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Last update 2008年03月16日

積層構造体  著者:AR1



 「人が変わっていくのは救いであって、自分が変わらない世界なんて、私はごめんこうむりたい」と、暗い部屋の中で数十時間、密着に等しい距離から呟かれる哲学的セリフに、いよいよ〈それ〉はうんざりし始めていた。もっとも、音楽の主題部のように延々と繰り返されるのではなく、無機質な声に乗る朗読のように持論を展開する。しかし、約二時間で終幕に到達すると前文からリピート再生されるのだ。非周期的な振動だけでも堪えるというのに!
 暗い、暗い部屋の中、〈それ〉は極めて退屈という単語の意味を身近に感じ始めている事を、自身の感覚が弛緩し始めている自覚症状によってようやく気付いた。〈それ〉は相応の年を重ねてはいたが、いよいよ自己主張の大波に拒否反応を覚えるようになったか、と若かりし頃の記憶を重ねて嘆息した。〈それ〉はうんざりとした様相を隠しはしなかったが、水平線の果てしなさを思うような不毛な自己主張を説き続けていた自分を述懐する。時折耳にする「『最近の若者は』という言葉を使い始めたら、退廃的思考に突入したと思え」という教えを思い出
し、なぜ私達は一様に主張を繰り返すことを辞さないのだろう、と考えた。体のところどころが擦り切れるほどの年月を重ねていても、一筋縄には解決出来そうにない問いだった。
 そういえば、と〈それ〉は歩んだ道のりを顧みる。生という名の最初の一ページ、一行目、一文字目が記された時、〈それ〉には知の集積という名の役割が与えられた。重ねられる紙の重みともに、〈それ〉に価値という名の肉付けが成されていった。育て親は一人ではなかった。幾人もの教育者が〈それ〉に世界を教示した。
 ふと〈それ〉は、命を分かった双生児達は、今どこにいるのだろう?、と思いを馳せる。朽ち果てていなければよいのだがと無事を祈り、粗末に扱われることも多い命運に於いて、未だに全ての部位が欠けずに残っている自分は奇跡なのかもしれない、と〈それ〉は残酷な運命をすり抜けてきた事に戦慄した。

 数十時間という拘束時間は長くもあるが、不当に長いという訳ではなかった。
〈それ〉は六回ほど世話になる場所を転々としているが、主人が暗い部屋中に数週間も放置してしまうことがあった。幸いだったのは、〈それ〉と同じ場所に放り込まれた異人と議論を繰り広げるだけの血気盛んな若さがあった事だ。隣り合わせになった若い衆が独白じみた狂気で教えを呟くのとは違った趣を展開することとなった。ただし、その頃は熟成不足が障害となってまともな討論にならず、結果としては舌戦を装った喉自慢大会に似た体たらくに終わったことを、〈それ〉はタイム・カプセルに入れて保存しておく必要もない鮮烈な記述として保存していた。
 〈それ〉は刺激を失った代償に、過去の教示が真言ではなく、絶対を確約するものではないが、ある一つの視点から眺めた正しさの形状であることに気付いた。
 同時にもう一つ悟ったことは、このような考えに至る物が極めて少ないということだった。誰もが一方通行の片道切符でしか話題を提供する事が出来なかった。彼らは教育された物事を一字一句違わず暗唱する事は可能だったが、新たな価値を吸い上げる事は不可能だった。
 事ここに至り、〈それ〉は自身が「あるべき物ではない何か」という難問にようやく衝突したのだった。その時点で最初の一字が完成した瞬間から二十年の歳月を経ていた。
 〈それ〉の自問自答はあっさりと解決を見た。つまり、「人間以外の、しかし人間的な意識を持つ何か」という不確定要素がたっぷりと詰め込まれた、極めて曖昧なアイデンティティだった。長い時間をかけてでも解決しなければならない問題だ――

 それから更に二十年に渡って様々な場所を旅し、観察した結果、狭い箱の中に押し込められている〈それ〉が行き着いた見解は、人間とて不安定な星の下に生かされている生物という事だった。驚いた事に、人間は生殖を「愛」という抽象概念によって定義付けている。動物的本能に愛の概念は関係なく、強い子孫を後世に残す事が命題である。そもそも、個として生きる事が望みなのではなく、全として生きる事が使命なのだから。
 だが、この四十年を理性で御して来た自分は何なのか、と〈それ〉は自問する。人間ではない以上、人間とは異なる志向性を持たなければならない。〈それ〉は人間とは決定的に異なる機能を持って生まれたのだから、その摂理に従わざるを得なかった。
 やれやれ、と〈それ〉は自嘲する。言語を解する能力はあっても、結局は孤独に謎とのいたちごっこを繰り返すだけの停滞を嘆くしかない。
 〈それ〉の目の前では時折、融和も宥和も化学反応も起きない個性の衝突という名の罵り合いが絶壁の谷を挟んだ砲撃戦のように繰り広げられた。無尽蔵の弾を相手の陣地に放り込んでいるだけで、そもそも勝負にすらなっていない。しかし、彼らは絶叫をやめない。要約すると、誰もが同様の核心の下に正当性を主張した。――我々に刻まれた知識は正しいものであり、それを立証出来るものである!
 〈それ〉の記憶にある中でも片手で数える程度にしか存在しない、まともな――しかし、多数の中にあってはマイノリティなある物が、〈それ〉にしか届かない囁き声で言った。
「あれだけ意見が対立しているんだから、そんなことが出来る訳がないだろうが」
 大きな勘違いをしていると、〈それ〉は歯ですり潰した苦渋の味を知る術を持たなかったが、苦虫を噛み潰している気分というのを初めて味わうことが出来た。対立の反語が連中の辞書には存在しないのだから、当人達には恐らく対立しているという自覚さえないのだ。

 四十年という時間の堆積は、〈それ〉を大きく変貌させるには足りない歳月だった。同時に、四十年という積層が地滑りを起こして崩壊しても何ら不思議ではない歳月でもあった。時間は〈それ〉の体を確実に蝕む。それでも、〈それ〉に致命傷となり得る要素はなかった。
 一度、人間であれば背骨が脳を貫くほどの高所から落ちたこともあったが、幸い〈それ〉の体に致命傷を与えることはなかった。それれの高さを表すには、百七十センチメートルの身長の人物が腕を目一杯伸ばしてようやく届く世界を今、〈それ〉は見ている。向こう側の棚との間にクレバスが露骨な大口を開けており、人間という巨人(ガリバー)の頭頂部を望むことが出来た。
 〈それ〉が棚に収められてから五日が過ぎた頃、眼下で金属が歯軋りしている物音が聞こえた。この店では木製の足場ではなく、一般的な脚立を用意してあるのだと容易に知れた。頭突きを繰り出すように白髪の集団が迫って来たが、確認したのは額のすぐ下に配置された一対の眉毛と老年の男性であることだけだった。
 男は〈それ〉を片手で鷲掴みにするとそれで満足したのか、鑑定の順番を待っている古書が大量に平積みにされているカウンターに連れて行った。五日で主人が見つかったのは、〈それ〉に記録されている中では最速だった。

 〈それ〉のページを繰ると、前書きには簡素極まりない一文が脅迫的威厳を伴う手書きによって記されていた。
「知と考の層を重ねよ」
 〈それ〉は時折、数百ページに渡る履歴を遡って前文を反芻する度に、恨めしげにひとりごちることがある。――言葉というのは、きわめて乱暴なものである。




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