Mystery Circle 作品置き場

Clown

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

遺言  著者:Clown



 人が変わっていくのは救いであって、自分が変わらない世界なんて、私は御免被りたい。
 そう思っていた時期が、嘗ての私にはありました。
 だけれども、変わりゆく事とは不変であることの対義ではなく、また変化とは無限に続く取捨選択の鎖であるかのように、次第に感じられるようになったのです。
 私は、怖くなったのです、失うことに。
 何かを選び取るたび、何かを捨て去っていくこと、それが私には耐えられなくなったのです。
 ですから、私は変わることをやめたのです。
 変わることを、放棄したのです。
 もしかしたらそれは、私という実存の緩やかな死を意味していたのかも知れません。
 そこから先の私の余生は肉体のみの空虚な生であり、精神は既に黄泉路を彷徨う準備をしていたのでありましょう。
 どうぞ、笑って下さい。
 亡骸のみでのうのうと此処まで生きてきた私の半生を。
 どうぞ、笑って下さい。
 そして願わくば、空っぽな私の最期の望みを、聞き届けてやって下さい。
 その望みは。





『遺言』







 祖母が、死んだ。
 俺には良く分からなかったが、何とかという脳の腫瘍で、治療法のない難しい病気であったらしい。
 病院からの電話で呼び出された俺の前に横たわっていたのは、色褪せた記憶の片隅に佇むふくよかな淑女ではなく、まるで干涸らびた木乃伊(ミイラ)のような物体だった。
 骨と皮ばかりになったそれは、肋骨の浮いた胸の上下だけで自らの生を証明しているに過ぎない。そんなものに、記憶の中の祖母と結びつく要素は何一つ無かった。
 ただ一つ、彼女の指にはめられた銀色の指輪を除いては。

「……まだ、持ってたのか」

 高校の時、バイトをして貯めた金で、祖母に指輪を贈ったことがあった。実家から離れた私学に通うための下宿を世話してくれた祖母に恩返しがしたかったからだ。何の装飾もない、ただ花弁の模様が刻まれただけの地味なシルバーリングだったが、普段から飾り気のない祖母は大袈裟なほど喜んで受け取ってくれた。
 その頃は、小指にしかはまらなかった指輪が、今は親指にも余っている。
 病室の扉を閉め、俺はゆっくりと祖母に近づいた。
 様々な機械に邪魔されて見えなかった祖母の表情が、浮き彫りになる。
 落ち窪んでしまった眼窩を覆う瞼は、もう決して開くことはない。控えめに顔の中心に鎮座していた丸い鼻は、枯れ枝のように尖った頂点を天井に向けている。兄と密かに「タラコクチビル」と笑っていた口唇は、最早皮膚の続きでしかない。
 その口角が、わずかに上がった気がして、俺はどきりとした。
 もちろん、そんな事は決してあり得ないことではあったのだけど。

「もうずっとこんな感じだよ、婆さんは」

 後から入ってきた兄が、素っ気ない口調で言った。白衣の上から聴診器をぶら下げた兄は、度のきつい眼鏡を指で押し上げながら祖母を繋いでいる電極の先のモニターを軽く流し見る。

「数字やグラフは生きてるって言うがね。死体と変わらんよ」

 その言葉に軽い嫌悪感が混ざっているのは、恐らく誰もが感じ取れたことだろう。

「不謹慎じゃないのか、病院で」
「病院は生者のためだけのものと思ってるのか? 幻想だよ、そんなもんは」

 そう言う問題じゃないだろう、と言う俺の言葉に、兄は冷めた表情で嗤った。一通りモニター類を観察し終えた後、その先に繋がれている祖母には目もくれず兄は踵(きびす)を返して病室から立ち去ろうとする。
 俺は何か言おうと一歩を踏み出したが、それより一呼吸早く兄が肩越しにこちらを振り返って言った。

「お前がいない間、婆さんを世話したのは俺だ。主治医も俺。この意味が分かるな」

 眼鏡越しに寄越された眼光は、何よりも雄弁に語っていた。「これ以上余計なことを言うな」と。それに気圧されたわけではないが、俺は次の句を続けることが出来なかった。
 兄は、ふん、と鼻を鳴らすと、不機嫌そうな足取りで今度こそ病室から出て行った。スライド式の扉が、重い音を立てて外界と室内を切り離す。
 真っ白な病室に、祖母と二人きりで取り残された。
 人工呼吸器には繋がれていないものの、高濃度の酸素が流れ続けるマスクをあてがわれた祖母の過剰なまでの呼吸音は、狭い室内に五月蠅いほどに響いている。取り付けられたモニターからは一定間隔の電子音が吐き出され、単調な画面に映し出された数値は無機質に踊り続ける。
 俺はため息をつき、兄が去っていった扉を見つめていた。
 医師になってから、兄は変わった。
 いや、正確にはその前から変容の兆しはあった。両親が離婚し、俺は母の元へ、兄は父の元へ行くことになったが、その後も何度か俺達は近況報告のために会っている。そのたびに、兄は俺にこう漏らしていた。

「人は、変わっていくものだな」

 俺にはその言葉の真の意味を理解することは出来なかったが、その頃から兄は、一言で言えば虚無的になった。感情を表に出さなくなった、と言うのもあるが。どことなく全てのことに諦念を示すようになった。
 祖母は父方の母であるため、兄と一緒に暮らし、病気が見つかってからは兄が実質面倒を見ていた。父は仕事と称して遊び歩く日が多く、ついには家に帰ってこなくなったらしい。現在も行方は知れていないという。
 祖母には、兄しか頼る人がいなくなった。そしてその頃には、もう今の兄に変貌してしまっていた気がする。
 俺が祖母と最後にあったのは、もう一年以上も前のことだ。既に病気が見つかって様々な治療法が試されているところではあったが、その時はまだ記憶の中にある祖母の姿と余り変わらなかった印象がある。
 仕事のついでに立ち寄っただけだから、ほとんど会話することは出来なかったが、以前の祖母と何ら変わらない穏やかな顔で他愛ない俺の話に相づちを打ってくれた。兄のことについても話してみたが、祖母は「人は変わってしまうものよ」と静かに語っただけだった。
 今となっては、もうそんな会話も適わないことだけれど。
 もう一度、祖母の顔を見た。
 皺だらけで、色素を無くしてしまったようなその顔は、やはり何の表情も映し出さない。能面のように、或いはそれそのものが彼女のデスマスクですらあるように思えた。
 額に、触れてみる。
 冷たい。
 まるで氷像に触れたのではないかと思うほど、その肌は冷たく、そして硬い。
 さっきの、兄の言葉が、脳裏をよぎった。
 病院は、生者のためだけのものではない。
 ここには、生者だけではなく、死者も確かに存在したのだ。



 祖母は、死んだ。
 人工呼吸も心臓マッサージも行われないまま、祖母は──もうずいぶん前に生者であることをやめてしまっていた祖母の肉体は、生命活動を終えた。
 まるで何事もなかったかのように、祖母の亡骸は白い布に包まれ、あっという間に霊安室へと運ばれていってしまった。
 病室に一人、取り残される。
 あれだけ喧しいほど部屋にこだましていた音は、もう一切聞こえない。病室に残された祖母の荷物を整理しようとしたが、荷は小さな鞄一つだけで、テーブルの上のものを片付けたらあっという間に終わってしまった。
 両手に包み込めるほどの大きさしかない、祖母の荷物。
 何故か、それがずしりと重く感じた。
 俺はもう一度祖母の鞄を開けると、中のものを一つ一つ確認していった。保険証、印鑑、財布、そして小さな手帳と……一通の封書。
 簡単にしか封のされていないそれには、何も書かれていなかった。明かりに透かして見ると、筆で書かれた手紙らしきものが入っているようだ。
 俺は丁寧にその封を開け、中身を取り出した。ざらりとした和紙の感触とともに、折りたたまれた三枚の便せんが現れる。どうやら誰かに宛てた手紙のようだ。紙を広げ、流暢な筆致で書かれたその文章を一つ一つ読み解いていく。

 最後まで読み終えたとき、俺はいつの間にか涙を流していた。

 その手紙を、俺はゆっくりと元通りに折りたたみ、胸に抱いた。先ほどまで一つも感じなかった暖かい熱を、命の熱を、その時確かに感じたのだ。
 手紙をそのまま元の封書の中にしまい込み、俺は祖母の荷物を手に病室を出た。空っぽの白い部屋は、痛いほどの静寂で包まれている。
 まるで、元から誰もそこにいなかったかのように。

 ○

「あれだけ意見が対立しているんだから、そんなことが出来るわけがないだろうが」

 病室を出て廊下を歩いていると、不意にそんな声が聞こえてきた。どうやらナースステーションが出所らしい。通りすがりに覗いてみると、あごひげを生やした中年の医師が誰かに向けて詰め寄っているようだった。

「出来るか出来ないかは、主治医である僕が判断することです」

 反論の声に、俺は少し驚く。抑揚のない冷めた言葉は、間違いなく兄の声だ。
 廊下を少し進むと、棚の死角になっていた兄の姿が確認できた。先ほどと変わらぬ無表情を装っているが、眉根に寄せた皺がいらだちを隠せていない。
 中年の医師は軽く舌打ちをすると、手に持ったカルテを机に放り出した。

「主治医だろうが、一介の医者が部長の指示に反することは出来ん」
「その指示の根拠は。医学の発展が死の蹂躙の上に成り立って良い理由は」
「今はそんなことを言っているのでは……」
「では、血縁者の意志として明確に拒否します。祖母の病理解剖は承諾できません」

 病理解剖。
 確かに聞こえたその言葉に、俺は思わず身を乗り出した。ぱた、と廊下に俺の足音が響き、言い争っていた二人は同時に振り向く。
 中年の医師は俺の姿を確認して、気まずそうに目を背けた。兄はその横をするりと通り抜けると、ステーションのカウンター越しに俺と対峙する。

「荷物は、整理したのか」
「一応は」

 そう答え、右手にぶら下げていた鞄を見せると、兄はほんの少しだけ表情をゆるめた。

「そこのロッカーに入れておけ。半時間もしないうちに見送りの準備が整う」
「分かった……けど」

 その語尾に、兄が再び顔をしかめる。一瞬の躊躇いがあったが、ここで機会を逸するともう二度と願いは叶わなくなってしまう。
 俺は、意を決して左手に持っていた封書を兄に手渡した。

「……なんだ、これは」
「……手紙。たぶん、兄さんに」

 兄はそれを受け取ると、手早く中の便せんを取り出す。そしてゆっくりと噛み締めるように読み終えると、兄は手紙を握りつぶし、ぎり、と唇を咬んだ。
 手紙には、こう書かれていた。



『私を取り巻く環境は、この四半世紀で大きく変わりました。
 愛する息子は何処へともなく放蕩し、愛する孫達はそれぞれの道を歩み始めています。
 皆、変わりました。
 変わらないのは、私一人だけ。
 人が変わっていくのは救いであって、自分が変わらない世界なんて、私は御免被りたい。
 そう思っていた時期が、嘗ての私にはありました。
 だけれども、変わりゆく事とは不変であることの対義ではなく、また変化とは無限に続く取捨選択の鎖であるかのように、次第に感じられるようになったのです。
 私は、怖くなったのです、失うことに。
 何かを選び取るたび、何かを捨て去っていくこと、それが私には耐えられなくなったのです。
 ですから、私は変わることをやめたのです。
 変わることを、放棄したのです。
 もしかしたらそれは、私という実存の緩やかな死を意味していたのかも知れません。
 そこから先の私の余生は肉体のみの空虚な生であり、精神は既に黄泉路を彷徨う準備をしていたのでありましょう。
 どうぞ、笑って下さい。
 亡骸のみでのうのうと此処まで生きてきた私の半生を。
 どうぞ、笑って下さい。
 そして願わくば、空っぽな私の最期の望みを、聞き届けてやって下さい。

 その望みは──私の肉体を活かすこと。

 捨てることを恐れ、変わることを恐れた私にも、肉体の変容、すなわち老いと病は止められません。
 そして私の病がとても珍しく、難しい病であることは、私自身が良く知っています。
 ですから、私の肉体を、この病の解明と治療に役立てて欲しいのです。死んでしまった精神の代わりに、精一杯、活かして欲しいのです。
 私の最後の我が儘を、どうか叶えてやって下さい。


                愛する孫達へ』



「……最期まで、人の気も知らないで……!」

 どん、とカウンターが音を立てた。叩き付けられた兄の拳は、小刻みに震えている。
 言葉というのは、きわめて乱暴なものだ。兄はきっと、変わり果ててしまった祖母の体にこれ以上傷をつけたくなかったのだろう。突き放したような言葉の影で、最も祖母の異変を嘆いていたのは、兄だったのかも知れない。
 だが、祖母はそれを希望した。自らの肉体を、『死』してなお『活』かそうとしたのだ。
 俺は何も言わず、祖母の荷物をそっと兄の横に置いた。そのまま、ロッカーに俺の荷物だけを預けに行く。
 希望は、叶うだろう。
 振り返ると、兄は手紙を握りしめたまま、祖母の遺品を見つめていた。その横顔には、以前の、俺達が祖母を慕い訪ねていた頃の表情が、しっかりと残っていた。

 人が変わっていくのは、救いかも知れない。
 だけど、変わらないこともまた、救いなのかも知れない。




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