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Last update 2008年03月16日

Motor Drive  著者:篠原まひる



 そこには、羨望や願望、快楽と喜びと好奇心。 そして昔まだ私が小さかった頃に、曖昧なままに忘れてしまった胸躍らせる夢などが渦を巻き、そして私を待っているかののような、そんな感覚をいつも兼ね備えていた。
 そこに行けば、何でもあると思っていた。 何でも叶うと思っていた。
 夢見る頃を過ぎるまでは・・・。


 週末の夜は不思議だ。 ポンと飛び込んで来たメール一つで、途端に私の胸が躍り出す。
 アルバイトの終わり時間を逆算しながら、苛々として返事をかえす。 いつもの週末。 いつの頃からか、ずっと変わらない日常の一コマ。 所謂、ワンルームと呼ばれる狭い部屋に帰るも、シャワーもドライヤーもただ気を急くばかりであって、いつものような満足に近い髪形が決まらない。
 裸のままでクロゼットを開け、そこにある服の中から、一番のベストのコーディネイトを考える。
 あぁ、あの服はクリーニング中だ。 この服は先々週に着て行った。 この服だと、ちょっと季節感外れてる。 そんな事を考えながら、私は焦りを感じながらも次から次へと洋服を引っ張り出す。
 いつもいつも、女でいる事は大変だと思う。 服装一つであっても、それは他の同性との間にある駆け引きの一つとなってしまうから。
 下着だって、その日の服に対して、ある程度は合わせなきゃいけない。 無理して着こなす小さめのジャケットだって、機能性より見た目重視だ。 そう言えば、と。 誰かが言っていた事を思い出す。 女の子でいる事は、何事も我慢であると。

 結局その日は、黒をベースにしたシックな服装で家を出た。 今から行くよとメールをすれば、いつものメンバーは既に全員集まっていると言う。
 いつもの事だが、私一人が出遅れだ。 そんな事を思いながら、異常に込み合った電車に揺られながら、夜の街を目指した。
 電車の車窓から見える夜空は、まるで都会の灯りが照り返しているような、そんな気分にさせられる。 何でも、都会の夜空に星が見えないのは、地上が明る過ぎる事も原因の一つらしい。 都会はまるでスポットライトの絨毯のようだ。 光が光を打ち消しているのだ。 そんな光の渦の中人々は群れ集うのだから、それはまるで夏の虫のようだとも感じられる。
 ふと、幼かった頃の思い出が頭を過ぎる。 まだ私が、遠い地方の実家で暮らしていた頃は、隣町にあった野球場の灯りが二階の窓から見えて、何故かその灯りに異様にドキドキしたものだった。
 夜の街に煌々として存在するそれは、何故か人の心を惹き付ける。 まるでそこに何かが待っているかのような、そんな気持ちを抱かせる。 それは、夜の闇と言う畏怖を払拭させる存在だからだろうか。 それとも、そこにこそ人の存在を認められるからだろうか。 まるでそこでは、毎夜の如くに祭りの賑やかさが展開されているような、そんなイメージまでもが幼き私の心にはあった。
 私は、それに似た感覚だと思った。 週末の夜の街は、そんな高揚を持ってそこに存在する。 駅を降りて人々がせわしなく行き交う通路を抜けて、夜風の漂う外へと出ると、まるで昔に見たお祭りの喧騒そのものな世界がそこにはあった。
 だが、似ているのはその雰囲気だけ。 その後に待っているのは落胆だけ。 それが判っていながら、どうしていつも私の胸は高揚で沸き、躍るのか。 私はそんな自問自答を繰り返しながら、スクランブルの交差点を渡り始める。
 いつもの裏通りから、いつもの地下へと続く階段を降りて、いつものクラブの重いドアを開ける。
 途端、音と煙が襲い掛かる。 そこはさながら、地下の庵の阿片窟のようだ。 クラブとはどこでもそうらしいのだが、わざと居心地の悪さを演出していると言う。 私はいつも、それは一体どんな意味があっての演出なのだろうと考えてしまう。
「アカル、こっちだ!」
 少し先の暗がりで、私の名を呼ぶ野太い男の声が聞こえる。 私はその声に従ってそちらへと向かう。
 既にいつものメンバーはそこにいた。 薄汚いソファーの一画を占領し、薄くて不味いアルコールを並べながら、だらしない格好で談笑している。
 先程私を呼んだウェインが、自分の横に座れと少しだけ腰をずらす。 私はほんの少しだけそこに座る事に抵抗を感じたが、それもほんの一瞬の事だった。 私は敢えて鈍感を決め込みながら、この場では一番の重要な事である、「ノリ」のままに、陽気な笑顔で腰掛けた。
 ウェインはさりげない仕草で私の腰に手を回す。 何で遅くなったんだよと耳打ちするかのように顔を近付けて来る。 吐く息が、煙草の匂いと混ざったアルコールの匂いだ。
「友達と逢ってたの」 私はバッグからメントールの煙草を取り出しながらそう答える。 こう言う場面では、決して仕事で遅くなったとは言ってはいけない。 これは一種の暗黙のルールである。 私は過去に何度もこの手の失敗をして周囲から大いに呆れられ、そしてその経験から学んだ事でもあった。
 こう言う場所にたむろする人種のほとんどは、何故か現実的なる会話を酷く拒む。 私生活に触れるのも、普段の仕事も家族の事も、全てはタブーとして聞く事も聞かれる事も無い。
 実際、名前ですらそうだ。 私達のほとんどは、全て自分が名乗るか、紹介されて知るその名前だけで呼び合う。 私の隣で、もはや彼氏気取りで肩に手を回すウェインでさえも、どこからどう見ても崩れた印象の、アジアな日本人以外では無い。
 本当は、スズキのタローさんな普通の名前であろうウェインは、剥き出しにした両腕に派手なタトゥーを彫り、どれだけ金を掛けているのであろうかその頭は、自慢のドレッドヘアーだった。
 私は、最初から気の抜けているジンフィズを少しずつ口に運びながら、周囲のラップ音楽に押されるような声で、実にどうでもいい会話を無理矢理なノリで弾ませる。 こう言う場で、取るべき対応は大きく二つに区別される。 一つは、どれだけ自分にとって興味の無い会話でも、とにかく笑って返事をかえす。 それが出来なかったら、ひたすら曖昧な返事で無気力を装うかどちらかだ。 そして私は前者だった。 無気力で通して行ける程、気が強くもなければ曖昧な性格もしていなかったからだ。
 最近ではほとんど変わる事の無いこの顔触れの中、私はテーブルの向こうの煙の中の、ジュンの姿をちらりと見やる。 ジュンはもはや私になど目もくれないままで、隣にいるアヤだけに会話を飛ばしている。 どうせ腹の内は、一度だけ私を試してみたかっただけの事だろう。 私がウェインに馴れ馴れしくされていた所で、視線の端にも止まらない様子だ。
 つまらない。 心からそう思った。
 いつもの事だ。 毎回そう思う事だ。 だが、どうして私はここにいる。 話もつまらなければ、酒も雰囲気も好きじゃない。 ましてやこのいつもと同じ顔触れの中、事ある毎に男女のパートナーが変わるこの常識すら嫌悪でしかなかった。
 見渡せば、そこに集う男の中で、私が知らない男はほとんどいない。 恐らくは、今夜からはこの隣に座る色の浅黒い男が私の身体を抱くのだろう。
 生理的な嫌悪感すら麻痺させながら、私は自問自答する。 私は一体、どんな意思でここに存在しているのかを。


 薄暗がりの中、私はけだるい感覚のまま、床に散らばった下着や衣服を探して拾い集める。
 私は、まるで何かの汚れ物のように丸まってしまったショーツを広げ、何のために衣服や下着のセレクトをしたのかと思いながら、物凄い後悔と罪悪感を感じつつ、のろのろと身に付け始める。
 ベッドの上では、大きな体躯のウェインが呑気にいびきをかき始めている。 私は起こさずに帰ろうかとも思ったが、後の事を考えればあまり得策でもないなと感じつつ、時間ギリギリまで寝かせておくかと思いながら狭く小さなソファーに腰掛けて、バッグから携帯電話を取り出した。
 折り畳みを開くと、途端に暗がりの中に小さな四角の灯りがともる。 少しだけ眠気を覚え始めた私の目には、その灯りは案外に強烈だった。
 メールのマークが目に入る。 私は特に何も心を動かさないままにメールを開く。 まず真っ先に目に飛び込んで来たのは、「エイジ」と言う名前のフォルダ。 私はすぐに、軽蔑の入り混じった気分でそのフォルダを選択する。 そこには、いつものエイジらしいメールがあった。 朝ならおはよう。 夜ならこんばんはから始まる、実に優等生なる挨拶が先頭に来るそんなメール。 私はかなり辟易しながらそのメールを流し読む。
 やっぱりこの男は好きじゃない。 私はそのいつもの文面から、そのメールの送り主に拒否反応を覚えてしまう。
 メールの内容だけを言えば、それは実に他愛無く、今日の自分の生活の中で起こった非日常やら、何かを見た、聞いた事への感想。 その程度の内容でしかなかった。 だがそのメールに打ち込まれる文章は、さりげないほどに言葉や表現が巧みで、読んでいる私を惹き込ませる。 実に会話が上手。 いつもそんな印象だけをそこから強く感じ取る。
 私は少し、うしろめたさと劣等感を感じながら、返信のボタンを押す。
「男と寝てるの。 邪魔しないで」
 そう書いて送る。 恐らくは、今晩はもう彼からのメールは来ないだろう。 そうして私は、音を立てないようにして携帯電話を折り畳むと、そっとバッグにしまい込んだ。


「今、どこにいるんだよ?」
 ウェインは、通話が繋がると、開口一番にそう言った。 私は面倒な気持ちを隠そうともしないまま、ぶっきらぼうに、「自宅」と答える。
 時計を見れば、昼の二時過ぎ。 今日のアルバイトは夕方から夜中までなのだから、出来ればもっと寝ていたかったのが本音なのだが、こうやって電話で起こされてしまった以上仕方が無い。
「自宅ぅ? 何やってんだよ」
 私はウェインのその言い方に少し腹を立てたのだが、すぐに思い直して、「別に何もしてないよ」と、極力感情を声に乗せないようににして返事をする。
 こう言う言葉遣いと、こう言う実の無い会話のやり取りは、私達の流儀だ。 まるで定型文。 儀式か挨拶。 こう言うやり取りをしながら、私達はそこに何かしらの話題を探すのだ。
 何聴いてんだよ? 今日は何すんの? そう言えばアツシの奴がさぁ・・・。
 いつもと何ら変わらない会話。 そして、何度も聞いているにも関わらず、まるで初めて聞いたかのようにして問い返す、どうでもいい話題でしかない身内の中の小さな事件。
 何も新鮮さが無く、何も面白くない。 相手が誰であろうとも、それほど大差の無い会話。 それでも、掛かって来る電話を無視する気持ちも持てないままに、私はいつもと同じように、辟易している会話を繰り返す。
「アカル、今日はヤケにノリ悪ぃじゃん。 何か面白れぇ話ねぇのかよ」
 ものの数分で途切れる会話に、いつものようにウェインは非難を投げ掛ける。 それに対して私は少し苛立つが、会話の途切れの気まずさは私自身も同様で、「ゴメン。 今ちょっとテレビ観ていて話半分だったんだ」と、いかにもな嘘を吐く。 そしてそれに対しての相手も同様。 「ふざけんなよ」と、笑いながら返事をする。 罵り合いですら重要な会話。 時間を埋める為の、必要な会話なのだから。
 自然、話題はセックスの事にも及ぶ。 ウェインは、身体を合わせたからこその慣れなのか、実に下卑た事にも話を振って来る。
 どこが感じたとか、何度イったか程度の質問ならばまだマシだ。 ひたすら嫌悪するのは、仲間内の中に措いて過去に私と関係を持った事を誰でも知っているであろう男の名前を挙げ、「俺とどっちが気持ち良かった?」と聞いて来る事。
 私は物じゃないと、心で思いっきり蔑みながらも、「ウェインの方がいいに決まってるじゃん」と、笑い声で返す。
 どいつもこいつも、皆同じだと思う瞬間。 やはり私と言う存在は、あの中では、「誰かのセックスフレンド」でしかないのだと確信する瞬間。
 私は、「ゴメン、充電切れたから」と、慌てた振りをしながら一方的に電話を切る。 思わずこみ上げて来そうな吐き気を無理矢理に抑え、電話を放る。

 一体私は、誰に何を望んでいるのだろう。

 再びベッドに倒れ込みながら、いつもの自問自答が始まる。 勿論、どんな思考も結論には向かわない事を知りながら。
 嫌な気分だと思いながら目を瞑る。 瞬間、枕元に転がった携帯電話が細かく震える。 のろのろと緩慢な動きでそれを掴み、慣れた手付きで折り畳みを跳ね上げる。
 メールが一件表示されている。 私は何となく予感を持ちながらそれを開くと、やはりそれは、いつもの、「エイジ」からのメールだった。
「変な男」 私は、独りで呟きながらメールを開く。
 それはいつもの通りの、日記のような長文メール。 こんにちはから始まって、ご機嫌ようで締め括る、実に綺麗な言葉が並ぶ、嫌味なメール。 どうやら今日のエイジは仕事が休みの日の様子で、いつも私達が集まる街の中で、一人でお茶をしているらしい。
 気持ち悪い。 私は素直にそう感じる。 そして何故かは知らないが、私は彼にだけはその不愉快さを素直に伝える事が出来た。
「相変わらず素敵な日記をどうもありがとう。 つーか、何? 孤独にお茶してるのはいいけど、まさか私に、来いって言ってるんじゃないよね?」
 私はためらいもせずに、そのままの文面を送る。 そしてほんの数分すら待たずに、エイジからの返事が来る。
「出来れば逢いたいね。 どうかな? 今から来ない?」
 咄嗟に頭が熱くなる。 彼のタイミングも悪かったとは思うが、それでもやはり今の私には耐えられず、どこから来たのかも判らないような怒りの感情はそのメールをきっかけとしてほとばしり、彼への返事は罵詈雑言なる悪態三昧だった。
 メールの最後は、彼をストーカー扱いするような言い方で締めた。
 ちょっと八つ当たり過ぎたかと思い始めたのは、それからしばらく経っての事だったのだが、結局はそのメールのフォローも出来ないまま、もうその日はエイジからのメールは来なかった。


 舌を這わせる。 胸から腹部へと。 腹部から脇腹へと。 そして両手で下着をめくり上げるようにしてずらすと、愛撫を屹立したその部位へと移す。 この時ばかりは、どんな男であっても従順なる獣のようだ。 恍惚の表情を浮かべながら、時折快感な吐息を漏らす以外、私の言いなりのように身を任せているからだ。
 しばらくの愛撫の後、ウェインは体勢を入れ替えて、今度は私の上へと覆い被さって来る。
「ねぇ、ゴムしてよ」
「・・・外出すよ」
 いつもそう言いながら、ウェインは避妊を嫌がる。 こう言う所も、他の男達と全く変わらない。 私は、ためらいながらも徹底した拒否も出来ずに受け入れる。 いつもながら、駄目な女だと自覚する一瞬だった。 こう言う状況で組み敷かれていると、もはや後先の事などどうでも良くなってしまうからだ。
「気持ちいいのか? アカル・・・なぁ?」
 背中に薄暗い天井の灯りを背負って、表情の見えないシルエットだけのウェインが、笑い声で聞いて来る。 私は、貫かれる度に襲って来る快楽と、苦痛を伴った圧迫感。 そして、擬似的に与えられる満足感に浸ったままで、ウェインの言葉に自分自身でどんな返事をかえしているのかも判らないままに喘ぐ。
 この時ばかりは、どんな嫌な事も忘れられるような気がする。 例え相手にどんな興味を持てないとしても、どれだけ生理的に嫌悪していたとしても、それ以上に得られるのは、「孤独ではない」と言う圧倒的なる満足感なのだ。
 私はこの男は好きじゃない。 むしろ嫌悪するようなタイプだ。 だがそれでも、そんな存在でも、私の欲しい何かは埋まる。 私は自らの両手をその男の背中に回し、自らの意思で手繰り寄せる。 手繰り寄せては耳を噛む。 舌と舌を絡ませる。
 嫌悪と、罪悪感と劣等感。
 一体、何に? 一体、誰に? 判らないまま、私は野良猫になったような気分で、脳まで貫かれるような衝撃に溺れ始める。

「エイジって、知ってる?」
 私は、隣でまどろみ始めたウェインに聞いた。
 数秒遅れて、「あぁ?」と返る。 もう既に口まで半開きのままで、ウェインはかろうじて返事をしている様子だ。
「最近良くメールが来るのよ。 エイジ・・・その名前に覚えない?」
 私はウェインの眠気など気にもしないまま、矢継ぎ早に聞く。
「エイジ・・・? 聞いた事あるような気もするけど、良くわかんねぇ」 ウェインはもっそりとした声で返す。
「何だよ、お前自身が顔も知らねぇ男なのか?」
 ウェインは言う。 私は黙って頷く。
「そりゃあ気になるわな。 つーか、第一あの街ん中じゃあ、どいつもこいつも本物の名前なんかありゃしねぇ。 名前出したって、すぐに判る訳なんかねぇじゃん」
 確かにそうだと思った。 探せば、エイジと名乗る男など、結構沢山見付かるかも知れない。 だが、だからと言ってどうなるものだろうか。 現に彼は私に対し、何度も逢いたいと言って来ている。 だが、毎度断っているのは私の方だ。 行けば逢えるし顔もようやく一致するのは判っていると言うのに、私はどうも彼と逢うには二の足を踏む。
「どこからメアド漏れたんだよ」 ウェインはそう言いながら、私の腕を引き寄せる。
 私は、「さぁ?」と答えながら、彼の上へと覆い被さる。
 私は、全く興味の持てない男に抱きつき、したくもないキスをしながらも、そこに自分の存在価値を見つけ出す。 ウェインは、そんなつまらない男とは逢うなと言うが、私にとっては貴方も大差無い存在だと、そっと声に出さずにそう言った。


 帰りの電車の窓から見る街の灯りは、例えようも無く寂しい。 それはまるで夏の祭りの後の寂しさに似て、まだそこには宴の余韻めいた何かが残っているかのような感覚さえ感じられる。
 そしてそれと同時に、一刻も早く家に辿り着きたいと言う思いも強烈に湧き出す。 いつもの後悔。 いつもの落胆。 そして、例えようもないぐらいの虚無感だ。
 街の灯りは本当に不思議だ。 私は、流れて行くその灯りを見ながらそう思う。 そこには何も待ってはいない。 灯りの中に飛び込めば、いつもそれがイミテーションだと言うのが判ると言うのに、どうして私はいつもそこに何かを期待してさ迷い込んでしまうのだろう。
 遠くに見える街の灯りは、まるで麻薬か媚薬のように魅力的に見え、そこにさえ行けば何もかも望んだものがあるように思えるのに、こうして帰りの電車に揺られる頃には、果てしなくゼロだと言う虚無感だけを抱えて家路に着く。
 それでも又、週末に呼び出しが掛かれば、私はいつものように胸躍らせて出掛けて行くのだろう。 何の魅力も感じない顔触れと、何の進展もない会話をするためだけに。
 私は、ふと思い出す。 昔住んでいた、地方の小さな田舎町を。 その町の中で開かれる年に一度の祭りの後は、帰りたくない友人達同志でいつまでもいつまでも、夜の遅くまでたむろしながら騒いでいたものだった。
 私は、あの果てしない高揚感が大好きだった。 普段は寡黙な男友達も、その時ばかりは凄く笑った。 凄く楽しそうに、色んな話を語ってくれた。
 どれだけ嫌いな女友達だって、その時ばかりは凄くいい人に見えた。 まるで長年の嫌悪感は、今この瞬間に仲良くなれる為の布石だったような気までした。
 暗闇の公園で、いつまでも長引く宴の余韻。 あれは私がまだ幼かったからこそ楽しかった思い出なのか。 心も身体も大人になった今、同じ体験をしても、面白く感じられなくなってしまっているだけなのか。

 熱く長いシャワーで二人分の汗を流し終わった後、私は小さな冷蔵庫から、冷えた缶ビールを一本抜き出し、タブを引く。 あまり美味しくも感じられないアルコールを口にしながら、私はバッグの中から携帯電話を取り出した。
 予感した通り、エイジからのメールが一通。 私はそれを開いて見る。
 相変わらず、嫌味なぐらいに流暢で、変化に富んだ文章だった。 たかが彼自身の一日の出来事を、自分の感想を交えて書いているだけのメールだと言うのに、どうしてここまで色んな発想や視点で自分の日常を見る事が出来るのだろうかと思える程に、それは、惹き込ませる文章だった。
 そしてそれと同時に、私が彼を嫌悪するのはまさにそこだった。
 ここまで豊かな発想や文章力を持っている事に対しての、自然なる嫉妬。 周囲にそれに近い人間がいないせいもあるのだろうが、あまりにも特異な存在と思える為の嫌悪感も手伝って、私には単なる嫌味か、遠回しな軽蔑にすら思えてしまうのだ。
 私はその晩も、目一杯な拒否と、あらん限りの嫌味を持ってメールの返事を打つ。 それでも彼は、翌日には普通に、何事も無かったかのような返事をくれる。 そこがますます、私の苛立ちを募らせる要因でもあった。
 メールの最後は、「気味が悪い」と言う文句で締めて、送信のボタンを押す。
 私は一日の日課を終了させて、部屋の電気を消してベッドへと潜り込む。
 内心では感じていた。 自分がどれだけ嫌な人間になってしまったかを。 もしかしたら、昔に感じていた私が大嫌いな人種は、まんま今の私がそうなのじゃないかと。
 私は凄く悲しくなり、頭の上まで布団を被る。 それと同時にベッドの横のサイドテーブルに載せた携帯電話が、着信を知らせる振動を伝える。
 瞬間、ドキリとする。 一瞬で、期待が身体を駆け巡る。 すぐにメールを開くと、それはエイジからの返事だった。
 私は多少落胆したものの、何故かその晩に限っては、エイジのメールですら嬉しかった。 私はフォルダを選択しながら、いつもメールに感じるこの期待や嬉しさは、何もない部屋の中で、唯一誰かと繋がっていると言う意識から来るものではないかと思った。
「相変わらず厳しいね。 でも、お返事嬉しかったよ。 俺は今仕事が終わった。 これから帰る所。 おやすみアカル。 いつか又、ゆっくり話したいね」
 私はその文章に、ぐっと何かが詰まるのを感じた。
 思えばそれは、私や私達の間の中では、タブー視されている事ばかりで埋まる表現だと思った。
 自分の感情を表に出すのは恥であり、思ったままを言うのも恥だった。 他人に何かを求める事も、訴える事も、全ては自分のプライドを優先させた遠回しな表現こそが格好良く、ましてや仕事の存在やら、「おやすみ」なんて言うバカげた挨拶など誰もしない事ではないか。
 何故この男は、そのタブーの全てを逆にするのだろうと思った。 毎日来るメールの中でも、たかが道端に咲く花にすら詩的な感情を抱いているような事を書く。 それが私にとっては、変を通り越して気持ち悪い。 恐らくそれこそが、彼と逢いたくない最大の理由だろうと思えた。
 私はベッドの中で、メールを打ち返す。 私と貴方はいつどこで逢ったのかと言う事と、どんな仕事をしているのかと言う質問。 そして、どうして私に毎日メールを寄越すのかと言う疑問も添えて。
 ほんの数分で、返事は来た。 逢えば思い出すし、質問の答えもそこで判るとエイジは言う。 尤も、俺を覚えているならばの話だと添えながら。
 そしてメールの最後には、「毎日メールを送るのは、単純にアカルが好きだから」とまで書いてあった。
 そこで私は再び詰まる。 何故そこで、私の胸の動悸が早まるのだろうかと不思議に思った。 これだけ短いサイクルで色んな男を経験し、キスもセックスも単なる挨拶代わりでしかないぐらいな大人になったと言うのに、どうしてこんな幼稚なる文句一つで顔が熱くなるのだろうかと。
 私はその晩、エイジ対して何度も何度も、メールの返事を打つ夢を見た。 自分が打つメールの返事は、どれもこれもエイジの書く日記のようなメールの真似であり、そして今の自分の精一杯なる表現の全てであり、仲間の誰にも見せられないような、恥ずかしいだけの禁忌な内容のメールだった。
 朝日と共に目覚めた私は、少しだけうろたえながらエイジ宛てのメールの送信欄を開く。 果たして夢の中身はどこまでが正夢だったのかと不安になりながら。
 そこにはポツンと一言、「ありがとう。 おやすみ」と送った、私のメールがあった。 私はそれを見て、少しだけ素直に笑えたような気がした。


 妙な気分だと思った。 私が、「おはよう」とメールをすれば、必ずエイジは、「おはよう」と返してくれた。
 勿論、まだ抵抗はあった。 そのメールを送るまでには相当の努力と迷いがあるのだが、そうやって送ったメールにちゃんと返事が来ると言う事に対しては、それ以上の嬉しさがあった。
 相変わらず彼への不信感と、自分の持つ劣等感は消えはしなかったが、それでも、ウェインやその他の仲間から来るメールや電話よりはよほど楽しいと思えるようになった。 エイジと言う男の持つ性格やら人間性は未だ見えては来ないのだが、どうやら他の男が接して来るような裏だけは、彼からは感じなかったからだ。
 私から彼に対しての嫌味が減り始めた頃には、次第に私からも、自分の日常を話すようになって来ていた。 勿論彼のような表現は出来なかったが、それでも彼は全く馬鹿にするでもなく、しっかりと返事をしてくれた。 それは、対人間関係においてはごく普通の事だったような気もするが、最近では非常に懐かしい気分でもあった。
 エイジとの会話は、本当に妙な気分になる。 仕事や仲間関係の全てを含めても、私の周囲の誰にも属さない。
 コンビニエンスストアでのアルバイトも、仲間内の会話でも、必要なのは事務的なほどに簡素な返事や反応だけ。 そこに何かしらの主張があると、途端に相手は不思議そうな、不機嫌そうな顔をする。 私はそうやって、都会に住む人々は無表情を作り上げて行くのではないかとすら思った。
 私がそう言う事をエイジに話すと、エイジは面白い返事をかえしてくれた。
「人は皆、主張と自己顕示を取り違えているんだよ。 自分だけを認めてくれって言ってるだけで、誰も相手を見ていないんだから」
 最初はその言葉の意味が良く判らなかったのだが、自分の仲間を当て嵌めて考えてみると、次第にそれが理解出来て来る。 確かに誰を見ても、「自分を見てくれ」と言ったオーラを発しているように思えた。
 だが誰も、そう言う主張を上手く表現する方法を知らない。 だからこそ、虚勢やら自慢話、ノリだけの浮かれた会話群。 それだけで成り立っているような、仲間関係にすら思えて来る。 そしてそれを自分に当て嵌めたならば、私こそはその最たる人間なのではないかとすら思えてしまう。 同性と相対すれば、着ている服やらブランド品。 連れている男やら、虚勢な話。 男と相対すれば、口説かれ抱かれて、私を欲してくれている事にだけに存在を感じている。
 高い代価だと思った。 身体を売って、媚を売って、ようやく成り立つ人間関係。 そしてそれは、こうして私だけにくれるエイジのメールと等価であると言う事実。 次第に私は、エイジはもしかしたら私の苦悩が何たるかを知っているかのようにすら思えてしまう。
 私は、いい加減あなたが何者なのか教えてくれとメールを打つが、彼はその質問だけは、「逢うまでの秘密」として教えてくれない。 私は少しずつ彼に対して打ち解けて行く自分を感じているものの、そこだけが私の中にある彼の、どうしても信用の出来ない唯一の物に思えてしまうのだった。
 私は、アルバイト先がある二つ向こうの駅で降り、徒歩でのんびり歩きながら、エイジに、「行って来ます」とメールを打つ。 するとエイジからすぐに、「行ってらっしゃい。 頑張って」と返事が来る。 私は何となく自分の歩調が速くなるのを感じながら、今度誘われたら、彼に逢ってもいいかなと考えていた。
「おはようございます!」 私は、アルバイト先の店の入り口のドアを開けると、先程の勢いのままそう挨拶をする。 店長が不思議な顔を私を見たが、すぐに困ったような笑顔になって、「あぁ、おはよう」と挨拶を返してくれたのが、何故か不思議な感覚に思えた。


「あの晩、貴方が連れて行ってくれた店、教えてくれない?」
 その場の皆が、驚いた顔をしながら私を見ている事に対して極力無視をしながら、アヤの腰を抱くジュンに向かってそう言った。
 その全部を白に染めた坊主頭のジュンは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに不満の顔色になりながら、ソッポを向きつつ返事をかえす。
「何の事だよ。 あの晩って、いつだよ」
「貴方と私が初めて寝た日よ。 尤もその晩限りの事だったけどね」
 周りから、無言でどよめく声が聞こえた。 ジュンの隣に座るアヤなどは、いつもの無表情さはどこへと飛んでしまったのか、丸い目をして私を見ている。
「ふざけんなよ!」 ジュンは、手に持ったグラスをテーブルの上に叩き付けながらそう言った。
 こう言う場でする話じゃないだろう。 過去の事を暴露して俺と縒りを戻したいのかと、ジュンは怒りの表情を顕わにして叫ぶ。
「違うわ」 私は極めて冷静に返事をする。
「あの晩、貴方が連れて行ってくれた店を知りたいだけなのよ。 あの晩は私は相当酔っていて、全然覚えてないの。 店の場所も、貴方との会話も。 別に縒りを戻したい訳じゃないから、覚えていたら教えてくれない?」
 どこからか、クククと笑う声が聞こえた。 それに続いて、バカじゃねぇのこの女と言う声も聞こえた。 私は気まずさを感じながらもジュンの返答を待つが、ジュンはどうやらそれに答える気すらないだろうと思わせる程に顔を赤くしながら、私を睨んでいた。
 私はその時、ここにいる全員は、ちゃんと感情を持っている事にようやく気が付いた。 どれだけクールさを装っても、それは単なる格好でしかなく、無表情や無感情すらも、こう言う場面で本来の自分を顕わにし、恥をかきたくないからだと言う事にあらためて気が付いてしまったのだ。
 周りを見渡す。 その場にいる全ての人間は、恐れと、驚きと、軽蔑と、嘲り。 皆、そのどれかの表情を持って私を見ていた。
 面白い仲間意識だな。 私はそう思いながら立ち上がる。 きっと話題に貧相なこのメンバー間であっても、これでしばらくは盛り上がれるだろうと思いながら、私はその全てに見納めをする気も持てないまま、ありったけの笑顔で、「おやすみなさい」と挨拶をしてそこを立ち去った。
 背後でジュンが、「誰とでも、ナマでしたがるエロ女のクセによ」と、罵る声が聞こえた。 続いて、全員の嘲笑。
 あぁ、みっともない。 これが彼らの本性かと。 したい時には限りなく優しく口説く声色も、結局は繁殖なる本能の一部分だけでしかないじゃないかと。 そして、それと同時に、自分自身に思い切り腹が立った。 何でこんな連中に対し、今まで愛想尽く事無く、仲間外れにされないように媚を売り続けて来たのかを思いながら。

 階段を上り、地上へと出る。 もう季節は秋だと言うのに、この街に吹く風はまだまだ蒸し暑い。
 何故か気分は晴れ晴れとしていた。 あれ程、居場所を無くす事を恐れていた私だと言うのに、何故か全てを失って初めて、限りなく自由な気分になった。
 バカみたいだったなと、あらためて気付く。 あれ程何かを求めてこの灯りの中に飛び込んでいたのに、私自身が何も求めていなかったのだから、そこに何かを見付ける事なんか出来る訳ないじゃないかと。
 私はとりあえず歩こうと思った。 全く例の店の見当は付かないが、何も実行しないで求めるのは下らないと思ったからだ。
 そうして踏み出した一歩に続き、突然背後から肩を掴まれる。 振り向くとそこには、困惑した顔のウェインがいた。
「どうしたの? あなたまで仲間外れにされちゃうよ?」
 私は、笑いながら言う。
「ジェイズ・バーの通りの、二本目の路地を左。 最初のビルの三階の店だよ。 アカルが探している店は」
 ウェインは、真剣な顔でそう言った。
「・・・どうして知ってるの?」 私が聞くと、「ジュンが自慢気にそう言ってた」と、ウェインは答える。
「アカルはあの晩、奴にクスリを飲まされた。 だから覚えてないんだよ」 ウェインは続けて言う。
「何でその店に行きたいんだよ? 例の、エイジって奴がそこにいるからか? 何がいいんだ、そいつは?」
 今度は私が驚く番だった。 ウェインと言う男は、ここまで素直に会話が出来る人間だったのかと。
「・・・そうね。 もしかしたら、そこにエイジがいるのかも知れないのよ。 彼からメールが来るようになったのは、その次の晩から。 そして私が彼を探したい理由は、彼が大嫌いだから」
 ウェインは、聞いて肩を竦める。 やれやれと言ったように、両手を広げながら。
「行ってもいいが、浮気はすんな。 今のアカルの男は、俺なんだから」
 私は今度こそ可笑しくなって笑い出す。 まさかこんな無愛想な男の見本のような人間が言う台詞とは思えなかったからだ。
「本当の名前を教えてくれたらね」
 私の返す意地悪に、ウェインはボソリと、「ウエダマサルって言うんだ」と返してくれた。


 あぁ、ここだ。 一瞬で、私の曖昧だった記憶が鮮明になる。
 この街にしては珍しく、窓のある店だった。 空調が行き届いていて、少しも煙草臭くもないし、ボックスを仕切る衝立の全ては観葉植物と言う、この街においては珍しいぐらいに贅沢な作りをしている店だった。
 背後を流れる音すらもノイズめいたラップではなく、オールディーズなBGMか、ピアノアレンジな軽音楽だった。
 居心地の良さが、今の私には居心地が悪い。 なんとなく自分の存在が浮いているような気がしながら店内を見渡すと、カウンターの向こうから、「いらっしゃい」と言う声が聞こえて来た。 見ればカウンターの向こうには、微笑みながら私を向かえてくれている、女性バーテンダーの姿があった。
 再び、吐息が漏れる。 ここに辿り着くまでその存在を忘れてしまっていた自分に、凄く苛立つ。 私は誘われるままに、前に来た時と同じカウンター席に座り、「こんにちは」と返事をした。
 白いワイシャツに、黒のベストと黒のネクタイなその女性は、私の記憶の片隅にあるままの笑顔だった。 軽いパーマネントのブロンドヘアの彼女は、私が席に着くと、黙ってグラスを二つ用意して、馴染みのないカクテルを作り出す。
「ミモザ。 アルコールに免疫の無い人にはお勧めのカクテルだから」
 彼女は、私がアルコールに弱い事を知っている。 だが私は、彼女の事はほとんど思い出せない。 一体その晩は、彼女にどこまで話をしたのかも判らないまま、少しだけ不公平さを感じつつ、差し出されたグラスを傾け乾杯をした。
「実は私、前回ここに来た時の事、ほとんど何も覚えてないの」
 私が言うと、そのバーテンダーの女性は笑いながら、「そりゃあ、相当に酔ってたもんね」と返す。
 だが、彼女との会話がやけに楽しかったのは思い出せた。 そしてぼんやりとだが、隣にいたジュンが私と彼女との会話に割って入れずに苛立っていたのも思い出せた。
 あぁ、そうだ。 そして私は、彼をそうやって怒らせたんだったと思い当たる。 すると目の前にいた彼女は、まるで私の思考を読んだかのように、「あの時の彼は怒ってなかった?」と聞く。 私は笑いながら、「相当怒ってるみたい」と言うと、彼女もまた笑い顔のままで、「そりゃああれだけ派手に無視されたら、怒るでしょうね」と言った。
 私はその時の事を教えてと彼女に言うと、彼女は端的に、「あなたを口説く暇がなかったから、置いて帰っちゃったわよ」と言う。 なるほど、ジュンがあの後あれ程に冷たくなって、あれ程過激に怒った理由が今ようやく判った気がした。
 私は今日の事を彼女に話すと、「そりゃあ、トドメな事言っちゃったわね。 その件だけ言うと、普通にあなたの方が悪いと思うけど」と言う。 私は吹き出すと、彼女も同時に大笑いした。
 しばらくの間は、彼女との会話を楽しんだ。
 私にとって、彼女の会話とは実に興味深いものだった。 そこには一切の社交辞令的な言葉は無く、どんな会話にも、「彼女」と言う存在が感じられた。
 それは私にとっては凄く新鮮で、非常な程に興味を湧かせた。
 彼女の会話は実にスマートで、知性を感じさせる。 だが決してお仕着せな主張も無ければ、誰かの受け売りのような美辞麗句でも無く、ただ、「人間と会話をしている」と言う印象だけが強く感じられるのだった。
 私は、彼女は誰かに似ていると思った。 私が強く嫉妬し、その豊かさを嫌味だと思ってしまうような誰かに。
 私は彼女に向かって半分わざと、「エイジ」の事を聞いてみた。 もしかしたらその晩、ここで逢ったかも知れない、記憶の片隅にも無い男の事を。 私にしつこくメールをして来て、何度も下手なナンパをしては、私に冷たくあしらわれている男の事を。
 そして私は、今度こそは彼と逢ってみようと思っている事や、彼のお陰で自分が何に対して不満を持っているのかが判った事までも話していた。
 そして、これでもし彼が男でなければ、私はもっと素直に好きになれていたかも知れないと言う事まで。
 だが彼女は、それについては何も語らなかった。 ただ、「気になるなら逢ってみればいいじゃない」と言って笑うだけだった。
 私は、三杯目のミモザを頼みながら、名前も知らない彼女に打ち明ける。
「私はもう、この街の中では居場所無くしちゃったんだ」
 しかし彼女は、ただ笑いながらグラスを磨き、「ここで良いなら、今後はここに来ればいいだけの事じゃない?」とだけ言うのだった。
 帰り際、彼女に名刺を渡された。 残念ながら彼女はエイジではなく、ユウリと言う名前だった。
 そして私は、またここに来ようと思った。 この、「Ages」と言う名のバーに。



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