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Last update 2008年04月19日

きみがくれた空の色  著者:時友



これまでの俺の人生を振り返って見てみれば、たいした挫折もなく、どちらかといえば経済的にも環境的にも恵まれた中で生活をしてきていた。
大学を卒業した後、就職氷河期と言われる昨今、全く就職活動の苦労もなく、祖父が経営する会社に入社し、七光りと言われようとなんと言われようと、そんな事は気にも留めずに順調に出世の階段だって昇ってきた。

一応、会社に入ってからは一般の新人と同じように扱われ、いきなり役職に就く事なんてなかったさ。
そして、それなりに実績を上げてきたから、今の取締役部長って役職にだって就けているんだ。誰にとやかく言われる事もないはずだ。

まあそれでも、普通ではあり得ないスピード出世の道のりではあったが。でもそれは俺のせいじゃない。
俺のじいさんが経営してる会社だぞ?俺は会長の孫で社長の息子なのだから、そんなの当たり前だろう?
なんて、がむしゃらに出世を夢見て働いてる奴らに聞かれたら、ボコボコにされそうな事を考えながら、それでも俺にはそんな事は関係ないと、それなりに充実した毎日を過ごしていた。

女にだって不自由した事などなかったし、特定の女を作るのは色々と面倒だなんて、そんな鼻持ちならない事ですら当たり前の事のように考え、不特定多数の女達と過ごした夜は数え切れない。

そんな俺の目下の悩み事と言えば、30歳を越えた3年ほど前から、ほとんど毎日のように親の口から飛び出す『結婚』の2文字くらいか?
俺の上には専務である6歳離れた兄貴がいて、もう結婚して次なる跡取りだっているわけだし、何も跡取り息子でもない俺に対して、そこまで目くじらを立てる事もないだろうに。

しかし社会生活というものは、そう簡単なものではなく。『結婚』の2文字に込められた、社会的立場の確立と信用が付属して付いてくる事くらい、俺だって嫌ってほどわかってるさ。
そして何よりもデカイのは、世間体だな。30をとうに超えたいい大人の男が、結婚の『け』の字もなけりゃあ、婚約者になりうる可能性のある特定の恋人もいないでは、世間体が悪いことこの上ないと、俺の顔を見るたびに零す両親に、いい加減辟易していた。

もちろん、そんな俺に焦れた両親が、持ち込んできた見合いの話は数知れずあるものの、結婚相手は自分でみつけますの一点張りで通し、応じる気などさらさらない。
まあ今の現時点で、一生を添い遂げようと思える女など1人としていないのだから、結婚だなんて考えられるはずもないのだが。

いい加減諦めてくれりゃあいいものを…と、内心零しながらも、幼い頃から優秀な兄に並べと言い聞かされ、それに応えるべくいい子を演じてきた俺は、今日も笑顔の仮面を貼り付ける。




「やっぱり外は寒いわね」

巷で話題のフレンチレストランで、今宵のパートナーとなる女と夕食を済ませ、その店から出た途端身を包む冷たい空気に、わざとらしい甘い声を上げながら俺の腕へとその細い手を絡ませてくる。

「大丈夫かい?ほら、こっちにおいで」

耳元に甘い囁きを贈りながら、女の細い肩をそっと引き寄せれば、それだけでうっとりと艶っぽい視線を投げかけてくる。
女は簡単でいい。こうしてちょっと甘い声で囁きかけ、微笑みを向ければそれだけで、あっさりと身体を開いてくるのだから。

「ねえ京悟(きょうご)さん、次はどこに連れて行ってくれるの?」
「雰囲気のいいバーで飲みなおしというのはどうだろうか」
「もちろんお部屋付きかしら?」

ほら簡単だろう?俺からその誘いをかけなくとも、女の方から言い出してくれるのだから。
誘うように見つめてくるその瞳に、微笑みながらもう1度肩を抱き寄せれば、応えに満足した女の身体がねっとりとした感触を伴ってしなだれかかってくる。
これで一夜限りの契約が成立したというわけだ。

少なくともこの夜までは、俺は今の自分の状況に満足していたし、今の充実した性生活を、結婚などという1人の女に縛られることで失うなんて冗談じゃないと思っていたんだ。
誰か1人に縛られる事などなく、適当に恋愛を楽しむ。しばらくはそんな生活が続くのだろうと思っていた。
そう…この夜までは──…。




「ふぁ……」

いつもと変わらない週の始まり、いつものように出社し部長室へと篭り、デスクに座った途端大欠伸を噛み殺す俺に、秘書である松永の眼鏡の奥の鋭い眼光が向けられた。

「また寝不足ですか?」

眉に刻まれた深い皺に肩を竦め、またも漏れ出しそうな欠伸を噛み殺す。

「暇だなぁ…松永」
「バカな事を言わないでください。この書類の山が見えないんですか!?まだ専務、社長と回さなければならないんですからね。ここでいつまでも止めておくわけにはいかないんです。わかったらしゃきっとなさって下さい」

たかだか部長クラスで秘書がつくのかと、そんな非難の声が聞こえてきそうだが。
うちの会社はいくつもの部署が点在し、その各部署に部長なる役職は存在する。取締役部長である俺は、その部長連中のトップでようはまとめ役という事だ。だからこうして部屋が与えられることも秘書がつくことも不思議はない。

しかし俺としては、こんな窮屈な部屋に閉じ込められるのではなく、取締役なんて肩書きはいらないから、大勢でワイワイと仕事をしたい……などとは思わないが、この窮屈な部屋に閉じ込められて、書類と睨み合いながら過ごす日々に飽き飽きしていると言えば正しいか。

「松永、適当に判を押しといてくれないか」
「ハイハイ、わかりましたから、早く終わらせましょうね」

俺よりも2歳年上のこの松永は、こんな俺の我がままですらサラリとかわしてしまう切れ者で。こうしてあしらわれる度に、少し面白くないのが正直なところだ。

まあこいつにしてみても、本来なら花形の営業部で実績を上げていたところを、一族の中でもできの悪い俺が取締役などという役職に就くにあたり、そのできすぎる実績の為か、半ば無理やりお守役を押し付けられたというところだろうから、面白くないのかもしれないが。

「今日は午後から部長会議が入っていますので…」
「俺も出なければいけないか?」
「当たり前です。京悟さんが出席されなくてどうするんですか」

呆れたようなその眼差しに、わざとらしい大きなため息をつき、いい加減観念しろという視線に追い立てられるように、ようやく俺は渋々ながらデスクに山積みにされた書類に手を伸ばした。




「息が詰まる……」

昼休みに会社を抜け出し、目の前の公園の一角に敷き詰められた芝生の上で過ごすのが、ここのところの俺の日課になっていた。

それなりに日々は充実している。社会に出てからも、将来を約束された地位や名誉が当然のように目の前にあって、私生活だって女に不自由をした事がなければ、たいした揉め事だって経験してこなかった。
まあそれは、一夜限りの関係だとうまく立ち回り、相手もそれを納得した上での行為だったから成し得た事ではあるのだが。

何度も言うが、俺はこの現状にそれなりに満足はしている。満足はしているのだが……時折感じる虚しさは誤魔化しきれない。あの狭い部屋に閉じ込められたまま、ひたすら書類への押印だけに追われた日は特にそうだ。
俺の許可などたいして必要とはしない書類の山に、形だけの判を押し、他人に組まれたスケジュールをただ淡々と過ごす日々。

流されるままに身を任せていれば、トラブルもなく安定した未来がそこにはあるのだろうさ。でも傍から見れば、何の苦労もなく充実しているこの生活だって、本人の心の中までもを十分に満たしているとは言い切れないではないか。
普段はさほど考えることもない自らの立場も、こうしてぼんやりと過ごす時間を持った途端に、全てが色褪せて見えてきてしまうから不思議だ。

「何も考えずに過ごすというのは、それもそれで退屈なものだな…」

考える事と言えば、その日一夜を過ごす女を、どう落とすかという事くらいだ。なんて、仮にも役職ある立場にいる人間の言う台詞ではないな。
そんな事をぼやきながら苦笑を漏らし、スーツも脱がずに芝生の上に寝転がる。

すっかり冬を思わせる空気の冷たさも、届く陽射しの温かさを前に寒さを感じられない。
とは言え、このままここで眠りこけてしまっては、さすがに風邪を引くかな…などと、のん気な事を考えながらふと頭上に視線を流せば、真上にそびえ立つ会社の自社ビルの存在。
午後一番で会議があると言っていたか…このまま戻りたくはないな…。

そんな事を考えながら改めて視線を向けたその建物が、こんなにものんびりとした時間を過ごす中では、巨大な牢屋さながらに思えて仕方がない。

「あんたさあ、最近よくここにいるよね」

ぼんやりとした視線を送っていた、その視界いっぱいに突然現れた影に、驚き身を起こした俺を避けるように軽く飛びのいたのは、まだまだあどけなさを一杯に残す初めて見る青年だった。いや…まだ少年と呼ぶべきだろうか?

「スーツ姿でこんなとこに寝転がってさ、背中汚れてるよ?」

何がそんなに楽しいのか、クスクスと笑みを零しながら、俺の背中についた芝生を軽い仕草で叩き落としてくれる。

「昼休みの時間なんだろ?飯も食わずにさあ、くたびれたオヤジに見られるよ?」

ありがとうと、一応礼の言葉を口にした俺に、やはりニコニコと笑いながら断りもなく隣に腰を下ろしてくる。
いや、まあ…ここは俺の所有する土地でもあるまいし、彼がどこに座ろうと勝手なのだが。
突然現れて隣に座り込み、手にした袋から調理パンを取り出した彼が、その中のひとつを俺に手渡してくる。思わず受け取ってしまった俺に、満足気な笑顔を浮かべ自らが手にしたパンを頬張り始めた。

「えっと…きみは?」
「俺?俺は日比谷 陽生(ひびや はるき)18歳。そこの花屋の跡取り息子。よろしくねおじさん」
「おじ…っ!?」

俺はオヤジ呼ばわりされるほど年をくってないぞ!と思いはしたものの、18歳の少年を前にそんな反論虚しいだけだと、言葉を飲み込む。
そして、彼が指差した先、この公園とちょうど道路を挟んで真向かいにあるビルの1階部分に、彼が言う花屋が存在していた。

「ここさ、気持ちいいだろ?いつもはさ、ほらあそこ。あそこのベンチが俺の指定席なんだけどね」

あんな場所に花屋などあったのか…と、ぼんやりとその場所を見つめる俺に、なおも言葉を繋げながら再び彼が指差した先。ここから数メートル離れた場所に、一定の間隔を空けて置かれているベンチがあった。

「ここ数日あんたがここに来てさ、いっつも何も食わずにボ~ッとしてるから、なんとなく気になって見てたんだ。そしたら今日は急に倒れこんじゃうしさ。ちょっとびっくりして声かけちゃった」
「それは…驚かせてすまなかったね」

何で俺が謝らなければならないんだ?と疑問を感じながらも、とりあえずの謝罪の言葉を口にした俺に、気にすんなって~…などとあっけらかんと言い放ってくれる。

「おじさんさ、昼飯買う金もねえの?あ!わかった!奥さんからもらえる小遣いが少ないんだろう?飲み代を確保する為に、昼飯抜きの侘しい生活?サラリーマンって辛いね~」

人の事をおじさん呼ばわりした挙句、反論の余地も与えられないほどに矢継ぎ早に繋がれる言葉。

「ほら、ボ~ッとしてないで食べなよ。心配しなくても、金請求したりしないからさ。可哀相な働くおじさんに、愛の手をってね」

ちょっと待ってくれ。俺はそんなにみすぼらしく見えるってのか?33年間生きてきて、こんな言われ方をしたのは初めてだ!
さすがに憤りを感じて、言葉を遮ろうとした瞬間、今度は口を噤み食べる事に専念し始める。

さっきからことごとく自分のペースを崩されっぱなしの俺は、結局絶句したままその横顔を見つめているしかなかった。
それが、彼との初めての出会い。今後も彼にペースを乱される事になろうとは、当然この時の俺は想像すらしていなかった。




あの日から、毎日のように彼とあの公園で会い、何故か昼食を共にしていた。
別に約束をしているわけではなかったのだが、俺も彼も同じ時間帯にあの場所にいて、1度会話をかわしてしまったせいか、顔を合わすと彼のほうから近づいてくるのだ。

あの翌日もまた調理パンを恵んでもらい、それからは俺も昼食を持参する事にした。
考えてもみろ、30も超えたいい大人が、15歳も年下の子供に恵んでもらうなど情けない事この上ないじゃないか。

「あんた結婚してなかったんだ。ごめんごめん、俺てっきり」
「俺はそんなに所帯染みてるだろうか?」

手にしたコンビニ弁当を突付きながら、少し落ち込んだ声で隣の彼に問いかければ、相変わらず調理パンを頬張る表情がおかしそうに揺れる。

「気にしてたんだ。違う違う、所帯染みてるとかじゃなくてさ、なんとなく年齢的にそうなのかなって思っただけだよ。俺さ人間観察が好きでさ、結構道ゆく人とかみて想像膨らませちゃうんだ。別に全然知らない人なんだけど、どんな生活してるのかな~とか」

全く悪びれなくそう言い放つ彼は、とにかくいつも笑っていた。何がそんなに楽しいんだ?と、思わず聞きたくなるほどにキラキラと輝くその笑顔は、最近の自分とは全く縁遠い感覚で。

「それで…きみの想像の中の俺は、嫁から貰う小遣いが少ないが故に昼飯も買えない、くたびれたオヤジだったってわけだ」
「こだわるな~」

少し拗ねた口調で言い募る俺に、遥かに年下であるはずの彼が、呆れたようなため息を漏らしながらポンポンと宥めるように肩を叩いてくる。

「大丈夫!浅葉さんはくたびれたオヤジになんて見えないって」
「きみが言ったんだろう?」
「いい大人が、いつまでもそんな事にこだわるなよなあ。浅葉さんってさ、パッと見た感じはできるオヤジって感じなのに、こうして話してみると結構可愛いよね」
「かわ……っ!?」

初対面でくたびれたオヤジ扱いしたくせに、今度はできる男…いや、できるオヤジ。挙句の果てには可愛いだと?
彼が俺を形容する言葉はどれも、これまでに1度として言われた事がない言葉ばかりで。
正直な気持ちを言えば、面白いはずなどあるわけがないのに。何故かこの笑顔を前にすると、いつも何ひとつとして文句を言えなくなってしまう。

これまでの自分を振り返ってみれば、そんな暴言ともとれる言葉を吐き出した奴など、当然のように遠ざけ、間違っても自分から近づくような真似などした事がなかったのに。
何故か彼を相手にすると、そんな事はどうでもよくなってしまう。
彼のキラキラとした笑顔を前にすると、失礼極まりないはずのその言葉でさえも、不思議なくらい温かく胸に染み渡り、これまで誰に対しても抱いた事がないような…自分でも掴みきれない感情が湧き上がってくる。

「きみは…不思議な子だね」

気付けばそんな言葉が口をついて出てしまい。
キョトンとした表情で俺を映し出す、その真っ直ぐな瞳に、一瞬で惹き込まれそうになった。

「あ…いや、すまない。俺は何を言っているんだろうね」

誤魔化すように、慌てて彼から視線を逸らし、手元の弁当を突付き始めた俺の耳に、クスクスと小さな笑い声が届き。

「俺から見れば、浅葉さんの方がずっと不思議だけど?きっとエリートさんなんでしょ?なのに、よくこんなガキに毎日付き合ってくれてるよな~ってね」
「エリート?俺が?」

確かに、一般的にみれば企業トップの血縁であり、それなりの役職に就いている俺のような人種をエリートと呼ぶのかもしれない。
しかし、これまではなんの違和感も疑問もなく受け入れてきたはずの言葉が、彼との時間を共有する中で耳にすると、どうしてこうも色褪せて聞こえるのだろう。

「俺は……今まで自分の置かれた環境に、疑問を抱いた事なんてなかったんだが。どうしてだろうな、きみに会ってこうして話をしていると、今まで自分がいた場所が何の意味もないものに思えてくるよ」

ポツリと漏らしたその言葉に、彼が怪訝そうな視線を向けてきて。
そりゃあそうか…俺自身、自分が何を言いたいのかわからないというのに、それを彼に理解しろという方が無理ってものだ。

「きみといるとね、不思議だけど…ここにただこうして座っているだけで、自分という存在を認めてもらえているような気になる」

これまで、目に見える結果だけを求められ続け、形のないものの価値などは無用のものだと教えられてきた。
何千、何万という社員を抱えた企業のトップに立つ祖父を持ち、経営のなんたるかを幼い頃から叩き込まれ、このままでいけば当然のように、将来的には兄と2人であの会社を背負って立たなければならない。

そのトップに君臨する事を、半ば強制的に義務付けられた兄に比べれば、俺の肩に乗せられる重圧などは、とるに足らないものなのかもしれないが、生憎と俺は人様のトップに立つような器ではなかった。
そんな事は、できすぎる兄の背中を見て育った、それこそ幼い頃から感じてきた事だ。
だからこそ、それなりの実績を残しながらも、社会的な己の立場の確立という重責から、のらりくらりと逃げ続けていたのかもしれない。

両親から口すっぱく言われ続けている、結婚の事にしたってそうだ。こんな自分が家庭を持って、果たして仕事と家庭の両立などという器用な事を果たせるのかどうか。
それら全てをうまくやりこしている兄が傍にいるからこそ、俺は自分に自信が持てずにこの年まできてしまったのかもしれない。

要するに、幼い頃からずっと変わらずに俺の中にあるのは、ずっと一番近くで見てきた、尊敬する兄への…尊敬するが故に抱くコンプレックス。
そんな自分を誤魔化すが為に、そんな自分を強く見せるが為に、仕事でそれなりの実績を上げてきたのだとか、女なんて簡単だなどと、そんな鼻持ちならない事を己に言い聞かせ、自分で自分を創り上げてきたのかもしれない。

こうして彼と話していて、花屋の仕事に誇りと自信を持ち、楽しそうに仕事の話をする彼の、自信に満ち溢れキラキラと輝くその表情を見ているだけで心が洗われる気になるのは、自分には持てないものの存在を、彼の中に確かに読み取る事ができるからだ。

目を背け続けながらも、俺が何よりも欲した、情熱と自信と……存在意義。

まだ18歳の少年であるはずの彼は、無駄に人生の時間を進めてきた俺なんかよりも、ずっとずっと己の道を迷うことなく見出しているではないか?

「これからも、こうして俺と会ってくれるだろうか?」

改めてこんな事を言うのも、何だか気恥ずかしいなとは思うものの、気付いたらそんな言葉を投げかけていて。
当然だが、驚きに目を見開いた彼の表情が、次の瞬間にはやはり俺には眩しすぎるくらいのキラキラとした笑顔を浮かべ。

「やっぱ浅葉さんって変わってるね」
「え?」
「だってさ、普通いい大人が、俺みたいなガキ相手にそんな事言わないでしょ」
「すまない…」
「やだな~別に責めてるわけでもなんでもないんだから、謝ったりしないでよ」

クスクスと笑う彼からは、結局明確な答えは貰えなかったものの、拒絶の言葉を言われなかった事を勝手に了承の意と解釈し、その事に喜びを感じている自分がいた。




「最近楽しそうですね。特別な相手でもできたんですか?」

いつものようにデスクに向かい、いつものように書類に目を通す俺に、不意に松永が声をかけてきた。

「そう見えるか?」
「ええ、最近は夜遊びも控えられているようですし。何よりも仕事への不満が少なくなられた」

確かに、彼と出会ってからのこの一月ほど、その夜限りの女との営みが、すっかりなりを潜めていた。今更ながらに気付いた事だが、俺が女を相手にしていたのも、どうにも拭いきれない空虚感を、ほんの一時でも忘れたかったからなのだと、そんな事に本当に今更ながらに気付かされたんだ。

それでも埋める事ができなかったはずの心の隙間というものを、彼と会うようになってからは全くと言っていいほど感じる事がなくなり。
ただ彼と会って、お昼のほんの1時間ほどを共に過ごすだけで、自分でも信じられないくらいに満たされた気持ちになれた。

そしてそんな時間の存在は、これまでにないほど仕事への意欲を沸き起こし、日々の生活の中にでさえも潤いをもたらしてくれるような。そんな錯覚にも近い感覚すら抱かされる。
たった1人との何気ない出会いが、こんなにも自分の世界観を変えてくれるとは、一月前までの俺は想像すらしていなかった。

「特別な相手…か」

そこにある感情の意味は、今も掴みきれてはいないが、これまでは女と過ごしてきてそれなりに満たされていたはずの週末の時間が、彼に会えないというそれだけで、俺にとっては最も空虚に溢れた時間になっていたんだ。

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