らしては舞いあげ、街に降り注ぎます。
地を這っていた見たこともない海藻のような植物は、呆気無く隠れてゆきます。
「何がそんなに悲しい? レディ」
唸る風の奥から、ひび割れた様な声。
背後から呼びかけられ、少女はハッとしたように振り返りました。
そこには伸びた白髪を覆うようにしてマントを頭から被り、深いしわの刻まれた老人が立っています。
背筋の伸びた、美しい立ち振る舞いの老爺です。
「…………」
少女は深く黙りこくりました。
いつから老爺は少女の様子を眺めていたのでしょう、優しい問いかけは続きます。
「水を無駄にしてしまったことを泣いているんだろう。でもけして無駄なんかじゃあない」
老爺の枝先のような指が、まっすぐ石段へ向けられると、つられたようにデボラの視線も動きました。
言葉が紡がれます。
「あの場所には、私が偶然ばらまいておいた種がある」
「種!」
驚きの声をあげた少女に、老爺は本当だよと付け足した。
「もしも誰かがここに水をまき、育ち、花をさかせたなら、私はもう少し生きてみようと思ったのだよ」
「花……花が咲くの? なんの種?」
風が吹きます。
乾いた風が吹きます。
それは音となって紡がれ、砂を掻き荒らしては舞いあげ、街に降り注ぎます。
地を這っていた見たこともない海藻のような植物は、呆気無く隠れてゆきます。
「何がそんなに悲しい? レディ」
唸る風の奥から、ひび割れた様な声。
背後から呼びかけられ、少女はハッとしたように振り返りました。
そこには伸びた白髪を覆うようにしてマントを頭から被り、深いしわの刻まれた老人が立っています。
背筋の伸びた、美しい立ち振る舞いの老爺です。
「…………」
少女は深く黙りこくりました。
いつから老爺は少女の様子を眺めていたのでしょう、優しい問いかけは続きます。
「水を無駄にしてしまったことを泣いているんだろう。でもけして無駄なんかじゃあない」
老爺の枝先のような指が、まっすぐ石段へ向けられると、つられたようにデボラの視線も動きました。
言葉が紡がれます。
「あの場所には、私が偶然ばらまいておいた種がある」
「種!」
驚きの声をあげた少女に、老爺は本当だよと付け足した。
「もしも誰かがここに水をまき、育ち、花をさかせたなら、私はもう少し生きてみようと思ったのだよ」
「花……花が咲くの? なんの種?」
「アデニウム・オベスムさ」
「なあに? それ」
少女が首を傾げる様子を、老爺は影のつくられた額の下で笑います。
「レディ、薔薇という花をご存知かな?」
「知ってるわ」
「その花は、美しいね?」
「美しいわ」
少女の脳裏に描かれたのは、鮮血色をした荊の薔薇でした。
月光を浴びて怪しく光り、毒々しいと感じさせ、それでも人を魅了する。
「アデニウム・オベスムはね、砂漠の薔薇なんだ」
「砂漠の……」
老爺の重なり合ったマントが風に揺られ、羽根のように大地へ広がります。
「砂漠に咲く、薔薇。そりゃあもう、一段と美しい。砂だらけの世界に、孤立して咲く気高き薔薇ほど……」
少女が首を傾げる様子を、老爺は影のつくられた額の下で笑います。
「レディ、薔薇という花をご存知かな?」
「知ってるわ」
「その花は、美しいね?」
「美しいわ」
少女の脳裏に描かれたのは、鮮血色をした荊の薔薇でした。
月光を浴びて怪しく光り、毒々しいと感じさせ、それでも人を魅了する。
「アデニウム・オベスムはね、砂漠の薔薇なんだ」
「砂漠の……」
老爺の重なり合ったマントが風に揺られ、羽根のように大地へ広がります。
「砂漠に咲く、薔薇。そりゃあもう、一段と美しい。砂だらけの世界に、孤立して咲く気高き薔薇ほど……」
「美しいものは無い!」
鈍い赤銅色のマントはまるで、砂漠に咲いた、枯れかけの薔薇のようでした。
「……おじいさん」
「有難うお嬢さん。貴女の水のおかげで、あの薔薇は花を咲かせる。そうしたら、また君を呼ぼう」
「……おじいさん」
少女は繰り返します。しかし瞬きをした次の瞬間、目の前に居たはずの老爺は姿を消してしまっていたのです。
その場所には再び、少女と土の塊だけが残されました。
少女の手が、頬が、髪がそれに伸ばされていきます。
太陽は揺るぎません。街を、人を、時が進みゆく度に攻め立ててゆきます。
「ごめんなさい」
呟きました。
「ごめんなさい」
囁きました。
「ごめんなさい!」
叫びました。
「有難うお嬢さん。貴女の水のおかげで、あの薔薇は花を咲かせる。そうしたら、また君を呼ぼう」
「……おじいさん」
少女は繰り返します。しかし瞬きをした次の瞬間、目の前に居たはずの老爺は姿を消してしまっていたのです。
その場所には再び、少女と土の塊だけが残されました。
少女の手が、頬が、髪がそれに伸ばされていきます。
太陽は揺るぎません。街を、人を、時が進みゆく度に攻め立ててゆきます。
「ごめんなさい」
呟きました。
「ごめんなさい」
囁きました。
「ごめんなさい!」
叫びました。
「あっ、あの水、あの水は……本当は、本当はデボラが飲んじゃったんだよ!」
少女の悲痛な叫びに近い鳴き声は、遠い砂漠に響き渡ります。
乾ききった身体から、勿体ないほど大粒の涙が零れてゆきます。
土の塊に縋りつくようにして、声を上げて泣き叫びました。
乾ききった身体から、勿体ないほど大粒の涙が零れてゆきます。
土の塊に縋りつくようにして、声を上げて泣き叫びました。
薔薇は、咲くよ。
どこからか聞き覚えのある声が降り注ぎ、少女は泣きじゃくった顔をあげました。
すると、頭上の太陽が嘘のように姿を消しています。
鼠色の雲におおわれているのです。
息をつく間もなく、雨が降り注ぎます。
風の呻きとはまた違う、湿ったようで乾いた雨の歌声です。
少女の涙を流し、砂を流し、街に降り注ぎます。遥か遠くから、轟くような歓声が聞こえてきました。
「…………美しいわ」
すると、頭上の太陽が嘘のように姿を消しています。
鼠色の雲におおわれているのです。
息をつく間もなく、雨が降り注ぎます。
風の呻きとはまた違う、湿ったようで乾いた雨の歌声です。
少女の涙を流し、砂を流し、街に降り注ぎます。遥か遠くから、轟くような歓声が聞こえてきました。
「…………美しいわ」
少女の手が触れられたままの土の塊が、脈を打ちます。
心臓の鼓動が鳴り出します。
腕が伸び。
頭が浮き出て。
足が突き出し、背筋が描かれ。
心が、かちりと、作動する。
心臓の鼓動が鳴り出します。
腕が伸び。
頭が浮き出て。
足が突き出し、背筋が描かれ。
心が、かちりと、作動する。