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Last update 2008年03月16日

アーネスト、舞い降りて  著者:なずな



「無いんだ。世界のさかい目が」
トシ子さんの後ろ姿を見ながら 奏子はぼそり、そう言った。


奏子が風邪で寝込んでると聞いた時、あたしの手元には彼女の生物のノートがあった。
このまま休んだら、期末テストに突入してしまう。
ノートもとらずにぼんやり授業を受け、赤点覚悟でへらへらしていたあたしに奏子が無理やり押し付けた。
借りっ放しでテストを受けるのは、いくら何でも気が引ける。
最近奏子が、トシ子さんの話題をあえて避けているのは感じていたから、行っても良いものか少し迷った。
奏子の祖母で、「作家」のトシ子さん。
小学生の頃、あたしたちはよく奏子の家で遊んだ。

「そうこ」。
頭が良くて、しっかりもので可愛い奏子を、からかうネタがこれしかなかったのだろう
小学校入学してすぐの頃、悪ガキたちが「体育ソーコ」「備品ソーコ」と奏子を囲んではやしたてた。
箒を振り回し、キックやパンチでそれを全部蹴散らかし、一人残らず倒したのがこのあたしだ。
身体の大きい高学年の男子を、唇をぎゅっとかみ締め毅然とした態度で睨みつけていた奏子が、
あたしを見て急にくしゃっと表情を崩し泣き出しそうな顔で「ありがとう」と一言 言った。
それが始まり。


和風な佇まいの奏子の家の、その中のこれまた純和風な一室が トシ子さんの仕事部屋だった。
けれど中から漂う薔薇の花の甘い香りと、古いレコードから流れるクラッシックの音色は、
ふすまを隔ててそこだけ別世界のように思えた。
そしてウェーブの掛かった髪とロングスカート、フリルのブラウスというトシ子さんのいでたちは、
彼女の得意とする物語の主人公「架空の国のお姫さま」を思わせた。

「作家ってこういうものなのかと、妙に納得したんだよ」
ふと出た話題であたしがその姿を目に浮かべて言うと、奏子はお弁当に入った小梅を綺麗な箸使いでぽいと口に入れ
「作家・・ねぇ」
ものすごいすっぱい顔をしたまま口を閉じる。
トシ子さんの話題はいつもそんな風に終わってしまうのだった。

 *

「まぁ、フローラ姫、よくいらしてくださいました。お待ちしてたのよ」
ウェーブの掛かった長い髪を揺らし、トシ子さんはピンクの花柄ワンピースで玄関先に現れた。
元気そうだ、良かった・・と思う。
それなりに歳はとっているが、あたしももう高校生だ。お互い様だ。

初めて奏子があたしを紹介した時、トシ子さんはにっこり笑って「フローラ姫ね」と頷いた。
あたしの名前は、トシ子さんのファンだった母が物語の主人公の名前を取ってつけたのだ。
「由花」という少女がファンタジーの世界で「フローラ姫」となって冒険する話で、何度も母が読み聞かせてくれた。
私のこと、覚えていたんだな・・皺が増え、全体にくすんだ感じのするトシ子さんを見て、過ぎた年月を数えてみる。
あたしの視線に気づいたのか、トシ子さんは ぱさぱさした髪を指でつまみ、悲愴な表情を作って言った。
「おぉ、フローラ、すっかり銀色になってしまったでしょう?これも、あの呪いのせい。
この呪いを解くために、誓いを立てて・・ああ、もう何年経ったのかしら」

ドン、と足を踏み鳴らす音。
胸の前で両手を堅く握りしめ、魔女の呪いについてなお語り続けるトシ子さんの後ろに、
パジャマ姿の奏子が仁王立ちしていた。
「何?」
「あ、これ 生物のノート。それと、プリントも持ってきた。風邪・・大丈夫?」
「何てことない。軽くサボりかな。わざわざ持ってくることなかったのに」
そういいながらも奏子の顔色は悪かった。熱もありそうだ。
「まあ、大事なお知らせなのですか?フローラ姫の国でも何か大変なことが・・」
ずいっ。
奏子が酷く乱暴なしぐさで、トシ子さんを押しのけてひとこと
「部屋に戻って おばあちゃん」
「おばあちゃん」を殊更はっきり発音してトシ子さんに 廊下の先を指し示す。

きょとん、とした目で小首をかしげたトシ子さんは、少し間を置いてから
「はあぃ・・お母様 申し訳ございません」
嗄れた声で返事して、叱られた童女のように肩を落とし、すごすごと部屋に戻って行ったのだった。



 *

「『フローラ』に また会いたいんだってさ、来る?」

風で集まった道端の枯葉の山を、わざと蹴散らかしてから、奏子は言った。
テストも無事に終わり、奏子のおかげで赤点も免れた。
12月に入って気持ちはすっかりクリスマスモードに入った日のことだった。
「百合先生が、あたしに?」
「・・『百合先生』なんかじゃないよ、もう」
「だって、うちの母さん未だにファンだよ・・うちには本もあるし・・あたしも読んだ小学校の時。
『カタリナ国物語』とか『伝説の騎士』とか・・」
「何だ、そんなに本読んでたんだ、由花」
奏子は読書家で勉強も出来る。感想文は辛口で、読んだ先生も苦笑しつつも納得する内容だと言う。
あたしはあんまり本を読む方じゃないけれど、名前の由来でもあるトシ子さんの物語は好きだった。

御薗百合というのがトシ子さんのペンネーム。でも、トシコさんの本はもう書店には並んでない。
この前図書館で見つけたものはすっかり古びてページが黄ばみ、借り出す人を待ちくたびれた顔でひっそり棚に並んでいた。
母の少女時代がトシ子さんの作家活動の最盛期だったらしい。
次々に本が出て、シリーズ化したものが今、クライマックス・・というその時に、
トシ子さんは、ぱったりと書けなくなってしまったのだという。。

「『カタリナ国』の挿絵が好きだったなぁ」
あたしが言うと、奏子は
「ああ・・」と肯き
「あの時はその画家が恋人だったんだろうな。そんな話、母さんの前で絶対しちゃダメだよ」
奏子は硬い表情でそう言うと、トントンと弾むように数歩先に進み、また枯葉の山を蹴散らした。
「あのさ、さっきのは奏子のおうちへのご招待?トシ子さんの『お城』への入城許可?」
クリスマス飾りをつけた店のショーウィンドウを覗きながらあたしは聞いた。

クリスマスの時期にトシ子さんの「城」を訪ねるのは楽しかった。
海外で買ってきたというリツリーやクリスマスの飾りは、絵本の中の世界のようで
トシ子さんは キャンドルを灯し 格調高い感じのクリスマスソングのレコードを掛けて迎えてくれた。

今まで話題を避けてた様子やこの間の態度を見ても、奏子がトシ子さんを他人に関わらせたいとは思えない。
奏子は黙って、つま先で乾き切った枯葉を踏んで細かく砕く作業を続けている。
カサコソ砕ける枯葉の音を聞きながら 奏子の返事をぼんやり待っていた。
「私はさ・・」
砕いた枯葉の破片が風で吹き飛ばされて行くのを見届けると 奏子が振り返ってあたしの顔を見た。
怒ったようにぎゅっと結ばれていた口が 徐々に緩んで、寂しげな微笑に変わる。
「私はさ・・母さんみたいにトシ子さんのことで苦労してきた訳じゃないし・・
 本当は迷惑かけられたと思ったことないんだ」
今だってトシ子さんをあのお城に閉じ込めて 誰にも会わせないなんて、そんな風にはしたくはないのだ・・
トシ子さんが勝手に閉じこもっているだけなんだけれど、それで安心している母を見ると 
何となく違うような気がするのだ・・奏子はそんな風に言って、

「あんな婆さんの相手をしに、うちに遊びに来るかどうかなんて 由花の自由だけどね」

「自由」がこんなに難しいとは思わなかった。
あたしたちはもう小学生の頃と同じじゃない。


 *

「あら、いらっしゃい。フローラ」
部屋を覗くと、拍子抜けするくらいしっかりした声でトシ子さんは言った。
「奏子とお勉強?息抜きの時間かしら?」
「あ・・いえ・・」
返事に困る。
俯いて、トシコさんのビーズ飾りのついたビロードの部屋履きを眺めながら、言葉を探す。
何か言うべき言葉はそのへんに落ちてないかな・・。

「良かったらどうぞ、でもがっかりしないでね、まだクリスマスの準備はできてないの」
トシ子さんは襖を隔てた「城」に 笑顔で招きいれる。
懐かしい花の香りが微かにする。小学生の頃、どんなにこの部屋に入るのに胸ときめかせたことか。
きらめくシャンデリア、大きな書棚には金文字の入った背表紙の立派な本たち。
サイドテーブルの陶器のお人形、ガラスのボンボン入れ、洒落たティーカップ、
毛足の長い緋色のカーペット・・
だが、目の前の現実は 文字通りに色あせていた。
明らかに和室の天井、壁、畳。無理やり設えられえた感じの派手な照明器具のガラスは曇っている。
調度品はほこりを被り、カーペットは硬く、すべては時の経過をまざまざと見せ付けていた。
キイキイと擦れた声で泣くような音を立てる揺り椅子に腰掛け、トシ子さんはようこそ、というように
両手を大きく広げて微笑んだ。

トシ子さんは目を瞑り、揺り椅子をゆっくり揺する。
「ああ、懐かしいわ、フローラ姫」
あたしは目の前のトシ子さんの顔に、そっと昔の面影を探した。
作家の百合先生・・若くて綺麗な奏子のお祖母さん、きらきらした世界に住むあたしの憧れの存在。
「お茶はいかが?」
トシ子さんは茶渋の付いたティーカップを優雅な手つきで差し出した。


 *

「奏子も後で来るんだと思ってたのに」
「トシ子さん、私が行ったって喜ばないもん、別にさ」

音楽を聴きながら紅茶を飲んで、ぼんやりしているうちに、トシ子さんはこくっりこっくり眠っていた。
あたしが行って何かが変わったとも思えなかったけれど、奏子は珍しく真面目な顔をして
「ありがとう」
と言った。
「驚いた?何もかも骨董品みたくなっちゃってさ、特に本人」
「いや・・」
ちゃんと普通にお喋りなさったよ・・なんて言うのは失礼なんだろうか・・
上手い言葉が見つからなくて、あたしは黙ったまま首を横に振った。
けれど、部屋で話をした時のトシ子さんは、この間廊下で見た「世界の境目がなくなったトシ子さん」とは少し違っていた。
あの時は ふわふわと幸せな世界で生きている感じがしたのに、
部屋の中で二人きりの時のトシ子さんは何だかひどく切なそうで、頼りなくて寂しそうに見えたのだ。
忘れ去られたお城の中で、孤独に年老いてしまったお姫様。
そして、もう一つ気になったのは、誇らしげに書棚に並べられていた「御薗百合先生」の本がすっかり無くなって
ぽかっりした冷たい空間に変わっていたことだった。
「聞いてもいいかな・・」
「うん、何?」
「いつ、百合先生は自分の書いた本を片付けちゃったの?」

 *

そのことでずっと悩んでいて、誰かにずっと話したかったんだと思う。
その日 送るといいながらあたしの部屋まで付いてきた奏子はそのまま長いこと居座った。

「母さんは、小出しにぽろぽろ愚痴言って、とぼけた顔して面倒見て、
今だってああやって壊れていくトシ子さんが『城』の中で閉じ込もっているの、
黙って世話してるだけで・・・」
おばさんのこと、そんな・・挿もうとする安易な言葉を、奏子は目だけで押し返す。
「やっぱりさ、やっぱり私はそんなの嫌だ。トシ子さんに思いっきり迷惑してるくせに、
トシ子さんの書き物応援してるふりする 母さんも嫌だったけど」
奏子のお母さんは、線の細い感じのする物静かな人だ。
トシ子さんはずっと作家として忙しく仕事をしていたので、奏子のお母さんはほったらかしで
だから、子どもの頃から自分のことは何でも自分でしたという。、
成人すると「今の家に入ってくれる人」という条件で結婚相手を探し、
今度はずっとトシ子さんの身の周りの世話をしてきたという。
何だかトシ子さんの影のような人だ、初めて見たとき、子ども心にもそう思った。

奏子のおじいちゃん、マサミさんについてはあまり知らない。
女みたいな名だと本人が嫌がっていたというから何となく名前だけは覚えていたけれど
あたしが遊びに行っていた頃からもう 入退院を繰り返していてあの家にはほとんどいず、
あたしと奏子が6年生の頃に亡くなっていたからだ。
「職人気質で無口で、冗談も言わない真面目な人だったけど、傍にいたら安心する温かい人だったよ。
何でトシ子さんなんかと結婚したのかね、本当に可哀相だと思ったよ」



小学校の頃奏子とあたしは、お仕事中だからと止められても、よくあの「城」に入り込んでは遊んだ。
後で聞いた話だと、その頃はもう奏子のお母さんが言うような「大事なお仕事」はもう依頼も来なくって
地方紙のコラムや企業PR誌の小さなコーナーに広告を含んだような短編を、頼まれたら書く程度だったそうだ。
それでも、原稿用紙を広げ、資料を積み上げ、細い指で万年筆を走らせるトシ子さんは 
あたしにとっては十分「作家の百合先生」だったのだ。

飾り棚の上のきらきら光るガラスの小さな動物たちは「城」の中でも特にあたし達のお気に入りで、
トシ子さんが書き物に集中している間に並べ替えたり、それぞれに動かして台詞を言わせて遊んだ。
原稿を書いているはずのトシ子さんが急に、あたしたちの台詞を受けて答えてくれたり、
そこから即興で物語を作って話してくれる。それはあたしにとって夢のような時間だった。

「フローラ姫、今日の猫の台詞は素晴らしかったわ。あなた、才能あるわよ」
あたしの考えた台詞についてこっそり耳打ちしてくれた時なんか、飛び上がる程嬉しかった。
トシ子さんの部屋でいつも流れていたクラッシック音楽はさっぱり解らなかったけど、
無茶苦茶に大声で歌いながら走って帰り、寝るまでそのトシ子さんの言葉を 頭の中、何度も何度も繰り返した。
そんな時はもうすっかりあたしは将来の「作家」で、やたらと華麗なペンネームをいくつもノートに並べてはうっとりした。
本当は作文ひとつまともに書けなかったんだけどね。


一度だけ、トシ子さんの「フリン相手」というのを見たことがある。
秘密の呪文でも教えるようなひそひそ声で 今、トシ子さんの部屋にいるのがそうだ、と奏子が言った。
襖の隙間から覗くと、そこにはスーツ姿で眼鏡の、さえないおじさんがいて
「では、頂いて帰ります」
と 原稿の入った封筒を持って立ち上がるところだった。
入り口のあたしたち驚いて、躓きそうになったその男の人は
「いやあ、お孫さんですか、可愛いなぁ」
見え見えの愛想を言いながら そそくさと立ち去った。
奏子のお祖父さんをほったらかしたまま、一作品ごとに新しい恋をして それがインスピレーションの源・・という
子どもながらにドキドキする話は、眼鏡男の出現でかえって色を無くした。

「それでも・・・」
奏子は言う。
作家としての最盛期、奏子が生まれる前は、華やかな恋愛遍歴がマスコミでも取りざたされて
奏子のお母さんは随分嫌な思いをしてきたのだという。
「私たちが見たあの眼鏡男が恋愛対象だったのかどうかは 解らないけど・・」
少なくとも、おじいちゃんの病気の間も部屋に篭って何かを書き続け、危篤の時でさえ「取材旅行」に出かけていて 最期に間に合わなかったのだそうだ
「なのにトシ子さんは三回忌の時 急に出てきてお酒をがばがば飲んで へろへろになりながら
自慢げに新しく書いている物語の話なんか始めたんだ」

来ていた親族は、トシ子さんに対して嫌悪感を露にする。
そんな中、奏子のお母さんが間でおろおろする姿が奏子には耐えがたかったのだという。
「ぶち切れちゃったんだ。私」
中学生の奏子はトシ子さんに酷い悪態をついた上、トシ子さんの作品を最低だと叫ぶと
「城」の中に駆け込んで、本棚のトシ子さんの書いた本を全部床にたたき付けた。
「あんたのせいだ」
言葉遣いまで日ごろになく乱暴に、奏子はトシ子さんを責めたのだ。
中学の時、物事が少しずつ別の角度から見え始める頃。
「奇麗事ばっかり書いてさ、あんたのせいでどんだけ周りが迷惑してきたか解んないの?
何が勇敢で向こう見ずな少女だよ、何が何があっても助けに来る翼の生えた騎士だよ、そんな都合のいい話誰が読むんだよ。
最期までほったらかして、お祖父ちゃんが許したって私はあんたのこと許さないから。絶対に許さないから」

奏子の言葉を黙って聞いて、トシ子さんはふらふらと「城」に戻り、それから部屋に篭って一歩も出なかったという。
数日してやっと出てきたと思ったら奏子にぶちまけられた本を トシ子さんは黙々と庭で焼いた。
そして、その日から何にも書かなくなったのだという。

「本を焼く火の音がいつまでもいつまで聞こえてさ
 サイアクなのはアンタだ、サイアクなのはアンタだって、誰かが耳元で言い続けてるような気がしたよ」
奏子はあたしの顔を見ずに一気に話し、
「爺ちゃんとトシ子さんの関係なんて あたしには何にも解ってなかったのかもしれない」
ふはは、と投げやりな笑い方をして奏子は 何故だかぺこりとあたしに頭を下げた。
奏子のゆがんだ笑い顔があたしの目の裏側に貼りついた。

 *

あたしと数時間過ごした日のトシ子さんはとても調子が良いらしい。
「訳解んない台詞繰り返して母さんに迷惑もかけず、母さんの気苦労が減って、
家庭が平和だから 大変よろしい」
奏子が通知表の所見のようなメールを打ってきた。
「だから、有難う。良かったらまた来てくれるかな」
と、メールは続いた。
「いいよ、遊びに行く。あたしは今のトシ子さんも好きだから」
他人だからこんな無責任言えるんだと思う。だけどそんな風に言う方が奏子が喜ぶ気がしたし。

 *

「お邪魔しました」
玄関先に男の人がいる。何処かで見た顔だ。
記憶を辿る。それは以前トシ子さんのところに原稿を取りに来ていた例の出版社の人だった。
あたしはその年月分歳をくった眼鏡男の後を追って声を掛けた。

眼鏡男、いや出版社の中沢さんの話では、トシ子さんの初期作品を復刊する話が持ち上がり
その話をしに来ていたのだという。
「今でも通用しますよ、百合先生のファンタジーは。いや、今だからこそ広く読んで欲しいんです」
この人は語り出したら止まらないタイプらしく、トシ子さんの作品への思い入れを情熱を込めて延々と あたし相手に話し始めた。
相変わらずのさえない顔がこの時だけ、ちょっと輝いて見える。
やっと、話が途切れた時、あたしは聞いた。
「で、トシ子さん・・いえ、百合先生は何て?」
「昔書きかけてらした新作を、完成して頂きたいと思って、お願いに上がったんですがね・・・」
中沢さんは首を横に振りため息をつくと、
「ものを書ける状態ではないようですね」
この人と二人でいる時も、「境目の無いトシ子さん」のままだったのか。
あたしは何となく、トシ子さんが自分で切り替われるんだと想像していた。
それはただのあたしの希望だったのかもしれない。

「お孫さん」だと思ったままの中沢さんに あたしは別れ際に聞いた。
「あなたは、その・・百合先生の恋人だったんですか?」

 *


「不倫なんかじゃなかったんだよ、少なくともあの眼鏡の編集者は」
そして トシ子さんの本にこれ程心酔している、そんな人がいる。
そのことを奏子に伝えながら、あたしには何だかとても嬉しかった。

そして奏子のおじいちゃんの危篤の時の「取材旅行」はひとり旅だったこと、
危篤の連絡が旅先に届いた旅館でトシ子さんは
「死ぬなんて嫌だよぉ、死に目になんか会いたくないよぉ、嫌だよぉ、嫌だよぉ・・」
大声で泣いて子どものように駄々をこね、帰宅が遅れたことも、聞いた通り奏子に伝えた。
中沢さんも そんな話、最近になって知ったのだという。
「私が仕事でお付き合いしていた頃は 書きかけの物語が、どうしても書けないと悩んでおられました。
書くのを諦めて欲しくなくて、何度もお伺いしてたんです。ボクは先生のファンでしたから」

奏子のおじいちゃんが亡くなってから、トシ子さんはさっぱり書けなくなってしまったのだ。
奏子が三回忌でトシ子さんを責めなかったとしてもやっぱり、物語の世界に入り込んだまま、
先を見失って迷子になっていたのだと思う。

それは、やっぱり奏子のおじいちゃんの存在がトシ子さんの創作の支えだったからじゃないのかな。
あたしはそう思うんだ、奏子。
書くのは得意な方になったけど、相変わらず話すのはあんまり上手くない。
言いたいことの半分も伝わったかどうか解らなかったけど、中沢さんに話を聞いた後、全速力で奏子の家に駆け込んで 
ぜいぜい言いながら、あたしは必死でそんな風に話したのだった。

いつも夢の世界にいるトシ子さん。
創作の世界のまま生きているトシ子さん。
あたしは、そんなトシ子さんと時間を過ごしながら、やっぱりトシ子さんには、また書いて欲しいと思う。
トシ子さんの机の上にはいつも万年筆があり、原稿用紙が置いてある。
最近何度か「城」を訪ねたときも、万年筆を持ったままぼんやりしているトシ子さんを見た。
あたしに気が付いて、慌てて万年筆を引き出しにしまう。
一文字も書かれていない原稿用紙が一枚、床に落ちていた。

 *

「物語、書きなよ」
奏子がトシ子さんの「城」に乗り込んで来て、言った。
足をぐっと開いて立って、怒ったような顔でぶっきらぼうに、奏子は言う。
ちょうど、トシ子さんがお茶を入れてくれようとポットを持ち上げた時だった。

「私のせいで、全部やめちゃったなんて、そんなのないよ。勝手に世界に引きこもるなんてずるいよ。
どこまでもトシ子さんはずるいよ。何で簡単に捨てられるんだよ」
一気に言い切って、荒い息遣いのまま奏子はトシ子さんを見据えた。
奏子を見つめ返すトシ子さんはそのままピクリとも動かず表情も変えない。時間が止まってしまったかのようだった。
静寂を破ったのは、薔薇の柄のポットがトシ子さんの手を離れて床に落ち、硬いカーペットの上でゴロンと音をたてた時だった。
のろのろとした動作でトシコさんはそれを拾い上げ、割れてないことを確かめるように
両手で包み込むようにして眺める。奏子の言葉の意味がまるで解っていないかのようだった。
反応の鈍さに奏子は唇を噛み、拳を握る。
「頭ん中どうなっちゃってるんだかなんて知らないよ。
文字が書けるかどうかも知らないよ。
でも、書きたいんだったら、書きなよ。読みたい人がいるんだよ。
トシ子さんの書いたものが好きだって人が待ってるんだよ。」
半ば叫ぶように言い放って奏子は 大きく肩で息をついた。

「爺ちゃんは・・言ったんだ」
奏子の方を見ず、トシ子さんは黙ったままポットをコトンとサイドテーブルに置いた。
窓の外の風が強くなったのか、コトリコトリと木の枝が窓ガラスを打つ。
終わったレコードがプツプツと小さな音を立てて回っている。
「爺ちゃんは言ったんだ・・書いてるあいつに惚れて惚れて、一緒になったんだから後悔はしとらんって・・
あの時も書きかけのトシ子さんの物語が、ちゃんと進んでるかどうかだけ、心配してたんだ」
トシ子さんは目を大きく瞠り、向き直って奏子を見つめる。唇がかすかに震える。


「アーネスト・・」
長い沈黙の後、トシ子さんはぽつんとそれだけ呟くと ふらふらと仕事机へ近寄り、倒れこむように椅子に座った。
トシ子さんはそのまま、あたしたちに背を向けてピクリとも動かない。
あたしは 涙でぐちゃぐちゃになった顔で立っている奏子の肘を掴んで、そっと「城」を出たのだった。

 *

トシ子さんが物語の続きを書き始めた、と聞いたのは、それから数日後のことだった。
「相変わらず日常も『夢の世界のひと』だけど、書き物してる時は頭はっきりしてるみたいだ。
悪筆がさらに酷くなってるから、私がパソコンに打ち込んでやることにした」
「口述筆記?」
「うん、ま、そのようなものかな」
「羨ましい。じゃ、一番最初の読者だね」
あたしの言葉に照れたように頷き、にっと笑う奏子は何だかいつもより可愛らしくて
長いこと引きずってた錘がどんなに重たかったのかということに、あたしは今更気が付いたのだった。

「でもさ・・、やっぱり進まないんだ。『翼の生えた騎士』がどうしても迎えに来ないらしい」
奏子が物語について、少し心配気に言い出した時、プルルルと着信音がして、奏子の携帯に電話があった。
奏子のお母さんからだ。
「すぐ行く」
奏子は電話を切り、青ざめた顔であたしを振り向くと
「トシ子さんが図書館の窓から落ちた。私行かなくちゃ・・」
事故・・まさか自殺・・?
頭の中にちらりと浮かんだ言葉を頭を振って追い出し、ともかく無事でいてくれと祈る。
奏子のことも心配だったので、荷物を引っつかんであたしも奏子の後を追って病院へ走った。


「もうずっと外になんか出なかったのに・・私が付いていってれば・・」
奏子のお母さんは細い身体をますます消え入りそうにして 震えていた。
「大したことないって。事故だったんだ。母さんが自分を責めることないよ」


古い石造りの図書館は昔トシ子さんお気に入りの居場所で、よく資料を探したり気分転換に行くところだった。
高い天井、飴色に光る階段の手すり、天井近くまである細長い木枠の窓には、ひとつひとつ小さなバルコニーがついている。
そこから懐かしむような目をして外を見ていたトシ子さんは、急にバランスを崩し、何か叫びながら転落したのだった。
「飛び降りる・・とか、落ちるって感じじゃなかった、って見ていた人が言ったらしいよ。どちらかというと・・」
そこで、奏子は言葉を切り
「空に向かって両手広げて嬉しそうな顔で・・まるで昇っていきそうな感じだったそうだ」


「お母さん、お母さん」
手術室の前でトシ子さんの名を呼びながら奏子に寄りかかる奏子のお母さんは、まるで小さな子どものようだった。
この人も色んな想いを抱えながら、それでも「作家の百合先生」を愛してきたのだろう。
寂しかったり 苦労したり、迷惑したりして、複雑な思いを抱えて今まできたこと、想像するのは簡単だけど 
トシ子さんとこの人との間にも あたしも、奏子でさえも測り知れない想いがあるんだろうな。
トシ子さんの手術の待ち時間は随分長く感じられた。
その間、あたしと奏子は廊下の長椅子に並んで座って、ずっと黙っていた。
奏子が何を思っていたのかは解らない。
あたしはぼんやりと、トシ子さんが書きあぐねていたという物語のことを思い出していた。

「アーネスト・・って?」
ふと、ひっかかる。奏子がおじいちゃんの言葉をやっと伝えた時、トシ子さんが一言呟いた言葉だ。

「例の翼の生えた騎士。自由奔放な少女リリィをずっと見守って、支えてた。
でも 物語の途中で消えてしまって、リリィが呼んでも来ないんだ。いつも大事な時には必ず助けに来てくれたのに」
「主人公の少女『リリィ』・・か。百合さんの分身ってことかなぁ」
英語は苦手だけど、百合くらいは解る。
「ねぇ、おじいちゃん、『マサミさん』だったよね、確か。どんな漢字書くんだっけ・・」
「マサミ。『誠実』って書いて、マサミ・・・」
「誠実?」
「そ、誠実。その名のとおりの人だって、それだけが取り得の人だって、よく母さんも言ってた」
「『誠実』って・・」
「誠実」、Earnest・・翼の生えた騎士アーネスト。
そして 図書館はふたりの思い出のデート場所だ。

「今頃気づいたか」
奏子はあたしの顔を見て、ほぉっとため息をついた。

 *

日当たりのいい病室。
ベッドサイドにノートパソコンを持ち込んで、奏子はトシ子さんの口から流れ出る言葉を打ち込んでいく。
足を骨折し、腰と背中を痛めたトシ子さんは、それでも溢れんばかりの創作意欲を見せ、
奏子の打ち込みの遅さに文句を言う程だ。

「フローラ姫」
病室を覗いたあたしに、トシ子さんは顔をほころばせ、優雅に手を振った。
花柄のシルクのガウンを羽織ったトシ子さんは、顔色もすっかり良い。
奏子に持ってこさせた薔薇のポットで、お茶をどうぞ、とあたしに勧めた。
茶渋は綺麗に取れて、皇かな陶器の白地に鮮やかな花柄を浮き上がらせている。
奏子のお母さんも病室にせっせと物を運んでいるらしく、病院の個室はもうすっかりトシ子さんの「城」になっている。
クリスマスの飾りまで、部屋全体に施されていた。

「あ、これ」
キャビネットの上、あたしが気が付いて手を延ばしたのは、小さい頃好きだったガラスの猫とうさぎ。
「由花ちゃんと奏子にひとつずつ差し上げるわ、好きだったでしょ。クリスマスプレゼント」
トシ子さんはあの頃と変わらないあたしの憧れの「百合先生」の声で、そう言った。
ふと見ると窓際に「誠実さん」とトシ子さんが寄り添う写真が置かれている。
背景はあの古びた図書館、バルコニーがしっかり映り込んでいた。

 *

「出版できるような、ちゃんとした作品になるかどうかは、解らないんですがね・・」
談話用のコーナーのソファーに並んで座ると、ガラスのうさぎを手でもてあそんでいた奏子が
うさぎをひよこひょこ動かし、子どもの時みたいに声色を使ってそう言った。 
「そう、なんですか?」
あたしは猫を傾けながら、キイキイ声で答える。でも昔みたいに思うように話が続かない。
奏子とあたしは互いに顔を見合わせて、少し笑った。

「ああ、そう言えば、うさぎ、・・・図書館のバルコニーで、百合先生は何を見たんでしょうかね」
あたしの猫が聞くと、うさぎはちょっと考え込んでからこう答えた。
「『リリィ』が待ちわびた『翼の生えた騎士』がやっと、舞い戻って来たんだと思いますね」
思わず指先の人形から、奏子の顔に視線を移す。うさぎの動きが止まって、声色を忘れて奏子が呟いた。
「『アーネスト』と『リリィ』・・か、トシ子さんらしいベタさだよね、笑えちゃうね」
そんな風に言いながらも、奏子は笑わず、うさぎは身体を少し傾けたままじっとしている。
「あたしは・・」
猫が答えた。
「百合先生らしくて、すてきだと思いますよ」




ガラスのうさぎと猫は窓枠に並んで、夕暮れの景色を眺めた。
クリスマスの飾りつけをした大きなもみの木が病院の中庭にあり、チカリチカリと青いライトを点滅させている。

「きれいだね」うさぎが言い
「きれいだね」猫が答える。

今日は一段と冷え込んで、雪でも降ってきそうだ。
どこかで空から舞い降りる大きな翼の音が、聞こえたような気がした。




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