Mystery Circle 作品置き場

かしのきタール

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

人魚は再生する。  著者:かしのきタール



 この路線はどうしてこうも"きな臭い"んだろう。病んだ人の顔色みたいに辺りが澱む。酔って据わった眼と同じ黄色に空気が染まる。
 改札機に切符を通した瞬間、わずかに胸をふさいだ重みが、階段を駆けおりる速度に合わせて這い上がり、あっという間に身体を覆った。思わずすくんだ足が、小花模様のスカートを揺らせる。ホームに降りて見回すと、停車したばかりの古い車体の濃い黄色が、うごめく人々に憑依していた。

 人型が重なる向こうにかろうじて見えたストライプ柄の背中めがけて小走りに駆ける。追いつくまで、一度も後ろを確認しない。そういう男だよどうせ。わかっていても腹が立つ。
 混雑した場所だとさっさと先に立って一人で行ってしまうテツ。この古い路線のごちゃごちゃしたホームに降りる時に感じる嫌な重みの原因の一端もたぶん、そこにある。そうだ、全部こいつのせいだ。ホームの際を、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで飄々と歩くテツとまた距離があく。あたしがいること忘れるの?
 トンネルの奥に警笛が響いて目玉が光った。テツを思いきりこづいたら、あっという間に目玉の持ち主の餌食になってしまうのだろうか。そしたらあたしは、散らかった肉片の中からそっと一片拾って帰ろう。テツの肉なら食べられるような気がするから。

 誰も肉片にせず停車した黄色に乗りこんで並ぶと、20センチ上空から、声帯を閉じたままのこもった声が降ってきた。
 「俺、変わったか?」
 顔を近づけるという心遣いもない。そういう男だよどうせ。訊ねたいならこっち向け。黙っていたらやっと顔を寄せてきた。ペパーミントのガムの匂いにクシャミが出そう。
 「ねえ?」すっと通った鼻筋の下で、厚めの唇が誘うように動く。なぜいつも潤っているんだろう。人前かまわず吸いつきたくなる。
 「……ねぇ」 男の潤いに負けないつもりで甘く小さく囁きながら、ポーカーフェイスをつかまえた。
 「……。」口づけせずにいられない。必要以上に近づかないのも、正解なのかも。ミントの香りがリップにうつった。
 「いいや、もう。」触れ合った唇がかえって乾くといわんばかりにあっさりと顔を離してまた前を向く。そう、いいんだよ。人は変わるよ。そう信じるからこそ生きられる。変わらない世界になんてあたしは生きていたくない。

 生ふたつ、と注文してから"お品書き"を読むテツの斜め向かい側、変わったかと訊いてきた、その横顔を見つめる。早い時刻の居酒屋はまだ空いていて、奥の4人掛けテーブル席に案内してもらった。昔風の民家を模したお気に入りの店の、引き戸にかかる縄のれんをくぐる瞬間はいつも恍惚とする。
 こんもりと泡を固めたビールが届いた。ジョッキの外側についた新鮮な霜にワクワクさせられる。テツがつまみを注文する間の"おあずけ"にじっと耐えながら耳をすませていると、最後に「焼きおにぎり」を忘れなかった。やっぱり。テツは"酒より飯"のタイプだから。可笑しくなって、ふふふと笑いながら乾杯した。
 「なにがそんなにおかしいの?」尋ねるテツに手まねきをする。
 「こっちきたら教えてあげる。」ベンチシートの隣を指した。

 牛すじ煮込みを運んできた店員さんにおかわりを告げてから、勢いよくビールを飲み干したあたしの隣で、ジョッキの中身を半分以上残したまま、左手に持った箸で牛すじ肉をつまみ、腕を高くあげてからねじるように口に放り込んだテツが告白をはじめた。
 「まっちゃんって、いただろ。」ビールを待ちながら、煮込みの中から細切れになったこんにゃくをひとつ拾い上げるあたしの頭に、丸い顔の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
 「3-Cん時の松河。」はやくメシ食いたいな、と厨房の方を向く。こういう子供みたいなところを好きでいられるには、期限があるような気がする。再会した元同級生とコイビト気分で付き合うのに限度があるように。
 「そんなに変わったかな、俺。」ほんの一口ビールをすすって、泡と一緒に言葉を浮かせる。すれ違う一瞬他人の視線を向けて、そのまま行ってしまった旧友に戸惑うテツが目に浮かぶ。
 「さびしかったの?」二杯目のジョッキに口をつけてから頬杖をついて向き直り、高校時代のはれぼったい一重まぶたから奥二重に変わった目を、上目遣いに観察する。テツの心に泡は見つからない。
 「ぜんぜん気にしてないクセに。」
 「まあな。」
 串焼きのカシラとししとうが運ばれてきた時、『本日のおすすめ』のボードに「おばけ」と書いてあるのがふいに目にはいった。「焼きおにぎり、まだですか。」と待ちきれないテツが尋ねるから、また笑ってしまう。つきだしには、新鮮なほたるいかが出ている。焼きおにぎりは今ごろ、網で丁寧に焼かれているだろう。

 高校時代、テツは松河くんみたいに丸顔で、家庭科の女性教師みたいに色白で、地理の男性教師みたいな黒ぶちメガネをかけていた。夏の海で再会した時の、浅黒く焼けてあごの尖ったテツは見知らぬ人で、今も、元同級生だなんてことはほとんど忘れてつきあっているから、変わったかと聞かれてもピンとこない。サーフィンを始めたら、顔も体も勝手に変わったんだとテツは言うけど、女子ならともかく、高校を卒業したあと数年の間に、変化する余地がこれほど残っていたなんて、珍しい男だ。
 串焼きの皿に添えられた味噌だれを箸でつついて舐めとりながらビールを飲んでいると、テツが待ち焦がれた焼きおにぎりと一緒に、作りものみたいな白さの"おばけ"が運ばれてきた。
 「なにこれ。」って。同級生に気づかれないくらい変わっちゃう男子の方がよほど珍しいよ。
 「はい。」しっとりとした男の唇におばけをさしこんでから、焼きおにぎりに添えられた白菜の浅漬けに箸をのばして、軽くつつく。
 「お前っていつも飲むだけなのな。」あたしが口にしたいのは、固くしまったビールの泡と、テツの潤った肉だけだ。おばけの味のそっけなさに慣れないテツのポーカーフェイスがわずかにゆがむ。あたしの不満を少しは感じてみたらいい。頬を支えた手のひらが、いじわるな笑みを受け止めた。

 「……ユウリ」
 もどかしげにからまる湿った囁きは、あたしの名前を初めて使った男の、聞きなれない声だった。唇から這いおりた男の熱が、たくしあげられたブラウスの下から乳房に届く。苦しい息を小刻みに吐きながら、姓で呼び合う関係が名前になるタイミングが、いつも似た場面だということを思った。それは男が所有欲に支配された瞬間なんだろう。たとえ一時的なことであっても。
 男の体は白くやわやわとしていた。筋肉を覆う柔らかさは男独特の贅肉だ。テツの、あおむけになると肋骨が浮く腹部が脳裏をかける。
 『磯貝さん、今日の分お願いします。』あたしを姓で呼ぶ時の男の声が、聞きなれた響きであとを追う。 

 陳列する食品を納品するため、毎日のようにあたしの職場である土産物店にやってくる藤田さんは、女性社員たちから浴びる視線に「気づかなかった」と言った。
 「そんなはずないじゃない。」といなすと、自分が扱う商品担当のあたしとしか会話しないように帰社していたんだと言った。会話、たって、挨拶とよろしくと、返品がどうとか、っていう定型文の範囲内でしかないのに。
 「苦手だから。女性ばかりのところ。」
 うつむき加減に声をひそめるしぐさをわざとらしいと感じたのは、ポーカーフェイスのテツに慣れたあたしの偏屈さのせいなんだろうか?

 女の体を隅々まで味わいつくそうと躍起になっている男の狂気をかわし、ベッドに押しつけ首を咬む。意外と筋肉質だった二の腕に歯がすべる。小さな乳首に這わせた舌を、脇腹まで移して舐めまわす。濡れた肌はやっぱり白くやわやわとしていて、咬み切れそうな気がしてくる。この肉を食べることはできるだろうか。強く咬んだら、イタイよ、と、男が顔を向けたから、上目遣いに睨みかえした。セックスは、肉の饗宴に等しい。もしかしたら、テツの肉片を想ったほどに、あたしはこれを欲していない。そう思うには、まだ薄い。テツとの関係を濃いと感じたこともないけれど。

 「カオル……」
 熱の極みを放出したあと、身体の重みを増しながら、あたしの内臓を押しつぶしている男の名前を呼んでみた。
 彼に肉のにおいを感じたきっかけは、貴公子然とした甘いマスクのせいじゃなく、「藤田さん」という姓にあたしが勝手に抱いていたお固いイメージからは意外だった名前に驚いた、あの瞬間だった、と思う。
 バレンタインデーのチョコに特別な理由はなかったし、リキュール入りのチョコを見て「磯貝さん、お酒強そうだよね。」と言うから、社交辞令的に誘ってみただけだった、と思う。
 「今さら、だけど。」と差し出されたプライベート用の名刺にキッチュな書体で描かれた、オレンジ色の『藤田 馨』という文字を、バーの灯りにかざして見た時の出どころのわからない興奮は、同級生だった頃には気づかなかったテツの左利きを知った時の胸騒ぎのするような感情に似ていた。そろりそろりと注意深く飲んでいたバーボンはその時、水割りみたいに薄くなって、なお、あたしの胸を焼いた。

 ----狭い和室で顔のわからない男と抱き合っていると、ハハがふすまを開けて言う。
「お父さんが死んじゃったじゃない!」
 そう言われても困る。チチがしんだのはあたしのせいじゃないし、このままでどうしろっていうの? せめて服を着るまで待っててよ……。

 目をあけると、ベッド脇の小窓から覗く外が白み始めていた。ハハが出てくる夢は、いつも後味が悪い。記憶の中のチチは、土色の顔を澱ませ黄色に濁った眼を据わらせている。肝臓を患っていた。入院したのが遅すぎた。それだけのこと。
 地下鉄のホームのきな臭さを思う。突然消滅したみたいに死んだチチは、そのことに気づかないまま、趣味だった路線めぐりを続けている。……きっと。

 珈琲を淹れながら、小さなバターロールをひとつ温めた。出窓に置いた鉢からちぎったミントの葉を、軽くゆすいでヨーグルトに添える。そっけない朝食だけど、とにかく体が起きればいい。モノを食べる行為なんかしなくても生きられる機能が欲しい。このミントの葉だって、水と光で生きられるのに。
 翡翠色に艶めく生の名残りを左手でつまみあげ、テツのマネをして、高くかざしてから腕をねじるように舌に運んだ。湿った唇を想う。少しずつ明るさを増す出窓にぼんやりと向けていた視線が、壁に飾ったリトグラフの人魚に流れた。
 人魚は、海水や泡や、水に差し込む光をエネルギー源にして生きると聞いたことがある。うろこに浴びた水と空気と光を栄養に変えて、しなやかに泳ぎ、眠り、交尾をし、また泳ぐ。そんなふうに本能のまま生きられたらいいのに。大きく口を開け、ざらつく葉脈を舌の先でいじった。
 震え出した携帯電話が点滅を始めた。テツ?カオル?それとも……。誰のメールを、あたしは待っているんだろう。

 カオルはあたしを抱きながら、ユウリ、ユウリ、と名前を呼んだ。丁寧すぎる愛撫に喘ぎながら、あたしもカオルの名前を呼んだ。カオル、カオル、と声を放つことが快感だった。カオル、と口に出しながら、テツ、と心で呼びかけた。あたしの女に複数の男が共存していて、それは少しも不自然なことじゃなかった。
 濃い目に淹れた珈琲が、喉でごくりと苦い音を立てた。あたしからは、何かが大きく抜けている。
 眉間に強くしわを寄せたハハの顔が、抜けた穴から覗いていた。ストイックなまでにかたくなに家と血筋を守ってきた彼女は、自分の性をどう生きてきたんだろう。

 「こんなこと、なんで言われなきゃいけないのよ。」憎々しげにつぶやくハハの顔は、人形みたいに陰気に固まっていた。
 「そうだよね。」たったそれだけを答えるあたしの顔も、同じように固まっていた。
 思惑が離れて言葉すらかみ合っていない人たちと、まともにつきあうなんていう無謀をしなければいいのに。以前も今も、そう思う。それができないオトナの事情も、一応理解はしているつもりだけど。
 チチが早死にしたのはあたしのせいではもちろんなくて、ハハのせいでも、誰のせいでもなかったはず。彼は弱かったんだと思う。何よりも、心が。裏を返せば、優しい人。……それもまた、きっと、の話だけど。
 祖母や伯母から監視され干渉されるハハは、一人娘に八つ当たりをしないかわり、必要な言葉をかけることもなかった。あたしには、その分、血肉が抜けている。チチが焼かれる前に、その肉を一片そっとそぎ取って食べてしまえばよかった。そんな夢想に耽る時、あたしの芯は、男に貪られる時に似た熱を持つ。
 メイクするため鏡をのぞく。あたしの顔は、逆三角形に長くて奥二重で。----どちらかというと、チチに似ている。
 人魚に家族はあるんだろうか。

 薄いグレー地の裾部分にだけ、色とりどりに小花が散ったスカートは、ナニゴトにも無頓着なテツが似合うと言ってくれた貴重な一着で、あたしは今日もそれを選んだ。職場では制服に着替えるから、好きな洋服で出勤していい。そういえば、カオルはあたしの制服姿を、色っぽい、と誉めていたっけ。膝小僧が見えるタイトスカートは、ほとんどの女性を色っぽく見せる効果があるとは思うけれど、言葉にしてくれるのはやっぱりうれしい。
 再会ではない出会いは、あたしを再生させる。カオルのことを知ったらテツは悲しむのだろうか。カオルもまた……?
 どちらかに告げる別れの言葉を想像しようとしたら、刃物が刺さったみたいになった。どんなにしたって、そういう時の言葉は乱暴で残酷だ。離れる時は、そっと消えたい。光と泡を飲みくだし、肉を喰らうような交尾をして、ただひとり水面をたゆたい、やがてひっそり泳ぎ去る人魚でいたい。

 バッグを肩にひっかけながら玄関へと急いだ。パンプスを履こうとしてかがんだ先に広がったスカートの花が、海に還ろうとする人魚を留める。アパートの部屋に鍵をかけ、両足が地についていることを確認してから駆け出した。
 朝日のプリズムが、うろこみたいに瞬いた。




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