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Last update 2008年03月16日

こわれもの  著者:AR1



「とことんぐしゃぐしゃにしてみるのも愉快なもんだとは思うがね 」
 深夜の歓楽街を横目に、運転手の男がうそぶく。助手席に座る女は、人工皮革の手袋に包まれた手でロング・コートの中に弾倉を隠しつつ、応える。
「戦争映画みたいに?」
「ノルマンディーみたいにさ」
「ハンドガン(グロック)は、その映画には不適格ね。監督が嬉しそうに退場を突きつけにくる」
 確かに、と運転手の男は愉快そうに笑った。女は表情を変えず、憮然としたまま今度はベルトのホルスターに下がっている拳銃(グロック)を抜いた。構成するパーツの多くがプラスチックのため、心得のない女子供でもリラックスして構えられるほどの軽量振りであるが、38口径が弾倉に十五発装填されているため、プラスチックの玩具のそれではない重厚感がある。
「君はジョークのセンスがあるのに、笑おうとはしないんだな」
「人見知りなの」
 いつものことだ、彼女が面識のない人物と行動を共にするのは今に始まったことではない。彼女の十年は、ほとんど特定の人物との接触が断絶した、孤立無援の世界。文句を言うつもりもないが、笑って他人に声をかける気も起きない。いつも便利な駒として卓に乗せ、チェックメイトを達成しようと私を嘲り笑っている連中がいるのだ――彼女は現実を受容し、嘲笑の的になることを選んだ。
「仕事の前に一つ、訊いていい?」
「どうぞ」
「私、良い人? それとも悪い奴?」
 男は車を路肩に寄せつつ、右足をアクセルからブレーキ・ペダルへと移した。前方のキャディラックのセダンと十分な間隔を保ちつつ、車の速度を完全に殺した。その間が彼の思考猶予期間だった。
「良い女だ。とても」
「そう」
 些細な礼を期待していた男は、彼女の冷徹な対応に肩をすくめる。偽りのない本心ではあるが、不躾な態度に腹を立てることもない。明日になれば別々の方向に向かって歩き出すであろうほどに薄い仲に、彼が期待するものは詰まっていない。ただ、男として嘘はつかない主義ではあるので、ジェーンの容姿が美しいと判断している本能を隠すことはなかった。
「ジェーン、例の場所で待っている」
 例の場所とは、事前のミーティングで決定した合流地点のことである。大通りに建っている娼館の裏口付近。
 ジェーンは、運転手に目配せだけ残し、ドアを閉める。前方の車のバンパーを掠めるようにして、濃紺のインフィニティは緩やかにアスファルトの上を滑っていった。普段であれば雑踏に紛れるほど静かな排気音が、闇を満たす建物の間に跳ね返る。彼女は車が走り去って行った方向へ、歩道を伝って歩く。彼女は視線のみを左右に往復させ、道端に停車している車をチェックする。アメリカやドイツの高級車が中心だが、中にはイタリア製スポーツカーの姿も見える。
 五十メートルほど進み、路地を左へ。小型車すらも通行が危ういほど狭く、事実上、隣接する建物の通用口と化している道である。十分な照明は備えられておらず、非常口の頭上を蛍光灯が輝いている程度の光量しかなかった。ジェーンの瞳孔が更に開き、夜行性の猛禽へと着実に近づく。赤髪を左手でいじってみるが、闇の色に染まっており、それが地毛であることは感触を通してでしか認識することはままならなかった。
 月は建築物という障害物に阻まれ、一糸まとわぬ姿を晒せずにいる。そういえば、今日は雲一つない青空が浮かんでいた。きっと、とても品の良い月が出ているに違いない。
 屋上から路地まで伸びる、錆の浮いた階段の下で止まり、右手側の壁に背中を預ける。路地の中ほどまで入ると大通りからは大分離れているため、滅多なことではジェーンの方を注視する者はいないであろう。そして、誰もがジェーンの方に目を向けることもなくなる。彼女は真の暗がりに沈む。
 予定では十分以内に事が進むはずである。それに備え、ジェーンはロング・コートの中で拳銃の銃口に銃声減音器(サプレッサー)をはめ込んでいた。
(良い女だ。とても――、か)
 今日のパートナーに抜擢された男へ問いかけた、その答えが耳の奥で反芻される。届いているはずのない声が仮想の世界で再生され、鼓膜を叩く。不愉快だとは思わなかった。彼は、ジェーンの質問の意図を理解していない。何一つ。
(こんな仕事をしてて「良い女」扱いされるのなら苦労しないよ。まったくね)
 心は針で突付かれているように緊張していたが、体は相対的にリラックスしていた。力みは引き金を引くには邪魔な要素であり、彼女の体が鉄則を覚えている。

 クラブの中は、毎夜のごとく客で賑わっていた。そこは酒の酔いに満ちているというより、ドラッグのエクスタシーにまみれているような、理性を解放した儀式のようにも映る。昼間の人間社会像は、青いネオン管の下には儚い幻想となって散る。その様子を二階から眺めるオーナー、スティーヴはデスクの上を指で叩きながら、傍らに控えているスーツ姿の男に訊ねる。
「私は最近、徐々に膨れ上がる不安を抑えることができない」
「と、言いますと?」
 スティーヴの心情に引きずられたのか重苦しい調子とは対照的に、男は極めて事務的な口調だった。彼はボディガードではあったが、それ以上にビジネスマンとしての経歴が燦然と輝いている。
「ここは夜の街だ。支配者がいる。今は私が支配者だ。だが、いずれは反乱が起こる。支配者の首をもって、目的を完遂するだろう」
「ここは確かに、それなりの人口密集地ではありますが……考えすぎでは?」
「いつでも、考えすぎるくらいの方がいいのさ。こういう界隈では、特に」
 なにも起こらないで欲しい、それは二人が共通して持つ願いである。側近の男には、多少の楽観が許される状況がこの街の事情にはあることを知っていた。都心部郊外からは離れており、拮抗する勢力と縄張り争いをしている訳でもないのだから、真っ先にスティーヴを打倒するようなことはない、と。私怨の線が薄いとすれば、単純な物取りを目的としている連中だろう。汚い世界には頭の切れる奴が多いが、それ以上に後先を顧みない向こう見ずが圧倒的多数を占める。
「それにしても、例の情報は本当なんだろうか……まだ、この街のどこかで大きな騒ぎはないようだが」
 一ヶ月ほど前、部下からの報告で上がってきた。重大な用件として。近日中にスティーヴの所有するクラブのいずれかで事件が起きる可能性があるかもしれない、そう口頭で伝わっていた。こういった社会には真実とガセは渾然一体の噂となって横行するため、全面的に信用する訳にはいかなかったが、用心をするに越したことはない。しかし、一ヶ月もすると話は変わる。
「緊張が緩くなってきている。心の中で『俺達のボスは腰抜け野郎』とでも思っているんだろうな」
「ベルトを締め直させてやりますか?」
「……それはもう少し、待つ」
 もしかしたら、その噂はスティーヴの命を刈り取る第一段階の罠かもしれない。無用な士気の失墜は敵の笑みを誘う。
 ――敵? 敵などどこにいるのだろうか? そんなもの、本当にいるのか? 私の取り越し苦労なのではないか? 少し疲れているのかもしれない。
 疲労は思考能力を鈍化させる、もっとも身近な毒薬。今日のところは店を預け、帰る準備をしようかとデスクの書類をまとめ始める。

 ジェーンの体内時計は、現実に流れる時間と少々の隙間があるようだった。五分の空白がそれ以上の断層となって立ちはだかる。時折、大通りからやって来る雑踏が、彼女の右手にある鉄の塊を握る手を神経質に反応させるが、ことごとくが路地の中に疑問を差し挟む余地もなく、残響だけを置き去りにして通り過ぎていった。そのたびに非常階段の下で座り込む彼女の、トリガーにかかる右人差し指の迷いを拭い去った。
 路地に無造作に置かれている計器や無造作に積み上げられている木箱――酒が収められていたものに違いない――があるおかげで、座して身を潜めていれば滅多なことでは発見されないことは分かってはいても、なにかの拍子に路地に人が迷い込んでくる可能性は否定できない。
 そして、これは緻密に組まれた計画ではない。ジェーンにしても、緊急で雇われただけの一介の駒に過ぎない。この仕事の主導権を握っているのは彼女ではなく、ランダム性の高い第三者なのである。
「予定の時刻を三十分超過した場合、大人しく解散せよ」
 ミーティングの際、パートナーから聞かされた命令。第三者が動かなければ、例え目標に接近したとしても銃を向けるな、ということである。面倒なリクエスト、とジェーンは溜め息をつく。冬の季節真っ只中ではないものの、嘆息が無色から白に出でるほどには寒空の下にいた。
 左腕に巻く時計を見下ろす。私生活では右腕に巻いているのだが、ジェーンは右利きである。銃を携える手も当然右手であり、なにも携行していない左腕に時計を巻く方が咄嗟の時にも対応がしやすく、具合が良かった。
 秒針を読み続ける作業はこの上なく孤独で、無意味だ。漠然と時間が過ぎていく様を視覚で追うということは苦痛でもある。決行予定のない未来にカウントダウンなど下しようがない。そうしている内に十分が過ぎた。残り二十分。難しい考え事にふけるほど余裕はないが、なにも考えずにいるのは人間の内部が悲鳴を上げる。だからジェーンは、秒針の動きを眺めるという「無意味」に意義を見出すことができた。
(じゃあ、この仕事に意味なんてあるの?)
 大した意味などない。この周辺を牛耳っている小物の親分を撃ち倒し、ジェーンを雇った御山の大将が喜ぶ。彼女の懐には報酬と、それを担保にした幾分の生活が保障される。だが、それは一般社会で就職していても受けられる恩恵であって、殺人という危険を冒してでも甘受したい報いではない。
(考えても仕方ないけど――)
 思考を閉ざそうとした時、彼女の背中の壁伝いに炸裂音の連打と、それに追従する悲鳴が――いや、最初の銃声は入り口の外で発射されたものだろう。ガードマンが二人、常時配置されている。手っ取り早い方法ではあるが、ジェーンからすれば短絡的もはなはだしい。逃げおおせて警官の手によって手錠がはめられるか、クラブに立てこもってSWATに排除されるか、仕事のあとの賭け事には格好の材料かもしれない、と彼女は考えた。
 防音環境にあってもはっきりと聞き取れる騒乱と混乱は、恐怖心と比例する。一定の間隔を置いて発射される銃声とともに、客から迸る絶叫の音量も数オクターブ増し、壁を突き抜けた。
 ジェーンは階段の陰から顔を出し、頭上の非常口の様子を窺う。事務をするオフィスは、二階にあるからだ。

「何事だっ?」
 密閉構造の二階部は簡易的な防音処理を施してあるが、クラブホールの重低音を明瞭に聞き取ることのできる、その程度の効果のものでしかない。目で確認しなくとも、その混乱振りと銃から放たれた宣戦布告が聞き取れない訳がない。
「武装した連中が侵入したようです」落ち着きを払った声で、側近の男。
「噂は本当だった」
「ええ。さ、非常口へ」
 スティーヴへの復讐か金銭の強奪か、どちらともそれ以外とも判断しかねるが、非常口が生きているのならば速やかにクラブから離れるのが得策だった。側近の男の手には、いつの間にか抜かれていた拳銃が握られている。彼は危険な稼業を転々としていたため、危機が迫るとほとんど反射行動で銃に手が伸びる。その意味では、スティーヴの側近は非常事態という異常においては頼れる存在だった。スティーヴも一応、銃の扱いを心得てはいるが、それを実践に結び付けられる場数を踏んではいない。

 長年使われずに油の切れた機械を稼動させたような、お世辞にも気持ちの良いとは言いがたい音が路地に響いた。ジェーンは一層、息を最低限にまで殺すことを心がける。呼吸を止めるのは照準を合わせて射撃するまでの数秒間のみだ。人間の体は、少々酸素が欠乏しても完全な能力を発揮できるようには造られていない。小刻みに肺が収縮を繰り返し、呼気が鼻孔を頻繁に行き交う。
 扉が元の位置に収まり、足音が振ってくる。一人ではない。二人。
 ジェーンが緩慢な動作で慎重に立ち上がる。狭い路地の間で物音を立たせてはならない。彼女の位置が暴露されてしまえば、数の論理で不利になる上、隠れ蓑もない。
 二人がジェーンの真上を通過する。人差し指はトリガーにかかりっぱなしだ。

 スティーヴが側近の後について鉄板の段差を降りる。派手に足音を立てないように、と彼から忠告を受けていた。なぜ「派手に」という語句が付いたのかスティーヴには疑問であったが、すぐに理解できた。革靴の靴底は硬質で、鉄板の上で雑音を立てないようにするのは難儀以前の問題である。
 二人は周囲を注意を配りながら、前傾姿勢で鉄板の足場からアスファルトに下ろす。どうやら正面口から突破することだけに重きを置いていたゆえに、非常口はまったくのノーマークのようだ。もし監視の目を張るのなら、この路地に人員を配置しなければならない。大通りは人通りが多く、怪しい人物が通っていれば内外とも収拾がつかなくなる。
 愉快だ、と側近の男は失笑した。リーダーを始め、襲撃した連中はどいつも知性をかなぐり捨てた野獣の集団らしい。連係プレーはできても計画性は皆無に等しい。
「通りに出ましょう。車のキーは?」
 スティーヴはスーツの胸ポケットをまさぐり、「ある」
「急ぎましょう」

 ジェーンは会話に耳を澄ませ、行き先に精一杯の予想を巡らせる。ジェーンの方に走ってくるのか、それとも反対側の通りに駆けていくのか、彼女は厳密な判断をしかねる。ただ、もしかしたらこちらにはこないかもしれない、という算段はあった。事前に与えられた情報では、ターゲットはシルバーのリンカーンに乗っている。ジェーンが歩道を通行している際に確認した限りでは、シルバーのリンカーンの姿はなかった。
「通りに出ましょう。車のキーは?」
「ある」
 非常口から脱出した二人の男の会話。車のキーを持っている男がスティーヴ(ターゲット)で、先導しているのがボディガードかなにかということか。
「急ぎましょう」
 足音が一歩、ジェーンとは逆方向から届く。二歩、三歩と離れていく。彼女の予想は的中した。最高のシナリオ。ジェーンが来た方とは逆の通りに躍り出ようとしているということは、彼女が拳銃で二人を狙う時、照準は的(ターゲット)の無防備な背中を狙っていることになる。暗がりの中での遠射は著しく命中率を下げる。必要以上の距離を取られたくはなかった。
 ジェーンは銃身の先端に取り付けられた黒の円筒を前に突き出しつつ、階段から半身をせり出す。僅かな照明に照らされて、背広の背中が二つ浮かぶ。まずは手前――恐らく、ターゲット――から狙点を合わせ、引き金を絞る。乾いた銃声が迸る。薬莢が二個、壁に当たって墜落した。
 建物の間を駆け巡る大音響に、前を走っていた男がたじろぎ、足を止めた。二発目の弾丸が発射された時に男がジェーンの方を振り返っていたかもしれないが、銃声減音器(サプレッサー)が銃口炎を隠していたため、男は暗闇の中にある彼女の姿を即座に発見することができず、双眸を左右に巡らせる。反撃に出ようと拳銃を持った腕を突き出そうとするが、命令に従わなかった。空白に染まっていく意識の中で認められたのは、体がアスファルトに抱かれようとしていることだけだった。
 ジェーンが計五発の弾丸を撃ち終えると、倒れた二人の息を確かめに向かう。スティーヴは後頭部と首の付け根の境界辺りに銃創がある。生きてはいまい。もう一人の男に駆け寄りつつ、まず掌に収まっている拳銃を側溝に蹴り飛ばす。一発は左胸部に命中したが、防弾ベストに侵攻を阻止されたようだ。だが、首への着弾は防ぎようがない。
 仕事は完了した。クラブ内の銃声が派手なので、路地での幾分静かな発砲は目立たずに済んでいるはずだ。しかし、徹底的な消音を目的にしてはいないため、それなりの騒音は発している。拳銃に取り付けられている筒を取り外し、拳銃をホルスターに差し込むと、スティーヴが逃走を図った方向とは逆に戻り、大通りを左に歩いた。右に曲がれば来た道をなぞるようにして戻るのだが、そちらには集合地点はなかった。
 近所を巡回中だったのか、意外に早々と到着したポリス・カーのサイレンを横目に、所定の場所へと向かう。娼館の裏口付近の交差点までは徒歩で五分と、大した距離ではなかった。ダウンタウン特有の、敷き詰められたように居並ぶビルに睨まれながら、ジェーンは所定の場所を目指す。紺色のインフィニティを発見すると、パートナーが運転席から笑みを寄越し、手を振っている。社交的な挨拶、とジェーンは思いかけて、訂正した。奴は遊び慣れしているだけだ。
 ジェーンは助手席のドア・ハンドルに指を差し込む。手前に引くと崩れかけた石を砕くような感触とともに、スチールの扉が存外軽い手ごたえとともにジェーンを迎え入れる。シートに体を滑り込ませようとしたが、異音が時間を停止させる。
「構うな、急ごう」
 発砲だった。ただし、大通りではなく、建造物の内部から発せられているこもった音。二発、三発……五発で止んだ。
「俺達を狙ったんじゃないさ」パートナーの声を無視し、真上を仰ぐジェーン。
「ジェーン!」
「この上みたいね」
 背後の娼館が騒がしい。古臭いレンガ調の五階建て。若い女のざわめき。絶叫はなかった。流血は、人間に本物の恐怖を浮き上がらせ、涙と嗚咽を漏らす人形へ変える魔力を持つ。
「一緒に行く?」
「馬鹿なことを」
「じゃ、お留守番してて」
 ジェーンは、拳銃(グロック)に残っている弾丸の数を思い出す。十発。一人か二人なら十分に処理できる持ち弾だが、実際はなんともいえない。予備のマガジンも持っているが、リロード中を狙われれば致命的だ。念のため、今のうちにマガジンを取り替えておく。これでグリップ内には十五発。
「どうなっても関知しない」
「本性出したね」
 これだから軽薄な男は嫌いなんだ、とジェーンは心中で吐き捨て、言葉を踵で踏みにじった。ビルの勝手口のドアノブを捻ると、鍵はかかっていなかった。無用心なことだ。すぐ傍の階段を上がる。
 不穏な騒乱――そもそも、快楽を追求する場所で大人数がどよめいている状況が異常だ――が巻き起こっている部屋に近づく。取り巻いている数人の男女を肩で押しのけると、三人の妙齢の女性がバス・ローブ姿で倒れている女を介抱している様子だった。ふと窓の高さに視線を上げると、弾丸が貫いた痕跡があった。
「どいて」
「誰? 医者?」
 動転して上ずった声で、赤い下着の女。香水と化粧にまったく品を感じない。こういう格好にはなりたくない、とジェーンは生理的な嫌悪感を催すが、同時に自らを嘲り笑ってもいた。人殺しよりはよっぽど清潔な行いだ。
「そんな都合のいい展開、ある訳がないでしょでも、応急処置はできる」
「無駄よ。頭を撃たれてる。助からない」
 力なくこうべを垂れ、横に振る。ジェーンは倒れている彼女の頭の方へ回り込み、長い金髪をかき上げる。骨が露出するのはグロテスクな光景ではあったが、出血は頭皮の周辺で起こっているもののようだ。
「大丈夫、まだ助かる」
「なんで分かるのよ!」
「弾丸は頭蓋骨にはじかれてる!」娼婦の女の激昂が、ジェーンの逆鱗に触れる格好となった。「脳にダメージはない」
「でも、他に二発も撃たれてる……」
「四十五口径かなにか知らないけど、動脈や臓器に損傷(ヒット)していなければ助かる可能性は十分にある」
 ジェーンはベッドの上からシーツを拝借すると、それを歯と手を駆使して力ずくで二つに切断する。それを二人の女に手渡し、胴体の銃創を押さえるよう指示する。渡された二人は顔を見合わせて躊躇するが、同じ場所で働く仲間を放ってはおけない意識が上回ったらしく、すぐにシーツを傷口に当て、意識が薄らいでいる彼女に、まともな返事が来ないことは分かりつつも懸命に声を浴びせ続ける。
「救急は?」
「呼んだけど、いつ来るか……」
「とにかく、ここでできることは止血しかない。下手に動かさずに到着を待って。いい? ――それと、質問が二つ。この子を撃った奴はどこに?」
「ここにはいない。多分、下へ」
「逃げたか……それと、この子の名前は?」
「ソーニャ」
「ありがとう」
 ここは礼を言う場面だったのだろうか、とジェーンは勘繰ったが、些細なことを気にする必要もないと忘れることにした。善意もなにもない、自分本位の行動で応急処置を取ったまで。それに、ソーニャの容態が安定したまま病院まで担ぎ込まれるとは限らない。今まさに、彼女の苦痛の喘ぎの周期が劇的に早まることもありうる。ソーニャに余計な延命を施したことは、むしろジェーンの罪状に新たな項目が付け加えられるかもしれない。
「じゃ、行くわ」
「どこに?」
「とりあえず、怖いポリスのいないところへ」
 悪戯っぽく笑うと、ジェーンは縦に割れた海の底を歩くように、彼女に道を開けた男女の列を足早に通過した。まだサイレンの音は近づいてこない。クラブでの襲撃事件の対応で手一杯なのだろう。私が手にかけた獲物は発見されたのだろうか、と少し気になったが、その様子は翌日の新聞にでも目を通せば明らかになることだ。
 ビルの裏口をくぐると、パートナーの車がエンジンをアイドリングさせたまま待ちぼうけを食らっていた。
「ケツに火がついたみたいに街中を走り回ってると思ったのに」
「予定通りにコトを済まさないと、俺がボスに殺されるんだ――ほら、とっとと乗れ。回り道の終点まで行ったんだろ?」
「……終点ではないね、まだ」
 ジェーンは助手席に体を預けつつ、目を閉じる。うわ言のような呟きは、虚空の上をさまよっている。指向性のない言葉は、反射して彼女自身に言い聞かせているようにも見えた。
「でも、今やれることでもないよ」

 ソーニャは石畳の歩道の街頭の下で、家のない子供のようにうずくまっていた。夜の闇ではなく、まるで宇宙の深淵を街頭の電球が切り取っているかのようで、ふと顔を上げても五メートル先は霞んで見えた。生命を宿した霧にでも囲まれているのだろうか?
 社会から乖離したこの場所に居場所なんてあるのだろうか、ソーニャの頭に閃く疑問。人の足音はなかった。物音すらもなかった。
 意識を取り戻した時、既に彼女はここにいた。自分はきっと明晰夢を見ているのだとソーニャは思った。もしくは、覚めない夢に神様が与えてくれた唯一無二の居場所なのかもしれない。
 男に体を売る商売は苦痛だった。だが、お金も知人もないソーニャが一人で生きていくには、これ以外には思いつかなかった。「路上で男を拾うよりは楽だよ」とは、一緒に働いている仲間の弁だ。慰めているつもりだったのだろうが、ソーニャには気休めにすらならない。
 ビルの上から飛び降りようか。昔は自殺の名所として有名だったハリウッドの看板の上から身を投げるのも一興かもしれない――自暴自棄な発案が思い浮かんではしぼんで消えていく。いつしかソーニャは、自虐的な賭けに出ることを決めていた。
「客を脅してみたら? 札束を置いていくかも」
 仲間の誰かが発した冗談。自らの手で費える命なら実行してみる価値があるのかもしれない、と真面目に思い込んでいた。しかし、それは死の淵へと体を放り込む勇気がない自分への言い訳に過ぎなかった。ナイフを手首に当てても薄皮一枚に刃を入れるのみで終わり、見知らぬマンションの屋上に上がった時は、縁に立つ決心が死の恐怖心に屈服した。
 弱い自分を呪ったが、こういう時に限って誰も私を殺す機会なんて起きやしない。むしろ、幸多き人生を破壊するためにやって来るとしか思えない。
 それならば、他者がソーニャを殺す必然性を与えてやるしかない。客の男に、給料の全てを寄越せ、という意味とまったく変わらない要求を突きつけた。マジな顔でジョークを言うとは器用だな、と一笑に付されたが、聞く耳を持たない客のカバンを堂々と穿り返した。そこで記憶が一旦消え、冷静に現実を見つめてみると、周囲には手を血液で染めた仕事仲間が囲んでいた。
 瞼が重く、パニック状態の彼女達がソーニャの断続的な視線に気づいていたかは分からない。目を開けていると分かっていたとしても、焦点が定まっていないと思われていたかもしれない。
 嘆息を吐く気にもならない。うな垂れて、石畳の地面に幾何学的な模様を見るしかなかった。
「私は好きでこの職業をやっている訳じゃない」見知らぬ女の声。だが、どこかで聞き覚えのある声だった。「私は体を売ることに耐えられなかった」
 一度はコール・ガールかなにかをしたことがあるのだろうか……。ソーニャは背後で語られる他人の生い立ちを、無関心な音声として捉えてはいなかった。顔を知りたいが、骨まで凍結したように動かせなかった。
「結局、やってることはマフィアのパシリ。私でしかできない仕事でもなんでもない。仕事で男に抱かれている時にも同じことを思った。でも、今のパシリの方がマシだけど」
 人を殺すかもしれない職業の方が気が安らぐなど、ソーニャには理解できなかった。昔から悪友と連れ立って、鉄パイプで誰かを殺していたに違いない。突飛な妄想が爆発するほど、ソーニャは同姓の語り部に嫌悪感を催していた。
「異常者かもしれない。けど、どうせ私がやらなくとも、私よりも完璧な誰かが同じことをするに決まってる。私は特別なことはなにもしちゃいない。そうしていると、自分の奥底の、底なし沼みたいに深い黒いぬかるみにはまって窒息していくことに慣れていくのよね」
 ……ソーニャは押し黙る。もともと口は動かせなかったが、心の中の雑音を取り除き、聞き耳を立てる。
「もし、あなたが私の顔を覚えていたとしたら、私に感謝はしないでほしい。私は単に、ぬかるみにはまっていく自分が怖いだけ。もう戻れない場所まで到達する前に、偽善で自分を正当化したいだけ。私はこの道に進んでよかったって、安心感を得るために。誰にもできないことをできたかもしれないと、唯一無二の存在になれたんだと言い訳をするために。そうすることで今まで、自害せずに済んでいるから。」
 それで全てを吐露し終えたのか、話題を探すように無言の間。彼女は、ソーニャと積極的に会話をしたかった訳ではないようで、独白にも似た語りはまるで懺悔のようだった。あなたを助けてしまった私は罪人だ、と裁判で主張するように。
 足音が離れていく。ソーニャは鎖に繋がれた魂が解放されたような虚脱感を覚え、それに負けじと見知らぬ女性へと声を張り上げる。
「あなたは誰っ!?」
 ロング・コートの女は振り返らなかった。ただ、一言だけ発した。それはきっと、またしても独白だったのだろうとソーニャは思う。
「悪い女で、ごめんなさい」

 覚醒すると、四方が白い壁に覆われていた。ソーニャの横たわっているベッドのすぐ横には大きな窓がはめられており、白い壁を陽光で染めている。壁紙の真っ白より透き通った色だ、と漠然とした視界の中に目を凝らした。体をよじろうとしたが、できなかった。腹部からの鈍い痛覚が、彼女のさ迷っている世界を現実へと強引に連れ出す。
「あら、目が覚めた?」
 白衣を着用した看護士の女性が、いかにも中年らしい野太い声で訊ねる。そこで疑問形にしなくてもいいのに、とソーニャはささやかな不満を抱いた。以前なら鼻にもかけなかった瑣末な態度も見逃さないことに、ソーニャは早速とばかりに驚いてみせた。もっとも、看護士にはなんのことか、さっぱり分からないだろうが、きっと「ソーニャは、死んだはずの自分が生きていることに、感慨か疑念が湧いているに違いない」と思っているに違いない。
「まだ動かない方がいいわ」
「そうみたい」
「運が良かったわね。入院は必要だけど、処置が早かったから入院期間はそれほど長くなくてすみそうよ……ああ、あと、伝言を預かっているわ」
「伝言?」
「さっきお見舞いに来たジェーンという人から。回復してよかったって」
 今、医者(ドクター)を呼んでくるから、と看護士は小走りで病室をあとにする。
 個室の中に独り残されたソーニャは、首を傾げ、呟く。「ジェーン?」彼女の知り合いにそのような名前はない。
 ――さっき来た。さっき?
 ソーニャは窓の外を見てみたい衝動に駆られ、体を曲げても痛みが最小限になる角度を探し、右脇腹をかばうようにして上体を持ち上げる。窓枠に切り取られた風景の中に、ジェーンが映っているような気がしたからだ。見下げると、この病室が四階辺りにあって、駐車場を見渡せる位置にあることを知ることができた。
 極めて人数がまばらなスーパーのような駐車場の一角に、片手に缶を持って歩くタイト・スカートの女の姿を発見する。もしかして――いや、それはあまりに虫のよい展開だ、とソーニャは首を振った。幻想を振り払おうとしたが、できない。眼下には彼女以外の姿は見受けられなかったので、しばし駐車場を横断していくその姿を注視することにした。
 白人の肌に赤毛の映える、精悍な後姿に見とれていたということもある。美しいかどうかの判断はできなかった。ソーニャの方を向いてはいなかったし、高所からなので彼女の姿は人形のように小さかった。だが、杭を打ったように伸びた背筋と規則正しい歩行は、軍隊のそれを思わせた。
 突然、女性が足を止め、踵を返す。その双眸は病室をしっかりと見据えている。ソーニャは覗き見がバレたような罪悪感と羞恥心が湧き上がるのを感じた。思わず鼻の辺りまで窓枠の下に隠してしまう。
 女性――ジェーンは、笑っていたような気がした。缶を持っていない左手で天高く腕を伸ばすと、扇状に開かれた掌をソーニャに明かす。それだけだった。すぐに元の進行方向へと軌道修正し、病院から離れていく。やがて大型SUVに乗り込み、サイド・ウインドウから片腕を垂らして走り去った。その時、ソーニャの方へにこやかな別れを告げることはなかった。恐らくもう、ジェーンと人生が交差することはないのだろう。
 込み合う地下鉄の中で肩が触れ合っただけの、その程度の関係でしかない。そして、ジェーンが堅気の商売を生業としていない人間ならば、その間柄のまま断ち切っておくべきだったのだ。だが、禁忌ともいえるそれを犯してソーニャに応急処置を施し、わざわざ病室に容態の確認まで来たのはなぜだろう?
 きっと、ジェーンは私に語りかけていたのだ――ソーニャの迷い込んだ夢の中、生い立ちを淡々と語ったジェーン。しきりに陳謝していた。ジェーンは、ソーニャに過去の自分を見て、未来の悲劇をも重ね合わせていたのだろうか? 到底、望んだ世界に生きているとはいえない、現在の自分の悲劇を。彼女はそれを忠告しに来たのかもしれない。
 無論、それは全てソーニャの推論。ましてや、ジェーンが彼女の生い立ちを知る由もない。だが、もしかしたら似たような思考をした二人なのかもしれなかった。ひょっとして、ジェーンがコール・ガールをやっていた頃、もしくは今の仕事をしている時に、同じように他者に殺される夢想を描いたことがあるのだろうか。
 そして、ジェーンは消えていく。真相を全て胸の内にしまいこんで、思い出の彼方へ。ジェーンなどという女はソーニャの記憶にはいなかった、とでも言いたげに。
 なぜジェーンが病院まで足を運んだのだろうか――単純な話だ。ただ無事を祈り、それを確認し、その代償に少しばかりの小言をソーニャに吹聴しただけ。「私のように惨めな道には進むな」と暗示はしたかもしれないが、ソーニャの傷ついた体に過去の自分など一切見てはいない。だから、ジェーンは最後まで謝ることしかしなかったのだと思う。
 ソーニャは、思わず全開にした窓から身を乗り出す。誰がこんなに不器用な人を「悪い女」に貶めてしまったのだろう。
 私もあの人のように――ソーニャは、私も同じように良い人になりたいと思った。




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