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Last update 2008年03月16日

水に沈む  著者:時雨



「人が変わっていくのは救いであって、自分が変わらない世界など、僕はごめんこうむりたいね。」
 明日は父の命日であるから暇をもらえるだろうか。そう蓬莱堂に告げたところこう返され、私はまるで馬鹿のように放心した。一瞬何か聞き間違えたのだろうかと思ったがそうでもないらしい。この不可解な男は時たま不可解な言葉を発して人を惑わす。どうにもついていけなくて困ると私は常々思う。背中に取り扱い注意の張り紙でも貼っておくべきではないのか。
「……いや、すみません。それで」
「ああ、暇をくれって話だったね。いいよ。お父上に宜しく。」 
「はぁ。いや、それで」
「なに」
 蓬莱堂は露骨にも面倒臭いという意を顔に出して緩く微笑んだ。
「……変わる、とか変わらないとかというのは何の話かと。」
 私はどうも一度気になると止まらない性質のようで、よせば良いのに多少たじろぎながらもそう聞くと、蓬莱堂はいかにも可笑しそうに目を細めた。そして唄うようにしてつらつらと言った。
「君にとっては忌むべき話だ。お父上の亡くなった際の話を思い出してね。そう、あの人魚の話だよ。丁度僕はつい先刻人魚伝説の本を読んでいたものだから、それで思わず口に出た。知ってるかい君。人魚の肉を喰らえば、不老不死の効能が得られるそうだ。知っているかい、君。あの氷のような肌をしたおぞましい程に美しく妖しい生き物は、奇怪な魔力を持って人を惑わすのだよ。」
 不意にこの小さな店のそこかしこが暗く翳って息を潜めたように思えた。人魚の話。狂死した親父は人魚に祟られたのだと死ぬ間際まで叫び続けていた。あんなものに手を出したから俺は死ぬのだと、狂った目で叫び続けた。蓬莱堂はその事を言っているのだ。私は何も返せなかった。蓬莱堂は頬杖を付いていた手で口元を覆った。その目はいまだ可笑しそうに細められて異様な光を灯している。
「不老不死など望むべきものでは無いが、そうでなければお父上はそれに惑わされて狂ったのかと思ってね」
 彼はそう言って、白い手の下でくく、と嗤った。


 ○


 蓬莱堂というのは店の名前で、私が蓬莱堂を知ったのは数年前の事である。親父がここの得意先だったらしい。どんな人に需要があるのかと思うような古いものさえ揃えてあったのが気に入っていたようで、目当てのものがある度に蓬莱堂に配達を頼んでいた。山のような荷物を運んで来るのはいつも同じ女性で、頼んだ時刻と寸分違わず呼び鈴を鳴らした。それがある時珍しく大幅な遅刻をして、親父が酷く心配していたのを覚えている。
 親父が死んだとき彼女は律儀にも葬式に出ていた。それでてっきり私は蓬莱堂の店主は彼女だと思い込んでいたが、親父の遺品を整理するときに店を訪ねてみると、いやに埃っぽい店内に座していたのは小奇麗な顔をした男であった。父の荷物を引き取ってもらう手筈である、主人は何処かと聞くと、男は自分が蓬莱堂であると言った。
 私はそのとき一端の物書きであった。無論二流三流の端くれで、情けない話、親父の経済力があったからこそ贅沢にも高等遊民のような自堕落な暮らしを送っていた。その上妻まで持っていた。それが親父が死んだ途端に、相続やら何やらで苦しくなってしまった。当たり前である。奇妙な縁もあったもので、そういう状況であった私は、求人の知らせを知ってこれ幸いとばかりに蓬莱堂に転がり込んだ次第である。
 件の女性はどうやら共同経営者のようなそうでないような位置に居るらしい。そこら辺は私にはよく分からなかったが、彼女が私の働いているのを見て、「あら」と笑いかけてきたことだけで何故か満足した。我ながら単純なものだ。


 ○


 蓬莱堂のあの目が何を思っているのか、私は気味悪く思いながらも家路についた。店を出たときには嫌な曇り空であった。これはまずいと思い、蓬莱堂で傘を借りたのが幸いして、家につく頃には豪雨に変わっていた空にもあまり動ぜずに済んだ。尤も、そんな雨では傘など気休めに過ぎず、膝から下はどろどろになっていたが。 
 そんな状態であったので、家の門の明かりを見たとき私は大袈裟な位にほっとした。玄関の戸を開けて、娘の奈津が走り寄って来る様に、冷えた体が芯から温まる気持ちさえした。家の中は暖かかった。
「奈津、かかさまはどこだい。」
 私は言った。家に上がる前にこの泥だらけの足を拭いてしまいたかった。
「かかさまはさっき厨にいらっしゃったわ。呼んで来る。」
 そう言って台所の方に駆けて行く奈津の後姿をぼーっと見送りながら、そう言えば今日はヨネさんが居ないのだなと思った。暫くして奈津に手を引かれ顔を出した彰子も同じように、「そうだわ、今日はヨネさんが居ないのね。すみません私ったら迎えにも出ないで」と言って笑った。 
 彰子は奈津から様子を聞いたようで、言うより先に手拭を持って来ていた。気の回る妻で助かると思いながらそれを受け取った時に、彰子の指が手に触れて、瞬間私は肌が粟立つのを感じた。外を歩いてきて冷え切っている筈の私の手より、彰子の指の方が格段に冷たかった。




 夜になって床についても、雨は勢力を保ったままごうごうと降り続いていた。
「酷い雨だ。」
 私はいささか不安定な心持でそうこぼした。
 先程触れた肌の冷たさがじわじわと浸みて、腹の奥にすとんと氷の塊を落とされたようであった。
「ここままじゃあ雪になるのではないでしょうか。」
 薄闇の中、格子の傍まで寄って行った彰子の白い指がふらと動いて、一寸ばかりそれを開く。見れば確かに先程の雨は既に霰のようになっている。
 格子の向こうで廊下と中庭を隔てる硝子が寒さに軋む。雨も霰も私は好きではなかった。水が迫ってきて逃げ場を無くしている気がして息苦しいのだ。そういえば親父が死んだ夜もこんな模様だったと思い出す。忌々しい人魚の祟りの話は、雨の音で一層不穏な色を纏って記憶に焼き付いている。
 死の間際の親父は何かに憑かれているように、爛々と光る目で私と彰子を見ていた。そうして彰子の腹に宿る命を指差して、私にひとつ呪いの言葉を吐いた。あれが今でも私を苛んでいる。水の音が私を苛む。
「折角の満月が。」ぼんやりと彰子が呟いた。
「満月?今日は満月か。」
 私は唐突に記憶の淵から引き戻されて、少々間の抜けたような声を出した。空は厚く雲が覆っている。月などどこにも見えなかった。中庭の燈篭だけがはっきりしない明かりを灯していて、水かさの増えた池が波紋を刻みながらてらてらと照らされて蠢いているように見える。少しおいて彰子が答えた。
「ええ。……残念だわ、冬の月は美しいのに。」
 その口調は何かに焦がれているように聞こえた。切なそうな声であった。ここからではじっと外を見ている妻の後姿しか見えない。それが何故か私をいよいよ不安にさせた。彰子は何を見ているのだろうと私は思った。
「空気は澄んでいるが如何せん寒くて敵わん。おい彰子、格子を閉めなさい。冷えるだろう。」
 ええ、ともう一度彰子は言った。そうしてふとこちらを向いた。どこか呆けたような表情の中で、その目はただ一面に真黒であった。私はぎょっとしてそれを凝視した。水を張った様な瞳の奥で深い深い奈落が口を開けているかのように思えた。実際それを見たのは一瞬だったのだろう。次に彰子が瞬きをし格子を閉めてこちらに来た時には、既にそれは残像でしかなかった。
 私は未だ自失呆然としたままに、頭の中で何かが繋がったような錯覚を覚えた。水の音に苛まれて、私は取り返しの付かない決断をその時導いたのだ。暫くの決意の間の後、親父の死の床での言葉を反芻するようにしてとうとう私は口を開いた。
 雨はずっと降り続いている。
「彰子」

「奈津は一体誰の子だ。」 




「奥方が亡くなってまだ15日にも満たないというのに、君は物忌みをしなくて良いのかい。」 
 その日は久方ぶりの晴れであった。いつまでも降り続くかと思っていた雨はすっかり身を潜めて、ただ雨上がりの甘いような匂いだけが残っていた。どこか頭のすっきりしないような気分で店に行くと、開口一番蓬莱堂はそう言った。
「いつまでも休んでいるわけにはいきませんよ。最初は父の命日だけ暇をもらう手筈だったんですから。まさかその前日のうちにあんな事になるなんて。」
 私がそう言うと、蓬莱堂は皮肉っぽく口を歪めた。つくづく嫌な男だ、と思う。何もかも見透かされている気がして胸がすうと冷えた。
 彰子が死んだのは殆ど私の所為であった。それはきっと紛れもないことであろう。悪いのは誰かと聞かれれば彼女か私か分からないが、彼女の死を誘発したのは私である。私はそれを望んでいたのかも知れない。
 親父といい彰子といい、誰も彼もが私に忌むべき記憶を残していく。私はそれに心底辟易していた。 
「亡くなったのは君の奥方だというのに随分と淡白だね。」
「そんな事はありませんよ、ただ死に方が死に方ですからね。悔やむに悔やみきれない」
「ああ、入水自殺だって?悲しい事だ。」
 蓬莱堂こそ淡白なものである。上辺だけの台詞ならいっそ言わない方がましではないのかと思うような口調であった。
「そうですね。暫くあの池は見れそうに無い。可哀想な事をしました。夜のうちに見つけてやればよかった。」
 言ってから私はしまったと思った。こうも無駄に饒舌になってはそれこそ情の無いように思われるではないか。私は蓬莱堂の好奇の視線を感じながら、苦し紛れに何か話題を逸らそうと店を見回してその異変に気が付いた。
 店の奥に見慣れないものがあった。
 大きな布に覆われていて中が何かは分からないが、雰囲気から察するに、それはとても大きな水槽のようであった。自分の身の丈よりも随分と大きいそれに寄ってみれば、生臭い水の匂いが鼻を付いた。
 水など、この店にはあるべくもないものである。
「これは何です。」好奇心に耐えかねて私は聞いた。
 にわかに蓬莱堂は意地の悪い笑みを浮かべて「何だと思う」と聞き返してきた。
「そうだな……魚か何かでしょう。しかし大きいな。」
「魚。そうだね。これは魚だ。」
「鯨の子供でも飼う気ですか」
「いや、そんな無粋なものではないよ。」
 蓬莱堂は未だ笑っている。どうもからかわれているようだと私は思う。
「じゃあ何です。」
 再度の私の質問に、彼は酷く楽しそうに答えた。「人魚だよ」

 すぐ後ろで、ごぼりと水が鳴った。




 中を見せてくれと言った私に、蓬莱堂は珍しく断固とした様子でその要請を跳ね除けた。その上でさらに私に、くれぐれも僕の隙を突いて布を剥がさないようにと釘を刺した。彼が言うには、「まぁ、これだけ意見が対立していて、そんなことができるような性格じゃないだろうがね」だそうだ。
 日がな一日それは店の奥に鎮座していて、私は頭を巡る沢山の残像に悩まされる羽目になった。親父の死、冷たい肌、水を湛えた瞳、池に沈む白い肢体……人魚の祟り。その所為で店を出る頃には私は相当思いつめていた。何としてでもあの中身を見なくてはならないという強迫観念に駆られていたのである。

 夜中になって、私は耐えかねて家を出た。奈津はヨネさんが寝かしつけてくれている筈で、ひっそりと静まり返った家を出るのは容易であった。外はしんしんと冷えていて、月明かりが異様なほどに明るかった。満月である。
 店の戸に鍵は掛かっていなかったようで、横に滑らせると何の抵抗も無く開いた。私は多少拍子抜けしたが、ばくばくと鳴る心音に急かされるようにして中に足を踏み入れた。
 それはまだそこにあった。少しも変わらない状態で美しいビロードの布が掛かっており、相反して不愉快な水の匂いが濃く漂っている。
 如月の夜は静かである。ゆっくりと近くまで歩を進め、震える手で布に触れれば、布が擦れる音が驚く程に大きく響く。
 私は葛藤の最中に居た。恐怖と興奮で頭が熱かった。私の理性は私の行動に警告を発していた。夜中に家屋に忍び込むなどどうかしている。だがしかし、もしこれがあれだったなら。本当に人魚だったなら。頭の中では残像が巡って歪んで声を上げている。早く自分に纏わりつくそのしがらみを解けとばかりに。

 こぽっ

 布の奥、水の鳴る音が響いた。
「……っひ!!」
 咄嗟に引いた手は、それを覆っていた布を掴んでいた。恐怖に戦慄した体は動かない。ずる、と布がずれ、美しい玻璃に並々と満たされた水を私は見た。
 そこには何も息づいてはいなかった。
 ただ水が満々とたゆたって月光に透かされていた。




 店を出た途端にどっと疲れた気がして、私はのろのろと家に帰った。あれは何だったのかと考えるのすら億劫であった。
 私はすぐ寝てしまおうと思い寝室に向かった。寝室に行くには中庭に面する廊下を通らなくてはならない。それはつまり彰子が自殺した冷たい池を横目に歩かなくてはいけないという事になる。彰子が死んでからというもの、夜中の薄暗い廊下を通るたびに薄ら寒い気がする。
 店に忍び込んだ事で酷く自責の念に駆られ精神的に疲れきっていた私は、廊下の先に何かが居るのに気が付かなかった。その為、その影がゆらりと蠢いた途端、情けない事に思わず低い悲鳴を上げてしまった。よく見ればその影は奈津であった。
「……驚いた。奈津、夜遅いのだから寝ていなさい。何をしているんだい。」
「ととさま」
 奈津は中庭に指を向けて言った。「かかさまがいる。綺麗なのよ。奈津を呼ぶの。」
 その平坦な口調に、にわかに私はぞっとした。奈津の真黒な目に燈篭の灯がぬらりと揺らいで映っている。この子は母の死を理解していないのだろうかという思いが頭を過ぎる。「奈津、滅多な事を言うもんじゃない。」私の口調は思いのほか冷たく響いて、奈津は泣きそうに顔を歪めた。
「だって今日はお月様もまんまるで、お池の水も冷たいのよ。かかさまは泳いでらっしゃったわ。気持ち良いのよ、奈津もおいでっておっしゃったわ。ととさまには内緒ねって。」
 私はとうとう耐えかねて、目をいっぱいに開いて奈津を叱り付けた。そんなことがあるはずがない、お前はもう寝なさい、ヨネさんは何をしてるんだ。奈津はそれ以上何も言わなかった。ただちらと池のほうを見て、それから小走りに部屋へと駆け込んでいった。
 後には激昂した私の荒い息の音だけが残って、吐き出す息の所為で中庭とを隔てる冷たい窓が白く曇った。その白い曇りの先にある池を思って、私は言い得ぬ感情に一つ唾を飲み込んだ。―知っているかい、君。蓬莱堂の言葉が思い起こされた。  
 窓のさっしは、まるであの夜の彰子の肌のように冷え切っていた。冷たいそれを引くと、身を切るような夜風の先で、爛々と月光を映して揺らぐ池の水が遠くにあった。水が魅惑的な女性の肢体のように蠢いているようにさえ感じる。抗いがたい力に引かれるかのようにして私は裸足のまま中庭を歩く。ふふ、と女性が笑う幻聴までもが私の耳に入ってきた。
 池は、底まで澄んでいた。
 ここに沈んでいた彰子の白く色の無い肢体が、水に広がる真黒な艶のない長い髪が、見開かれた光を映さない瞳が、私の見たそのままに、一瞬私の脳裏に映る。
 私はそこを覗き込んだ。
 月明かりに魚の鱗が煌いたかと思うと、目の前でどぷんと音を立てて水が跳ね上がる。そこから伸びてきた白い腕と、見慣れた妻の美しく弧を描く口元を見て、一瞬ののち私は自分が上げる絶叫を聞いた。 




「鳩山さんの息子さん、行方不明だそうです。ご両親とも居なくなってしまって、奈津ちゃんは大丈夫でしょうか。……千早、何かご存知でしょうその顔。あまりにやけていると馬鹿に見えますよ。」
「酷いな。ああ、……そう、そうしたんだ、彼女は。」
「彼女?」
「さあ。ね。まぁ彼が僕の言った事に何を思ったかは知らないがね。言葉っていうのは、極めて乱暴なものでね。」
「彼を傷付けたのですか」
「そんなことはしないさ。教えただけだよ、彼が聞くから。」
「よほど衝撃的なことでもお話にならなければ、いきなり行方をくらませたりはしないでしょうに。全く、人手が足りないんですよ?分かってますか千早。」
「君の言う事はいつも正しいよ。僕は驚くね。」
「馬鹿になさらないで下さい。そうやって微笑んでも誤魔化せませんからね。」
「僕の所為じゃないさ。」


「人魚の祟りだよ」




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