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Last update 2008年04月12日

アイランゲージ  著者:コサメ



『智恵子抄』という詩集に収録されている『レモン哀歌』を、ユキは声を出して読んでいる。それも一度や二度ではなく、何度も何度も繰り返しだ。なので智恵子さんは何度もレモンを“がりりと”噛んで、何度も“トパアズいろの香気”を立てた。
「あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う……」
 その一行を読むと、ユキはふと口をつぐんだ。そして「青……青い瞳……」とぶつぶつ呟いた。
「きっとこの青は、この人の狂気の色だよね」
 僕に言っているのか、それともただの独り言なのか、僕が何も返さないでいると彼女はふと視線を上げてこちらを見た。
「でも学校ではそういうふうに教えないんでしょ?」
「まぁ、そうだね」
「どう解釈するのが“正解”なの?」
「べつに正解なんてないよ。人の数だけ答えがあるんだし」
 苦笑してみせながら僕が言うと、彼女はニヤリと笑って再び本に視線を落とした。僕は胸のあたりに何かしめっぽい嫌なものが広がるのを感じながら、ぬるくなったビールを喉に流し込んだ。
 彼女の言うとおり、授業でそのようなことは教えない。みなさん、これは病床に伏した智恵子夫人に対して作者が書いた有名な詩です。ではこの“青く澄んだ眼”というのは一体何を表しているのでしょうか。それは智恵子夫人の純粋な美しい心です。消えようとしている命の輝きです。これは生への賛歌なのです。はいここテストにでまーす。――だいたいこんなものだ。ちょうどつい先日、授業でやったばかりである。もちろん狂気なんて言葉は一言も出なかった。
「つまんない先生だよね、あんたって」
「つまんない先生が好かれるんだよ」
 すると彼女はくすくすと笑った。それはどういう類の笑いなのか、僕にはよくわからなかった。いや、わかりたくなかったと言ったほうが正しい。
「まだ寝ないの?」
「うん。模試の結果が届いたから、クラス全員分の見ておかないと。明日から放課後に面談あるし」
「あんた高三の担任だっけ?」
「高二だよ」
「じゃあまだ受験じゃないじゃん。もう模試とか面談なんてやってるの?」
「うん」
「へぇ。高校生もいろいろ大変なんだね」
「そうそう。もう戦争は始まってるの。で、俺は衛生兵ってとこかな。むしろ指揮官か?」
「……おやすみ」
 素っ気なく言うと彼女は寝室に行ってしまった。
 ユキと同棲し始めて、今年でもう五年になる。

 翌日の放課後、僕は誰もいない教室で女生徒と二人、机を挟んで無言で向き合っていた。時計の針はまもなく五時半をさそうとしている。窓の外を見ると曇り空が広がっている。
 好きでこういうことになっているわけではない。先ほどから僕が何を言っても彼女は無反応で、目をふせて口を開こうとしない。
「まぁ将来のことなんてまだよくわかんないかもしれないけどさ。でも、大学行くか行かないかくらいは、そろそろ決めないと」
「……」
「ほら、何か興味あることとか、勉強してみたいこととかさ、ない?」
「……」
 暖簾に腕押しである。僕はため息をつきそうになったが、ここでそれをやったら負けるような気がしたのでやめた。
 実は彼女とまともに向き合ったのはこれが初めてだ。大人しくて、クラスでもあまり目立たない。成績は中の下で決して良くはないが、追試には引っかからない程度の点は取っている。その点に関しては普通の子だが、ただ授業中によく窓の外を見ているのが気になった。注意をするとあたかも「うざい」と言いたそうな目つきでちらりとこちらを見るので、何か文句でもぶつけて来るのかと思いきや、案外素直に教科書に目を戻す。しかしまた次の週になると外を見ている。注意する。直る。また見る。注意する。その繰り返しだ。今でもそれは相変わらずだが、もう放っておくことにしていた。
「いつも外見てるけど、何見てるの?」
 話題を変えるつもりで僕は言った。すると彼女の瞳が少しだけ動いた。しかし僕のほうを見ることはなかった。キロリ、とゆらいだだけだ。
「好きな奴でもいるの?」
 ここで少しでも動揺したりすれば子供らしくてかわいいじゃないかと安心するところなのだが、彼女はやはり微動だしない。さっきから思っていたのだが、この生徒は女子高生らしいあのきらきらした明るさが全くない。まるで生きながら死んでいる。そういう雰囲気を身にまとっている。
 このままやっていても仕方がないと思い、「もう帰りなさい」と言おうとしたそのとき、
「何も見てない」
 と、長いこと閉ざされていた口が動いた。
「授業はきいてるよ。テストの点、べつに悪くないでしょ」
「ああ、うん。まぁ、そうですけどね……」
 思わず苦笑した。しかし口を開いてくれたのは大きな進歩だと思って、進路の話に戻してみたのだが、再び彼女は黙りこくった。なので結局、面談らしい面談はできずに終わってしまった。
 家に帰り、今日の面談で生徒と話したことをノートにまとめる。生徒一人につき一ページ、専用のページを作った。我ながら涙ぐましい努力だと思う。それぞれのページには生徒が今どんな勉強をしているのか、どんな大学に行きたいか等々、進路に関することが箇条書きに並んでいる。たった一人を除いて。
 近くで話してみてわかったのだが、あの生徒の腕は恐ろしく細かった。それこそ骨が浮き上がるほどだった。生気のない表情はどこか病的にさえ思える。その虚ろな目だけがあの子の心の動きを察するための唯一の手がかりというのもおかしな話だ。相手は高校生だというのに。
「眉間にシワがよってますよ、センセ」
 ユキがニヤリと笑った。僕もついつられて笑ってしまった。
「いや、ちょっと厄介な生徒がいてさ……」
 僕は今日の出来事を話した。いかに自分が努力しているか、例のノートも見せながら。
「どうやって接したらいいか、もう全然わかんなくてさ」
 参っちゃうよね、と笑ってみせた。きっと彼女も笑って「そうだよね、大変だよね」と言ってくれると思ったが、しかし彼女はどこか呆れたような哀しそうな目をして、
「そうだね。あんたは、わかんないかもね」
「え?」
「私はなんとなくわかるよ、その子のこと」
 空白のページを見ながら彼女は言い、「明日朝早いから、おやすみ」と寝室に行ってしまった。何か言い返そうと思ったが何も言葉が出てこないので、新たに缶ビールを開けた。
 と、そのとき、寝室に行ったはずの彼女が突然バッと襖を開け、そのままあわただしく洗面所に駆け込んだ。そして吐くように咳込む声が聞こえた。心臓がひやりと冷たくなったのを感じた。
 やがて彼女が戻ってきた。
「……どうした?」
 おそるおそる聞くと、彼女は何も言わずにジッと僕を見た。そして言った。
「なんでもないよ。ごめんね。おやすみ」
 彼女はまた寝室に戻って行った。心臓の冷たさはその後しばらく消えなかった。

 次にあの生徒と面と向かって話すのは数ヵ月後の面談だろうと思っていた。しかしその予想は裏切られた。
 僕は今、数日前と同じようにあの女生徒と向き合っている。しかし今度は教室ではなく職員室で、手元に進路用の資料やノートはない。
「一体、どうしたの」
 彼女はやはり何も言わない。立たせておくのもなんなのでそこらへんにあった椅子を適当に拝借して座らせたのはいいものの、あまり変化は見られなかった。膝の上に乗せられた手はセーターの長い袖をいじっている。ふせられた目は相変わらず生気がない。
 彼女が失踪したというのを聞いたときはさすがの僕も肝を潰した。昼休み前の授業にはいたのだが、その後の授業にはもうすでに姿が見えなかったという。だが驚くべきことに誰もその事実に気付くことがなかった。帰りのHRで僕がふと「そういえばあいつはどうした?」と言って初めてクラスの者が彼女の不在に気が付いた。いや、初めて表沙汰になったというのが正しいかもしれない。気付いていたが放っておいたという者も中にはいるだろう。具合が悪くて保健室にいるのかも、とある生徒が言ったので保健室に行ってみたがおらず、トイレかと思って掃除中の生徒に尋ねてみると知らないと言い、すっかり誰もいなくなった教室にはまだ彼女の鞄が残されているのを確認して途方にくれているときに、隣のクラスの担任の田口先生と会った。事情を話すと、田口先生の生徒も一人行方不明なのだという。大事にはしたくないので一人で探していたらしい。どうしましょうかと悶々としているところに、見覚えのある生徒が教室に入ってきた。まさに渦中の人物たちだった。しかも一緒にいる生徒はなぜか全身びしょ濡れである。僕と田口先生は顔を見合わせてしまった。
 とりあえず家に帰し、その翌日の今日、こうして本人から事情を聞こうとしているわけである。そう簡単に話してくれるとは思っていなかったがもしものことがあるかもしれないと淡い期待を抱いていた。すると彼女はポツポツと事情を話し始めた。
 昼休みに友人が「海に行きたい」と言い出したので二人で海に行ってきた。そこでぼんやりしていた。友人がなぜ濡れていたのかというと、彼女が一人で海に入って行ったからだ。自分はそれをぼんやり見ていた。やがて友人が戻ってきて、寒いから学校に帰ることにした。と、彼女はそこまで話してくれた。しかし肝心の「なぜ」というところになかなか辿りつかない。
「べつに昨日じゃなくてもよかったじゃん。何も授業サボってまで行かなくても、日曜日にするとかさ……」
「……」
「まぁ、いいや。本当に、どうしたの? 何か、悩みでもあるの?」
「……」
「俺に言うなんていやかもしれないけどさ、でも、俺はおまえの担任だからさ。力になりたいんだよ。……よかったら、話してくれないかな」
 我ながら良い事を言う。すると彼女の瞳がキロリと動いた。あの時と同じだ。
「話してみたら案外すっきりするものだよ。ほら、そんな死んだような目してないでさ」
 ね、と言うと、またキロリと動いた。これは良い感じだ。僕は彼女の言葉を待った。すると僕の予想に反し、彼女の口元がニィとつりあがった。そして今まで左右にしか動かなかった瞳がフッと上に向けられ、初めて僕をとらえた。――目が、合った。
「先生の目のほうがよっぽど死んでるよ」
 鼻で笑うように彼女は言った。そして続けた。
「じゃあ聞くけどさ、先生。どうやったらちゃんと死ねるの?」
「……え?」
「私、馬鹿だからさ、自殺しようとしてもできないんだよ。本能に勝てない。だから先生、今から私と屋上行って私の背中押してくれる? 私の首しめてくれる? 私の心臓、刺してくれる?」
 ふせられていた目が、まっすぐにこちらを見ている。すると彼女はフッと笑った。
「先生にはできないよね。先生だもんね。でもチバならやれるよ。ただ、やってくれないだけ」
 チバというのは一緒にいた女生徒のことだ。彼女も今頃、違う場所で田口先生と話をしているだろう。
「どうしてチバはやってくれないのか、わかる?」
 何も言えないでいると、彼女はまたニィと笑った。まるで、先生にはどうせわかんないよねと言っているようだ。
「それがわかったら、私たちが海に行った理由もわかるよ」
 僕の思考は完全に停止していた。「もう帰っていい?」と言う彼女に頷き返すのがやっとだった。

 その日の夜はビールは飲まなかった。いつもより遅く仕事から帰ってきたユキも、ビールには手をのばさなかった。
「ユキ、飲まないの?」
「うん。あんたも飲んでないじゃん」
「なんか、そういう気分じゃなくてさ」
 まぁそういう日もあるよと言いながら僕は漢字テストの丸付けを続けた。シャコ、シャコ、とペンが紙をこする音がする。こういうものはリズムが大切だ。
 すると彼女が「ねぇ」と僕を呼んだ。僕は手を休めずに「うん?」と聞き返した。ユキは少しの間を置き、
「子供、できた」
 僕は手を止めた。そして彼女を見た。彼女の顔は真面目だった。
「え?」
「子供できた」
 心臓が一気に冷たくなるのを感じる。息が止まる。すると、ユキはニヤリと笑った。
「なんつって」
 ふふふと笑う。僕は混乱してどういうふうな顔をすればいいのかわからないでいた。
「うそだよ、うそ。冗談に決まってるじゃん」
「冗談?」
「こないだドラマでこういうシーンがあってね。ちょっと真似したくなっただけだよ」
「なぁ、本当のこと言えって」
「だから冗談だってば。だってあんた、なんか元気ないし、神妙な顔してるからさ、からかってみたくなっただけ。ほら、あれよ、アメリカンジョーク?」
「笑えねぇよ……」
 彼女がふふふと楽しそうに笑うので、つい僕もつられて笑ってしまった。でもやはり心臓の冷たさはなかなか引かなかった。

 その週の休日は一人きりだった。ユキは友人と食事に出かけてしまったのでいない。なので僕は電車に乗って海に行くことにした。
 幸いにも今日は晴れていて、海岸線にそって見事な青空が広がっている。海原はきらきらと輝いていて、遠くのほうでは鳥がスイスイと飛んでいる。僕は適当に砂浜を歩き、ちょうどいい流木を見つけるとそこに腰掛けた。真っ青な空の色が海にも映っていて、それこそ絵に描いたような美しさだった。どこまでもどこまでその青は続いている。
 あの女生徒も、友人と二人でこうやって海を眺めていたのだろうか。そのとき彼女たちには、一体何が見えたのだろう。それは愚問かもしれない。彼女は言っていた。「何も見てない」と。窓の景色だろうか海だろうが、おそらく同じだろう。
 そういえば彼女は妙なことをこぼしていた。友人が海に入って行ったことを「海に帰って行った」と、彼女はそう言っていたのだ。そのときはザブザブと海に突進していったことを暗に表現しているのだと思って勝手に脳内で変換していたのだが、よくよく考えると奇妙な言い方である。だが今実際に海を目の前にして、その「海に帰る」というのがなんとなく理解できるような気がした。いつもふせられていた目が初めてこちらに向けられたときのことを思うとなおさらだった。あのとき僕は彼女の生を見た気がした。きっとあの子は、海の青色を瞳に映したまま帰ってきてしまったのだろう。
 そこまで考えて、僕は唐突にわかってしまった。
 ああそうか。あれが、狂気の色か。
(でも海にはまだ帰りたくないな。だって俺、もうすぐオヤジになるし)
 ユキのことが頭に思い浮かんだ。今頃、友人と楽しくすごしているだろう。もしかしたら僕の愚痴をこぼしているかもわからない。そう思うと自然と笑みがこぼれた。ユキには本当にいろいろなことを待たせてしまっている。まだ、間に合うだろうか。
 今度海に来るときはユキも一緒に連れてこよう。そのときはもう一人増えているかもしれない。
 そしていつまでも、海を見つづけていたいなぁ。





▼参考文献
高村光太郎著『智恵子抄』(新潮文庫)




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